第1巻 第5章 亜人の受入れと星降る領地(5)
夜が深まるにつれ、箱庭の結界に青白い息が宿る。微かな燐光が、露をまとった枝葉の縁を撫でた。葉脈の細部まで光がすべり、硬質な石と湿った土の匂いが胸の奥に届く。風は動かないのに、光だけが呼吸する。三つ数える間にわずかに脈打ち、また沈む。大きな生き物の寝息を思わせる静けさ。静謐、という言葉が自然と浮かぶ。
「……三秒で一度、脈を打つのね」
エララは回廊の縁に立ち、低く呟いた。足裏に石の冷たさ。指先に、夜露の滑らかな皮膜。結界の内側、アレスが「境界の回廊」と呼んだ細い歩廊は、夜の光に縁取りされている。深紅の鱗は暗い赤に沈み、折り畳んだ翼に光がひと筋ずつ貼りつく。長い髪が小さく揺れた。誰かが奥底で小石を落とし、水面に波紋が広がるような、静かな揺れ。
彼女の視線は森の闇へ延びる。結界の外、死の森の黒は深い。目では見えない何かを探る目付きになった時、舌に金属の味が広がる。塩気のない冷たさ。嫌な予感が、味覚の端にまず触れるのだと、昔から知っている。
「静かすぎる」
口にしたとたん、別の声が胸の内に被さる。幼い頃の師の声だ。
『竜は強く、竜は誇り高い。振り返る暇があるなら、前を見るのだ、エララ』
『はい、師よ』
『後悔という言葉は、我らには不要だ』
『……はい』
言葉の隙間に、生温いものが残る。否定されても消えない感覚。名を与えないことで押し込め、押し黙ってきたもの。今はもう、その名を知っている。名を呼ばれた瞬間、形を得て息を始めるもの――罪悪感。
エララは喉元を押さえた。そこにあるはずのものを確かめる仕草。脈は静かなのに、手先がわずかに強まる。
目を閉じれば、いつもの順番で記憶が立ち上がる。まず光。火そのものではなく、暗闇の縁を舐める橙の舌。熱よりも眩しさが先に来る、嫌な光だ。
「あの日は……」
独り言に、息が絡む。視界にはヴェルディア連峰の北斜面が広がった。晩秋の澄みを含んだ空気の冷たさ。岩の横穴に、青から緑へと揺れる宝石の鱗が並ぶ。まだ翼の膜が薄い幼子たちが、互いの体温を分け合って眠る気配。毛細血管のような温もりが岩肌の奥から伝わる。
十七の自分。巣穴の入り口で膝を抱えて座り、渓谷の底を見下ろしていた。風が強かった。銀の髪が頬を打つ。彼女は片手で髪を押さえ、空の匂いを嗅ぐ。鳥の影がない。虫の囁きも途切れている。山全体が息を止める時、空気は金属のように乾く。
「あれは、兆しだったのね」
「エララ姉さま、今日は狩り、行くの?」
背後から細い声。首だけ振り返れば、巣穴の縁に小さな頭が並ぶ。まだ名前を持たぬ子もいるが、こちらを見上げる目はどれも丸く澄んでいる。中でも一番手前に顔を出したのは、朝露色の鱗の子。リィナ。淡く光を返す鱗に、指先が自然と伸びかけた。
「今日は見張りよ。……ううん、違う。見張りの真似事じゃない。守る役、任されたの」
「任された?」
「父上がいないから、代わりにね」
「姉さまがいるなら、こわくない」
別の子が口を挟む。名前をつける順番をまだ待つ幼い声。エララは笑った。口角だけが動く小さな笑い。
「こわいと感じるなら、巣の奥に入りなさい。合図したら、鳴かないで。いい?」
「うん」
短い約束。その応答に、責任の重さが骨にかかった。
それでも、最初の違和感を「気のせい」と切り捨てたのは自分だ。空の色が一段階濁ったと感じた時も、唇に出たのは溜息だけだった。
日が中天を少し過ぎた頃、斥候の影が雲から滑り出る。黒い翼の飛竜に跨る数体。音を立てぬ落下。上空を旋回しながら、目だけが下界をなめた。
「何者だ」
