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第2巻 第1章 広がる亜人たちの街(4)

朝の光が結界の膜を抜けると、角度がひと呼吸だけずれた。磨いた石畳の目地に、薄い銀が線のように宿る。靴底が砂粒を踏む音は乾いていて、同じ間隔で鳴る。南東から風。昨日、調整した弧が少し緩む、とアレスは鼻先の温度で判断した。死の森の黒い樹皮は、ここから見れば額縁に似た輪郭だけ。庭は閉じている。閉じた中で、選び取った美の粒だけが並ぶ。


石畳の終端で膝を折り、指先で空をなぞる。見えない糸が指に絡み、軽く引くと、相位の連結が琴線みたいに震えた。震えは四方の節点に伝って、呼吸のように淡く明滅する。最初の一滴が水面に落ちるときの広がりに似た均衡。風紋は鱗の重なりめいて、無音で曲線を奏でる。歪みは音ではなく、舌の裏の圧でわかる。


「朝の手順、もう一巡りするの?」背後からエララ。甘さのある香りが寄る。花の透きと鉄の匂い。火を吐く直前の竜の喉奥みたいな湿り。湯気の立つ杯を二つ片手に持ち、彼の横に笑みを置いた。


「南東の弦が緩む。締め直す」


光の角度が乱れるのを嫌って、アレスは半歩ずらす。絡め取った結界糸が一瞬だけ、耳の奥で濁る。


「境界の向こうに黒い旗が見えたかもしれないの。低い湿った足音も聞こえた気がして……火で片をつける?」


笑い声の奥で、エララの犬歯が光をかすった。


「視覚ノイズだ。触ると波が立つ。眺めが荒れる」


「あなたの望む形にする。けれど、あなた以外の眼がここへ触れるのは、好きじゃない」


「ここは私の線で閉じた世界だ。余計な手は入れない」


言い切ると、空間の流れが声の形に寄る。エララは顎に力を込め、掌の下で竜の血がひとつ脈打った。


「なら、わたしはここで待つ。邪魔にならない場所で」


彼女は視野の外縁、木漏れ日の縁取りに座る。杯から立つ湯気は細い渦。太さが一定で、白い層が空へ消える角度が美しい。アレスは視線を戻す。結界の屈折率をわずかに削り、磨く。


小川は、決めた一秒に四つの波形で石に触れる。草の穂が風を迎えるとき、影は護符みたいに地面へ落ちる。水の音が一音低いとわかり、川底の石組みに新しい隙を直感。指を鳴らす。透明の板が小石ほどの大きさでいくつも現れ、水の中で重なっては離れ、稜線をそろえる。香の配列も直す。ミントは朝の五歩目と九歩目で香り、朝露の味は舌の奥で淡く消えるだけにしておく。


死の森の輪郭は灰の波みたいに動かない。枯れた枝の影は結界膜に触れると、硬い黒から和紙の灰へ質が変わる。境界の縁で揺らめく蜃気楼を見て、アレスは湿度の偏りによる揺らぎだと心内で整える。幻に名前を与えない。名前は形を持ち、形は侵入する。


「ねえ、聞いた? 四天王のひとり、影を使って遠くを見るって。幻影の、シオン」


エララは噂話の端に棘を忍ばせる。アレスに触れる可能性がある事柄は、彼女の掌に載せられる。


「噂は波だ。境界に寄せれば消える。ここは――」


「あなたの庭」


彼女が継ぐ。伏せた瞼の薄さ、睫毛の影の長さまで、アレスは角度で受け取る。微笑むように息を整え、次の節点へ指を伸ばした。


交差節点は朝露を集めた蜘蛛の糸に似て、力のかけ方を間違えると全体の張りが変わる。左の人差し指で空間の角を撫で、右の指で小さく円を描く。膜は呼吸する。遠いところで、音のない正午の鐘が骨へ響いた気がした。


光の粒が埃のように漂うのが見え、ふっと屋根裏の午後を掴もうとした。夏。熱い屋根。埃の粒に名をつける遊び。名をつけると、粒の流れが遅くなり、別のものに見えた。あのとき、何と呼んだ?


