第2巻 第1章 広がる亜人たちの街(5)
鼻に刺さる鉄の匂いで、私は顔をしかめた。
「匂う。今日は鉄が強いね」私は吐き出すように言った。指先で苔を軽く撫でる。指の腹に伝わる湿り気が、いくつかの音を掻き消す。
アレスは中央に立ち、むしろそこだけが世界の重心のように見える。裾が星明かりの筋を切り取り、彼の足音は消える。彼が空気を触れば、庭が答える。私は言葉にする代わりに見つめる。彼の指先が動くたび、空気の温度がほんの少し変わるのがわかる。水の面が耳に触れる角度が変わった。
「今日の星の落ち方、いつもより甘い。あなたの手が夜を撫でたの?」私は囁く。
「屈折角を少し傾けただけだ」彼の返事は短い。目は水盤の向こうを読んでいる。唇の先だけで言うような声だ。
指が水盤に触れる。水は彼の周りで道を作り、星がひとつ彼の指先に吸われるように溶ける。「見ろ」とでも言うように彼は指を滑らせる。砂の粒が一斉に拍動をやめ、庭はさらになる。
「外は今日は騒がしい。焦げた血の匂いと、薄い笑いが混じってる」私が言うと、彼は眉だけを動かした。
「境の波紋が乱れている。触ればわかる。幻想の縁が引かれている…シオンか、その模倣だ」彼の声は淡い鋭利に冷たい。
私の尾の付け根が熱くなる。幻影の名前は、皮膚に冷たい針を立てる。「排除しようか。ここに残る痕を、全部飲み込める」言葉にはしない。唇の端の笑みと、背後でぎゅっと力を入れる小さな動作で伝える。笑みが増えるほど、背後の空気が寒くなる。
「まだ必要ない。この庭は私が整える。外からのノイズは、構図で沈める」アレスは淡々と応え、手を結界の核へ伸ばした。薄い硝子の板が幾重にも重なり、符号の群れが彼の指に震えるように反応する。彼が触れると、魔力が光になり、光が景色へと溶け込む。
「静かに。深呼吸は一つだけでいい」彼は声に節をつけずに命じる。空間はその一声に応える。私の胸が締め付けられる。彼の声はいつも、穏やかな刃を含んでいる。
「あなた、綺麗ね。指の動きが夜に教えをする。私、息が止まりそう」私は小さな声で告げる。
「息を止めると目が曇る。ここでは目は澄ませておいたほうがいい」彼の返答は短く、しかしその中に風景を守る確かさが宿る。笑みが、わずかに揺れる。私はその歪みを宝石のように扱う。
彼が核の深い層に魔力を注ぎ込んだとき、耳の奥で砂が一粒落ちるような感覚が走った。光が瞬いた。私ははっとして彼に視線を向ける。
「……」彼は言葉を失った。
「アレス?」私の声がひびく。
彼はようやく低く言う。「白い、あの花だ。昨日、縁に挿した。名前が、今…」
指先が空を探る仕草をする。いつもは言葉で名を呼び、世界に秩序を与える人が、目の前で名前を探す。彼が困惑を含んだ表情を浮かべると、私の胸の奥がつねられるようだった。
「白は白で十分だ。名は要らない。色だけが、ここでは意味を持つ」彼は言葉を埋めた。
「でも、昨日は『月雫草』って呼んでたよ、あなたが」私はそっと、思い出させる。
彼の目が一瞬細まる。薄い蔑みと自嘲が交差するその表情を、私は見逃さない。彼が自分に向ける刃を、私は嫌いではない。いや、むしろその瞬間に世界が私に優しくなる気がする。危うい気持ちに、私は奥歯を軋ませる。
魔力が注がれると、空気の匂いが変わる。古い紙が擦られたときの乾いた香り、金属の冷たさに似た痕。彼の髪から、薄い文字の埃が立ち上る。私は竜の鼻でその変化を嗅ぎ分ける。彼の血の温度が一瞬だけ下がるのを感じた。砂時計の中で何かが逆さまになるような手応え。
「疲れてる?」私は返事を待たずに手のひらを差し出す。彼の手の温度を確かめるために。
「疲れてはいない。端の星の密度が不均一だ。あと三手」彼は言う。冷静だ。だが指先の動きが、いつもより慎重だった。
「ねえ、あなた。『月雫草』のこと、昨日誰の話から拾ったんだっけ?」私はもっと軽く尋ねるように言った。
彼は一瞬止まり、記憶の棚に手を伸ばすふりをして、空を掴むような仕草をした。「師の古い記録だ。名の由来はどうでもいい。形だけが重要だ」言葉は断ち切られ、彼はすぐに別の概念を取り出して埋めた。
師、という言葉。彼は師について語るとき、糸を鋼のように結ぶ。今、その糸が一瞬だけ緩んだのを、私は見た。見てしまった自分を叱る。叫べば彼は遠ざかる。遠ざかること、それが一番怖い。だから私は噛む。噛んで、沈黙の中に自分を閉じ込める。
