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第2巻 第2章 魔王軍四天王の偵察(2)

「……屈折率、東第三層が甘い。〇・〇二から……いや、〇・〇二五下げる」


白い石畳の中央で、アレスは足を止めた。右手の指先が空を撫でるたび、銀の糸めいた線が幾筋もほどけ、また結び直される。朝の光が触れれば虹が砕け、薔薇の花弁と噴水のミストに細かく散った。芝の露は一滴ずつ規則正しく転がり、軌跡が揃う。


「光の透過がわずかに鈍ると、赤が鈍色に寄る。噴水の抛物線も狂う。黄金比から髪の毛一本ぶれるだけで、景色は別物になる」


誰に向けるでもない独り言。指は緩やかに空をたどり、編み目を押さえる職人の癖が出る。


結界の外は腐臭と紫のもや、黒い幹が空を割り、風が肺を刺す。内は別世界。澄んだ空気と葉擦れ、水の粒の音、常春の温度。花の色は互いを傷つけない距離に置かれ、白と青と紅と紫が視線の流れに沿って立ち上がる。どこから見ても古い聖画の構図のようで——偶然ではない。


壁なら誰にでも作れる。だが彼は、現実の輪郭そのものに触れようとしている。


アレスの横顔は冷たい彫像めき、光が肌の上で薄く跳ねる。睫毛の影が頬に落ち、瞳は庭の細部を舐めるように追った。花の向き、影の濃淡、石の目地の間に走る光の線。欠けた音は許さない——彼の耳は、風が枝先を撫でる際に生まれる低い和音の僅かな濁りにさえ反応する。


回廊の柱の陰から、その手つきを一つも取り落とすまいと見ている影がある。竜姫エララだ。黄金の眼が微動だにせず、彼の指を追う。瞬きさえ惜しむように。


空気の匂いは水と草と薄い日向。彼の吐く息が手前でほどけるたび、エララの胸は静かに上がり下がりした。世界は背景。中心は一人だけ——彼が立つ、その一点。


「……朝の調整、ひと区切り?」


柱の影から一歩、靴音を吸う芝へ。エララは白磁のカップを銀盆に載せて近づいた。揺れる琥珀色。湯気には高山の花の香りと凛とした渋み。茶葉は彼の舌に合わせて選んだ。遠い山へ赴いた夜を思い出し、指の関節が少し疼く。嵐の稜線、毒の沼地、風の切っ先——だが彼の口元へ届くなら、それも甘い道になる。


「いい香りだ。ありがとう、エララ。東の微調整は終わった」


アレスの張り詰めた気配が、ひと呼吸ぶんだけ緩んだ。椅子に腰を下ろす所作も無駄がない。カップの取っ手に触れ、唇へ運ぶ角度と速度が美しい軌跡を描く。液面が振動し、細い輪が広がった。音まで心地良い。


「温度も抽出も完璧だ。君の手から出るものは、いつも誤差がない」


「光栄です。お好きな時間に、望まれるままをお出ししたくて」


エララは微笑む。頬の筋肉は柔らかい曲線を作り、唇の端が静かに上がる。その背の空気に、目に見えない霜がひそかに降りる——盆の縁が一瞬白く曇って、すぐ消えた。


「外の層、昨夜は動いたな。瘴気のうねりが少し派手だった。眺めの濁りは避けたい」


「外はざわついています。けれど、こちらは無風。表面で溶けて、内には入れていません。もし……指を伸ばす者があれば」


エララはスプーンの裏を軽く指で弾いた。薄い金属音が、どこか遠くで氷を割る音へ変わる。笑みはそのまま。


「庭に影が落ちる前に、片づけます」


アレスは小さく頷く。


「頼もしい。四天王のひとりだという『幻影のシオン』が近いそうだ。精神に触れる手を使うのなら、こちらの層に干渉されないよう織り込んでおく。君の感覚にも違和は?」


「今のところ、私の内は静か。竜としての気も荒れません。万が一、目に見えない針が入り込もうとしたら——気付けます」


二人の時間は、穏やかな朝の光の中に満ちる。噴水の粒子が太陽を受け、短い虹の弧を束ねる。アレスは紅茶の香りを吸い込み、目を伏せた。


「昨日の夕食、どうでした?」


エララは何気なく問いかける。いつもの給仕の延長の声。テーブルに置いた指はほどけ、爪は布地に触れない。


「白身魚の香草焼き。岩塩を控えて、代わりに柑橘を強めに。アスパラガスのソテーと、赤パプリカのマリネを添えました。お皿の余白は……三度直して」


アレスの手が止まる。カップの縁に光が走り、反射が彼の瞳に短く宿る。


「……白身魚?」


その一言には、味の記憶を拾い上げて楽しむ気配がない。純粋な疑問があるだけだ。


「はい。昨日のメイン。お好みに合うよう、塩を一粒分だけ減らしました。柑橘の酸味が輪郭を作るはずで」


「……」


アレスは首を傾げ、眉間に細い線を作る。視線が空を彷徨った。掴もうとした布が指の間からするりと抜けていく、あの感触。白い指先がテーブルの縁をとん、とん、と叩く。複数の術式を頭の中で組むときに出るリズムだ。


