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第2巻 第2章 魔王軍四天王の偵察(3)

「……綺麗」

星が降る。結界の内側だけに許されたそれは、かすかな鈴の音のような光で、死の森の匂いを洗い流す。樹皮を腐らせる瘴気は結界の縁で白く霧散し、藍の夜に淡く歌う砂紋をひと筋も汚さない。アレスは砂を梳く熊手を水平に保ったまま、足裏の圧まで理想の均衡に従わせる。石は律動、苔は呼吸、水鏡は瞬き。すべてが彼の視線に連なる一つの文様になる。


「角度が一度ずれただけで、光が跳ねる。だから……ここは、二十七度」


囁きのような声。彼は立石の稜線に指を添え、星の落ちる筋と砂紋の縞が交差する一点に合わせた。冷たい石肌が、結界の脈動と同じ鼓動で震える。糸のように見えない術式が石を留め、空を織り、死の森を遠ざける。それは理想と防御の同義語だ。


「……美しい線」

「……」

エララは少し離れた陰で、肩まで落ちる黒髪を指に巻き、彼の背中の線を測る。「……」


竜の血が感覚を研ぎ澄ませ、結界の低い揺れさえ舌の裏で味わえる。「……」


夜の深さ、砂の乾き、苔の湿り。それらはすべてアレスの呼吸のリズムに従う。「……」

彼の周りに寄るものを、彼女はずっと排除してきた。「……」


光の中に入り込む影、囁く者、触れる手。どこであれ、どの名であれ。


「ここは……南を向けるはずだった」


アレスの指が止まる。灯籠の笠にふれた手が、ほんの一瞬宙で迷う。彼の声に曇りが差す。


「いや、北だっけ? 星の……流れが」


「東よ」エララは柔らかく笑い、足音を砂に沈める。「あなた、昨日『星脈は東から来て、ここで曲がる』って言ったわ」


「ああ、そうだ」アレスは自分で自分の言葉を追い、軽く息を吐く。「そうだった」


「……」

ほんの刹那。砂を梳く音が再び一定に戻ると、夜もまた静けさを取り戻す。「……」

静寂が降りる。星は見守り、結界はうなずく。「……」

その一瞬はエララの内側に棘のように残る。


「ねえ、アレス」彼女は灯籠の影に手を落とし、友だちのような声色で続ける。「その白い小石、昨日は使わないって言ったわ。ここは銀の線だけで通すって」


「……そう、だったか?」彼の目が白い石を映す。反射が瞳に淡く揺れ、言葉が砂の上に滑るように遅れる。「銀。ああ、銀だけで流れを作るんだ。白は……白は重くなる」


「うん」


「……」

微かな違和感。彼は軌道を修正し、白い小石を指先で退かす。「……」

仕草は相変わらず丁寧で、寸分の狂いもない形のまま。「……」

だが、彼女の耳には、結界の音色に混じる異音がした。「……」


細い糸がひと筋、違う結び目を探るようなささやき。「……」

誰かが指先で弦を弾くように。幻。名を持つ影の気配が、遠く結界の縁で笑う。


「……シオン」

幻のシオン。名前はまだ噂の形をしているのに、その影は薄い鋭利に繊細な場所を撫でていく。「……」

視線と記憶の隙間、意識と指先の間。エララは唇の内側を咬んだ。「……」


血の味が竜の熱を呼び込む。


「それにしても、水面がよく磨かれている」アレスは胸の前で両手を開き、水鏡に落ちる星光を測る。「今日、誰がやった?」


「あなたよ」エララは間髪いれずに答え、笑いの色を濃くする。「朝、私が起きる前に」


