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第2巻 第1章 広がる亜人たちの街(3)

朝の光が、薄い膜を一枚くぐって落ちてくる。やわらかく拡散し、角度だけが鋭い。天蓋の縁にかかった金糸が細く光り、額縁の木肌に白い線を描く。大理石はひんやりと乾いて、指先を滑らせれば粉ひとつ付かない。ここでは光も空気も、余分を削られている。


「いい匂い……」


囁いた声は誰にも届かない。ベッド脇、エララは膝を揃えて座り、両手の指を絡める。つい手を伸ばせば触れてしまう距離に、アレスの寝息。胸の上下は浅く規則的で、薄い掛け布の起伏が波打つ。銀の髪が枕に散り、一本だけ頬にかかっている。眠っているときの彼は温度が低い。肌の白さが光を吸わず、代わりに室内の静けさを吸い込んで、返す。


エララは喉を鳴らしかけて、飲み込んだ。唇がわずかに湿る。突き上げる衝動で指先が震え、爪が掌に食い込む。薄い痛みとともに爬虫の血が目を覚まし、瞳孔が細くなった。ベッドの縁に落ちた彼女の影がわずかに揺れる。空気中、目に見えない水分が集まり、彼女の肩のあたりで霜のふちを作りかける。エララは気づくと微笑んでいて、同時に魔力を指先へ引き戻し、霜の輪郭を消した。ここには余計な粒子を残せない。


「ねぇ、ここだけは、息の音すら心地いいの。一歩外に出ると……血の匂いがするのに」


自分に言い聞かせるような声。脳裏では、硬い土を打つ鉄の響き、燃えた皮膚の焦げた匂い、湿りのある風。竜姫として走った地獄は、色と熱で蘇る。洗っても落ちないものが自分の手にこびりついている錯覚。彼の側にいると、その錯覚だけが静まる。氷菓のように澄んだ魔力の香りが、鼻腔の奥で形を変え、焦げを覆い隠す。


窓の向こうは、死の森。だが、この部屋に入った瞬間、世界は別の音になった。風の通り道が見えない線で敷かれ、布がふわりと鳴る。壁に掛かった風景画は遠い水音を思わせ、絵の中の雲はここでだけ流速を持つ。ここは彼の手の跡だ。余白が計算され、微風が調律され、花の香りは境界で切り替えられる。


「ふふ……」


ベッドの上のシーツが擦れる。エララの背筋が伸び、首が小さく動く。長い睫毛が震え、彼の瞳が開く。その色は朝の湖面に似て、深さは夜の硝子。焦点の手前で少し迷い、それから現実に寄ってくる。


アレスは右手を目の高さに持ち上げ、掌を眺めた。指先を一度閉じ、開く。空気がこすれる音だけがわずかに生まれる。


「……欠けている気がする」


落ちた声は、部屋の温度を半度下げた。手の甲に映る斜光がゆっくりずれ、その間に彼は何かを探す。胸の底に小さな空洞。そこに名前があったはずだという気配。


視線はすぐに窓際へ移る。金で留めたカーテンの結び目。光の帯が床に落ち、その先に白百合が立っている。


「百合の角度が甘い。朝の刃が花弁に当たりすぎる」


彼は小さく息を吐いた。枕の皺が戻る音がする。


「……おはようございます」


エララの声は、布の擦過にほどけて乗る。アレスが横を向く。湖面の青がこちらを見る。視界に自分が入る瞬間、エララの指先がまた震えた。


「ああ。おはよう」


眠い声。いつもより角が丸い。上体を起こすと、髪が肩に落ち、鎖骨の谷に光がすべる。エララは目を伏せかけて、戻す。彼にズレがないか、そればかりを探してしまう自分を意識して、呼吸の深さを整えた。


