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第2巻 第1章 広がる亜人たちの街(2)

冷たいものが頬を打った。水。顔をつたう線が、皮膚の温度を一瞬だけ取り戻す。鼻腔いっぱいに湿った石の匂いが満ち、舌に載る空気は金属めいて渋い。暗がりの底で、エララは膝を抱え込む姿勢のまま、指先に残る暖炉の灰の粉をそっと擦り合わせた。ざらり。赤みの消えかけた灰は、まだ微かに温い。


「……戻る。戻るの」


誰に向けるでもない声が、地下の天井に触れてすぐ落ちる。


ぽつ、ぽつ、と雫が石床に小さな輪を描くたび、過去へ沈んでいく身体が、ゆっくり現へ引き上げられる。どのくらい沈んでいたのだろう。時間は濁流だった。光は底に届かない。数百年ぶんの像が雪崩を打ち、骨の芯が軋む。


「今度は」


掠れた自分の声が幼く響く。その先を言えば崩れる気がして、言わない。


思い出は、いつも少年の口元で途切れる。血に濡れた唇が、それでも形づくった「ありがとう」。責める音はなかった。だからこそ、胸に刺さったまま抜けない。


「……ごめんね」


エララは膝に置いた手を見た。白い。細い。人の城を一つ灰に変えられる手。けれど、あのとき、その手は子どもを抱き起こせなかった。鱗の縁が柔らかな皮膚を裂く、熱い吐息が小さな胸を焼く――想像だけで息が詰まる。触れることすら許されなかった。


「二度と、同じにはしない」


灰の温度が失われるのに合わせ、胸の奥の温度が上がる。名を呼ぶ。


「アレス」


その音が喉を通ると、胸がぎゅっと縮む。痛いのか、甘いのか。判断は不要だ。味わえばいい。彼女は、それをこそ生き延びた証として飲み下す。


階上から微かな足音がした。規則正しく、角のないカーブで降りてくる気配。二歩目で踵が軽く床を鳴らし、三歩目で静まる癖。測量器具の位置がずれれば必ず戻す、あの歩幅。


エララは反射的に身を起こし、長い銀の髪を肩で揺らして整えた。涙の跡を指の腹で拭う。頬の色味を一段だけ上げる。彼の前では、「瑕疵なきエララ」である必要があるのだと、自分に言い聞かせる。彼の目の中の整った画面に、余分な粒子を置くのは、怖い。


足音は通り過ぎ、別室へ消える。その余韻までも、音の角度ごと愛おしい。


「ふふ」


笑いが漏れた。乾いている。耳に自分の笑いが刺さる。


竜姫と呼ばれた自分が、百年そこらの人間ひとりに怯え、焦がれる。種としての矜持はとうに衣桁に掛けたまま朽ちた。残ったのは、ただ「失いたくない」という古い生き物の衝動。


「ねえ」


エララは灰の上に指で小さな円を描く。指の跡に冷気が降りる。


「あなたなら、どうする?」


返事は、灰の小さな崩れる音。


頭の中に低い笑いが蘇る。少年の笑いではない。アレスの――正確には、彼の息が吐くときの短い音の連なり。彼が紙に線を引き、灯りの角度を少し傾けるたび、部屋の影が一段整う。そこに彼がいると分かる匂いがある。油と蝋、それに乾いた紙のにおい。温度は低いが、息苦しくはない。


「強いのよね、あなたは」


誰もいない地下室に向かって囁く。彼は強い。結界術の腕は大陸に響く。魔王軍の四天王ほどの名を挙げても、彼は肩を竦めるだけの胆力を持つ。その身体は人間でも、竜の気配の中で歩みを乱さない。その精神は、彼女の欠けた部分を「風景の一部」として配置してしまう不思議な懐の広さを見せる。


だから、選んだ。選ばずにいられなかった。


「今度こそ守る。ずっと守る」


口に出すと言葉は呪になる。喉の内側に棘が生えるように、繰り返すほど強くなる。


――贖いだよ、と言えれば、どれほど楽だろう。あの日守れなかった命を、形を変えて守るだけのことだと。


冷たい問いが浮かび上がる。舌の裏側に苦さが広がる。


「それなら、どうして」


エララは自分に問う。声を落とし、音を薄くする。


「あなたのそばに顔を寄せる人たちを見たとき、手が勝手に冷えるの?」


あの日の映像が鮮やかに蘇る。結界の修理のために訪れた行商の青年。柔らかい声。アレスに向けられた、不安と敬意の混ざった笑み。彼の指先は紙切れを渡し、視線は一瞬、軽く上がった。


彼の名を問うた自分の声が響く。


『お名前は?』


『え、ぼ、僕は……』


『ふふ。いいの。――もう、覚えなくていいの』


そのときの自分は微笑んでいた。掌の上、白い息が輪を描く。背後の空気が薄く凍り、結露が白く浮かぶ。青年は肩をすくめ、一歩だけ後ろへ退いた。脳裏では別の映像が疾走する。森の入口で彼が立ち尽し、冬の枝のように指が折れていく幻。あと一歩で止められなくなるところだった。