「そうか。……だったね」


「……」

彼は肩を落としてから、すぐに姿勢を正す。「……」

目に張り詰めた糸が戻り、また砂の白を梳く。「……」

何もかもが思い出された。記憶の糸が繋がった。「……」


けれど、思い出すという行為そのものが、彼には似合わないとエララは知っている。「……」


彼は本来、忘れない。理想のための規律は彼の骨に刻まれている。「……」


苔の端がどこで切れるべきか、灯籠の笠の角がどちらを向くべきか、砂紋が星の筋をどのくらいの幅で迎えるか。「……」

彼は夢の中でも答えられるはずだ。


「……」

だから、その「そうか。……だったね」が、あまりにも軽く響くのが、怖い。


「ここの名は?」彼女はあえて問う。「あなたが、昨日つけた」


「……」

アレスの手が空中で止まり、目の焦点が遠くを掠める。「……」


砂の上の線が一本、呼吸の間で消えそうになる。


「……光路の、ええと」


「月渡りの径」エララは囁き、彼の耳に言葉を置く。「あなたがそう呼んだ。良い名よ」


「月渡り、そう、それだ」彼は頷き、笑みを戻す。「ぴたりと来るから、忘れるはずがないのに」


「……」

忘れるはずがない。彼自身がそう言う。「……」

彼の自覚さえも、今は頼りなく感じられる。「……」


エララは首筋に毛が逆立つのを押さえ、指を絡め合う。「……」

彼の手を取れば、熱も拍動も、何もかもがいつも通りで、何もかもが正しいままだと錯覚できる。「……」


だが、触れたいという衝動を、彼女は自分の内部で封じ込める。「……」


彼の集中を乱すこともまた、汚れだと知っているから。


「……来る」

死の森の縁で、結界がひとしきり鳴る。「……」


魔の気配が、網目を探す甲虫のように黒い触角を伸ばす。「……」

薄い膜と薄い皮膚の間に針を差し入れるような手付き。「……」

幻は音も色も模倣する。「……」


それに触れたものは、自分が見聞きしたものの輪郭を少しだけ違えて拾う。「……」

それがどんなに小さな違いであっても。理想にとっては致命だ。


「アレス」エララは低く、歌うような声。「今日はもう休んでもいいんじゃない? 星だって眠気をさましてしまうくらい綺麗に降っているわ」


「まだ終わっていない」彼は首を振り、砂を寄せる。「この曲線が、もう少しだけ呼吸を欲しがっている。ほら、ここ。分かるだろう?」


「ええ、あなたの呼吸の音が聞こえるもの」


「……」

彼は満足げに目を細め、熊手の先を微かに振るわせる。「……」


砂紋に新しい波が生まれ、星の筋が水鏡を渡って灯籠の影に溶けていく。「……」

申し分ない。だが、それはいつだって薄い。薄い膜ほど、破れやすい。


「……許さない」

エララは自分の内で決意を固める。「……」


彼の研ぎ澄まされた皮膜を、彼以外の指先に触れさせない。「……」

幻の名で彼の境界に近づくもの。「……」

たとえそれがどれほど優雅で、理にかなっていようと、切り落とす。「……」

記憶を齧る影がいるなら、その影の根を焼く。「……」

彼女の中の竜が、ゆっくり顔を上げる。牙は眠っていない。


「ねえ」彼女は明るい調子を繕い、灯籠の笠をそっと撫でる。「この笠、あなたは昨日『北』って言った。東から入ってきた星が、ここで休むようにって。だから、このままがいい」