己の声が驚くほどまっすぐに出た。硬い岩に触れた金属音のような響き。
返答は風に消え、代わりに地の底からうねりが押し寄せる。山道を埋め尽くす甲冑の列。槍の穂先が灰色の陽をはね返す。その先頭に、揺らめくもの。輪郭は人の形を借りているのに、実体が薄い。目で見ようとするほど逃げる像。幻影のシオン。
『竜姫よ』
声は空気を通らず頭蓋に触れる。歯に響く音だ。
『道を開けるなら、子らに手は出さぬ』
「……」
喉の奥で笑いが欠けそうになり、奥歯で止めた。嘘だと知る。知っているのに、刹那躊躇った自分がいる。
「退けるつもりはない。ここは——」
言い終える前に、斥候の影の翼が翻る音。合図だ。波が来る。エララは翼を開いた。銀の炎が喉の奥にまとわりつき、熱は出ないのに、光だけが舌先に集まる。
「下がりなさい!」
巣穴に向けて怒鳴った。同時に、銀の炎を吐く。岩肌が白く焼け、甲冑の継ぎ目が溶けて滴る。前列が崩れ、短い歓声が背後から漏れた。
だが波は続く。倒れた者の上を別の足が踏む。音だけが重なった。槍の柄が岩に当たる重い振動が足裏に来る。
「こっちを見るな、奥へ——」
背後で高い鳴き声。振り返る。巣穴の影から、まだ翼の膜が薄い顔が出る。リィナ。好奇心と不安の間に引き裂かれた目だ。
「リィナ、戻りなさい!」
叫んだ。体は勝手に動く。翼を折りたたみ、急降下。間に合う距離。間に合った、はずだった。
幻の刃が視界を斜めに切った。右が左に、左が右に滑る。わずか一呼吸分だけ、世界がねじれる。
「そこじゃない」
誰かが耳元で囁いた気がした。自分の声に似た声。手は空を掴む。目の端で槍が動いた。
鈍い音。時間が軋む。
「リィナ!」
喉が裂ける。着地の衝撃の記憶が曖昧になる。そこから先は、水の中で手を伸ばす感触だけが残った。大きくもない、けれど確かな重さ。小さな鱗が手のひらに当たる滑らかさ。まだ温い。目は動かない。
世界の輪郭が溶け始める。動きだけが途切れ途切れに残る。炎の光、落ちる影、空の色が夕暮れに傾く。怒号も、泣き声も、すべて遠くなる。自分が何をどうしたのか、どこで踏みとどまったのか、どうやって生き延びたのか。事実は霧に沈む。
ただ一つ、腕の記憶だけが凍みつく。夕光の中で、軽くなる身体を抱いた。名前を呼んだ。返事はない。
「……」
現在に引き戻すものは、結界の呼吸だ。光の脈に自分の呼吸を合わせようとして、うまくいかない。エララは寝台で上体を起こした。両腕が胸の前で交差している。空の重みを抱く姿勢で、目が覚める。天井の石材が微かな光を返す。角度が計算され尽くした面が、薄く光を滑らせる。
掌は空だ。知っていることだ。抱くべき重さは、もうどこにもないのだから。
「……」
窓辺に歩み寄る。石に額を当て、外を見る。光は一定の周期で鼓動する。三秒で一度、わずかに強まり、沈む。冷気が皮膚にまとわりつく。耳の奥で心臓の音が少し早くなる。
結界の外側で、影が走った。人の形ではない。輪郭の定まらない翳りが、光の縁をかすめる。
「誰」
声はひどく小さいのに、口の中で冷たく響く。目を凝らす。何もない。影は霧のように消えた。
気のせいか。そう言い切ることはしない、と決める。視線を外さず、暗闇に問いかける。
「まだ、そこにいるの」
反応はない。何もない場に向かって、筋肉がわずかに硬くなるだけだ。
記憶の底から、七つの名前が浮かぶ。指を折る癖が出る。リィナ、セレ、ファウ、コルト、ミィ、ジュラ、アンタ。口の中で転がす。声にするのは避けてきた。名前に息を与えれば、取り返しがつかなくなる気がした。自分の中に封じておけば、まだ一緒にいられると、幼稚な理屈で自分を縛ってきた。
