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第2巻 第3章 エララの過去と罪悪感(1)

水晶の結界石は、夜露を含んだ石畳の冷たさを内に伝えて微かにひやりとした。庭の中心で、艶のある面が星を砕いたような光を拾い、外界の歪んだ影をうっすら映す。夜気には湿った土の匂い。笹を擦る音と、結界の奥で鳴る低い唸りが揺れを刻んでいる。


指先が面をなぞると、薄く震える。光の糸が螺旋のように立ち上がり、短く澄んだ音で返事をした。わずかに、網の目がささくれた気配。


「庭の外が騒がしい……だが、問題はない」


声に乱れはない。手に吸い付く石肌の滑りと温度差で、異常の深さが測れる。さらに一筋、淡い光が掌に寄り添い、波紋の中心へ沈んだ。その波紋は一瞬だけ荒ぶるが、すぐ静度を増す。


彼の作り上げた防壁は、場の空気まで含めて一枚の絵にするための仕掛けだ。葉脈の角度や露の置き方まで意思が通っている。そこに触れたものは、意図せずとも輪郭を乱す。だから自動で整える機構を組み込んだ。風景維持機能。いかなる音も光も、ひとつの呼吸へ戻すもの。


「一片も崩さない」


囁くと同時に、結界石の奥にある幾層もの糸が密に絡み、庭に満ちる空気が少しだけ密になる。葉の表に集まる露が筋を引き、それに沿って外から流れ込む気配が裂かれる。


「最大へ」


言葉はそれだけ。石がわずかに歯を食いしばったような振幅で応じた。


境界の向こう、死の森の陰が生き物の呼吸を増やす。草の擦れる音が重なり、甲冑が当たる乾いた響きが数を増やす。そこへ、別の音が混じった。統率の取れた蹄の拍。地面の震えが一定の等間隔で迫る。


「幻影のシオン……」


名を口にすれば、森の奥から風が一筋、こちらへ伸びてくる。冷たい匂い。黒煙が葉にまとわりつく気配。四天王の騎が、闇の中で輪郭を増す。だが、庭の端に置いた灯の炎は揺れない。


「迎撃開始」


淡々とした一音で十分だった。結界の皮膜が薄い波を走らせる。風向きが反転し、庭の外にある空間が吸い込まれる感覚を生む。きめ細かな絹を手の甲で撫でたような音が広がって、光の糸が空に持ち上がる。


「対象、幻影のシオン騎兵隊。排除」


彼の小さな動きに合わせ、糸が軌跡を描く。矢の形をとった光は、羽音ひとつ立てず落ちる。それが触れたものは硬く凍るのではなく、音を失い、動きを失う。騎手の肩、その手綱、その刃。輪郭から「動く」という属性だけを抜いたように、沈黙が貼りついた。


「整えて戻す」


矢は爆ぜない。ただ包む。つやの消えた鎧が膜に撫でられ、影が薄まっていく。彫刻の刃が余分を落とすときのように、庭にふさわしくない揺れをそぎ落として、外側へ押し戻す。


「……うるさい」


指を鳴らした。庭を縁取る見えない縫い目がきゅっと締まり、騎影の列に淡い縞が入る。縞は波になり、波は群れを外へ滑らせた。落葉が一枚、静かにひっくり返るだけで終わる。


「いい手際」


耳の奥に、薄い笑みの温度が落ちる。氷が遠くで細くひび割れる音が混じった。アステリアの空、その高みに大きな影。巨大な翼が角燈の炎を掠め、庭の白い砂に一瞬、薄い影を落とす。


「外輪三、片付いた。あと二つ」


澄んだ声。乾いた頬を撫でるような風といっしょに届く。


「その速度なら十分だ」


「ねえ、その石。今、あなたの指が触れてるのね。音が綺麗」


視線は結界石に固定したまま、わずかに瞬きを遅らせる。上空の彼女は言葉をそこで切り、何も足さない。夜気が一度だけ凍る。彼女が笑ったのだと、指先の温度で理解する。


「外側は任せる」


「任されるの、好き」


足元に、目に見えない白い息が緩く漂い、花弁の縁が針の先ほど冷たくなった。彼女の巨大な尾が森の梢を撫でる音が下から遅れて届く。硬い鱗が月光を受けて薄青に光り、翼の一振りで木々が片方へ傾ぐ。それでいて庭の灯は揺れない。


