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第2巻 第1章 広がる亜人たちの街(1)

炎は、ようやく息をひそめた。空を塞ぐ黒煙は薄まり、代わりに灰が雪のように落ち続ける。指に触れると、湿り気のない粉末が静かに崩れ、皮膚の油をさらっていった。光は斜めに降り、灰の粒をきらめかせる。風は乾いて、骨の奥まで冷える。

 エララは、灰の降る廃墟の中心に立つ。鼻腔に満ちるのは、焼けた肉のにおいと鉄の味、崩れた石の粉塵。舌の奥にざらついた苦みが残り、喉は砂を飲んだみたいにひりついた。

「……あ……」

 漏れた声は、言葉という形にならない。声が空気に触れただけの震え。

 足元には、黒に変わった地面。少し踏み出すたび、細かな灰が乾いた音を立てて散った。かつて空を舞った竜も、人の姿に戻れなかった仲間も、折り重なったまま動かない。背骨がねじれ、鱗がはがれ、翼の骨だけが空を向く。熱が奪われた肉は、もうただの重量だ。

「……起きて。ねえ、起きて、お願い」

 エララは膝をつき、銀の鱗が黒く焼けた雌竜の頬に触れた。かつて姉と呼んだ声は、もう戻らない。指先から伝わる冷たさは、石の感触に近い。まぶたを押し上げても、身じろぎ一つない。

「起きてって、言ってるのに……」

 返事は、ない。風が焦土を滑っていく音だけが耳を撫でる。

 彼女は身体をよろめかせながら歩いた。崩れた塔の根元で倒れた師に、噴水の跡で眠る友に、名を呼び続ける。

「お師匠、冗談でしょう……ねえ。ねえ」

「あなた、この前の続きを教えてって……言ったのに」

「……返事して」

 灰が唇に触れ、ざらりと歯に当たる。目に砂が入っても、瞬きすら遅い。涙という水分は、もうどこにも残っていない。

 胸の内側に、問いが刺さる。

「どうして、私だけ」

 答えられる者はいない。戦いの最中に落ちた瓦礫の下で、彼女は気を失う。目を開けたとき、音も色も消え去る。

「私が弱かったから? 役に立たなかったから?」

 言葉は自分自身への刃になって戻る。喉が絞まり、呼吸が浅くなり、視界が狭くなる。

「ああ……ああああああっ!」

 地面に額を押し付けると、鋭い石が肌を切った。血がすべり落ち、灰がそれを吸い込んでいく。痛みは遠い。胸の奥のほうで裂け目が広がる感覚のほうが、ずっと近い。

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ。私だけ、息をしてる……ごめんなさい」

 謝罪は灰に吸われ、風に散った。


 日がいくつ落ちたのか、数える気持ちは失われた。エララは滅んだ場所から離れない。足を運ぶ先は、いつも同じ廃墟の周をなぞるだけ。空腹と渇きは、ときおり思い出したように胸をつかむ。だが、その感覚の表面は硬く、奥に届かない。動かずに座り、倒壊した柱の影に背中を預ける時間が伸びる。

 夜が来る。暗闇は空の形を失わせる。星は灰の幕に隠れ、風の音はさらに薄くなる。耳の中に、別の音が生まれ始めた。

『なぜ、お前だけが息を続ける?』

『一緒に来いと言ったのに』

『逃げたのは、お前だろう』

 その声は、誰かの声に似ている。だが、口元を見ることはできない。形の見えない言葉が、頭蓋の内側に触れる。

「違う……違うの。私、逃げたくなかった。私も……」

 彼女は両手で耳をふさいだ。掌の内側に自分の脈が打つ。

『本当に?』

「本当。お願い、やめて。黙って」

 風はやまない。声もやまない。骨の間に砂が入り込んだみたいに、不快がそこに居座る。

 朝になっても、幻は解けない。昼には笑って手を振る友の姿が見える。微笑みまで覚えている。エララが手を伸ばすと、そこにあるはずの頬は煙に変わる。残るのは、黒く崩れた殻。