「今朝は光がやさしいの。結界が少しだけ薄くしたのかしら」


「違う。風向きを変えた。音が濁っていたからな。空気は軽く、光は斜めに」


彼は指先で空中をなぞる。なぞった軌跡に沿って、目に見えないラインが動き、カーテンの裾が一度だけ波打つ。エララはその細い波を目で追い、笑った。


「あなたの部屋は、いつ来ても息がそろう。外の森の気配が嘘みたい」


「外は騒がしい。毒の沼、折れた幹、濃い霧。ここではそれらは形を変える。泉、花、うすい風。システムだ。動線と役割を持たせてある」


「役割……青い薔薇は、今日も色が深い」


「安定している証拠だ。青は濃いほど良い。月光樹も夜間の照度を担う。外の気配は葉先で拾わせる」


彼の言葉は短い。無駄な飾りを落とし、必要だけを置く。エララは小さく頷くと、指先で窓枠の木目を撫でた。滑らか。乾いた匂い。爪先にほこりは付かない。


「ねぇ、昨日の夕刻、外縁に影が動いたの。噂の名を、風が運んできた」


「誰だ」


「幻影のシオン。魔王軍の四天王の一人。心の奥を掬って見せる類い。欲するものでも、怖れるものでも。姿は霧の裏に隠れるらしい」


口にした瞬間、喉奥が乾く。エララの皮膚の下で、竜の血が泡立つ。視界の端が細くなる。彼の枕元に落ちる自分の影が、不自然に黒く見えた。


「幻術か」


アレスは短く言う。窓の外、白百合の一列に視線を置いたまま、そこから動かない。彼の中で優先順位が入れ替わる音がしない。内側の空白より、外の花の角度が先に来る。


「心に触れるなら、結界の壁も関係ない。そう囁く者もいる。だから……」


「だから?」


「誰にも、あなたの眺めには触れさせない」


言葉の終わり、エララは両手を重ねる。掌の内側に爪の跡。紫水晶の眼がほんの一瞬だけ爬虫の線になり、すぐ戻る。微笑む口元は穏やかで、背後の空気だけが氷みたいに冷えた。彼女は自分の靴裏に魔力を薄く敷き、床に痕跡を残さないように立ち上がる。


アレスの視線がようやくエララに落ちる。彼は目を細め、絵画を遠くから眺める人間のような顔になった。


「……朝の光に、お前はよく合う」


「え?」


「髪が光を返す。銀は真白よりも色を持つ。ここに置いた色たちがお前で締まる」


彼は伸ばした手で、エララの頬にかかった髪を耳へ送る。指先は冷たい。触れた場所から熱が遅れてやってくる。肌の下を、細い電流が走る。呼吸が不規則になりかけ、エララは唇を噛んでそこを平らにした。


「お前の呼吸が一定だと、この部屋の拍が整う。欠いてはならない要素だ」


「……そんな」


ひと息で胸の奥まで満たされる。喉の奥が熱く、視界に水が差す。涙は見せたくない。彼女は瞬きをして、笑みに変えた。声はかすれて、それでも出す。


「嬉しい。ほんとうに」


「ただの観察だ」


「ええ、それでいいの。あなたの観察に、私が含まれているなら」


言いながら、エララは彼の手に自分の手を重ねる。一瞬だけ眉が動き、しかし拒む力は来ない。許されたという事実が、そのまま胸の中心に火を置く。


「ねぇ、外の影の話を続けてもいい?」


「聞こう」


「奴は、目に見えない形で入り込む。心にあるものを拡大鏡にかけるように見せる。そこに揺らぐ隙が生まれれば、世界の線が一本歪む。あなたの部屋に一本でも歪みが出たら、私は……」