寸前、一つの声が堰を切った。


『客が一人欠ければ、この空間の均衡が崩れる』


アレスの声音は澄んでいた。冷たいわけではない。温度を一定に保つ声。それで青年は助かった。助けたのは、私じゃない。彼の目が大事にするもの――そう、美意識――だった。


「助けられて、ほっとしたの。なのに」


胸の中心がからっぽになっていく。空虚さ、というのはこういう温度だ。


「最低ね、私」


舌の上で言葉が転がり、頬に小さな熱が刺す。握った掌に爪が食い込んだ。皮膚の下で熱が走り、黒みを帯びた赤が滲む。床に落ちた滴はすぐ蒸気のように揺れ、跡形もなく消える。罪の印さえ残らない。忌まわしい。


「あなたの血は、消えなかったのに」


少年の血は、鱗の隙間に何百年も残った。落ちない印。消せない刻印。


「また、同じことをするの?」


自分に問いかける。守るという名を掲げ、相手の世界を狭め、選択肢を奪い、最後には何もかもから切り離す――そんな未来の設計図が、頭の内側に薄く描かれていく。


「それは、愛なの」


否、と頭の冷えた部分が答える。これは、もう一度失うことに耐えられない竜の悲鳴だ。みっともない。だとしても、捨てられない。


「手放すくらいなら」


唇が勝手に形づくる。耳の奥で骨が鳴る。


「どこまでも、一緒に行こうね」


地獄の底まで、と続けてしまってから、エララは目を閉じた。そこに線を引いた瞬間に、彼女はたぶん、本当の意味で竜になったのだろう。人ではないもの。


階上の足音が戻ってくる。今度はこの階段へ向かう。木と石のあいだに吸い込まれる靴底の音が近い。エララはすばやく立ち、衣の乱れを正す。涙の痕跡は影に紛れた。頬に花のような熱が差す。幻術はこういうとき便利だ。呼吸をひとつ、整える。


扉が押されていく。重い木の軋む音が、暗闇の輪郭を変える。


「ここにいたのか、エララ」


蝋燭の炎が手の中で揺れる。揺れに合わせて、アレスの横顔の陰影が呼吸する。白い頬に落ちる影は鋭くない。青い目に炎の芯がひとつ、映る。彼の視線が部屋をなぞる。灰。天井からの水。隅に押しやられた計測器。ひとつひとつに目が触れ、最後に彼女へ戻る。


「ここはまだ片付けていない。乱れるのは好まない」


「ごめんなさい。少し、休んでいたの」


「ああ」


一拍の間。アレスの目が彼女の顔色を測る。


「血の気が薄い」


「大丈夫。そう見えるだけ」


エララは笑って見せた。練習で磨いた笑み。彼の画面を乱さない角度。


「昔のことを思い出していただけなの」


「昔」


アレスは繰り返す。炎が短く息をする。


「君に昔があるのは、奇妙に感じる。君はいつも今だ。ここ、これ」


彼は指で床と空気の間を指し示す。光がその指をなでる。エララの胸がきゅっと縮む。見抜かれる。悪意も探りもなく、ただ目があるだけで。


「……ねえ」


自分の声が思ったより柔らかい。危うい。


「前に、こんな会話をした気がするって、言ってたことがあったよね」


「……ああ」


アレスは視線を少しだけ左へ泳がせる。灯りが彼の睫毛の影を伸ばす。


「エララ。君と前にも、こんな会話をした気がするのだが――そう言った覚えがある」


「そんなはず、ないと思う。少なくとも、この人生では」


エララは笑う。中身を隠す仮面の笑い。アレスの目に小さな皺が寄る。数秒で消える、羽毛が水面に触れたような波紋。彼は黙る。沈黙は固くない。温度のない静けさ。それが、かえって痛い。


エララは視線を落とし、問いの形にして吐き出した。


「ねえ、アレス。あなたは、この結界のために……何かを差し出しているの?」


「差し出す?」


「例えば、記憶とか。そういうもの」


「覚えがない」


アレスは短く言う。嘘の匂いはしない。嘘をつくときの呼吸の詰まりもない。ただ、答えはそこに置かれている。手に取って確かめることを、彼はしない。


「そう」


エララはうなずいた。質問はもうしない。したくない。もし本当に何かが削れているのなら。その削れ目に、自分がぴたりとはまり込めるから。


爪先に力が入る。そう考えた自分を、彼女は心の奥で罵る。


「最低なことばかり考える。私」


声が掠れる。アレスは彼女の手先を見て、短く言う。


「手が冷たい」


「すぐ温まるよ」


エララは手を組み、こすり合わせる。指と指の間に小さな霜が生まれ、すぐ溶ける。見なかったふりをして、彼は蝋燭を棚に置いた。炎の位置が変わり、部屋の影が一段違う形で停止する。