「置いて行かないで。ねえ、怖いの。ひとりにしないで」

 指は地面を掻いた。爪の先がめくれ、灰に赤が散った。砂は温度を持たない。泣き声は、自分のものなのに遠い。

 精神は壊れずに、壊れかけのまま留まる。竜としてのしぶとさが、皮肉になった。崖の縁に腰を下ろし、足を投げ出したまま、落ちるほうに体重を預けない綱渡り。


 ある日、瓦礫の隙間の、そのさらに隙間に、小さな白を見た。土の間から顔を出した茎。先端に、白い花弁が少しだけ開いている。

「あ……」

 胸がひとつ、内側から明るくなる。エララは膝をつき、両手でその小さな命を包んだ。皮膚に触れる柔らかさは、灰とは違い、水を持つ。かすかに青い匂いがした。

「生きてる」

 声が漏れると同時に、頬が濡れた。久しぶりに出た涙は熱く、塩の味がした。指先の震えは止まらない。彼女は花に頬を寄せ、そっと息を吹きかける。

「……寒くない? 待って。ここ、守る。そうしたら、もう大丈夫」

 エララは周りに散らばった石を集め、花の周囲に小さな壁を作り始めた。掌の皮はすぐ割れ、血が石の角を染めた。それでも石は積まれ、隙間は泥で埋められる。

「風、来るね。うん、私がここにいる。日がきつい日は、こうして……」

 彼女は自分の影で花を覆い、日差しを柔らげた。頬に光が当たる角度が変わり、灰の粒も動いた。

「喉が渇いたら、ここに水。……待ってて」

 遠くまで水を探しに行く体力はなかったが、倒れていた器に残っていた雨水の滴を集めて、花の根元に落とす。

 彼女は、臨戦態勢の母鳥のように周囲を見張る。羽はないが、その目は常に動いた。

 羽音がした。小さな虫が花に近づく。

「……」

 エララの手が、そっと伸びた。指先で空をつまむ。目の前で指を合わせる瞬間、小さな音がした。彼女は笑った。笑みは薄く、唇の形だけで作られている。彼女の背中で、冷たい空気が揺れ、灰に霜が降りた。

 頭上を鳥が横切った。影が花の上を滑った。

「だめ」

 拾った小石が、風を裂いて飛ぶ。羽ばたきが乱れ、影は遠のいた。

「ここは私の場所。入らないで」

 声は静かだが、周囲の温度がわずかに落ちる。肌の表面に薄い膜が張るような冷たさ。彼女の笑みは消えない。目の奥は別の光で満ちる。

 守る、という行為は彼女の中で次第に変質した。見張る。閉じ込める。触れさせない。石の壁は少しずつ高くなり、開口部は狭くなる。風の筋は遮られ、光は計算した細さで差し込む。花のため、がいつの間にか「自分が安心するため」へと滑っていく。

「ここなら、安心。ね、ここから出ないほうが……ほら、ね」

 花は、彼女の言葉に答えない。白い花弁は、日を数えるように開いては閉じた。

 やがて――季節の目盛りがどれほど回ったのかはもうわからないが――その一輪はしずかに色を失い、茎はやわらかく折れた。

「……待って。起きて。もう少し、頑張って」

 エララは枯れた花を両手で抱え、額に当てた。乾いた感触。軽い重さ。

「息をして。ほら、私がいるから」

 声は震え、息が詰まる。彼女は三日、その場を離れず、目を閉じては開き、花の名を呼び続けた。

 涙が尽きたあと、彼女は小さな穴を掘った。土は冷たく、指にまとわりつく感触が生々しい。花を埋める前に、エララは一度だけ笑った。優しい笑いではなく、口元だけの笑みだ。

「次は……」

 言葉の先は、声にならなかった。ただ、胸の内側に硬い芯ができる感覚があった。冷たい鉄を飲み込んで、それが胃の中で四角いまま留まるみたいな感覚。

(次は、失わない)

(見つけたら、もう手から離さない)

(世界がどう言おうと、私の場所に入れて、扉を閉じる)

