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第2巻 第2章 魔王軍四天王の偵察(5)

地響きが、まず先触れとして訪れた。


 死の森の北端から続く丘陵地帯へ、黒い濁流が押し寄せる。波ではない。魔物の群れだ。鎧をまとった鬼人兵。骨をかちかち鳴らす屍鎧の歩兵。唾液を糸にして垂らす獣魔。宙を裂いて飛ぶ翼竜の眷属。


 闇の眷属と呼ばれるあらゆる種が、ひとつの群れとなって迫る。その数、優に三千。


 薄紫の霧の向こう、指揮官の影がぼんやり浮かぶ。魔王軍四天王、幻影のシオン。姿はまだ遠い。だが、その魔力の脈動だけで、大地は心臓を握られたように震えた。


 それでもアレスは、振り向かない。


 丘の上に立つ彼の視線は、背後の軍勢ではなく、眼下に広がる死の森へ注がれる。


 かつてそう呼ばれた領域は、今や別の場所になっていた。銀色の苔が大地を絨毯のように覆い、瑠璃色の小花が、夜露を宿して等しい間隔で咲く。湖面は鏡のように凪ぎ、空に浮かぶ三つの月を受け止める。枝葉の隙間から落ちる光は細く、冷たく、青白い。湿った土の匂いに、苔の甘い香りが混じる。


 アレスは、その空気をひと息吸った。


「……ねえ、エララ」


 隣に寄り添う竜姫が、すぐに顔を上げる。人の形をとった彼女の漆黒の髪が、夜風を受けて肩を滑った。瞳には金の輝き。唇には、柔らかな笑み。


「はい」


「あの連中、走り方が雑だと思わないかい?」


「足並みのことですか?」


「そう。右端の鬼人兵は半歩遅い。中央の屍鎧は膝が鳴りすぎる。獣魔は爪を立てて土を掻く。音が悪い。私の地面を踏むなら、せめてもう少し気を遣ってほしいものだ」


 エララは、うっとりと目を細めた。


「お気に召しませんか」


「まったく」


「では、近づかないようにしましょう」


 彼女の指先が、そっと胸元で組まれる。爪の先に、薄い霜が生じた。本人は気づかぬふりをしている。足元の草だけが、白く凍る。


「ただ、乱暴に散らすのはよくない」


 アレスは指を一本立てた。月光に透ける白い指。


「粉にすると舞う。舞えば苔につく。苔が汚れれば、私が払わなければならない。そんな面倒を私にさせる気かい?」


「……それはいけませんね」


 エララは頬に手を当て、深くうなずいた。


「あなたの手を煩わせるなんて、あってはならないこと。では、触れた端から、跡も残さず」


「うん。それならいい」


「お望みのままに」


 微笑むエララの視線が、魔物の群れを一瞥した。


 それだけで最前列の獣魔が泡を吹いて倒れる。彼女は見ていない。興味はもう、隣に立つ男の横顔へ戻っていた。アレスのうなじを撫でる月の角度。喉元に落ちる影の細さ。そこだけが、彼女の世界を満たす。


 魔物たちが、ついに結界の最外縁へ到達した。


 その瞬間、音が消える。


 最初に跳びかかったのは、三頭の獣魔だった。山羊と狼を混ぜたような姿。裂けた口から涎をまき散らし、丘の上の二つの影へ向かって吠える。


「見えていないんだな」


 アレスがつぶやく。


「壁のことですか?」


「壁ではないよ。もう少し呼び方を考えたいところだ。透明な線、と言うには味気ない。水面、と呼ぶには乾きすぎている」


「では、あなたの幕、と呼びましょうか」


「悪くない」


 獣魔たちが跳んだ。


 衝突。


 空間が波打つ。透明な夜に石を投げ込んだように、同心円状の波紋が虚空へ広がった。淡い真珠色から始まり、薄紅、薄青、薄金へと移る光。獣魔の肉体は、輪郭から順にほどけていく。毛皮が、角が、爪が、息が、順番にほどける。