「あなたって、いつも正しいことばかり言う。正しすぎて、腹が立つほど」私は皮肉を混ぜて言う。
「怒りを風の調律に混ぜるな。揺らぐ」彼は短く拒む。
「揺らがない。私の怒りは外へ向かう。あなたの景色を乱すもの、例えば幻影のシオン」名前を吐くと喉が焼ける。彼はその焼けるような音に眉を寄せるだけだ。
「名前をここで呼ぶ必要はない。彼の糸は見えない。見えるものだけに手を入れる」声は静かだが、輪郭を引く力がある。
私は考える。幻影は外側で引かれるだけではない。真似の力を内側へ伸ばす。映し鏡は影まで映す。彼が注ぐ魔力が、影と混ざることがあるのなら。その代償は何か。私は自分の竜の直感を押し殺す。違和感を育てないように。
「ねえ、もう一手入れる?」私は提案する。彼はゆっくり頷き、最後の線を引いた。星が指先でひとつ、溶けた。
白い花の名は呼ばれないまま、夜の端に置かれる。私はその白の縁で、燃え残った文字の匂いを嗅ぐ。何かが始まっている気がする。芽が出たことを、私は知っている。芽は小さい。だけど、光へ伸びる力を持つ。
「手を貸して」私は言うと、彼はすぐ首を振った。「手は必要ない。目だけでいい」彼の返事は短い。それがいつも通りの厳密さだ。
「じゃあ、目を。少しだけ頂戴」私は促す。
彼は私を見てから、すぐに景色へ返す。その一瞬の視線に、私は深く沈んだ。沈むほどに、光は澄む。澄んだ光の底で、私だけが知る砂の音が鳴る。違和感の芽だ。抱きしめると同時に、私はそれを切れるように刃を研ぐ。
朝の端、彼は池の表面に触れ、薄い膜がたわむ。私は昨夜、東の縁に青い苔を一枚忍ばせていた。白の余白を冷やすために置いた小さな色だ。彼が気づくだろうか。
「アレス、東の縁の青、どうする?」私はその青を指で示す。
彼は指を止めずに視線だけをこちらへ振った。「ここには白しか要らない。青は外のものだ」
「昨日、私が置いたの、見てた?」私は問いかける。
「見た。白を汚さない配慮だと思った」彼の言葉は整っているが、昨日の彼は私の青を一粒摘んで戻してくれた。指先についた冷たさを私は今も覚えている。覚えているものが少しずつ薄れる予感が、胸の中の石を暖める。
「白を置くね。青は外に戻す」私は静かに青を取り上げる。指先に残る冷たさが、彼の指と混じる。
「戻す必要はない。外は勝手に黒だ。内は勝手に白だ」彼はそう言って、視線をまた水面の軌跡に戻す。
「勝手に、はあなたの指の決定だよ」私は小さく笑う。
「指は景色の言葉を代弁しているだけだ」彼は淡々と応じる。彼の忠実さが景色を作る。その忠実さのせいで、何かが削られていくのではないかという不安が、私の内に生まれる。
私は昨日、枯木の彫刻の根元に灰色の花を挿した。小さな約束をそこに刻んだはずだった。彼は昨夜、それに目を落とし、短く言った。「夜の雨が始まったら、二十まで数える。数えたら線を一つ休ませる」と。彼の言葉が、私を少しだけ温めた。それは景色の呼吸のための約束だ、私はそう理解していた。だが今、彼の言葉に落ちる影が少し薄い。
「今夜、雨はどうかな?」私は訊く。
「雨は降らない。雲の厚みが軽い」彼はこたえる。簡潔だ。
「でも、二十まで数えるっていう約束」私は少しだけ粘る。
「数えない。音は切り分けるものじゃない」彼の返答は切り分けられている。切り分けることを嫌う彼が、何かを切り落としているのではないか。私は息を飲む。
彼の横顔を見つめる。頬骨の線、瞼の影。そこに昨夜よりわずかな空白が生まれているのに気づいてしまう。余白なら美しいが、これは余白ではない。代償の始まりかもしれない。代償の影を舌先で味わうように、私は呼吸を整える。
「花の香りが薄くなったね」と私は言った。
「薄くした。濃さは線を曇らせる」彼は説明のように返す。線が曇らないようにするのが彼の仕事だと、彼は信じている。
「昨日は濃い方を試してたよね、東の風を重くするとかで」私は念を押す。
「試していない。風は外から来る。内側は重さを持たない」彼は否定する。骨組みを守る機械のようだ。だが、その機械が自分の何かを消費しているかもしれない。魔力の燃料は、血や痛み、時間だけではない。記憶や寿命が混ざることがある。私はそれを恐れている。