結界石は微細な乱れをひとつも取り落とすまいと、低い声で喉を鳴らす。輪郭の隅で、別の揺れが小さく跳ねた。誰かが、こちらの「場」を撫でる指を増やした。力で押すだけではない。触れ方に艶がある。精神の波に似た、干渉。


「……これは予想外の揺らぎだ」


目を細めると、石の内部で糸が二本だけ、滑る方向を迷った。すぐ修整する。指が静脈のように光の道筋をなで、ずれた針を戻す。手のひらに伝わるのは微温。光の厚みは均一へ寄っていく。


「誰かの意思の混入。幻影のシオンの影に紛れている」


言葉に起伏はないが、息にだけ僅な湿りが混じった。低く抑えてきた音が一瞬、庭の砂を振るわせる。騎影はまだ遠くで揺れ、だが結界に触れた先端は剥ぎ取られ、再び外の闇へ戻る。森の奥から重い鼓動が遅れて響く。あの四天王の名に付き従うものの癖が、いくつか混じったまま。


「風景維持の網目をさらに詰める」


両手を石に預ける。指の腹で、糸が一本ずつ鳴く。庭の中に落ちる光の角度を微調整し、茂みの影の長さを揃える。波紋の足を切り、沈む場所をひとつずつ決め直す。


「アレス様、脈が少し速い」


彼女の声が南から回り込む。風に砂糖菓子を砕いたときのような音が混じる。すぐそばにいるようで、実際には空の遠い位置だ。尾がふわりと梢に触れるのが、影の揺れでわかる。


「問題はない」


短く返す。口の中に冷たい鉄の味が笑っている。夜の温度は落ち着き、灯から伸びる影が一定の太さへ戻っていく。


「外輪二、沈黙。境界へ向かう小集団、散っている」


彼女の報告は淡々として、しかし語尾にだけ遊びが混じる。そこで言葉が途切れて、空気が押し黙る。小さく息を吸う気配。背後の空がひやりと緊張する。彼女は、その沈黙で多くを語った。


「よくやっている」


呼気に熱が混じる前に石へ戻す。糸を束ねる。庭の水面——結界の表層——が薄く揺れて、遠い星を一粒だけ飲み込んだ。


しかし、微小な音がまだ消えない。波紋は広がらないが、別の壊れ方を試みる指がある。胸骨の内側に細い棘が触れ、思考の隙間に名のない気配が忍び込む。


「記憶の欠片が紛れている……?」


言い切らず、言葉を手のひらで潰す。とうに失ったはずの何かが、糸の綻びから顔を出す。嗅いだことのある香り。冬の朝、初めて霜を踏んだときの軋み。指先に触れた髪の感触のような、曖昧な温度。石が、ほんの一瞬だけ違う音色を持つ。


「アレス様、呼ぶなら、いつでも」


上空から届く声は慎ましやかで、わずかに息を噛む音が混じる。くすりと笑うのか、氷の欠片が髪に触れる音が遠くで鳴るだけだ。言葉で飾らない代わりに、彼女の背後から白い霧がほとばしる。冷えが庭の端を撫で、花弁の先へ一瞬、霜の粒を置く。


「今はいい」


彼は胸の内側に蓋をする。その蓋の裏側で動く何かの影を見ない。糸へ戻る。庭の全要素を再点検し、欠けた音を埋めるために別の旋律を差す。葉の表の朝露の位置、砂に残る足跡の深さ、灯の炎の高さ。整え、揃え、流れを一本に束ねる。調和。それを軸に、乱れは排される。


「この庭は侵させない」


石が低く澄む。森の周縁に立つ見えない刃が磨かれ、こちらへ背を向けた者だけを撫でて追いやる。騎兵の列の先頭に立つ影が、ひときわ濃い。幻影のシオン。赤黒い瞳が闇に浮き、騎に従うものが厚みを持つ。彼らの帯びた黒煙が草を焦がす寸前、光の糸がすべてを包む。息の温度が止まり、時間だけが落ちた。


「あなたの『絵』、壊させない」


彼女はそれ以上の言葉を持たない。代わりに、尾の先で空を一度だけ刺す。高い空気が鋭く切られ、森の奥で何かが倒れる乾いた音。彼女の翼がひとひら、星を隠して戻る。


「外の騒ぎは収まりつつある」


彼は石へ伝え、糸を締める。庭の隅々に目を行き渡らせる。竹の影の長さがそろって並び、砂紋に指の跡はない。灯火の炎はじっとりと揺らがない。空の色は濃く、星の位置に狂いはない。水盤の表面に映る月の輪郭が、ぴたりと合った。