舌に言葉が乗らない。砂が歯に当たるみたいな違和感が口内を走る。語尾が棚の角で引っかかる感覚。思い出せそうなのに出てこない。輪郭だけはある。光、熱、手のひらの汗の匂い、屋根裏の樹液の甘いにおい。それなのに、その遊びの肝心な名前だけが薄膜の向こう。


「アレス?」


近づく声。彼女は顔色の変化を嗅ぎ取る。手の甲が手首へ触れ、体温が滑った。


「……少し、間が空いたの。寒い?」


「いや。些末だ」


結界へ視線を戻す。些末と言葉を置けば、石は石へ、水は水へ帰るはず。次の動作へ移ろうとして、指がほんの少し遅れた。表面は乱れない。だが、内側に、小さな汚れのような気が残る。


「誰かが何かした? 外から?」


声に、火の鉤爪が隠れる。


「誰も入っていない。入れない。……たぶん」


「たぶん?」


彼女の視線が肩に落ち、無言の問いがなる。アレスは首を振った。


「私の内での些細な引っかかりだ。昔のことを思い出そうとして、言葉が出ない。子どもの頃の、どうでもいい遊びの名前。そんなものは溶ける」


言うと、言葉は重さを持たず散る。その軽さが逆に気になる。粒へ名を与える行為は、今の結界の織り方に繋がる最初の『名付け』だった可能性。内側で、表面張力を破らず浮いていた思考の泡が、音もなく弾けた。


「忘れる必要のあるものなんて、ひとつもないの」


エララは言い切る。手首から離れない。彼女にとって、彼の頭の中の変化は外敵と同じ。排したい対象。


「忘れて軽くなることもある」


「軽くなりすぎたら、風で飛ぶ。ここにいて。……わたしの庭――いいえ、あなたの庭に」


言い直す。柔らかさと硬さが混じる視線。


アレスは彼女の手を軽く払い、川の音へ耳を澄ました。木の葉の重なりが作る影を修正し、砂利の一粒を爪先で整える。風鈴の間隔が一瞬乱れ、四方の柱に結んだ梵字の一つを撫でる。波は整う。整えるほど、内側で微小な鈍い音が続く。


屋根裏の名前が出ないなら、別の引き出し。幼い頃に紙舟を流した川の名。白い紙舟はすぐにひっくり返った。だが、ひっくり返る瞬間の光の反射が端整だと感じた記憶はある。川の名は。音の破片が口の中でくっつかない。


眉間のしわを抑え、唇だけで笑みを作る。結界の内側は一分の隙もない。一分の隙もないなら、内側の欠けは目立たない。誰にも見えない。自分にも。


境界の外で灰の空気が揺らめいた。熱か、幻か。見ないふりは得意だ。けれど、見ないふりと見えないは違う。違う、と自分へ言い聞かせ、次の節点へ手を伸ばす。小川の波は変わらず一秒に四。風は決めた弧で頬を撫でる。指は決めた通りに動く。記憶も決めた通りに――動く。……はずだ、と考えた瞬間、考えに触れた指先が冷たかった。


風は規定の弧で頬を撫で、草の影は測った角度で落ちる。整う。整列の列の中へ一粒、背丈の合わない影が紛れ込んだ感触だけ、首筋に冷やりと残った。


アレスは歩調をあえて崩し、砂利の音の間隔を乱してから戻す。いつもやる。乱れを自覚的に作り、それを整えることで、感覚と結界の整合を確かめる。今日は、整える行為そのものが、薄いガラスの上を歩くみたいに神経へ刺さる。


「ねえ、少し休まない?」エララがベンチの背から身を乗り出す。片手をひらり。もう片方の手には小さな包み。薄い布に包まれた角砂糖みたいな樹蜜の菓子が光を吸う。


「休むほどの仕事じゃない」


「そうかしら。あなたの視線、いつもよりひと呼吸分戻ってこない」


布をほどく。琥珀色に固めた蜜の中に、小さな花弁。輪郭が鮮明で、胸の奥が鈍く重くなる。指でひとつつまむ。表面は滑らか。気泡なし。角のエッジはわずかに丸い。舌へ。縁から溶ける。甘い。花の香りが透明な膜になって広がる……その先に来るはずの「重み」がない。甘さの奥の、ほんの焦げの苦み。それを舌が待つのに、来ない。そもそも、それが本当にこの菓子の特徴だったのか、自信が崩れる。