「ねえ、アレス。外の軍、近づいてる」私は声を低める。
「近づいている。音がそう言っている」彼は言う。
「幻影の誰か、名前はシオン」私は付け加えると、彼は軽く眉根を寄せた。
「影は輪郭を愛する。ここは輪郭が強すぎる」彼の言葉に、私は笑う。笑いは牙を包む布のように柔らかい。
「強すぎる輪郭に、影が好き好んで近づくだろうね」私の言葉は冗談めいているけれど、背後の空気は重い。
私の計画は密やかだ。結界が彼の何かを消費しているなら、代わりの燃料を外から集めて渡す。偽の記憶、古い歌、死の森が飲み込んだ断片を薄い糸にして魔法陣へ縫い込む。彼の「覚えている」を一本でも削らせないために、私は世界を差し出す。外のものを私が食べてしまえばいい。文字通りではない。幻影を誘導し、軍を酔わせ、その残骸を魔力として渡す。私はそうする準備をしている。
「次の強化で、外の毒の層を一枚剥がすわ」私は唐突に告げる。
「剥がす?危険だ。層は均衡だ。剥がせば侵入の波が生まれる」彼は反対する。
「波は、私が受け止める」私は目を眇める。唇の端に微笑を載せる。背後で、掌がわずかに震えるだけだ。
彼はふと笑ったように見える。「君の歯は鋭い」短い称賛が落ちる。その瞬間、私は笑いを声に変えないで抱き締める。
会話がゆるやかに波打つ。外から薄紫の声が忍び寄る。シオンの声だ。庭の外周を撫でるように言葉を置く。
「その庭は解ける。解けるとき、綺麗に歌う。解く手がどれほど優しいか見てみたいな」声は柔らかく、しかし毒を含んでいる。
「ここを解くのは難しい。君の手は届かない」私は返す。言葉は短くても、刃を包んだ布のように確かだ。
語り手が消えかけると、私はまた糸を縫い、偽の歌を一つ魔法陣へ差し出す。風がわずかに笑い、白い香りが私の喉へ触れる。粉が一粒、手のひらに落ちる。温かい。温かさは記憶の余熱かもしれない。私はそれを口に含み、味わう。甘く、恐ろしい。愛しい。
「ここの模様、誰が編んだの?」声がまた外から来る。影が指を這わせる前に、私は輪郭を増やす。線を重ねて守る。守るために私は世界を壊す準備を整える。
「教えない。あなたは外。外は壊す場所」私は冷たく言う。声を低くするほど、私の内側の竜が笑う。
「君は優しい狂いだ」シオンの声が嘲る。狂い、という語は禁句ではないが、私に向けられると皮膚が震える。私は笑いを返す代わりに、外の波を吸い込む策を練る。
「君がここまでしてくれるなら、ありがとうとでも言えばいいのかな」アレスが小さく漏らす。
「言葉で角を丸くしないで。黙ってここにいて」私は短く言い、彼の息の二つ分をこの場に固定するように頼む。彼は黙り、魔法陣の鼓動が少し早くなる。鼓動が一回増えるたびに、何かが光に化ける。それは結界を強くするけれど、何かを薄くする。
「図形の比率をもう一度。黄金ではない方が風を流す気がする」彼が言う。
「私が決める。選ぶほどに、あなたの覚えているが削られる」私は答える。刃は研ぎ続ける。外を壊すための手つきは整っている。整っているからこそ、私は慎重だ。
私は薄い糸で偽の年を刺繍する。死の森の古い歌を織り込み、魔法陣に差し出す。風は一瞬だけ歓喜のように震え、白い匂いを撒く。彼の指先から、紙の粉が一粒落ちて私の掌に温かさを残す。私はそれを飲み込み、堅く歯を合わせる。噛まない。今は聞く時だ。砂の音を、彼の代償が始まらないうちの音を。
「次の夜は、私に任せて。あなたは星を数えていて」私は囁くように言った。
「星を数える?――うん、数えられる。昨日は何個だったかな」彼が不意に問いを返す。その問いの角度が少し浅い。浅さが、私の胸を引き締める。
「百二十七。あなたは覚えている。昨日も、今日も。明日は私が覚えさせる」私は強く言う。言葉が魔法陣の縁を柔らげ、古い歌を一本引き抜く。抜けた歌を私の喉で溶かし、魔力に変え、結界へ戻す。戻された力は彼に向かい、彼をさらに磨く。
私は目を閉じる。閉じると世界の輪郭を一つずつ数える癖がある。数えながら刃を研ぎ、研ぎながら笑う。笑いは白い匂いになり、彼の線に吸われるべきではないものを吸わせないように、私は世界を壊す準備をする。彼が影に撫でられる前に、私は輪郭を増やす。影の足音が近づくのを、私は聞いている。来るべき夜に向けて、私は暗く、火を灯し続けた。