「うん」アレスは迷いなく答え、笠の角に指を添える。「そうだ、東から来るものを迎え入れて、北で休ませる。それが呼吸を均す。忘れるはずがないのに」


「……」

彼の声がそこで途切れる。黙りは短い。「……」

だが、沈黙の中に嫋やかなひずみがある。「……」


エララは笑みを崩さない。たとえ喉の奥に黒い叫びが渦巻いていても。


「忘れないわ」エララは灯りのような声で言う。「私が覚えているもの。あなたの代わりに、全部」


「頼もしいな」アレスは苦笑を滲ませる。「私が忘れることなんて、ないはずなのに」


「ないはずのことが起きる夜もあるわ」彼女は柔らかく肩をすくめ、星の降る音を聞く。「ここは死の森の真ん中、理想通りの庭。代価が要らないなんて、誰が決めたの?」


「……」

アレスは答えず、指先で砂をひと筋引く。「……」

その線はまっすぐで、ひどく澄んでいる。「……」


彼の理想はまだここにある。だから、エララは笑う。笑って、心の中の刃を研ぐ。


「……シオン」

幻のシオン。名だけの影ではない。「……」

彼が理想のために払う代価を、あの影は理解している。「……」


だからこそ、そこを狙う。記憶は理想の土台だ。「……」


土台を崩せば、庭は砂になる。


「アレス」エララは呼ぶ。「終わったら、少しだけ、星を見上げよう?」


「仕事の星ではなく、ただの星を?」


「ええ。あなたが作った星と、空の星と、両方を」


「いいね」彼は笑い、熊手を置く。「少しだけ、ね」


「……」

少しだけでいい。彼が空を見る間、彼の横顔を見つめ、記憶を彼の中に縫いつける。「……」


名を繰り返し、配置を語り、呼吸を合わせる。「……」


彼が忘れても、彼女が覚えている限り、庭は崩れない。崩させない。


「……」

エララは灯籠の影から一歩踏み出し、彼の肩に触れない距離で足を止める。「……」


封じの音は静かで、星は降り続ける。「……」


精緻なものは薄く、薄いものこそ柔らかく強い。「……」

彼女はそれを、爪で、牙で、守るつもりだ。「……」


彼に触れる影を、すべて落とす。彼が忘れかけた名を、すべて言う。「……」

彼が迷った角度を、すべて正す。そのために必要なものは、何でも。


「終わったら、ね」彼は繰り返し、砂紋に最後の呼吸を与える。


「……」

星が一段と明るく降り、封じの内側で、夜が音もなく深くなる。「……」


エララはその深さを覗き込みながら、笑う。「……」

彼女の笑いは優しく、彼女の心は爪を研ぐ音で満ちる。「……」


彼のために。彼の理想のために。彼が忘れないために。「……」

あるいは。彼が忘れても、世界が彼を忘れないために。


「……」

扉が閉まる音が控えめに部屋へ沈み、内鍵が落ちる乾いた感触だけが、彼女の胸の騒ぎを律する拍子になる。「……」


火口の小さなランプに火を移すと、竜樹脂の甘い芳香が細い煙になって立ちのぼり、棚に積んだ古文書の皮革と紙の匂いに混じる。「……」


石造りの壁は夜の冷えを抱き、窓の外には、アレスの光幕が磨き上げたこの庭の星光が歪みのない面となって銀色の反射を送り込む。「……」

死の森がどれほど飢えた闇を蠢かせていようと、この小さな室内は彼の理想の延長として、秩序を保つ。「彼のために、彼のために、すべてが整然とあるべきなのよ」と、エララは呟く。「……気づいてしまった」と、その秩序が彼から欠け落ちていく微細な兆しを、誰よりも早く嗅ぎ取ってしまったことを、苦く噛み締める。