「おかしいな。昨日の夕食が……何だったか、出てこない」


庭の静けさが別の色に変わった。水音が一瞬だけ遠くなる。


「え……?」


思わずこぼれた声。エララはすぐに笑みを整える。


「眠気の残り、ですか? 昨夜は東の層も西の層も、動きが多かったでしょう」


「そう、だな。思考に深く潜りすぎたのかもしれない。君が用意してくれたものを忘れるなど、私らしくない。すまない、エララ。次はきちんと味わった記録を残そう」


アレスは自嘲めいた呼気をこぼし、紅茶をもうひと口。苦みと香りが舌に広がる。


エララの背の内側へ、冷たい針が一本刺さる。抜けないまま、ゆっくり沈む。


昨日の光景は鮮やかだ。白身の身が刃に沿ってほどけ、柑橘の香りが立ち上がる。アレスの手がナイフとフォークを扱う角度、口に運ぶまでの時間。言葉も憶えている——「酸味が絶妙だ。色の対比が印象派を思わせる」と。彼は微笑んだ。彼女は見た。


なのに、今、彼の内側からその時間が抜け落ちている。穴が開いて、風が通る音がする。


「……本当に、何も?」


「申し訳ない。断片すら拾えない」


謝罪は簡潔で、嘘はない。アレスの目は真っ直ぐだ。冗談を言う気配も、取り繕う気配もない。


エララはほんの短い吸気を胸に入れ、口角をさらに穏やかに上げた。


「では、今夜は似たお皿を。昨日より、ほんの少しだけ柑橘を強く」


「任せる。君の感覚を信じている」


その言葉が胸に落ち、底で丸く転がる。甘い。けれど、今は別の味が混ざった。


(度忘れ、ではない)


思考がひらめきの速度に上がる。彼の身体に異常はない。皮膚の温度、呼吸の深さ、魔力の流れ——どれも揺れがない。毒の気配も呪詛の匂いも拾えない。


ならば、原因はここにあるのかもしれない。この広がり。死の森と切り結ぶ透明な膜。常春の空気、花弁の位置、風の和音。すべてを一人で支える巨大な網。その維持に、魔力以外の何かを差し出しているとしたら。


(……記憶)


背骨の内側を、冷水がゆっくり下りていく。ここを守る代わりに、彼自身の昨日をひと口ずつ削っている——そう考えるのが、一番辻褄が合う。


「エララ、どうかした? 顔色が」


アレスが覗き込む。声には優しさが浮いている。


「大丈夫。少し、考え事を」


エララは笑顔を保ち、膝の上の布を撫でた。指先は見えないところで布を握り、爪が掌に沈む。微かな痛みが、現実の輪郭を確かめさせる。


(このまま進めば、どうなるの)


昨日の夕食が消えた。次は、花の配置? 光の入射角? 結界の編み目? 彼が愛したものの名前を忘れ、やがて、それを愛していたことすら忘れるのか。最後の最後に——私も。


呼吸が浅くなる。だが、笑みは崩れない。視線が揺れない。


「『幻影のシオン』の術は、精神に触れると聞きます。外からの刃でないのなら……内部から削るような仕組みを、誰かが置いた?」


「外部の介入痕は見えない。ここは私の層で、私の式で動いている。だが、維持にかかる負担の形が、思っていたものと違ってきているのかもしれない。最近は、光の方程をいじる時間が長い。細部の収束に手をかけすぎたか」


アレスは小さく息を吐いた。指先が宙に回路の断片を描き、すぐにほどける。


エララはうなずきつつ、彼の手首に視線を落とした。薄い皮膚の下で脈が打つ。規則正しく、静か。


「負担を分け合えたらいいのに」


囁くように言い、彼女は手を伸ばしかけて、途中で引っ込めた。代わりに、ティーポットにそっと手を添える。ポットの腹に彼女の体温が移り、金属の冷えが薄くなる。


(全部忘れたら——)


思考が暗い方へ傾き、足場が消える。底へ落ちる前に、彼女は自分で綱を張った。


(……それでも、私が側にいれば)


彼が歩けなくなれば、肩を貸す。手を伸ばせなくなれば、代わりに取る。思い出せなくなれば、耳元で一つずつ囁けばいい。新しい名前、新しい喜び、新しい世界。彼女が選んだものだけで満たす。誰の足音も入らない場所で。