「アレス」


名を呼んでから、言い直す。呼吸を整え、余計な飾りを落とす。


「私は、ずっと、あなたのそばに居てもいい?」


アレスは息を吸う音も立てず、数拍を置いた。やがて、当然のように。


「君がいなければ、この閉ざされた世界は完成しない」


愛の言葉ではない。けれど、音の粒の配置が美しかった。彼の中の調和の線が、ひとつ引かれる音がした。


「うれしい」


エララの声は自分でも驚くほど静かだった。蝶の羽の先にのるほどの熱を含む。胸でに、また別の誓いが芽を出す。今度こそ。たとえこの感情が彼を蝕むとしても。たとえ彼の世界を狭め、選択を奪い、彼をひとりの竜のためだけの存在へ変えてしまうとしても。


「アレス、手を出して」


エララは自分の両手を差し出した。彼は一瞬だけ迷い、指を伸ばす。触れる。人の体温。それだけで、遠い雪原で焚き火にあたるような感覚が走る。彼女の息が少しだけ甘くなる。


「冷たい」


「すぐ温かくなるの。あなたが触れてくれると」


彼の指が離れる。彼は何も言わない。言わないことで、言っている。


エララはほんの、ほんの少し笑ってから、いつもの角度で頭を垂れた。肩から流れる銀の髪が、蝋燭の光を受けて一瞬だけ鱗のように煌めく。


「ありがとうございます。……ねえ、あなた」


「なんだ」


「今日は、あの図面の続き?」


「そうだ。森の北縁で魔力の流れが僅かにずれた。補正する」


「私も行っていい?」


「役に立つのか」


「風を少し見るのが得意。今夜は北から乾いた匂いがするの。砂の味が混ざってる」


アレスは小さく目を細める。彼の鼻先が空気を嗅ぐ。彼にも分かったのだろう。灰ではない粒子の、舌に残るざらつき。


「なら、来い」


短い言葉。彼は蝋燭を手に取り直す。炎が一度だけ低くなり、すぐ持ち直す。彼が歩み出す。二歩目で踵が軽く鳴る。三歩目で静まる。エララはその後ろを歩く。


階段を上がる途中、エララはふと足を止めた。背中に落ちる灯りの熱が遠のく。


「どうした」


「……何でもない」


振り返った彼は一瞬だけ彼女に火を近づけた。炎の縁が彼女の頬の白をほんのり染める。目を閉じれば、それが遠い昔の別の火と重なる。焚き火の匂い。少年の笑い声。ありがとう、という口の動き。


「アレス」


「ん」


「あなたの好きな香り、何?」


「香り?」


「うん。……今夜、眠る前に、部屋に焚こうと思って」


アレスは考える。部屋の影が彼の思考の速度に合わせて動かない。やがて、短く言う。


「紙。新しい紙。刃を入れたばかりの木。油を含んだ革。そういう匂いが落ち着く」


「覚えておく」


エララは小さく笑う。彼の世界から余計なものが抜け落ちるなら、その空白に自分が満たす。香りのひとつくらい、たやすい。音のひとつも、歩き方も――何でも。胸の底で黒い波が膨らむ。けれど、それを顔に上げない。笑いは柔らかいまま。


帰り際、エララはふいに振り向いた。暗い階段の下、地下室の奥。見えない水音。ぽつ、ぽつ。いつもと同じ場所に落ちる音。


「ねえ、あなた」


「なんだ」


「もし、誰かがここにまた来たら。修理でも、取引でも」


「来るだろう」


「その人の名前、今度は、私が忘れないようにするね」


「……好きにしろ」


アレスは肩だけを小さく動かした。彼の指が扉に触れ、木が低く鳴る。音に合わせて、エララの背後の空気が一瞬だけ冷える。彼女は視線を落とし、微笑む。その笑みは花の形をしている。背中で、竜の冷気が息をする。


「じゃあ、行こう」


声は軽い。地下室の扉が閉じる。重い音が静けさをたたむ。


最後の一滴が天井から落ちた。小さな音が石に砕け、消える。誰にも触れられないうちに。音はそこにあって、すぐに無かった。エララの胸の中では、代わりに別の音が鳴り続ける。誓い、という固い寡黙な音。


階上、廊下の端へ出ると、世界の温度がわずかに上がる。外は夜。結界の膜が星の光をわずかに屈折させ、庭の砂粒に冷たい銀の筋を落とす。アレスが立ち止まり、耳を澄ます。彼の耳介が、風の音階を探るようにわずかに動く。遠くで獣が低く鳴いた。森の呼吸。息は一定。鼓動は確か。


「北縁へ」


アレスが言う。短い。エララはうなずく。靴底が砂を噛み、乾いた音を立てる。空は黒い布。星は刃。二人の影が細く伸びた。


歩きながら、エララはもう一度だけ確かめるように呟いた。


「今度は、絶対に」


その言葉に、誰の返事も必要ない。隣の男の呼吸が、答えの代わり。彼の歩幅が、彼の灯りが、彼の目の青が。全てが、彼女の呪いを受け入れ、世界の線を一本引き直す。


彼がその線の意味に気づかないなら、それでいい。気づいても、きっと、彼は言わない。言わないでいてくれる。その沈黙は、鎖だ。甘く、重い。


それでも、歩く。二人で。結界の膜の縁まで。夜の匂いの中を。永い、短い、ただ一つの歩みを。

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