「……」

今日、彼は剪定用の小ナイフの刃を見つめ、ほんの一瞬、茫然と手を止めた。「……」


柄に刻まれた意匠は彼自身が選び抜いた曲線なのに、指が迷ったのだ。「……」


もう一つ、朝露の落ちる音に耳を澄ませるとき、彼が呼んだ花の名は、昨日まで愛でていた品種と一音だけずれる。「……」


気のせい、疲労、障壁の調律に費やした夜のせい。「……」

そう言い繕って笑ってみせた彼の唇の色が、余計に怖い。「……」

忘れるべきでないことが、縁から削られていく音がする。「……」


幻のシオンが遠巻きに仕掛ける揺らぎか、それとも、障壁維持そのものが彼の脳裏から細い糸を抜いていくのか。「どちらであっても、許せないわ」


「……これなら」

エララは机の上に布を広げ、竜族の古い記憶術に関する写本を並べる。「……」


鱗の薄片を幾重にも圧して作る竜写紙、竜骨の粉で練った墨、星落ちの夜に採った銀糸。「……」

すべて、彼女が幼いころから宝物のように集めてきたものだ。「……」


指先の爪で己の鱗の縁をかすかに削り、血の珠をひとつ落とす。「……」

竜の血は言の刃であり、封印を開ける鍵だ。「……」


古い文書の表紙に沈んだ痕跡が応えて、干涸びた歯の隙間から息を吐くような音を立てて開く。


「記綴術。記憶を縫う術。鱗匣。記憶をしまう匣。抱檻。魂に留紐をかける檻」と、唇の裏で唱える。「……」


文字は竜の古語で刻まれる。文化史で偶像として扱われるそれではない。「……」

血の温度、息の湿り気、声の置き方、すべてが鍵だ。「……」


ページを繰るたびに、彼女の部屋は古い洞のように暗くなり、紙の上の線が、彼女の中の何かと鳴りあって光る。


「アレスの記憶は、わたしのもの。わたしの宝。わたしの棲家」と、ほとんど聞こえない声で、その執着の芯を確かめるように呟く。「……」

彼の朝の紅茶に指を伸ばして味見した時のぬくさ、髪の一房が頬に触れた時の痒み、彼が庭の石を置く前に必ず目を閉じる癖。「些末に見える断片ほど、奪われるのが許せないの」「世界の端が崩れても構わない、彼の中の秩序だけは完全であってほしいわ」「彼に近づくもの、乱すものは、たとえ幻であっても、たとえ善意であっても、引き裂いて、喉を潰して、静かにさせるわ」「ただ、彼の穢れなき手に血が飛ばぬようにね」


「……」

目を伏せ、文献の記述を視の奥でほどいていく。「……」

竜族は記憶を宝と呼び、宝は外に置かない。抱く、飲む、焼く。「……」

焼くとは、息で焼き付けること。古い言い回しで「反響の息」とある。「……」


対象の息と、名と、痕跡を合わせて竜息で包めば、音で記憶が共鳴し、喪失の縁を固める。「……」


だが、対象の生命に負担がかかる。代価は術者に背負わせる方法も記される。「……」


受け渡しの盟。文字は煤け、読み取りにくいが、意味は取れる。「……」


名前、血の滴、夜の一刻、星の糸、そして「愛の名において」。「ふふ……どれほど古い文の書き手であっても、愛を要件に据える他なかったのね」


「当然でしょう」と、今度ははっきりと声に出す。「代価なら、わたしが払う。彼のかわりに。彼の代わりになれるものなら、何でも」


「……」

窓の外に目をやる。光幕の内側の空を横切る光の筋。「……」

障壁の縫い目のひとつが、外からの圧で張り具合を変える。「……」


森の影が、輪郭を曖昧にしてこちらを覗く。「……」

幻のシオンがどこかで笑っている気配がする。影は気配だけを送るのが上手い。「気のせいと切って捨てるには、十分に巧妙に、十分に遅く削っていくわね」「彼の障壁は非の打ちどころがないわ」「だが、完璧な状態を維持するための代価を、外側から見えないところで盗もうとするのが、幻のやり口ね」


「……こうして」

エララは紙に図を描く。「……」

星の糸で防壁の縁に小さな結び目を作り、そこに個人名を紐づけ、記憶の端を縫い止める。「……」


記綴の構図。さらに受け渡しの盟を重ね、縫い目から侵入する喪失を、自分の側で受け止め、焼き付ける。「彼が一歩踏み込むたびに、彼の中で剥がれ落ちるものを、わたしが拾うわ」


「……」

机の引き出しから、小さな箱を取り出す。「……」

彼の髪の毛を何本か、絹糸に巻いてある。「罪悪感などないわ」「あの日、彼が椅子の背にかけた外套から落ちたのを拾っただけだもの」「拾った宝をしまうのは竜の本能よ」もうひとつ、小さな布包み。彼の手袋の縫い合わせの時に落ちた糸屑。匂いはまだ残る。鼻先に近づけ、目を閉じれば、彼の皮膚の温度、脈の拍子、掌のしなやかさが蘇る。息が熱を帯び、舌の裏がじんと痺れる。落ち着け。これは儀式で、渇欲ではない。渇欲は後で満たせばよい。


「アレス」と、名前を呼ぶ。「……」

名前は鍵であると同時に刃でもある。呼び方次第で、切りつけも、撫で上げもできる。「あなたの記憶を、わたしの胸に縫いとめる。あなたの理想は、わたしが守る。邪魔をする者は、わたしが排除する。幻であろうと、影の仮面であろうと」


