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第2巻 第3章 エララの過去と罪悪感(2)

死の森。かつて精霊が踊り、風が甘く香った土地だという伝承は、もう誰も信じられないかもしれない。今は湿った腐臭が鼻を刺し、風は濁気を運ぶ。けれど、その中心にだけ、白亜の庭が息をしている。透明な壁に護られた、小さな円形の楽園――絶対防壁。


「中心に棘を刺された気分、というやつだろうね」


アレスが剪定鋏の刃を鳴らし、白い息をひとつ吐く。外側からは地鳴りが続き、土の粒が噴水の縁で震えた。薔薇は香りを守り、噴水は計った角度で光を返す。こちら側は乾いた午後の空気、あちらはうねる湿気。境界で温度が変わるのが指先でわかる。


「四天王『幻影のシオン』が動いた。数で押して、魔力切れを狙う。古い手筋だ」


「数万、ですね。ざっと三万と少し上。空はもう黒い群れで詰まってる」


背後から答えたのは竜姫エララ。庭園の静けさに似合わぬ、粘りを含んだ甘声。ほんの数歩分の距離なのに、爪先が石畳を擦る音で彼女の昂ぶりが伝わる。


「そんな手筋は普通の結界なら効く。だが、私は普通じゃない」


「知ってます。誰より。だから……」


彼女が言葉を切ると、外の森が唸った。視界の端で黒い波が押し寄せる。波という比喩では軽い。濁った眼球がこちらを舐め、牙と骨が擦れ合う。巨躯の唸りは胸の奥まで打つ。空を覆う鳥の群れが羽ばたくたび、腐った脂の匂いがこちらに滲もうとするが、壁で滑るように逸れた。


「耳障りだ。せっかくの静けさが崩れる」


アレスは剪定鋏の刃に映る自分の顔を見た。昼の光が刃を滑り、輪郭が揺れる。ふと、刃の銀の中に別の色が走った気がした。霧の向こうに笑顔。銀鈴の声。「アレス、この花を見て」。記憶の端が水面で泡のように弾け、こめかみの奥で小さな痛みが跳ねる。


「……ノイズだね。不要だ」


小さく首を振り、刃先をポケットにおさめる。その瞬間、庭の温度がほんのわずか下がった。


「アレス様」


呼ぶ声がさらに近くから落ちる。振り返れば、白いドレスの少女がそこに。黄金の瞳は潤み、けれど奥で硬い光を凍らせる。手元のカップの持ち手を撫でる細い指が震え、その震えに呼応して足元の影がわずかに伸びた。


「さっき、偵察の視線を焼いておきました。あの幻影使いの匂いが混じってる。外の連中、全部、こっちに顔を向けさせるつもり」


「目障りを集中させる狙いか。だろうね」


「こんなもの、すぐ片付けます。燃える息で。跡ごと」


エララの足下に薄い霜が広がる。笑っているのに、噴水の水面はひと筋震えた。白い喉が上下し、吐息が冷たさを帯びる。彼女の肩に金色の鱗が一枚、湧くように現れて光を返した。手首の内側で青い炎がほんのわずか踊る。


アレスは首を横に振った。


「エララ」


「……はい」


「君が吐く炎は美しい。だが、後に残る風景はどうかな。黒い炭、焦げた脂の匂い、爆ぜた骨。窓を開けたとき、それを見るのは面白くない。私の美意識が悲鳴を上げる」


言い切ると、彼女の肩が小さく跳ねた。緊張がほどけ、膝が石畳に触れる。


「私、浅はかでした。空気のこと、匂いのこと……」


エララは口元に指を当てて黙る。喉が詰まるのを押し下げるように、そっと息を吸い込むだけ。ドレスの裾が音もなく揺れた。行き場を失った魔力が彼女の背中で細い羽を形作り、すぐ消える。


「君の気持ちはわかる。静けさを守るのは私の役目だ。掃除は私がする」


「……ありがとうございます」


彼女はアレスの足首に袖口が触れる寸前まで身を傾け、頬を寄せかけて止めた。ぴたりと止めたその距離で、微笑みだけが歪む。背後、噴水の水柱が一瞬細くなり、すぐ均す。黙礼。視線はアレスの手に吸い寄せられている。


外では獣たちが壁にぶつかる。鈍い衝撃音が連打となり、骨の砕ける音が重なる。後ろから押され、前のものが壁にめり込み、そこから跳ね返る。足場にされた背中が潰れ、吠えた口が踏みつけられ、さらに前へ。数による圧迫は海嘯のような圧力となり、透明な膜に波紋を描くような錯覚を生む。しかし膜はたゆまない。内と外は混ざらない。


アレスは境界へ歩を運ぶ。噴水の飛沫が頬に一滴当たる。冷たい。陽は傾き、光が斜めに芝を撫でる。その角度を脳が測り、靴先の影がどれだけ伸びたかが自然にわかる。白石の壁際、結界の膜が微光を帯びるのが見える。


