第1巻 第5章 亜人の受入れと星降る領地(2)
死の森は、もはや死の森ではなかった。
少なくとも、アレスが掌中に収め、糸一本、光の粒一つ、葉脈の曲線に至るまで選び抜き、削り、磨き、配置し直したその内側においては――かつて腐敗と瘴気と獣の呻きに満ちていた森の名残は、悪夢の底に沈んだ古い染みのように遠ざけられている。
結界の天蓋は、昼でありながら夜空の深みを宿す。透明な玻璃を幾層にも重ねた半球の膜が、森全体を覆っていた。表面には目に見えぬほど細い銀の紋様が走り、一定の間隔で星屑のような光点が瞬く。それらは単なる防御術式ではない。アレスが「景観のために」誂えた、光の呼吸だった。太陽が高く昇れば、結界は淡い金に透け、木漏れ日を過不足なく地上へ落とす。雲が流れれば、その影は不快な斑を作らぬよう、天蓋の内側で柔らかく均された。夜になれば、星々の光だけが選別され、濁った闇と不釣り合いな赤月の色は排除され、森は青銀の静けさへと沈む。
木々は勝手に枝を伸ばすことを許されない。けれどアレスは、生を殺しているわけではなかった。むしろ彼は、生命が持つ偶然の暴力を、もっとも見目良い形へ導いていると信じて疑わない。幹の傾き、枝葉の密度、苔の広がる角度、白い小花が風に揺れる高さ。すべてが結界の微細な誘導によって整えられる。風は強すぎず、弱すぎず、葉を鳴らす音量さえ統制下にあった。小川は石にぶつかって泡立つが、その泡は粗雑ではない。水面の光が目に刺さらぬよう、流れの曲線は緩やかに補正され、岸辺の丸石は偶数にも奇数にも偏らぬまま並んでいる。
この箱庭において、自然は自然であることを許されながら、同時に自然の醜さから救済される。
丘の上で、アレスは白い指先を顎に添えた。薄い外套の裾が風に揺れる。その揺れさえ、彼自身が無意識に張った小さな結界によって、絵画的な角度を保っている。灰青の瞳は、敵の侵入経路を探す者のそれではない。もっと切実で、もっと病的で、もっと孤独な眼差し。彼は世界を見ているのではなく、世界に紛れ込んだ微細な歪みを探していた。
昨日よりも一枚、南東の楡の葉が濃い。北の白樺の影が、三呼吸ほど長く地表に残っている。小川の右岸に置いた石のうち一つが、雨を吸ってわずかに色を沈めた。常人ならば祝福の風景としか思えぬ箱庭の中で、アレスは数え切れないほどの「未完成」を見つけては、眉根を微かに寄せる。
「違うな」
声は、絹糸を爪で弾いたように細かった。
「この反射は、昨日の夕刻に定めたものより半音暗い。森が沈むのは構わない。だが沈み方には品位が要る」
言い終えるより早く、彼の周囲に無数の術式円が開いた。花弁のように重なる透明な陣。そこに刻まれた古代結界語が、装飾写本の縁飾りのように静かに回る。術式は小川の上へ、木の葉の先へ、石の湿り気へと音もなく滑り、色彩、湿度、光量、気流を、一筆ずつ修正していく。
その背後で、エララは息をするのも惜しむように彼を見つめていた。
淡い銀桃色の髪は腰まで流れ、陽を受けるたび竜鱗の光沢を返す。額の両側には白磁の角。瞳は宝石を溶かした紅。背に畳まれた薄膜の翼は震え、その震えは恋慕に酔う乙女のものにも、獲物を前にした竜のものにも見えた。
「アレス様」
甘く、湿った声だった。
「今日も、完璧ですね。あなたの森は、あなたの結界は、世界でいちばん眩い……だから、どうか、そんなふうに眉を曇らせないで」
「曇らせている自覚はない」
「あります。ほら、ここ」
エララは自分の眉間を指先で示し、微笑む。指の先には触れない。あくまで、空気だけを撫でる。
「あなたの不快を生むものがあるなら、わたしが片付けます。焼いても、砕いても、爪で裂いても、足音ひとつ残しません。風下へ捨てて、匂いも置いてきます」
愛の告白としてはあまりに血腥く、処刑宣告としてはあまりに甘い響きだった。彼女は一歩近づき、アレスの外套の端に触れようとして、しかし触れる寸前で指を止める。彼の衣服の襞が今、ちょうど眩い線を描いていることに気づいたからだ。自分の欲望でそれを乱すことすら恐れた。恐れながら、同時に――もし他の誰かがこの布に触れるなら、その腕ごと噛み千切るだろうと、ごく自然に考えている。
