第2巻 第2章 魔王軍四天王の偵察(4)
視界を埋め尽くすのは、黒だ。
死の森の北、かつて「枯渇の荒野」と呼ばれていた一帯が、この日、地平の色を塗り替えた。
風が凪いだ。いや、正確には——風そのものが、瘴気の重みに耐えかねて死に絶えた。空を覆う黒雲は太陽を完全に遮り、荒野は永遠の黄昏に沈む。鎧の錆びた黒、腐肉にまとわりつく毛皮の黒、翼膜の透けた藍墨の黒、そして何よりも、それらの頭上に低く垂れ込めた瘴気の——湿った煤を溶かしたような黒。幾層もの黒が地平線そのものを塗り潰し、内側からは橙色の眼光がいくつも瞬く。数千、数万。星座のように、熾火の海のように、光点が散らばり、揺れ、南へと進んでくる。
地響きが、まず先に届いた。
音ではない。足の裏から脛、膝、腹へと這いのぼる振動だ。土の中で眠っていた小石たちが身を寄せ合い、荒野の枯れ木の根元で灰色の塵が跳ねる。地中の虫たちはすでに数日前から地表に這い出し、北とは反対の方角へ逃げていた。それほど、この行軍は遠くから「来て」いる。
「——遅れるな」
低く、しかしよく通る声が、隊列の中央で響いた。
幻影のシオン。魔王軍四天王のひとり。
黒檀の長衣を風に泳がせ、騎乗もせずに歩を進める。周囲だけは行軍の振動に揺れない。靴底が地に触れる音すらしない。彼の輪郭は見るたびにわずかにずれる——眼の縁、襟元、指先。焦点を合わせようとするたびに、ほんのわずかに逃げる。陽炎に似て、しかし陽炎よりもずっと意志的だ。
「……数万、か」
口の中だけで呟き、背後を振り返るまでもなく、軍勢の規模を皮膚で把握する。皮甲を鳴らして進む鬼種が一万、地を這うように駆ける獣型が一万二千、翼を畳んで縦隊を組む有翼種が三千、そして最後尾には大地を踏み割らんばかりの土塊巨人が四十二体。その合間を、瘴気が意思を持ったかのように渦巻く下級悪霊の群れが埋め尽くす。
足元で枯れ草が踏み砕かれる音が、無数に重なって巨大なノイズとなる。彼らの吐く息は白く濁り、周囲の気温を急激に奪っていく。揃ってなどいない。揃わないまま、しかし数の暴力によって地殻が単一のリズムを強制されていた。心臓が共鳴を起こすような、低い、低い、地の鼓動。
その鼓動を伴って、瘴気が南へと押し寄せる。
粘度がある。視界に絡みつく。吸えば肺の奥に錆の味が残り、二度三度と呼吸するうちに自分の血の色まで黒く変わっていくような錯覚を覚える。荒野を渡ろうとした渡り鳥の群れが、軍勢の上空にさしかかった瞬間、糸を切られた紙細工のように零れ落ちた。落ちた骸は地面に触れる前に輪郭を失い、黒い羽毛だけが行軍の頭上を雪のように舞う。
シオンはそれを一瞥もしなかった。
彼の関心は、ただひとつ——南方の、あの「箱庭」にあった。
「……悪趣味な話だ」
薄い唇が皮肉の形に歪む。
死の森。本来であれば、瘴気に最も親和性の高い土地。魔物たちにとっては第二の故郷とも言うべき場所。それが数年前から、地図の上では「死の森」と記されながら、実態はまったく別物に変貌しているという報告が魔王城に幾度も上がる。
「花が咲いている、と。湖面が鏡のように凪いでいる、と」
シオンは独りごちる。その声には、かすかな面白さが混じっていた。
最初は一笑に付した。死の森に花が咲くなど、太陽が西から昇るのと同じくらい馬鹿げている——そう思う。だが偵察に放った下級悪霊が、一体も戻ってこなかったあたりから、彼の中で何かが軋み始めた。戻ってこないのではない。「入れない」のだ。森の境界に、見えない、それでいて絶対的な「線」が引かれていて、その線の手前で悪霊たちは溶けるか、弾かれるか——あるいは奇怪な話だが——「美しい何かを見て、そのまま戻る気を失くす」のだという。
「アレス、と言ったか」
名前を口にするだけで、周囲の瘴気がわずかに揺らいだ。彼の感情の揺れに呼応するように、軍勢の歩みが半拍だけ速くなる。後方で土塊巨人の一体が低く唸り、その振動で枯れ木が一本、根元から折れて倒れた。
「美意識の権化、らしいな。完璧な景観を作るために命を懸ける、と」
ふ、と笑う。
「結構なことだ。ならば——その完璧を、私が踏み荒らす番だ」
シオンの歩幅が、わずかに広くなった。
行軍は、なおも進む。
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一方、その頃。
死の森の中央——アレスの「箱庭」の中心部では、世界がまったく異なる時間を刻んでいた。
朝の光が結界の天蓋を通してやわらかく濾過され、苔むした石畳に金色の網目を落とす。土の匂い、花の香り、そして微かに混じる魔力の残滓——それらが寸分の狂いもなく五感に馴染む。森の縁に植えられた銀葉樹は、葉の一枚一枚が同じ角度で風を受けるよう剪定されており、風が吹くたびに無数の銀が一斉に裏返り、天の川が地上に落ちてきたかのような光のさざなみを生んだ。
その中央に、アレスが立つ。
銀灰の髪を風に遊ばせ、腕を組み、地面に咲いたばかりの白い花を見下ろす。花弁は七枚。理想な対称を描いている。けれど彼の眉は、ほんのわずかにひそめられる。