外側に残った揺れは極めて薄い。それでも確かにある。幻影のシオンの群れに、別の意が絡みついている。刃でも毒でもない。言葉と呼ぶには浅い、波のさざめき。その波は、防壁の根へ触ろうとする。


「この程度で崩れはしない」


手を置く。糸が一度沈み、別の音階へ移る。構造は息に合わせて柔らかく、しかし戻るべき場所へ必ず戻る。美しい動き。庭の石灯籠の角に集まっていた蜘蛛の糸が、淡い光を拾い直す。細工は細部で決まる。


「エララの巡回は?」


「続行中。北東、片付く頃。……帰る時、あなたの手、まだ冷たいかしら」


その言い方に、庭の温度がほんの少し下がる。彼女の足爪が岩に触れる鈍い音が一度。彼女はそれ以上は言わない。月光が尾の縁でほどける。目に見えない摩擦で夜の空気が削れる。


「終わらせて戻る」


言葉が短いほど、糸の戻りが早い。石は彼の発した音の周波数を吸い込み、光の束がもう一段階深く編み直される。庭を取り巻く網は緻密さを増し、触れたものの形を優しくなぞって、そこから余分を剥ぐ。


「研ぎ澄ませ」


彼の声が夜を低く渡る。その通りに、庭の明暗が整う。揺れた影は影の位置へ、光は光の位置へ。ひとつでも齟齬があるなら、そこへ糸を差す。彼の中で、別の音が一瞬顔を出す。誰かが呼ぶ声。風の中の微熱。


「だが、今は違う」


小さく肩を落として、また石へ戻る。井戸の底へ落ちていくような静音に身を預け、外から押し寄せるものを一枚一枚剥がす。四天王の騎は、黒煙を細くして後退する。一部は凍り付いたまま、森の闇へ滑り落ちた。空を切る彼女の影がもう一巡りし、境界の外周で風が反転する。


「終わっていく。光幕は完全に機能している」


庭の空気は澄み、息が通る。灯は落ちない。竹は鳴らない。砂紋は崩れない。水盤は鏡だ。遠い雷のような響きが一度だけ、森の背中を伝わって消える。


「アレス様、あとひと息」


彼女の声が柔らかい。笑う気配だけ落として、何も飾らない。背後の空がきらりと光り、氷の消える音が遠ざかる。


「戻ったら、手を」


そこで言葉が切れた。風だけが伸びた。石の上に置いた指先に、薄く温度が乗る。庭の端に咲いた白花がわずかに開く。


「……いい」


彼は石から手を離さない。それでも、口元の線が一瞬緩んだ。彼女の熱は、彼の背中を通ってどこかへ抜ける。庭から見上げた空は暗く、美しい。星が固く結ばれて、角度が揃う。


石の奥で、まだ小さな揺れがくすぶる。捕まえられない糸の先に、名のない記憶が絡む。冬の朝の音。誰かの指がこちらの指を撫でた感触。水の底から上がってくる泡の列。あれは確かにある。閉じた蓋の向こうで動き出す。今は見ない。今は触れない。庭が先だ。


「瑕疵なき秩序。それだけだ」


彼は石に額を軽く寄せ、呼気を薄く乗せる。光の糸が最後の一束を締め、庭に弾力が戻った。外の騎は溶けるように薄まり、闇と一体になる。四天王の影は距離をとり、森の背へ姿を紛す。騒ぎは遠い鼓動のような低音だけを残し、静けさが戻る。


戻る——はずだ。耳の奥で、まだ誰かが名を呼ぶ。振り返れば、その名が口に乗る気がする。だが、彼は振り返らない。庭の白砂に新しい紋を描き、竹の影にもう一度目を通し、水盤の輪郭を指でなぞる。光の角度は正しい。風は通る。香は薄い。


そして、静けさの底で。封じたはずの何かが、身じろぎを始める。まだ小さい。今の彼の整えた場を壊すほどではない。けれど、目覚める気配は確かだ。夜明け前の空が淡く染まり始めるときのように。彼の世界にほんの細い線が入り、そこから別の色が滲む。気づいたまま、彼は糸を締め続ける。庭は整う。外は退く。内は呼ぶ。音はまだ遠い。今は、ここだけがすべてだ。

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