言葉はそこで途切れた。喉の奥で冷たいものが砕ける音。エララは笑う。目元はとてもやさしい。ただ、彼女の背後で、窓ガラスが薄く鳴った。


「私が全部、片づける」


「頼む。ただし——」


アレスは指を一度鳴らした。音は小さい。だが空気の流れが一瞬で置き換わり、窓際の白百合がふわりと正しい角度に立ち直る。葉の影が床に落ち、線の位置がひと目で変わる。


「——無理はするな。お前が傷めば、景色が乱れる」


「……はい」


エララは頬を彼の手に寄せ、目を閉じた。肩の力が抜ける。次の瞬間にはもう、竜の芯が熱を持つ。自分の内側にある獣が、ゆっくり尾を振る。


「ねぇ、あなたは『欠けている』と言ったでしょう。何が」


「わからない。掌に何かを置いていた気がする。名か、形か。だが、今は百合の角度の方が先だ」


「あなたらしいね」


エララは小さく笑い、室内の空気を吸い込む。彼の香りが舌に乗り、喉へ落ちる。甘くない。冷たい。それだけで満ちる。


「外の庭、季節が混ざるのに、違和感がない。薔薇と百合と月光樹、背の高さも風の揺れも違うのに」


「混ぜていない。置いた。役目が違えば、見え方も違う。青い薔薇は濃さで魔力を示す。月光樹は照明と警戒。白百合は朝の刃を受けて室内に拡散させる」


「だから、少しでもズレると、あなたは気づくのね」


「気づく」


即答。エララの胸が弾む。彼の「気づく」の中に、自分が入っている。彼が自分の存在を風景のパーツとして数えることが、なぜこれほど幸福なのかを、うまく説明できない。説明など、不要だ。


「外縁の見張りには私が立つ。幻の糸は、焼けば切れる」


エララは立ち上がり、長い髪を一度だけ撫で付ける。視線を窓に流すと、青い薔薇が深い色でこちらを返した。安定。そう確信する匂い。


「幻影は焼けないぞ」


アレスは淡々と言う。エララは首を傾げて、笑った。目の奥の光が一段冷える。


「火だけが焼くわけじゃないもの。光でも、氷でも、息でも。触れた瞬間に形が変わるなら、最後は消える。形のないものほど、痕跡は残らない」


「理屈は悪くない」


「試す機会は、向こうから来る。嫌な風が運んでくるもの」


言い終わると、エララは両掌を合わせ、静かに解いた。擦れる音が細く、透明だった。指先に残っていた爪の跡は消えている。彼の部屋で、自分の跡を増やすわけにはいかない。


「腹は?」


唐突な問い。アレスの声は平坦。エララは瞬きをしてから、笑う。


「あなたが起きたから、空腹になったの。たぶん」


「なら食べろ。糖を切らすな。目が鈍る」


「ふふ。あなたのために、いつでも最適でいる」


「それが良い」


アレスがベッドから足を下ろす。床に足裏が触れた瞬間、床板がわずかに温度を上げる。冷えすぎないように調節された熱。かかとが静かに音を返す。彼が立ち上がると、部屋の重心が変わった。すべての線が、ほんの少しだけ整列し直す。


「外の森は、今日も騒がしいか」


「はい。風のベールが濃い。夜には月光樹が白くなるほど」


「なら、夕暮れまでに庭の南側を調える。薔薇の列に余白を足す。風の音が重なる」


「あなたの手が入るのを見るの、好き」


言ってから、エララは視線を落として、笑い直す。言葉の表面は小さいのに、胸の内側では水が一気に溢れた。彼の指が、花の列や空気の通路に確かに触れていく光景。それを思い浮かべるだけで、喉の奥が甘くなる。