 悲鳴はない。痛みを知る間もない。


 最後に残ったのは、虚空に咲く光の花だけだった。


「ほう」


 アレスは目を伏せる。


「悪くない。今夜の月光とは合う。湖面の銀と、波紋の薄青がきれいに響いた」


「ええ。今の二つ目の輪、少し冷たい色でしたね」


「見えたのかい?」


「あなたが好きそうな色でしたから」


 エララは小さく笑った。笑みの背後で、金の瞳がわずかになる。


「次は、もっと近くでご覧になります?」


「いや。ここでいい。近づくと土の匂いが濁る」


「では、わたくしが風を払います」


「頼むよ」


 エララが指を払うと、丘へ上がってきた血と獣臭の混じる風が、横へ滑った。代わりに湖から冷たい空気が流れ込む。水草の匂い。銀苔の湿った香り。アレスは満足げに息を吐く。


 続いて、屍鎧の歩兵団が突入した。


 三百を超える鎧の群れが、ばらばらの歩調で殺到する。錆びた剣が見えぬ壁を叩き、骨ばった手が引っ掻いた。だが、傷はつかない。触れた箇所から波紋が生まれるだけだ。


 薄紫。薄緑。薄薔薇色。


 光の輪が重なり、夜空に巨大なステンドグラスめいた絵を描く。屍鎧たちは、その光に触れるたび、ひとつずつ失っていった。兜、籠手、胸当て、骨。ばらばらになるのではない。淡い靄となり、夜へほどける。


「アレス様、あの薄薔薇色をご覧になって」


 エララが身を乗り出す。声は甘い。けれど、指先はアレスの袖をつかんだまま離れない。


「あれはとてもよいです。冷たいのに、奥だけ温かい。あなたの魔力が、そう見せているのでしょう?」


「色相の変化は、接触時の負荷で決まる。あの鎧は鉄分が多いからね」


「ふふ。では、鉄をまとって来たことだけは褒めてあげてもよさそう」


「褒めるほどではない」


「そうですね。では、名前も覚えません」


 にっこり微笑むエララの背後で、霜がふわりと浮く。薄い氷片が夜風に混じり、屍鎧の一体へ向かった。だが結界に触れる前に、彼女は手を下ろす。


「……いけない。あなたの幕に、余計なものを混ぜるところでした」


「気をつけてくれ。干渉が入ると色が濁る」


「はい。ちゃんと、見ているだけにします」


 言葉どおり、エララは動かない。


 ただ、彼女の笑みを見た鬼人兵が一体、急に足を止めた。次の瞬間、後続に踏み潰される。彼女はやはり見ていなかった。


 翼竜の眷属たちが、空から襲いかかる。


 漆黒の翼を広げた竜種が二十。急降下しながら結界の天蓋へ迫る。口腔に紫炎をため、一斉に吐き出した。岩をも溶かす、魔王軍の兵器。


 紫炎が天蓋に触れる。


 深い紫が、菫色へ。銀白へ。淡い金へ。


 炎は炎であることをやめ、光の花弁となって四方へ散った。夜空に、巨大な菊の花が開く。遠くの村々からも見えただろう。人々は神の祝祭と勘違いし、膝をついたかもしれない。


 花の中心で、翼竜たちは静かに崩れた。


「派手だな」


 アレスは眉をひそめる。


「お気に召しません?」


「悪くはない。ただ、少し喋りすぎる光だ。花弁が多い。次は半分でいい。八重咲きより、一重のほうが品がある」


「あなたらしいお言葉です」


「君はどう思う?」


「わたくしは……」


 エララは空の花を見上げ、それからアレスを見る。


「あなたが半分とおっしゃるなら、あれは多すぎます」


「自分の意見は?」


「ありますよ」


「聞こう」


「あなたの横顔にかかる光は、今くらいがいちばん綺麗です」


 アレスは一瞬だけ黙った。それから、かすかに口元を緩める。


「答えになっていないが、参考にはなった」


「よかった」


 エララは幸せそうに笑う。だがその瞳の奥では、空から落ちる翼竜の影など、すでに塵より軽い。世界の意味は、アレスが何を美しいと言うかで決まる。彼の目が細まれば、それは価値を持つ。彼が顔を背ければ、価値を失う。