背筋を這う炎が、すぐに消えず揺れ続ける。笑みは穏やかなまま、目の奥だけがなる。


「シオンの件は、昼食後に対策を詰めよう。精神層の防壁を一段、別の位相で重ねる。簡単な問いを用意し、互いに確認し合うのもいい。一日の終わりに、何を見たか、何を食べたか、誰の名前を呼んだか——短く」


「良い案。今夜、私から先に。……昨夜も、私が何をお作りしたか、またお話しします」


エララは声を和らげる。語尾にわずかな揺れを乗せた。


「それと、昼は」


アレスは少しだけ明るい表情を取り戻す。


「君のキッシュが見たい。理想的な円と、表面の金。あの香りが、無性に恋しい」


「承りました。パイの層は薄く、空気を抱かせます。焼き目は蜂蜜と卵で調えましょう。午後の紅茶も、少し香りを変えますね」


彼が微笑む。その笑みは無防備で、残酷だ。知らずにいることが、時に刃になる。


「そういえば、外の森。『幻影のシオン』はどのくらい近い?」


エララが話題を戻す。


「北東。二つの丘の向こう。目に見える影は送ってきていないが、噂と足跡はある。精神に干渉するなら、直接こちらに触れず、外縁で揺らすだろう」


「外縁は私が歩きます。気配を拾うのは得意。……戻るまで、扉は閉じておいてください」


彼女は笑って、カップの縁に指を添えた。温度を確かめ、ソーサーへ戻す。その瞬間、彼女の背後で薄い霜が床に降り、朝の光に溶けた。


「君が行くなら、私はここを整える。光の角度と風の道を。戻ったら、紅茶だ」


「約束です」


短い言葉の間に、たくさんの意味を編む。二人のやり取りは細い糸で結ばれ、ほどけにくい結び目を作る。


庭は美しい。噴水の水音は透明で、花の香りが層になって漂う。枝は風に合わせてさざめき、石畳の影は清潔に伸びる。だが、その裏側で、見えないひびがひっそりと生まれた。


ひびの音は、誰にも聞こえない。今はまだ。


エララは立ち上がり、盆を持つ手をわずかに強くする。銀の縁が掌に食い込み、薄い跡が残る。それでも笑う。


「アレス。東の第三層、〇・〇二五。さっき仰っていた調整、もう一段階?」


「そうしよう。光の縁のぼやけが気になる。薔薇の赤が深く沈む瞬間の色を、正確に出したい」


「だったら、噴水の角度も合わせます。水の粒、もう少しだけ細く」


「任せた」


短い合図。呼吸が合う。彼は指を上げ、空に二本の線を引いた。薄い音。線は柔らかく曲がり、庭全体の輪郭を撫でる。


「……うん。今はこれでいい」


「今は」


エララが繰り返し、その言葉に小さく笑う。


会話は途切れ、静けさが戻る。アレスは紅茶を飲み干し、立ち上がった。光が袖口で跳ねる。エララは一歩下がり、道をあける。


「昼までに戻る。キッシュ、楽しみにしている」


「すぐに」


彼は歩き出す。淡い香りの中を、一定の速度で。エララの視線はその背にまとわりつき、離れない。肩の線、首の後ろに落ちる一筋の光、靴底が芝を押す具合——どれも宝物。


(もし全部、忘れてしまっても)


心のどこかが囁く。甘い毒の声。彼が何者で、何を愛し、何を拒む人だったか。そんなこと、世界は忘れてもいい。私だけが知っていれば。


(私が全部、教える)


盆を抱え直し、エララは磨かれたテーブルの上を指で拭った。目に見えない埃を追い、角をなぞる。その手つきはやわらかく、どこか祈りに似ている。


死の森は相変わらずうねり、遠くで何かが吠えた。結界の膜に紫の瘴気が触れ、触れた端から消える。庭の内側は静か——完璧に。だが、その完全さを支える代償は、確かにどこかで支払われ始めている。


昼の光が高くなる。アレスは東の区画へ。エララは厨房へ。キッシュの生地をまとめながら、彼女は思う。焼き上がった円と金の面を、彼は今度、ちゃんと覚えていてくれるだろうか——それとも、夜にまた、短い問答の時間を過ごすのか。


「……どちらでも、構わない」


誰にも聞こえない小声。言葉の端を、オーブンの温度計が反射して光らせた。庭は今日も美しい。水は歌い、花は息をする。そして、その美の底で、静かな崩落が胎動する。気づく者は少ない。


彼女は微笑む。背後で、薄い氷が一枚、音もなく生まれて消えた。

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