「……」

自分の腕に細い切り傷をつけ、血の珠を一滴、竜墨に混ぜる。「……」


鱗に走る痛みは、単なる合図だ。痛みを通して自分に言い聞かせる。「……」


これは甘い誓いではない。契約だ。筆を取り、竜写紙に最初の結びを描く。「……」

筆先が紙を擦る音は乾いていて、だが音の奥に低いうなりが背骨に伝わってくる。「……」


竜語の結びは音と図の両方だ。描きながら、彼の笑顔を思う。「……」

笑顔の輪郭が、今朝は半歩遅れた。彼が誰かの名前を呼ぶとき、響きが僅かに浅かった。「思いだせ、という声が彼の中に生まれ、その声が迷うのね」「迷いをなくすための糸を、ここから投げるわ」


「……」

受け渡しの盟の要件に目を戻す。夜の一刻。「……」

これは、彼の眠りの時間をあてがうべきだ。「……」


彼が眠る間、エララの息で彼の息を包み、反響させる。「彼の寝台に忍び込む?……ふふ」笑いが喉の奥で泡立つ。「忍ぶ必要など、彼は許すでしょうね」「いや、許すかどうかではないわ。するのよ」「銀の糸は準備する。名と髪は揃っている。残るは『愛の名において』ね」「彼に囁けばいいわ。『愛している』と」「十回、百回、耳に注ぎ込むわ。ふさわしい言葉を」「彼の理想を傷つけない穏やかさで、骨を焼くような烈しさでね」


「……」

窓の外で、封じの光がまたゆっくり流れを変える。「……」


死の森の奥から、獣の群れではない、音だけの笑いが届く。「……」

シオン。名を出すことが錆のように舌に残る。「幻の王が直接攻めてくるなら分かりやすいわ」「だが、彼は影の中で織物の端を解くのよ」「封じはその解きを即座に織り直すわ」「その織り直しひとつひとつに、代価が要るの」「織り手の神経が刷り切れていくわ。わずかに、わずかに」「今日の花の名のズレのように。明日の道の角度の疑いのようにね」


「わたしのほうが忘れればいい」と、独り言は自嘲に近くなる。「あなたの大切なものを、わたしが持っていればいい。わたしが全部覚えていれば、あなたが忘れても、わたしが囁いて戻せる。わたしの声で、あなたの中の秩序を、毎朝起こしてあげる」


「それは危ういこと。彼の自我にわたしが重なることを望んでいるのだと、自分でわかるわ」「だが、危うさは甘い。甘いものは毒よ」「毒は竜にとって保存の術でもあるわ」「……」

古文書の隅にあった注意書きが視界にちらつく。「……」

「抱檻を過ぎれば、対象の自由は尽く拘束となる。境を知れ」。「……」

境?彼女は笑う。「境を守ることが理想であると知っているわ」「だからこそ、彼の境は守るの」「彼の代わりに、境の外にいるものを焼くわ」「境の内側は、わたしと彼だけでいいの」


「……」

ひとつ、試しに自分の記憶を焼き付ける。「……」


彼の声で「おはよう」と言われた朝の音を選ぶ。「……」

筆で結びを描き、息を吹きかける。「……」


紙の上の結び目がわずかに凹み、空気の層が一枚、薄く貼りついたように見える。「……」


耳の奥に、音が残る。「成功ね。ならば、彼のための結びもできるわ」「道具に忍ばせ、寝息と合わせ、受け渡しの盟を組むの」「夜の一刻を、自分の血で刻み、彼の時間と重ねるわ」「翌朝、彼が庭に出た時、花の名が戻り、道の角度が正しく感じられるようにね」「彼が笑って『今日は冴えている』と言えば、わたしは何も言わずに頷くわ」「誰にも気づかせず、誰にも触れさせず、彼の行き届いた世界にわたしの影を溶かすの」