「出力を変える」


彼は右手を上げ、人差し指で空を軽く弾いた。指の腹に柔らかい抵抗が生まれ、膜のきらめきが一段上の音階に滑る。光が薄く青みを増し、庭の空気が澄む。


「位相、反転」


声は短い。吐息に混ざるほどの小ささで、それでも壁は応える。無色の膜に幾何の線が走り、円と直線、星形、そして人の理解を逸した折り目が組み合わさって、空に展開する。噴水から跳ねた水滴がその光を拾い、庭の芝に星の欠片を撒く。同時に外側、森の上空へ巨大な図形が広がる。夜半の空が昼に切り替わったかと思うほど、白く、青白く、静かな輝きが落ちる。


「どうして、空が……」


外の下位種の喉がひび割れた声を漏らす。知性の低い者でさえ、上を見上げる。死の気配が降りてくるのを嗅ぎ取ったのだろう。翼が止まり、牙が半歩止まる。だが、圧された背が押し出す。


「降れ」


アレスが指揮のように右手を下ろす。


「白銀の浄化」


ひと呼吸。次いで、音が世界を埋めた。降り注ぐ光は確かに雨で、しかし一滴ごとに目的を持つ雨だった。一本ずつ軌道が違い、一本ずつ終点が指定される。心臓、核、関節、魔力の渦。雨は外さず落ちる。


大地が震えた。ズドドド、と脈打つ連打。光の筋が獣の皮を破り、骨を縫い、一瞬で粒に変える。血が出る暇がない。粒は蛍火に似た光をしばらく漂わせ、すぐ空気に溶ける。巨躯のトロルは膝から崩れ落ちる前に形を失い、巨大な鳥は翼の骨格を見せる間もなく空に溶ける。瘴気で編まれた霊体は光に触れた瞬間、否定されて消える。叫ぶ余地がない。


「綺麗」


エララの囁きが背後から零れる。彼女は両手を胸の前で重ね、息を詰めたまま動かない。膝の内側がわずかに震え、指の爪が白くなるほど握られる。唇に笑み。頬は上気して、耳朶が赤い。


雨は自然を避ける。枝一本触れない。葉脈の上で露が光るのさえ乱さない。アレスが前もって描いた縫い目に従い、不要な糸だけ抜き出す仕立てのように、魔物だけが世界から取り除かれる。庭から香る薔薇の甘さが、外の腐臭に勝つ。壁越しに匂いの相殺が行われ、薔薇の香りがわずかに広がった。


「上のやつら、魔障壁を張りました」


エララが言う。視線は外へ釘付けのまま。彼女の目は細く、隙間から外の動きが全部入る。


アレスは答えず、顎をほんのわずか傾げる。光の筋の束のうち数百本が角度を変えた。上位種の盾に触れた瞬間、ガラスの壊れる音に似た響きが広がる。厚く重ねた魔障壁は蜘蛛の巣のようにひび割れ、粉になる。逃げて地に潜る者には、地面を透過する優しい光が届く。土は焼けず、ただ核だけを穿つ。土中に光の霧が広がり、やがてそれも消える。


逃げ場はない。半径十キロの円が、無言の処刑場へ変わった。


最後に残る影があった。脈動する筋肉が二重、三重に編み込まれた合成獣。幾本も光に打たれてもまだ動く。四天王の手ずから餌を与えられ、耐性を練り上げられたらしい。牙を鳴らし、大地へ爪を立て、背の斑が光る。


アレスが親指を弾いた。その一音で、周囲の光が一点に集約する。光は束となり、刃となり、合成獣の中心へ穿つ。白い閃光。背骨を伝う振動が庭の皿の底を軽く叩く。鼓膜の奥に余韻が残るほどの轟き。次いで、何もない。光が引き、空が暗さを取り戻す。


「息をする音しか残らない……」


エララの吐息は熱い。言葉は溶けるように切れ切れで、それでも彼女の頬はさらに赤さを増す。足元に小さな霜の花が二つ咲き、すぐに消えた。


外は静かだ。ずっと続いた咆哮は止まり、葉擦れだけが耳に入る。数万の音が一気に消え、世界の体温が下がったかと思うほど。けれど、庭の空気は変わらない。薔薇の香りが戻り、噴水は一定のリズムで落ち続ける。結界の外側に、死骸はない。焦げもない。蘇生の芽も切られていない。ただ、光の微粒子が蛍の群れのように漂い、夜気に紛れて消えた。


アレスは手を下ろした。床の石の冷えが手のひらから肩へ上がる。噴水の水音が一段柔らかく聞こえる。肩にかかった髪の毛先が風に揺れる。


「まあ、こんなものだ。収束率に僅かな誤差がある気もするけれど、風景を崩さず掃除できた。それで十分」


彼は窓辺の布を一枚取り、ガラスを拭く仕草をする。まるで今の作業に合わせて、指先の汚れまで消しておくのが礼儀だと言いたげだ。ガラス越しの庭は歪みなく、空の色を正しく返す。ほんの小さな瑕疵を見つけようとして、見つけられない自分に満足する。