「どう?」


「甘い。設計の精度は高い。だが……」


「だが?」


「これは、私が好きだったものと同じか?」


言葉が、痛みになる。花弁が舌の上で影へ変わる。輪郭だけ、空洞。眉間にかかる見えない糸を指で払うように視線を落とす。


「あなた、これが好きだと言った日を覚えてる。雨の前で、空気が重くて、濡れて帰ってきたあなたが、水たまりの形が綺麗だって笑ってた。覚えてない?」


「……雨?」


別の引き出しを開ける。障壁術の基礎を初めて習った日。師の影は覚えている。石室の冷たさ、膝に触れた砂のざらり。指を重ねる順序、相位の合わせ方。耳元の言葉の韻律。「名付けることは輪郭を与えることだ。輪郭は秩序で、秩序は安定だ」。リズムは骨へ染みている。だが、窓の外は曇天か晴天か。風はどちらから。空気の温度。肩に乗った埃の重さ。曖昧。


可能性を並べ、一つずつ消す。曇天なら光は柔らかく、石肌は青へ寄る。晴天なら光は鋭く、影は硬い輪郭。記憶の影は――どちらでもない。色を吸わない灰。輪郭だけ露出して、質がない。質を決めるはずの天気が抜けている。


「どうでもいいことだ」口内で落とす。声にすれば、重い石は少し軽くなる。重要なパラメータは他にある。風の弦の張り、香の流れ、光の屈折。幼い頃の空の色は今の整合では枝葉。


「どうでもよくない」エララはすぐ反駁。「あなたの内にあるものは、どんな枝でも切られたくない。誰が切るの? わたしでも、あなたでもない」


「誰も切っていない。切れていない。私の管理下だ」


言葉が硬すぎる。硬さはひびの仮面だと知っている。菓子を舌の裏で押し、甘さの形に「馴染む」を探すようになぞる。記憶の中の「好き」はもっと鈍い色。子どもの舌は敏感だったか。いや、寒さや孤独や空腹が混ざって別の味になっていたのか。


庭の東端へ視線。薄い霧が朝と昼の境を作る。霧の粒の均一性はほぼ理想。ほぼ、に揺らぎ。膜に沿って流れる筋。外の空気が膜の表面を撫でる。


「幻影のシオンが目を向けてるのかも」エララの声が低い。「ああいうのは、見たくないものを見せたり、見えるはずのものを隠したりする」


「幻は名を与えなければ境界で解ける。ここでは解ける」


「なら、あなたの口の中の空白にも、名はある?」


透明な刃の問い。答えず、次の節点へ触れる。節点は正しい音で震える。手は正しく動く。秩序は在る。敷く者は内側の地図を持つ。余白は慎重に保つ。余白が広がるのは美。けれど地図から町の名がひとつ消えるのは、美じゃない。


脳内の地図へ目を凝らす。初めて練習した庭。土の色。夕方の陽の差す向き。影はどの木のもの。稽古の後に師がくれた砂糖菓子の舌触り。甘さが言葉の意味を解きやすくした、と当時の自分が理解したこと。砂糖菓子は四角か丸か。角を舐めて尖りがなくなる感覚が好きだった気がする。角は最初からなかったのかもしれない。どっちだ。


「アレス」エララが肩へ顎を乗せる。髪が頬をくすぐり、竜の血の香りが息に混ざる。「もし誰かがあなたから、ほんの少しを持っていったなら、わたし、喉を焼いてでも取り返す」


「誰も入っていないと言った」


「相手がいなくても、空に向かって火を吐けるの」


荒唐な献身に、笑いそうになって笑わない。彼女の暴力性は秩序の上でのみ許容される芸。内側の小さな空隙は、火では埋まらない。


水の流れへ視線。石へ触れるリズムは決めたとおり。もしこの森のために、自分の記憶のいくばくかを支払いとして差し出していたとしたら――そういう考えが浮かび、否定する。封じの構築と維持に必要なのは術と意志、少量の魔力の流れの管理。記憶ではない。だが、名付けは内側の辞書に支えられる。言葉の背後には体験の層。そこから薄く一枚、紙が剥がれたような感覚。