ふと、机の片隅に置いた小さな茶器に目が滑る。彼が先日、指で縁を弾いて奇麗な音を出した杯だ。「……」


唇を寄せ、ぬるく乾いた陶の感触に舌先を這わせてみる。「……」


そこにいた彼の味がするかどうかを確かめるのは、儀式でも、欲でも、どちらでも構わない。「……」喉に落ちていく空虚さが、胸を軽くする。「飢えを小さくするのは、術の精度を上げるわ」「冷静に……熱情は抑えず、しかし手元は狂わせない」


「今夜、始める」と「……」

言葉にして決める。言葉は竜にとって法だ。「あなたの寝台に行く。銀糸を張る。あなたの名前を、百回囁く。あなたの髪を結び目に含ませる。あなたの道具に結びを忍ばせる。あなたの喪失は、わたしが飲む」


「……」

指先に残る竜墨を布で拭いながら、エララは窓を開ける。「……」


冷たい空気が流れ込み、彼の庭の匂い。「……」

湿った苔、切られた枝の新しい樹液、石の冷たさ。胸に満ちる。「……」


この匂いが、彼の中の世界の匂いだ。「これを守るわ。幻のシオンがどれほど巧みに笑っても、わたしは笑わない」「笑うのは最後だけでいいの。彼の理想を壊そうとしたものの前で、わたしが笑うわ」「静かに、血の匂いを纏ってね」


「……」

遠く、防壁の縁で星が一つ、音もなく落ちる。「……」


星は砂の粒になって庭に混じる。「……」


彼の設えた庭は、落ちた星さえ秩序に組み込む。「彼の仕事は至高よ。だからこそ、奪ってはいけない。奪わせないわ」「……」

エララは机上の結びに小さく息を吹きかけ、紙の上の図形に自分の影を重ねる。「……」


夜はなる。彼女の孤独は、愛という名の炎で明るい。


「……」

白砂の弧が朝の光を撥ね返し、鏡のように静かな池の縁に淡い虹の縞が走る。「……」


アレスは膝を折り、その虹の帯に指先を滑らせて角度を確かめる。「……」


粘りのある風が、光幕の皮膜を梳くたびに生まれる光の揺らぎを彼は見逃さない。「……」

彼の視線は研ぎ澄まされた刃のようで、余計なものを切り落とし、ただ最も麗しい線を残そうとする。


「……」

ふと、その刃が鈍る瞬間がある。「……」


彼の肩がわずかに硬直し、灯籠の影と砂紋の関係を測る手が止まる。


「……灯籠の角度が……いや、違う。置いた覚えが」


「……」

言葉が宙で途切れる。アレスはすぐに無表情を戻し、淡々と灯籠の基台を回して影を整える。「……」


一分の隙もない所作。だが、止まった呼吸の一瞬を、エララは見逃さない。「……」

彼の横顔に触れた薄い翳りが、彼女の内側で冷たい棘となって根を張る。


「大丈夫、あなたの線は微塵たりとも歪まない」


「……」

柔らかく囁くと、アレスは砂に跪いたままわずかに顎を引く。


「風の癖が変わっただけだ。境界の外が騒がしい。夜半、森の奥で灰の匂いがしただろう。……音が、二重に聞こえる」


「……」

「二重に……」エララは視線を防壁の縁へ滑らせる。「……」


遠い木立の暗がりには、同じ枝が幾重にも重なって見え、鳥の羽音はわずかにずれて重なって聞こえる。「幻が現実の輪郭に重なり、糸の細い裂け目を作るわ」


「……シオン」

幻のシオン。名を思えば、微かな霜が背筋を撫でる。「……」


彼が織る幻は景に寄り添って、気づかれぬまま核心を侵食する。「アレスほどの目をも欺こうとするものが、この庭の皮膜に指をかけるのね」


「夕餉までには刈り込みを終える。縁の苔が伸び過ぎていた」


「……」

何でもないことのようにアレスは言い、白い袖口をひと撫でして微かな砂を払う。「……」

エララは頷き、指先で彼の髪にかかった朝露を拭う。「……」

冷たい滴が指を伝い落ちる。「……」


彼の髪は相変わらず夜の色だったが、その夜の端に、ごくわずかに色の名が遅れて届くような違和感がある。「……」


以前なら、彼は苔の緑に三つの名を与え、光の角度によって最適を選んだ。「……」


今日は二つだった。些細な欠落が、端正な表面に息を潜め始める。


「……」

彼女は踵を返し、庭の奥へと歩を進める。「……」


桜の葉に刻まれた虫食いのような幻の痕跡が、視界の端で複製と現の往き来を繰り返す。「……」

目を凝らせば凝らすほど、不規則な重奏が耳に絡みつく。「シオンは音の織り方が巧みだ、と古い伝承にあったわ」「ならば、こちらは沈黙で応えよう」「、確かに、彼を支える筋を一つ増やすわ」