「……いや」
呟く声は静かだった。
「この位置は、二寸ほど東にずれている」
「東、ですか」
少し離れた木陰から、エララの声が応じた。
「ここに置くべきは、もう半段、青みの強い品種だ。背景の苔の緑との対比が弱い」
「……ふうん」
エララは木陰を出て、アレスの隣に並ぶ。白い花を覗き込む彼女の瞳——金色の縦瞳孔——が、花とアレスの横顔を交互に見比べる。
「私には、十分綺麗に見えるけれど」
「十分、では足りない」
アレスは指先を軽く振った。それだけの動作で空間がほんのわずかに歪み、白い花は一瞬で形を変えて、より深い青を帯びた花弁五枚の小花へと「描き直された」。指先から放たれる微弱な魔力が、新たな色彩を定着させていく。その過程は静かで、しかし確かに、世界の密度が一段上がったような感覚があった。
「……綺麗」
エララが低く呟く。
その「綺麗」の対象が、アレスの作った景観なのか、それともアレス本人なのか——彼女自身、もはや区別がついていなかった。区別する必要を感じない、と言ってもいい。アレスが作るすべて、アレスが触れるすべて、アレスが視線を注ぐすべて——それらは彼女にとって等しく「アレスの一部」だ。
「あなたが手を入れると、空気の重さまで変わる気がする」
「気のせいではない。魔力の密度が変わっている」
「……そういう意味で言ったんじゃないけれど」
エララは小さく笑った。笑いながら、その瞳だけが笑っていなかった。アレスの所作のひとつひとつ——指先の角度、首をかしげるときの銀灰の髪の流れ方、花の配置を微調整する際に唇から漏れるほんの一息——そのすべてを、捕食者が獲物を観察するのとも、巡礼者が聖像を仰ぐのとも違う、もっと暗く、もっと粘ついた視線で追い続ける。
その視線が、ふと、北の方角へと向いた。
竜の血を引く者の感覚は、人間のそれとは桁が違う。エララの瞳孔がきゅっと細まる。唇の端が、ほんのわずかに——本人も気づかぬほどわずかに——歪んだ。
来る。
何か、巨大なものが、来る。
地を割らんばかりの数。澱み、腐り、けれど一個の意思に統べられた、黒い、黒い、波濤。そしてその波濤の中心に、はっきりと「目的」を持った気配がひとつ。冷ややかで、知性的で、ゆえに不愉快なほど厄介な気配。
「ねえ」
エララはアレスの袖を、ほんの指先でつまんだ。
「お客が来るみたい」
「……何人だ」
「数万、かしら」
アレスは花から目を離し、北方の空を見やった。青みがかった灰色の瞳の奥で、何かがちりっと閃く。違和感、と呼ぶべきものだ。
「——客、だと?」
口の中で、ほんの一瞬、何かが軋んだ。記憶の縁を爪で引っかかれたような、ごくごく些細な感触。「客」という言葉に、自分はかつて、もっと別の文脈で反応したことがあったような——輪郭を持たない、既視感。
「四天王のひとりね、たぶん。気配が、他とは違う」
「……性質は」
「幻影系。でも、知性が高い。ただ壊しに来るタイプじゃない」
エララはそう言いながら、北の方角を見つめたまま、自分の指先で鎖骨のあたりをゆっくりなぞった。その仕草は無意識だったかもしれない。あるいは、まったく意識的だったかもしれない。
「どうする?」
「どうする、とは」
「迎え撃つ、でしょう?」
問い返したアレスに、エララはにっこりと笑いかけた。笑顔だった。無瑕に整った笑顔だった。ただ、その笑顔の背後で、彼女の指先に金色の鱗が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
「私が先に行っても、いい?」
「……エララ」
「ふふ。冗談よ」
冗談かどうか、アレスには判断がつかなかった。彼女の笑顔は常に本気と冗談の境界線を踏んでいる。
風が吹いて、銀葉樹がさらさらと鳴った。アレスの意識は北方の気配を測りながら、しかし足元の小花の位置も同時に確かめている。その二つが彼の中で同じ重さを持っていることが、エララには——そして誰にも——理解できなかった。
「私の庭を踏み荒らすつもりなら」
アレスは言っている。
「踏み入れる前に、足元を綺麗にしてから来い」
その言葉を、エララは目を眇めて聞いた。満ち足りた表情で、胸の前で両手を組む。アレスの声、アレスの言葉、アレスの宣言——そのすべてが彼女の中で甘く溶けて、北から押し寄せる黒い波濤への、明確な何かへと結晶していった。
「……ね、アレス」
「何だ」
「あの気配の中心にいる人、名前は分かる?」
「シオン、と呼ばれているらしい」
「そう」
エララは頷いた。にっこりと、笑っている。
「覚えておく必要は、ないわね」
アレスは彼女の言葉の意味を、特に深く問わなかった。ただ、エララの指先の温度が、一瞬だけ下がったことには気づく。
地響きは、まだ遠い。
けれど確実に、近づいている。
死の森の北の境界——アレスが幾重にも張り巡らせた、誰の目にも見えぬ絶対の壁のすぐ手前まで、幻影のシオンと数万の軍勢は、刻一刻とその距離を詰めつつあった。
箱庭の朝は、なおも美しかった。
その美しさが、これから訪れる衝突の規模を、かえって不気味に際立たせる。