 その目を曇らせるものは、あってはならない。


 エララの視線が、遠くへ流れた。


 薄紫の霧。幻影のシオンの気配。魔王軍四天王の一角。霧はわずかに揺れ、こちらを観察している。


「……見ていますね」


 エララの声が低くなる。


「誰が?」


「あの霧です」


「シオンか」


「名前をご存じなのですね」


「四天王の一人だろう。幻影のシオン。たしか、実体を持たないとか」


「そうですか」


 エララは微笑んだ。


 次の瞬間、彼女の足元から氷が音もなく広がる。草の葉の先が白く尖り、空気の温度が一段下がった。アレスが横目で見ると、氷はぴたりと止まる。


「寒いよ、エララ」


「失礼しました」


「気を乱すほどの相手かな」


「いいえ」


 彼女はゆっくり首を振る。


「ただ、視線が少し。あなたの時間を奪うようで、気になっただけです」


「私の時間?」


「はい。あなたがこの景色を見る時間です」


「なるほど。それはたしかに困る」


 アレスは空を見上げた。


 地上ではなおも魔物の波が押し寄せる。鬼人兵が斧で叩く。波紋。屍狼が牙を立てる。波紋。蝙蝠竜が爪を引く。波紋。あらゆる攻撃が光へ変わり、夜空と大地を飾っていく。


 銀苔の上に、赤や青や金の光が揺れる。湖面には輪が映り、月の像が細かく震えた。空気は冷たく、しかし焦げ臭さはない。血の匂いも届かない。聞こえるのは、遠くで弾ける硝子のような音だけ。


「ねえ、エララ」


 ふと、アレスが言った。


「はい」


「私は、何かを忘れている気がする」


 エララの指が、わずかに止まる。


「……何を、でしょう」


「うまく言えない。この光景を、昔にも見た気がする。誰かと一緒に。夜で、光が広がっていて……誰だったかな」


 アレスは眉を寄せた。


 それは苦悩というほど深くない。眠りから覚める直前、手の中にあった夢がほどける、その程度の淡さ。けれどエララには、刃より鋭く見えた。


 彼女はそっとアレスの腕に手を添える。優雅に。けれど布越しの指先は、わずかに沈む。


「それは、わたくしです」


「君?」


「ええ。いつも隣におります。昔も、今も、これからも」


「そうだったかな」


「そうです」


 エララは笑った。綺麗な笑み。唇だけが笑い、金の瞳は瞬きひとつしない。


「ほかに誰がいるのでしょう。あなたが月を見るとき、湖を見るとき、光の輪を数えるとき。わたくしは、ここにおります」


 アレスは彼女を見る。


 瞳の奥に、一瞬だけ何かを探す光が宿った。けれどすぐ、夜の冷たい色へ戻る。


「……そうか。そうかもしれないな」


「はい」


 エララの指先が、さらにほんの少しだけ食い込む。袖に小さなしわが寄った。彼女は気づかないふりをする。気づいてしまえば、胸で渦巻く黒い熱に名前を与えることになる。名前を持ったものは形を得る。形を得れば、アレスの隣に置くには醜すぎる。


「痛いよ、エララ」


「……あ」


 彼女はすぐ手を緩めた。


「ごめんなさい。布の手触りを確かめておりました」


「そういうことにしておこう」


「はい。そういうことにしてください」


 夜空には、なおも波紋が咲き続ける。


 魔物たちの突撃は止まらない。シオンはおそらく、三千の兵を犠牲にして結界の構造を読み取るつもりなのだろう。古典的な消耗戦。相手が人間の魔術師であれば、いつか疲弊する。いつか綻びが生まれる。いつか弱点が見える。