庭の中央の円形広場へ出る。風は回り、音は反響し、全体の調和が見渡せる位置。目を閉じ、耳を四方へ開く。左から竹の葉擦れ。右から水。後ろから、エララの呼吸。上から、膜が日光を撥ねる微かなきしみ。下から、石の冷たさ。申し分のない環。そこへ、どこからともなく「欠落」という文字がぶら下がる。ぶら下がっているだけ。落ちない。結びつかない。存在だけ。


「初めてあなたが防壁を張った日、遠くから見てた」エララの囁き。「夕焼け。あなたの背中が赤く見えて、自分を褒めるみたいに頷いて、空気があなたの形に沿って曲がって……綺麗だと思った。覚えてる?」


「夕焼け……」


言葉の輪郭に、色が乗らない。普段なら言葉と同時に色が出る。赤でも橙でもない、中間の光。今は輪郭だけが立って、色は薄い。指で空をなぞる。青いまま、手触りなし。


「記憶は輪郭が先に残る。色はあとから塗られる。逆も、ときどきある。今は、輪郭だけだ」


「塗り直せる?」


「塗り直しは偽りだ」


「偽りでも、あなたが目を奪うなら、それは真実になる」


論理の隙間へ、彼女の論理がすべり込む。目を開け、空を見る。膜は健在。死の森の黒は灰へ抑えられ、光は均一。均一。均一であることが、少し息苦しい。均一は揺らぎを隠す。わざと風鈴の一本の紐を短く結び直す。音が半音上がり、和音にわずかな差が生まれる。差は美を生む。差は欠落じゃない。


「休む?」エララが再び問う。


「いや。あと少し」


節点の確認を続ける。指先が触れて、膜が震え、音が返る。繰り返しの間に、別の試みをはさむ。幼い頃の家の扉の取っ手の感触。冷たい金属か、木の温もりか。刻まれた傷の並び。回す音。開くときの軽さ。菓子に使っていた小皿の色。白か青か。欠けの有無。師が飲んでいた茶の匂い。草か土か。思い出そうとする度に、棚のどこかで誰かが布をかけたみたいに、質感だけが消え、形だけ残る。布の上から撫でている。


「あなた、言葉を探すときだけ、眉が少し上に動くのね」エララが笑む。「初めて知る癖」


「癖は直す」


「直さないで。わたしにだけ見える印にして」


所有欲は甘い毒を混ぜる。否定は、光景を乱す。アレスは無言で頷いた。


遠く、障壁の外で鳥の鳴くような音が一瞬。ありえない。死の森に鳥はいない。瞬きひとつの後、音は消え、風の軌跡だけ。幻。音の幻は、記憶の空白に似て「あるようで、ない」。耳を閉じない。むしろ開きすぎる。世界は音の布になり、布はほつれを見せる。ほつれは繕える。内側の布に生じた穴は、縫い目が見えない。


最後の節点を調整し、手を離す。均衡が楽園全体へ行き渡る。風は弧を描き、水は正しい音、香は最適。至上に仕上がった瞬間、内側でに小石ほどの重み。取り除けと言われれば、容易に外せる。だが、それを外すとどこかの水面に小さな波紋が広がり、遠い岸が崩れる予感。


「終わった?」エララの声が肩口で柔らかく曲がる。


「終わった」


「じゃあ、わたしの番」


「何を」


「あなたの内側の敵を、名前で呼ぶ。輪郭ができるでしょう?」


息をふっと吐く。笑いか、空気か。首を横に振る。


「まだ敵と呼ぶほどじゃない。ひとつの、冷えた感触だ」


「なら、温める」


袖口へ指を差し込み、手の甲へ唇を置く。熱が移る。確かな現実。アレスは目をわずかに閉じ、重みを受け入れた。甘さの記憶が薄れても、この熱はここにある。今の秩序は確か。言い聞かせ、深く息を吸う。空気は決めた香の配列で肺へ入る。満ちる。……折り目の隙間に紙片が挟まった感覚。手を伸ばす。届かない。今はまだ。届かないまま、庭は凛とする。救いであり、微かな不快。