「シオンのことは、風の線を一本増やして見張る。幻が来るなら、まず匂いが変わる」


「匂い?」


「人の心に触れるものは、薄荷みたいに冷えるか、蜜のように重くなる。どちらにせよ、ここには似合わない香り」


「似合わないものは、排す」


短い言葉。扉を開けると、控えていた使用人の魔導機が動き、衣服と朝食のカートを運んでくる。銀の蓋が光を跳ね返し、室内に丸い光点が揺れた。


「寝起きの顔、見られちゃったね」


「問題ない」


「ほんとう?」


「お前は朝に合うと言っただろう」


「じゃあ、毎朝見せて」


エララは軽く首を傾げ、笑い、背中で空気を撫でる。空気が少し緩む。彼女の背後の温度が二度だけ上下する。狂気という名の温度差は、表情の陰翳へ隠れた。


「……そういえば」


アレスはパンに指を伸ばし、ちぎる。焼き色の香りが立つ。口に運ぶ前、その欠片の形を一瞬眺めた。


「掌の欠けは、気のせいかもしれん。だが、もし本当に何かを落としているなら——」


「なら?」


「拾い直す」


それだけ。短い言い切り。エララは瞼を伏せ、深く一度呼吸をした。内側での獣が、牙を畳む。彼が拾い直すと言った。ならば、その道に石ひとつも落とさせない。


「食後、外縁を回るわ。結界の織り目にささくれがないか確かめる。青い薔薇の列を三歩ごとに見る」


「一歩で見ろ」


「精進します」


エララは微笑み、パンの香りを吸い込む。バターの塩気に混じって、空気の金属臭が極薄くある。魔力の流れが強い証し。その匂いが好きだ。罪の記憶を上書きする、冷たい香り。


「ねぇ」


「何だ」


「あなたの手がさっき触れた場所、熱がまだ残ってる」


エララは頬に自分の手を当てる。そこは確かに温かい。皮膚の下で、言葉にならない約束が形を持つ。彼女は瞳を眇め、同じ場所にもう一度頬を寄せた。彼の手の跡を、消したくない。


「行ってくる」


立ち上がって一歩、二歩。足音はない。裾が空気に触れ、微かな音だけが残る。ドアに向かう途中、エララはふと振り返った。


「呼べばすぐ戻る。あなたの声は、どこにいてもわかるから」


アレスは頷きもせず、庭を見ていた。白百合の列に朝の刃が正しく落ちる。青い薔薇は深い湖の色。月光樹の葉先が、目に見えない何かを探っている。彼はそのすべてを見ている。見ていながら、掌にあったものを一瞬だけ思い出し、また忘れる。


扉が静かに閉まる。エララは廊下の冷気を吸い込み、目を細くした。遠く、死の森の瘴気が、布のように棚引く。風は名前を運ぶ。幻影のシオン。微笑んだ。口角だけが上がり、瞳は冷たく細い。


「名前は聞いた。顔は要らない」


彼女の背後、閉まった扉の向こう側に、整えられた世界がある。音の高さが決められ、光の角度が定められ、花の列には意味がある。そこに彼が立つ。エララの歩みは軽い。靴裏に敷いた魔力の薄い膜が、床の上を滑る。跡は残さない。


外へ向かうほど、匂いは変わる。湿った土、腐葉の甘さ、遠い方角の金属のような冷気。幻が近いときにだけ漂う、薄荷めいた冷たさがまだないことに、エララは小さく息を吐いた。


「来るなら来なさい。あなたの綴じ目は、私が全部ほどく」


囁きは風に消える。彼女は手袋をはめ、指先の熱を封じた。爪が硬くなる。瞳孔が細い線になる。呼吸はそっと、深く。微笑みを浮かべた横顔に、氷の花が音もなく咲き、そして消える。


部屋では、アレスがパンをひとかけ口に運び、もう片方の手で窓の取っ手をわずかに回していた。風の角度が変わり、庭の音が一段澄む。青い薔薇の色は、朝よりさらに深い。


彼の心に空いた小さな穴は、そのときもそこにあった。穴は音を立てない。ただ、光を一筋だけ通す。通った光が床に落ち、一本の線になる。彼はその線を見て、ほんの少しだけ目を伏せた。


「よし」


短い声。部屋の拍が、またひとつ揃う。外では、風が枝を撫で、葉先がかすかに警戒の震えを伝える。幻影の名は、まだ形にならない。だが、この家の中では、音も光も匂いも、すでに彼の側にある。


エララは、その中心へ戻る道筋を何本も頭に描いた。どの通路も、迷いがない。彼が呼べば、どの道からでも戻る。戻って、笑って、床に跡を残さず、彼の視界に入る。そのたびに、自分という存在が、この部屋の拍をひとつ整えるのだと、信じている。胸の内で尾を振る獣は、もう彼の足元で丸くなって眠る準備に入っていた。彼が「拾い直す」と言った言葉だけを、毛布のようにかけて。

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