「リィナ」
今夜は違う。小さな音で呼んだ。喉が掠れる。空気の粒が過去に触れた感覚。透明な視線がこちらを見る。責めない。許しもしない。ただ、そこにある目。
「セレ、ファウ、コルト、ミィ、ジュラ、アンタ」
一つずつ、丁寧に並べる。名前は石畳の上でほどけて、結界の光に溶ける。
湿りを含んだ冷たい空気を吸う。吐く時、心の底での澱が動くのを感じる。
「……ごめん」
謝罪は誰にも向かない。ただ口の形がそう動いた。
窓から離れ、部屋の中央に立つ。翼を少しだけ広げる。石畳の冷えが足の裏に刺さる。竜族の体温は高い。それでも、今夜の冷えは骨の内側から来る。記憶が冷たさに形を与える。
瞼を閉じれば、四日目の朝が戻る。父が山に来た時の匂い。遠征の土と血の匂いが混じった風。大きな影が山の縁に降り、地面が小さく震える。
「父上」
声は出たが、体は動かない。父は歩みを止めず七つの小さな亡骸の傍らにひざまずいた。ひとつ、またひとつ、掌をそっと置き、古い言葉を低く紡ぐ。弔いの詞。意味は知っている。耳は拾うのに、心に入らない。
全てが終わってから、父は近づいた。影が覆う。大きな手が、肩の少し上を一度だけ宙で迷い、それから置かれる。
「何があった」
問いは短い。声の底に柔らかい沈みがある。
「……斥候を見た時、違和感がありました。鳥が鳴かない。虫の音も。なのに、私は……」
説明は淡々と進む。自分の舌が他人のもののようだ。斥候の影の数、上空の回転の速さ、陽の角度。幻影の揺らぎ。刹那の錯覚。右と左が入れ替わる瞬間。槍の音。リィナの呼吸が消える瞬間。
父は遮らない。ただ、立って聴いていた。間が落ちた。
「お前のせいではない」
言葉は柔らかい。温度がある。胸の中心で、その温度が意外にも鋭い痛みになった。免罪は欲しくなかった。叱責でもない。戻るはずのないものが戻るなら、他は何も要らなかった。
「父上、私は——」
そこから先が続かない。胸で何かが固まっていて、言葉が回り込めない。
父の手が肩に力を加える。重さではない。ただそこにある、という確かさ。目の奥が熱くなる。涙は出ない。出すことが怖かった。涙で自分が軽くなるのを恐れた。七つの重みより軽くなってしまう気がした。
父が離れた後、エララは頂へ登った。強い風だ。髪が乱暴に揺れる。鼻腔を抜ける冷気が痛い。視界いっぱいの連峰。焼けた岩、空いた巣穴、黒い線のような影。目に焼き付けるために、立ち尽くした。
「もう二度と」
その場で言葉に出した。誰にも聞かれない誓い。唇だけが動く。
「もう二度と、失わない」
決意は風に削られながら固まった。そこからの道は、彼女を一人の男の傍へ引き寄せる。仕上がった景色を作る男。絶対に破れない箱庭を立ち上げる男。初めて彼の仕事を見た日、エララは息を止めた。光の角度、石の肌、音の反響までが整えられている空間。奥底での乾きに、冷たい水が落ちる感覚。
「……」
それからというもの、彼の傍にいることを選んだ。選ぶというより、歩み寄った先に彼がいた、そう言った方が正しい。守れなかったものの形を彼は作ろうとする。失ったものの不在に彼は輪郭を与える。その背中を見ていると、呼吸が自然に整った。
今、箱庭が優しく光る。死の森と呼ばれた場所が、異様なほど息をしている。その内部で、エララだけが眠らない。影がさっきの一瞬だけ走った。幻影のシオンの輪郭が脳裏にちらつく。
「来るなら、来ればいい」
囁きに、笑みが混じった。口角だけが上がる。目は笑わない。翼の縁がわずかに鳴る。微細な震えだ。静かな夜にだけ聞こえる、小さな音。