「さすが。光が落ちる角度まで同じでした」


エララが微笑む。笑いながら、肩の鱗を一枚そっと撫でて消す。指先の動きはゆっくりで、爪が皮膚に少し食い込む。静かに、しかし深い。


「君の視線の方が厳しい。なら合格だ」


「合格なんて言葉、もったいない……」


彼女は膝を折り、裾を整え、すっと立ち上がる。いつでも飛び出せる姿勢だった身体が、今は庭の主の歩調に合わせる。呼吸は落ち着き、瞳の奥の氷が少し薄まる。


「遠くの影、見てますか」


エララの視線は空のさらに向こう、見えない一点へ。そこに視線を投げる仕草だけで、誰かの目を思い浮かべているのがわかる。


「幻影のシオン。使い魔越しに見ただろう。ここで起きたことを、理解できないまま、笑いを止める。震える」


アレスは事実だけを述べるように言う。声は冷たくも暖かくもない。噴水の音に重ねて、ただ水平に落とす。


「数万の軍勢が数分で消えた。結界に触れもしないまま。そんなの、夢だと思いたいでしょうね」


エララの口角が上がる。上がった口角の裏側で、彼女の指先がまた手の甲を擦る。皮膚をこする音は小さい。音ではなく、目でわかる。どうしようもなく癖になっている仕草。彼女の背で、見えない翼が一度だけ震えた。


「騒ぎは終わりだ。お茶の続きにしよう。ダージリンの気分だ」


アレスが振り返り、微笑を見せる。温度のない完璧な笑いではなく、ほんのわずか口元が柔らかい。


「……はい。はい、すぐ」


エララは頭を下げ、視線を床に落とす。それから顔を上げたときには、涙が一筋だけ頬を落ちた。両手を胸に当てたまま、踵を返す。歩みは静か、音は薄い。ティーテーブルまでの距離を測るように、足運びが寸分違わない。


「貴方のための一杯。葉の重さも湯の温度も、今の空気に合わせます」


そう言いながら、彼女はポットの蓋に触れる。指先で蓋を押さえる角度が、彼女の気配の鎮まりを映す。湯が注がれる音、葉が踊る気配、蒸気に乗る香り。柑橘と森の香りがわずかに混じる。カップの縁で光が丸く跳ねた。


砂糖は不要。ミルクも不要。アレスは椅子に腰を下ろし、背筋をすっと伸ばす。カップが指に収まる手触り、磁器の冷たさが掌に馴染む。香りをひとつ吸い込む。鼻腔が覚えている香り。舌の奥にわずかな渋みが広がる前に、脳の隅が光る。昔、誰かと同じ香りを嗅いだ記憶の欠片が、泡のように浮かびかけて、また沈む。


(ダージリン。いつだったか、誰かと)


雑味のない湯気の中で、ノイズはやわらかく消える。耳の奥で銀鈴のような声が鳴りそうになり、鳴らずに静まる。アレスはカップを置き、視線を庭へ返した。薔薇の花弁が一枚、落ちる。落ちた花弁は風に運ばれ、芝の上で止まる。


「外の森の匂いが落ち着いた。よく眠れる夜だ」


「窓を開けましょうか」


「今日は閉めておこう。香りがいい」


「はい」


エララは微笑む。その笑みは、先ほどの熱の残像を隠すように薄い。けれど、指先はまだカップの縁を撫でている。撫でるたび、氷の粒が目に見えぬほど小さく生まれ、すぐ蒸気に溶けた。


「さっきの光、どのくらいで組んだんですか」


「今の計算環は、座標と質量の取得から落射の最適化まで連続だ。大気の密度、風の流れ、土壌の硬さも入れた。庭に影響を出さないための調和は、最後に微調整」


「全部、見えてるんですね」


「見えなければ、見えるようにするだけだ。設計は完成してからが始まりだよ」


アレスの視界の端で、エララが肩をすくめるように小さく笑う。「完成してからが始まり」という言葉の響きが、彼女の耳には甘く聞こえたのだろう。カップに口をつけ、目を伏せる。その目は、湯気の向こうに立つアレスの手の形をなぞっている。


「貴方の光、まだ目の奥に残ってる。瞼を閉じても消えないの。嬉しい」


彼女はそれだけ言って、また黙った。沈黙が庭の音に沈み、噴水と風と葉擦れが戻る。壁の向こうには誰の足音もない。夜は澄み、星がいくつか見える。


外の世界が何を仕掛けようと、この中には届かない。絶対防壁が円を描き、その内側では芝の先の露までが同じ時間で光る。四天王の恐怖も、魔王の怒りも、ここには入らない。


ただ、アレスの脳裏の奥底で、再び微かなノイズが走った。


(……ダージリン。そういえば、昔……誰かと一緒に……)


その記憶の欠片は、やはり形を結ぶことなく、深い霧の中へと消えていく。アレスは微かな違和感を覚えながらも、それを気にする素振りを見せず、申し分のない歩みでティーテーブルへと戻っていった。

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