エララの熱は皮膚から内へ染みる。息のリズムを数え直し、意識の焦点をもう一段絞る。ずれていた風鈴の紐は所定の長さへ戻り、音は和音の中へ溶ける。ぶら下がっていた「欠落」の文字を指先ではじき、宙に漂わせたまま、足元の石の継ぎ目へ視線。世界を端整な列へ戻す。それが先。


「あなたの影が欲しい。東側、藤棚の下へ。三歩……いや、二歩左」


「アレス様、了解」


軽やかに動く。影は藤の葉の影と重なり、濃淡の隈取りを作る。隈取りを器にして、光の屈折を調える。影は刻限の器。器が美しくなければ、光は美しくならない。手のひらを半ばで捻り、膜に走る微小な波を吸収するよう手当てした。


「息を合わせる? 吸って四、吐いて六」


「今は三と五」


「あなたの決めるとおりに」


呼吸が庭のリズムへ寄る。脈拍が一定へ落ち着くと、香も柔らぐ。ミントと桂皮の流れをひと指ぶんずらし、風の渦で途切れないように蓮の鉢を斜めへずらす。水面が空の欠片を歪めず映す。映りすぎる鏡は現実を疲れさせる。歪みの角度を探し、ほんの微かな乱れを与える。乱れは秩序の一部。


「外の音、増えた気がする。わたし、塞ぐ?」


「塞がなくていい。膜は今、音を丸めて返してる。その丸みがここを柔らかくする」


「でも、目は丸みにも忍び込む」


「目には目のための面を用意する。ここでは、見えるべきものしか見えない」


境界の縁へ意識を伸ばし、外から吹く騒擾の粒を表面で斜めへ滑らせる。滑らせると、粒は音もなく減衰する。頭の片隅で、遠い鐘の底音が薄く溜まっては薄く消える。それを意図して見ない場所に置く。置き場所の工夫は、庭に限らない。心もまた配置で決まる。


白砂へ膝をつき、熊手で線を引く。線は等間隔。等角。曲線と直線の間、重心に近いところ。粒の大きさは揃うが、光の反射でわずかに違う箇所があり、そこに一本当てる。光は線に沿って流れ、砂は影の模様を持つ。線の終わりへ小石を置き、終わりの形が固まらないよう起伏を加えた。


「その小石、少し右。わたしの足が影を落とさない位置に」


「わかってる」


小石を親指の腹で押し、砂の上を音を立てず滑らせる。音が立つと線の意味が変わる。線は音を内側に含む。音を奪われた線は静謐で、弦でもある。


立ち上がり、小川へ近づく。肌理は整い、流速は一定。だが岸辺の苔が均一すぎると、水は疲れる。苔の一部を小さく剥ぎ、根の先へ空気を触れさせる。泡が小さく上がり、弾ける。弾ける瞬間、目を閉じ、光の屈折を音の高さへ変換して聴く。音は正しい。正しすぎる。微小な偏りを加える。偏りが水を活かす。


「きれい。あなたが触れると、生き物みたい」


「生きてる。息をしている」


「あなたも」


「私は、見ている」


会話は必要最小限。線の数だけ言葉を引く。エララはその筆を尊び、擦らないように空気へ指先を走らせる。髪が光の帯へ溶け、鱗の気配は皮膚の下へ引っ込み、牙の影は笑みに消える。彼女は庭へ溶ける術を持つ。溶けることは、支配と別種の支配。


東西南北の節点をまたぎ、封じの呼吸の高さを揃える。呼吸は一定じゃない。時間と光、外の熱で変わる。他者の気配が近づけば浅くなる。今は深さが要る。陽が高くなるにつれ、木々の影が短くなる瞬間を読む。影の縁へ柔らかい縫い目を足す。縫い目は目に見えない。見えないものを整えるのが仕事。見えないものは、見えるように決めることで形を持つ。


「さっきの菓子、もうひとつ? 甘さは手の中でどうにでもなるけど、舌って、うそが下手なの」


「今はいい」


「意地悪」


「管理だ」


微笑まず、香の流れの合間へ新しい薄い香を一筋加える。セージの葉を砕き、炭と混ぜて火をつけず、香るか香らないかの境へ置く。境は庭を広く見せる。香りは目に見えない線を描き、歩みを自然に導く。歩みが導かれれば、記憶の歩調も整うかもしれない。そう思って、すぐ思考を戻す。戻すべきは今ここ。