窓の外を見る。結界の脈に数を合わせる。一つ、二つ、三つ。呼吸を整える。胸の澱が、石の欠片のように動く。名前がまた、頭の中に並ぶ。
「リィナ」
呼ぶたび、石畳の冷えが少し強くなる気がする。足の裏の皮が薄くなったかのように、冷たさが深く入ってくる。
「セレ」
「ファウ」
「コルト」
「ミィ」
「ジュラ」
「アンタ」
名前だけで会話が成立する。問いかけのようでいて、問いはない。返事のようでいて、返事はない。それでいい。今夜は、それでいい。
天井から落ちる薄光に手のひらを翳す。指の間を光が滑る。肌に触れる光は温度を持たないのに、脳が温度を作る。柔らかい空気が張りつく。
「アレス」
その名も一度だけ呼ぶ。敬称はつけない。今この場にはいない男の名だけが、部屋の中で一度跳ねて落ちた。呼べば何かが変わるわけではない。呼ばなければ、何も始まらない気もした。
「あなたの結界は、息をするのね」
返事は当然ない。代わりに、壁がほんの僅かに冷たさを増した気がする。錯覚だろう。錯覚であっても、体はそれを受け取る。
石の壁に背中をつけ、ゆっくり滑らせて床に座る。膝を抱える形は幼い動作だ。自分でもそう思う。だが今夜は、その姿勢が必要だった。腕の中に、空の重みを戻すために。
「師匠、私は弱かったのかしら」
問いは過去へ。答えは風から。
『弱さを測る物差しは、風の数だけある』
師は昔、そんなことも言った。今は、そうした曖昧さにも救われる。
「父上、私はまだ」
言葉の端が宙に留まる。最後まで言わない。言う必要もない。不足はわかっている。足りないものを数える作業は、夜を短くするだけだ。
防壁の光彩がまた脈打つ。一つ、二つ、三つ。目を閉じ、肩を落とす。息の音だけが部屋を往復した。外は暗い。夜明けはまだ遠い。
その間にも、箱庭は呼吸を続ける。石は冷たさを保ち、木々は光を受け流す。死の森と呼ばれたこの場所に今ある静けさは、誰かの手が加わった結果だ。息が合うように、光と影が互いの場所を譲り合う。
エララは立ち上がる。もう一度、窓辺に立つ。目を細め、暗闇に問う。
「見ているの?」
答えはない。だが、自分の中の何かがうなずく。
「なら、見ていなさい。ここで、私は立っている」
言い終え、笑った。笑みは淡い。口元だけ。目に波はない。背後の石が冷たい。肌がそこに貼りつく。
夜明けはまだ遠い。だが、遠いからこそ、呼吸の数を数えられる。三つで光が強まる。三つで戻る。周期に身を預け、背筋を伸ばす。翼の縁が小さく擦れ合い、薄い音を立てた。
幼い日の巣穴から聞こえた声が、耳の奥で響く。
「姉さまがいるなら、こわくない」
今は誰もいない。だが、ここに立つ限り、その言葉は嘘にならない。自分に向けた誓いの形として。
「こわくない」
今度は自分に向かって言う。声が石に当たり、跳ね返る。跳ね返った音が胸に当たる。重みは減らない。ただ、形が見える。
リィナ、セレ、ファウ、コルト、ミィ、ジュラ、アンタ。七つの名は、今夜も静かに息をする。彼らの気配を腕の中で確かめるように、エララは両手のひらを重ねた。骨が触れ合う感触で、ここに自分がいることを確認する。
防壁の鼓動がまた一度、わずかに強まる。石の匂いが濃くなる。遠くで小さな枝が落ちる音。森はまだ目覚めない。夜明けまで、もう少し。
エララは翼を少し閉じ、瞼を下ろすでもなく、開け切るでもなく、ただ目の前の闇を受け取った。立つ。呼吸する。それだけをする。心の底で七つの名前が並び、途切れずに彼女を支える。守れなかった命に触れながら、今度こそ、失わないための夜を、ゆっくり越えていく。