「……」

庭の裏側、白砂の下に口を開く黒い石段へ、エララは滑るように降りていく。「……」

封じの内でもここだけは光が乏しく、冷たい苔の匂いと古紙の発酵した甘さが混じって鼻を刺す。「……」

竜族の古い書庫。扉は血を求め、名を問う。


「……」

指先に歯を立てると、鉄の味がする。「……」


滴る血を黒い石枠に触れさせ、「エララ」と彼女は幼い頃に与えられた最初の音を囁く。「……」

石が応え、重い息を吐くように戸が開く。「……」

中で眠る巻軸たちが、長い夢の続きを見ている気配がする。「……」


埃は手を伸ばして触れるほど厚く、足音が吸い込まれて消える。


「……これね」

一番奥、光がほとんど来ない棚に、皮膜のように薄い包みが一つ、竜紋の蔦で縛られている。「……」


触れた瞬間、包みが脈打ち、彼女の白い手の甲に鱗の模様が一瞬浮かび上がる。「……」


蔦は自らほどけ、無言の警告のように床に落ちる。


「……」

頁を開くと、黒い糸で綴じられた文字が、呼吸と同じ速度で収縮しているように見える。「……」


竜の古語は冷えた火のように目を焼く。書は語る。「……」


結界師は景の記録を己の中に持つ者であり、景はその記録を栄養として完成へと向かう。「……」

完成に向かうほど、記録は削られる。「……」


園丁は時間と名を削ぎ、代わりに景に名を与える。それが彼らの職能であり、呪い。


「代わりに担う者の記録を用いる儀がある」


「……」

頁の下から、乾いた舌のような声が滑り出す。「……」

書庫に住む影の精が、文字に宿った感情を舐める。


「竜姫よ、その頁は血の外へは出ない。読むものは己の名を削る。覚悟はあるか」


「ある」


「……」

エララは答え、頁を押さえた手に力を込める。「……」


汗が冷えて皮革に吸い込まれる。


「逆照の楔。対の心を鏡にして景の代価を跳ね返す楔。楔は封じの中心に打ち込まれ、結界師から吸い上げられるべき記憶は、鏡面で反転し、楔を打った者の心へと流れ込む。楔は名の半分と鱗の核を代価に作る。楔を打たれた者は、やがて輪郭を失い、薄い影となって境界に融ける。戻らない。名の半分を失ったものは、呼ばれず、呼べず、ただ季節の気配に似た存在となる」


「……」

言葉は冷酷に整う。だが、「……」

冷たさの底に、どこか湿った優しさがある。「誰かが、誰かの理想のためにこの術を書き残したのね」「それは負の遺産であると同時に、花の茎に巻きつく支えのようなものだわ」


「……」

喉の奥で、小さく硬い何かが転がる。「……」


エララは指先を見る。すぐそこに、薄い透明の鱗が一枚、皮膚に溶けている。「……」


竜姫の核に最も近い鱗。折に触れて痛んでいた場所だ。「……」


名の半分。呼ばれたい名と、呼ぶための名。「……」

アレスに囁かれるようになってから、それらは柔らかい音で彼女の中に根を伸ばした。「半分なら、与えられるわ。半分なら、彼は手を伸ばせば届く場所にいるままでいられる」


「愚かな術だ」と影の精が笑う。「全てを削ってなお、景は光を食べる。お前は庭の露になる」


「露でいい」


「……」

声が低く、よく磨かれた刃の背のように静かだ。「……」


防壁の外の音が、ここまで届いたのかもしれない。「……」

遠い方角で、地を叩く乾いた軍靴のリズムが、書庫の空気に微かな皺を作る。「……」


魔王軍が森の縁で隊列を組む音。「……」

幻のシオンが、それを覆う薄絹のような幻でこちらの目を絡め取る。「音は二重に、三重に増幅され、やがて意味を持たなくなるでしょうね」「そのとき、アレスの目の前に立つものが絶えず美であればいいわ」「彼の思考が純粋な曲線だけで満たされているのならばいいの」