 だが、相手はアレスだ。


 彼は結界の中心で、画家が汚れた画布を見るように敵勢を眺める。三千の魔物は、彼にとって墨汁の染みに等しい。染みは拭う。それだけで足りる。


「エララ」


「はい、アレス様」


「あの紫の霧、位置が悪い」


「霧、ですか」


「左三分の一を断ち切っている。湖面から月へ抜ける線が詰まる。動かしてくれないか」


「かしこまりました」


 エララは静かに右手を持ち上げた。


 その仕草は、花に触れるように柔らかい。指先から、目に見えぬほど細い光の糸が伸びる。糸は魔物の群れをすり抜け、波紋の外側を撫で、薄紫の霧へ触れた。


 霧の中で、何かが軋む。


「……触れました」


「動くかな」


「動かします」


 幻影のシオン。


 魔王軍では、彼の本体は霧そのものであり、霧であるがゆえに不死身と伝えられる。物理攻撃は通らない。魔術は散る。概念への干渉さえ幻へ飲み込まれる。形なきもの。境目なきもの。どこにでもいて、どこにもいないもの。


 しかし、エララの光の糸は、その霧が「形を持たない」という在り方へ触れた。


 竜の血は古い。世界がまだ輪郭を持たぬころ、混沌のただ中で最初に境界を得たものの血。形のないものへ形を与え、不確かなものを定める力。


 霧の奥で、シオンが初めて境界を持つ。


「……あ」


 声にならぬ呻きが漏れた。


 それは断末魔というより、生まれたばかりの赤子が初めてあげる声に近い。自分がどこで終わり、外界がどこから始まるのか。強制的に線を引かれた瞬間、シオンは「個」となった。そして個となった瞬間、終わりを迎えられる存在へ変わる。


 エララは首を傾けた。


「ずいぶん小さな声」


「何か言ったかい?」


「いいえ。霧が、場所を譲るそうです」


「それは助かる」


 紫の霧が、薄紅色の波紋となって夜空へ拡散した。


 数百の輪が同心円状に広がり、重なり、複雑な紋様を編む。今夜、結界が見せた中で最も言葉を失う光景だった。三つの月の銀光。湖の鏡面。銀苔の絨毯。瑠璃色の小花。すべてが薄紅の輪に縁取られ、夜の中でひとつの絵になる。


 アレスは長く息を吐いた。


「……うん。これでいい。構図が、ようやく落ち着いた」


「お気に召しましたか」


「かなり」


「それなら、よかった」


 エララは彼の横顔を見上げる。


 アレスの瞳には、四天王を屠ったという認識など浮かばない。絵の隅にあった邪魔な染みを拭き取った。それだけのこと。だからこそ、エララは満たされる。彼の視界から不要なものが消えた。それだけで、胸の奥の冷たい熱が静まっていく。


 丘陵の向こうで、指揮官を失った魔物たちがようやく恐怖を覚えた。


 前列が止まる。後列が押す。鬼人兵が叫び、屍鎧が崩れ、獣魔が背を向ける。退却が始まった。


「逃げますね」


 エララが言う。


「足音がさらに悪くなった」


 アレスは不快そうに目を眇めた。


「背中を見せるなら、せめてまっすぐ走ればいいものを。右へ左へ散るから、波紋の間隔が乱れる」


「整えましょうか」


「いや。結界が勝手にやる」


 その言葉どおり、退却する背中にも光の輪は等しく咲いた。


 鬼人兵の肩に触れれば薄金。屍狼の尾に触れれば薄青。翼竜の破れた膜に触れれば薄紅。逃げる者から順に、音もなく夜へほどけていく。やがて地響きは遠のき、叫びも消え、丘陵地帯に残るのは光の余韻だけとなった。


 夜が更ける。


 死の森に、新しい沈黙が訪れた。それは戦の後に落ちる重い無音ではない。完成した絵の前で、誰もが思わず息をひそめる、あの厳かな静けさ。


 アレスは湖面に映る月を眺める。


「エララ」


「はい」


「明日の朝、苔の露を見よう。今夜の光が残っていれば、きっといい色になる」


 エララは両手を胸の前で重ねた。指先に残る霜が、月光を受けて小さく光る。


「ご一緒します」


「そうしてくれ」


「いつでも」


 彼女は微笑む。


 その背後で、最後の薄紅の波紋が夜へ溶けた。

 何も残らない。匂いも、灰も、名も。

 ただ、アレスの望んだ景色だけが、そこにある。

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