「焼けば灰が残る。砕けば粉が舞う」
アレスは森から視線を外さず、淡々と答えた。
「排除とは、痕跡を含めて整えられなければ意味がない。醜いものを壊すだけなら野蛮人にもできる。重要なのは、醜いものが最初から存在しなかったように、趣の記憶からも消すことだ」
「……はい。はい、アレス様。仰る通りですね」
頬が紅潮する。叱責にも聞こえる言葉を、彼女は祝福のように受け取った。アレスが思想を授けてくれた――世界をどう憎み、どう愛すべきか、その基準を与えてくれた。胸で、竜の心臓が熱く鳴る。
「ねえ、アレス様」
エララは両手をそっと組んだ。祈るような仕草の中で、指先がほんの少し獣の角度に折れている。
「あなたが望むなら、わたし、この箱庭の外も整えてさしあげますの。王国も、街道も、魔王軍の陣も。星の位置だって、もしお気に召さないなら」
「星には今のところ不満はない」
「では、星は許されたのね」
彼女はくすりと笑った。その笑いは、許されなかったものを数え始める者の笑いだった。
アレスは結界の天蓋へ目を上げる。無数の光点が規則正しく瞬き、外界の瘴気と黒雲を遮断していた。死の森の外では、魔王軍の影が濃くなりつつある。魔物たちの斥候が森の縁を嗅ぎ回り、夜ごと遠くで狼煙のような黒い炎が上がる。四天王の名も、噂として風に混じり始めていた。幻影を操る者。視線と記憶の隙間に入り込み、見たものを疑わせる者。
けれど、この閉じた楽園の内側に限って、恐怖は美しく濾過されている。戦の気配すら、アレスの結界によって遠景の陰影へと変えられていた。彼は脅威を軽んじているのではない。ただ、脅威でさえ風情を乱すなら許さない。それだけのことだった。
ふと、アレスは瞬きをした。
ほんの一瞬、何かを思い出しかけたような表情が、その端正な顔をかすめる。今朝、自分は北門の障壁線を調整しただろうか。指先に銀糸を引いた感覚は残っている。だがどの順序で陣を閉じたのか、記憶の端が霧に濡れた紙のように滲んでいた。
「アレス様?」
エララが首を傾げる。声の奥に、心配ではない別の熱が揺れる。
「何でもない」
アレスは短く言い、再び天蓋を見る。
その時だった。
完全であるはずの封じの曲面に、微細な一点があった。
黒ではない。灰でもない。それでもアレスの目には、純白の絹に落ちた油染みよりも耐え難く映る。星屑の配列の中、たった一つ、光の呼吸から外れた揺らぎ。羽虫が透明な窓に脚をかけているような、無礼で、卑小で、ぞっとするほど醜い違和。
アレスの眉が、静かに歪んだ。
「……虫だ」
息よりも低い声だった。
エララの翼が、音もなく開く。紅い瞳に光が灯った。
「どこ、アレス様。教えてくださる? わたしが、今すぐ――」
「動くな」
ぴたり、と止まる。
竜姫の身に流れる熱は、アレスの一語で鎖に繋がれた獣のように沈んだ。けれど紅玉の奥では、なお焔が巻いている。アレスが不快だと言った。ならば世界はその不快の理由を差し出して処刑されねばならない。彼女の思考は単純で、純粋で、よく研がれた刃のようだった。
アレスはそんなエララの気配を視界の端に置いたまま、染みを凝視する。
それは虫に似ていた。
正確には、虫が止まっているように見える。防壁の外壁に脚をかけ、透明な膜の感触を探るように身じろぎする。だが輪郭は固定されない。瞬きをするたびに翅の数が変わり、脚の角度がずれ、胴体の太さが影の濃さと一致しない。一粒の煤のようでありながら、その煤は光を吸うのではなく、周囲の光の配列をほんの僅かに誤らせる。
通常の結界師が見れば、そこに潜む術理の異常へ意識を向けるだろう。侵入ではない。接触でもない。距離を保ったまま、視覚の座標にだけ仮初めの焦点を結ぶ、極めて高度な幻術。光幕の表面に「見えている」という結果だけを貼りつける、蜘蛛の糸より細い偵察の技。魔王軍四天王、幻影のシオンが得意とする、存在と不在の狭間を縫う目であった。
しかし、アレスの認識はそこへ至らない。
彼の中で、その揺らぎは敵ではない。情報でもない。脅威ですらない。脅威であるかどうかを考える以前に、まずそれは汚かった。
「北西の第三防壁、星灯配列の第五群と第六群の間」