 彼女は土をかけ、平らにならした。掌の汚れを布で拭きながら、何度か呼吸を整える。


 それから、時間は色を持たなくなった。太陽と月の区別だけで日々が流れる。鱗は煤と泥にまみれ、光を跳ね返す力をなくす。瞳の光は薄く、深く、遠い。

 エララの周囲に、壁が増えていく。小さな花のために作った最初の円から、また別の円、また別の囲い。石が足りなくなるたびに遠くへ歩き、崩れた建物から引き抜き、背に乗せて戻る。指は裂け、血は乾き、掌は皮が重なって分厚くなる。

「……ここも塞ぐ。隙間は、いらない」

 うわ言のように繰り返し、石を撫でる。角が丸くなるほど触る。泥は冷たく、指の間からはみ出る感触が落ち着きをくれる。

「誰も、入れない。ここは静か。ねえ、聞こえる? ……聞こえないよね」

 壁の内側に座り、彼女は目を閉じた。外の世界で何が起きているか、考える気配はない。

 現実には、魔王軍が勢いを増し、新たな四天王と呼ばれる「幻影のシオン」がどこかで人の群れを欺いている。だがその名は、この閉じた空間まで届かない。彼女の敵は、目の前の境界を越えてくるものすべてだ。


 ある昼、足音が灰を踏む音と混ざって近づいた。複数。息遣いに焦りがある。

「おい、本当にここか?」

「地図には何もないって書いてあった。廃墟の材だけ頂いて帰る。誰もいない」

「さっさと終わらせろよ。あんまり長くいると厄介だ」

 エララは立ち上がり、壁に手を置いた。指先に伝わる石のひんやりが、内側の熱を落ち着かせる。彼女はひとつ息を吐く。白い霧が唇から漏れる。季節はまだ温かいはずなのに、ここだけ温度が違った。

 足音が壁の角を回り込む。男が二人。古い鎧の金具が小さく鳴った。

「ほら、石だらけじゃないか。誰かが積んだ……?」

「気味が悪いな」

 エララは、その場から一歩踏み出した。男たちがこちらを見る。瞳に彼女の姿が映った瞬間、二人の背が硬くなった。声を出そうとして、出ない。喉が凍るように。

「入らないで」

 それだけを言い、彼女は腕を伸ばす。触れていないのに、冷たい刃の気配が走り、空気が鳴る。次の瞬間には、灰の上に紅が落ちた。音は短く、軽い。男たちの倒れる音が遅れて響いた。

 エララは足元を見た。血の赤は、灰の白と底の黒のあいだで鮮やかだ。彼女は視線を少しだけ傾け、手のひらを開いたり閉じたりする。爪の先に乾く感触。彼女は笑った。声は出ない。笑みは薄い皮の上にだけある。

「……私の場所」

 その言葉は自分に向けた確認のように小さい。風が返事をしないので、彼女は壁の内側に戻った。

 別の日。角のない獣が紛れ込み、鼻をひくつかせて匂いを追う。エララが石の上に指を置くと、足元に細かな氷の粒が生まれ、獣の足が滑った。動きが止まる。彼女はそっと近づき、肩に触れた。獣はその場で静かになった。眠りのようでも、違う。

 押し寄せる者を、彼女は一つずつ排除する。それは感情ではない。作業に近い。終えたあとは、石に触れ、隅を撫でて、息を整える。内側の芯が、少しだけ満たされる。


 壁の中は狭いが、安全だった。小さな灯りをともすと、石が色を変える。炎は黄色から橙へ。外の気配は遠い。耳は静けさに慣れて、音がないことを音として選ぶ。

「……ここなら、平気。ここにいれば……」

 言葉は尾を曳き、消える。彼女の目の奥で、薄い光が揺れる。それは消えない。いつから灯っていたのか、思い出す必要もなくそこにある。

 やがて、彼女の姿は「誇り高い竜姫」という語から離れていく。衣は擦れ、髪は灰にまみれ、爪は血で色を変える。笑みは薄く、静かな声だけが残される。背にまとわりつく空気は冷たく、触れれば痛むほど澄んだ冷気が、折に触れて壁の隙間から漏れた。