境界の外に濃い黒の柱。風にわずかに揺れる。揺れは本物。死の森の木は風を受けても音を立てない。その静けさが逆に音めく。その音を庭へ映さないよう、膜の厚みを一枚重ねる。重ねた瞬間、背へ布の端の染みが触れた気がする。触れて離れる。湿り気のせい、と判断し、歩を速めた。


エララが並ぶ。歩幅は彼に合わせて微妙に変わり、ぴたりと揃えず半歩だけずらす。ずれが二人の間に柔らかい波を生む。波は光幕にやさしい刺激。波を取り込み、庭の奥へ流す。


「今夜は焚き火を小さくする。煙があなたの星を汚さないように」


「星は今夜、出る」


「死の森の上にも?」


「ここでは、出る」


言葉は決定。世界は従う。宵へ向け、反射点を増やし、葉の縁から燐光が芽吹く準備。準備は未来の眺めへ軽く触る行為。未来へ手を伸ばすと過去が絡む。絡むはずが、今日は絡まない。結び目が見えない。それもまた置き場所を決め、横へ置いた。


エララはふと境界の外を一瞥し、唇の線を細くする。


「目が、外にいる。遠くで、こちらの輪郭を探してる」


「輪郭は見せない」


「見せるのは、わたしとあなたの輪郭だけ」


「それでいい」


宣言は庭の柱の一本になり、動かない。柱へ背を預け、息を整える。木目は端整。年輪の幅に季節の記憶が詰まるようだ。指で木目をなぞり、細さに満足する。満足は確かで、今ここにある。確かさの上に世界は積み上がる。歩みを再開し、最後の光の屈折を整える。


日の光は角度を少し変え、中央の水盤へ落ちて丸い光を三つ重ねる。重なりは予定どおり。風は南東から北へ薄く向きを変え、香は新しい曲線。音は整っている。靴音は乾いたリズムで遠ざかり、近づく。エララの影は藤の影と混ざり、新しい影を産む。


「瑕疵のない」エララが短く呟き、笑う。


「いつも、ではない。今が、だ」


「今は、あなたのもの」


腕へ軽く絡む。絡んだ指が脈へ触れ、速さがわずかに落ちる。落ちた速さの中で、内側の小さな冷えを見つめる。冷えは点。点は染みになりうる。白い紙の裏から透ける墨の点。まだ広がらない。紙は乾いている。乾いているのに、指先が滑ると、わずかな湿りを感じる。


目を閉じ、点を認める。同時に、それを「今」の外へ置く。置くことは捨てることじゃない。整えること。整えたうえで目を開き、庭を見る。眩い。美は誇りであり、盾であり、息。息をすると、香が肺を満たす。香の中に蜜の甘さが一筋混ざり、舌の奥へ薄い影。影は味じゃない。影は気配。気配が在ると知りながら、歩く。歩みは揺れず、足跡は砂へ淡く残り、風がすぐ消す。消えるのは足跡だけ。


「夜になったら、星をいくつ置く?」エララ。


「必要なだけ。数は決めない」


「数えないの? あなたが?」


「数えないことも、美だ」


夕刻へ向けた配列の最後の確認が終わる。障壁は呼吸し、閉じた楽園は生き、死の森は沈黙し、空は高い。高い空の底で、心のどこかの小さな染みが、広がらず、消えず、ただ在る。見ないではなく、見据えないでおく。選択は武器だ。武器を持つ手で庭の縁へ触れ、縁を滑らせ、世界を一枚の薄紙へ折りたたむ。


薄紙の裏に点がひとつ。小さく、静か。呼吸はない。けれど耳には、水の底から届く鐘の音めいたものが微かに宿る。気がしただけ。歩みを止めない。エララの体温を肩に受けたまま、夕暮れの準備へ没頭。光の角度、風の弧度、香の層。至上が戻る。一分の隙もないはここに在る。寸分の狂いもないへ重なるように、わずかな不安の影が薄く落ち、内側のどこかに留まった。

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