「……」

彼女は頁に記された手順の響きを、心の中でなぞる。「……」


楔を打つ時刻、星の位置、防壁の中心が最も薄くなる瞬間。「……」

詳述は古語の抽象に包まれていたが、理解できないものではない。「必要なのは、決意と、名と、核の鱗。そして、静けさ。アレスに気づかれぬ夜ね」


「彼が失うものは、わたしが持てばいい」


「……」

吐息のように言葉が落ちる。「……」


声は書庫の石に吸い込まれ、返ってこない。「いいわ。返ってこないことに慣れていく練習になるもの」


「……」

書を包みなおし、蔦紋に指先を押し当てると、蔦は一度だけ生き物のように震え、また眠りの姿勢に戻る。「……」


暗い階段を昇ると、光が彼女の視界に溢れ出す。「……」

白砂、柘植、刈り込まれた樹形。庭の空気はわずかに冷たく、甘い。「……」

アレスが池の上に座して、波紋の心を覗き込む。「……」

彼の肩にかかる朝が薄く、彼の真下には寸分の狂いもない線で描かれた影がある。


「遅かったな」


「……」

彼が言い、振り向かないまま指先で波を消す。


「少し、古いものを見ていたの」


「古いものは、たいてい形が良くない」


「形が悪くても、骨があるものは嫌いじゃない」


「……」

短い会話が、日向の中に吸い込まれていく。「……」

エララは彼の背中に目を落とし、その線を心に焼き付ける。「いつか薄れてしまうものを、今、強く焼き付けておくわ」「彼が『また明日』と言うとき、彼の明日が確かであるようにね」


「……」

幻が、縁の向こうで草の色を借りて笑った気がした。「……」


幻のシオンの糸が、風の隙間に編み込まれる。「……」


エララは目を閉じ、呼吸を静める。「楔を打てば、風は彼を欺けなくなるわ」「代わりに、自分の中で風が音を失うでしょうね」「自分の名を呼ぶ声が、いつか完全に遠のくかもしれない。それでも……」


「ねえ、アレス」


「……」

彼は振り向かず、「何だ」と答える。


「あなたの庭は、いつも、至高ね」


「まだだ」


「……」

薄い笑みの影が彼の頬に乗る。「至高はいつも、少し先にあるのね」「彼のその信仰に似た執着が、彼自身を削っていることを、彼はまだ自覚していないわ」「気づかないでいてくれ」とエララは思う。「気づかないこともまた、美の一部だから」


「……」

日が傾き始め、防壁の皮膜に夕の色がかすかに落ちる。「……」


シオンの幻がそれに別の色を足そうとする前に、エララは静かに歩みを返す。「夜は長いわ。星が升目を作り、庭の中心が一瞬だけ薄くなる刻を、わたしはもう把握している」「備えるべきものは揃っているわ」心の中で、自分の名を割り、半分を包み、半分をアレスに残す練習を始める。どちらの半分が自分を自分たらしめているのか、その問いはもう意味を持たない。


「……」

彼の理想のために、露になろう。「夜露は朝に消えるが、朝はまた来るわ」「消えることに意味が与えられるのなら、消えることは敗北ではないの」「彼の景が、魔王軍の靴音に踏みにじられず、幻の糸に絡め取られず、ただ澄んだ線と影だけで満たされるのならね」


「……」

エララは、夕焼けの縁で、そっと笑う。「……」

薄い棘が、胸の奥で花になる。「……」


彼女の決意は、暗く、純粋で、透き通る。「……」

彼女はすでに、自分の影の輪郭がほんのわずかに薄くなった気がしたが、それは風のせいかもしれない。「そんな微かな兆しさえも、彼の理想の前では甘美な代価に思えるわ」

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