「……だいじょうぶ。ここは、誰も知らない。誰にも、触れさせない」

 彼女が口にするのは、守るための約束だ。そしてその約束を守るために、彼女は世界から目を背ける。背けることで生きる。

 ただし、運命は別の形を用意する。

 ある日、この閉ざされた領域に、ひとりの男が踏み入る。その名はアレス。細部にまで気を配る結界師で、彼が組む空間は緊密で、異物を拒む。外界から隔てられ、内側に秩序を保った場所。エララが求め続けた「触れさせない」ための究極の器だった。

 その出会いが彼女の歯車を噛み合わせ、別の方向へ回し始めるのは、もう少し先の話。


 今はただ、灰が降り続ける夜。彼女は壁の中で膝を抱え、目を閉じた。耳を澄ます。遠くで何かが崩れる音。近くで灰が落ちる気配。心臓は、一定のリズムで動く。

 夢の中では、いつも同じ景色が広がる。燃える故郷。横たわる仲間。粉のような灰。その灰の上に、一輪だけ白い花がある。

「私が守る。ううん……守り抜く。今度こそ」

 彼女は花を抱きしめる仕草をする。腕の中の感触は、現。匂いは青い。胸が痛むほど懐かしい。

「だから、ここにいて。私の手のところに」

 声は祈りに似て、呪いに似てもいる。願いが固く結ばれて解けない縄になり、彼女の内側に巻きつく。巻きついた縄は、彼女を立たせもする。

 時間はまたいくつか過ぎる。灰が積もり、風が壁の角を削る。彼女は削れた角を撫で、泥で埋める。掌の傷は増え、古い傷は硬く盛り上がる。

 ある夕暮れ、空の色が変わる直前の光が壁の上をかすめた。橙と青の境目。その刹那、彼女は無意識に名前を拾う。

「……アレス」

 まだ見ぬ名。どこかで聞いたこともないはずの響きが、夢の縁から落ちてきた小石のように、心の湖面に輪を描いた。自分で驚き、気づかないふりをする。手元の石に視線を戻す。指が、小さく震えた。

「……関係ない。今は、ここ」

 自分に言い聞かせ、彼女は石の位置を少し変え、隙間を指でなぞった。息を吐く。白い。壁の向こうからは夜の匂い。湿った土と冷たい風。


 過去は、消えない。彼女の心に根を張り、形を変えない。生き残ったことへの痛みは、薄まるのではなく、平らになって日常に敷かれる。歩くたびに、その上を踏む。

 誰かを守らなければ、という思いは、彼女を動かす唯一の熱源になった。守るために作る壁は、彼女自身を世界から隔てる殻でもある。殻の内側で、彼女は息を数え、声を数え、手のひらの傷の数を増やす。

 いつか、あの白い花のかわりに、彼女は別の対象を抱く日が来る。見つけたなら、次は手放さない。触れさせない。自分の場所へ招き入れ、入口に鍵をかける。鍵をかけたあとで、彼女は微笑むだろう。静かに。誰にも見せない笑みで。

 壁の中で、エララは横になった。頬に触れる石は冷たく、耳元で灰が落ちる。目を閉じると、薄い光がまぶたの裏に残る。呼吸が細くなる。

「大丈夫。私がいる。私が、ちゃんと……」

 言葉は薄くなり、眠りに吸い込まれていく。彼女の夢の端では、白い花がまた揺れた。揺れるたびに土がこぼれ、灰が舞い、光が変わる。

 そして彼女はまだ知らない。この壁に触れる男が現れる日を。その男の作る結界が、彼女の信じる「安全」を、別の形で見せることを。彼女の芯に積もった執着という火が、いつか鮮やかに燃え上がる日を。

 灰は降り続ける。風は骨の間をすり抜け、音は小さなままを選ぶ。エララは目を閉じたまま、微笑んだ。指先で石を撫でる。冷たい。確か。ここが彼女の世界のすべてだった。今は、まだ。

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