アレスは独り言のように呟いた。
「あの余白は、朝の光を受けた時に森の奥行きを引き立てるため、わざと沈黙させてある。音楽で言えば休符だ。余白は余白であるから眩い。そこに何かを置いていいなどと、私は一度も許した覚えがない」
「休符に、ね」
エララの唇が、ゆっくり弧を描く。
「あの子、楽譜の読み方を知らないみたい。可哀想に。誰も教えてくれなかったのね」
彼女の足元で、芝が一筋、音もなく焦げた。続いて、また一筋。淡い緑の絨毯の上に、目に見えぬ熱の輪が広がり、露が音もなく消えていく。朝から丘を飾っていた透明な滴が、ひとつ、またひとつと蒸発し、空気に甘い草の匂いが混じった。
エララの吐息に、火の粉が混じる。
「アレス様」
声は震えていた。恍惚で。
「お願い。あれを片付けさせて。あなたの空から、あなたの言葉を失う沈黙から、あの汚れを拭わせて。わたしの炎なら、触れた痕すら残しません。北西の空ごと焼いて、新しい青を捧げます。ねえ、いいでしょう?」
その懇願は、献身の皮を被った何か別のものだった。エララ自身はそれを区別していない。彼女にとって燃やすことは、アレスを愛することの一形式に過ぎなかった。
ただ一人を除いて、誰も彼女を止められない。
「エララ」
アレスは、空を見上げたまま名を呼ぶ。
含まれていたのは叱責ではなく、測量だった。竜姫を宥める柔らかさではなく、乱れた庭木の枝を剪定する前に角度を定める庭師の冷静さ。エララの肩が、震えながら止まる。喉奥で膨らんでいた炎が押し留められ、唇の端から細い煙が漏れた。
「はい、アレス様」
「君の炎で庭の温度が変われば、朝露の輝きが損なわれる」
戦略でも安全管理でもない。彼はエララが放つ竜炎の威力を恐れたのではなかった。封じに傷がつくことを懸念したのでもない。意識を占めていたのは、ただ朝露だ。丘の斜面に残る無数の小さな水滴。太陽と結界光の角度を受けて、真珠色から淡金へ移ろう一瞬の輝き。その繊細な階調が、竜炎の熱で蒸発し、あるいは過剰な温度変化によって鈍ることが、彼には耐え難い。
「朝露は、消えるから息を呑む。だが消える時刻は私が決めた。今ではない」
「……わたしの炎より、朝露が大切なのね」
普通ならば悲しみに沈む言葉だ。しかしエララの声は甘い。痛みに酔い、屈辱を愛撫のように受け入れる者の甘さ。
「違う」
アレスはようやく彼女を見た。灰青の瞳は冷ややかで、けれど完全に無関心ではない。
「君の炎は透き通っている。それでもこの場面に置くには強すぎる。配置、温度、時間、距離。すべてが適切であって初めて、存在は許される」
エララの膝がわずかに崩れた。胸を押さえ、頬を赤らめ、湿った吐息を吐く。
「はい……はい、アレス様。わたし、待ちます。あなたが許してくださる時まで。爪も、牙も、心臓も、全部、あなたの仰る場所に置きますの」
そう言いながらも、視線は一度だけ、天蓋の一点へ戻った。声に出さない宣告がそこにあった。今は、待つ。だが、いつかは。
アレスは再び天蓋へ向き直る。虫はまだそこにいた。エララの気配を浴びても逃げることなく、ただ封じの表面にへばりついている。その図々しさが、神経をさらに逆撫でした。
「さて」
短く、息を吐く。
「掃除の時間だ」
右手が、指揮棒を振るように軽く上がる。
その瞬間、光幕の天蓋全体が、ほんのわずかに色を変えた。昼の青が深まり、星屑の光点が鋭さを増す。攻撃の予兆ではない。ただ、アレスが自分の庭の「設定」を少しだけ変更しただけだった。
北西の第三防壁。星灯配列の第五群と第六群の間。
そこに生じていた微細な歪みが、突然、透明な炎に包まれる。
熱はない。音もない。ただ、そこにあった「存在」が、空間ごと削り取られるように消えていく。幻影のシオンが放った偵察の目は、封じに触れた部分から、酸に溶かされるように崩れていった。
遠く離れた魔王軍の陣地で、シオンは突然、片目を押さえて蹲った。
「……な、何だ、これは……」
指の隙間から、黒い血が滴り落ちる。幻影を通して送り込んでいた魔力が、逆流して視神経を焼いた。
「私の……目が……見え、ない……」
シオンは呻き声を上げる。彼の幻影は、これまでどんな結界もすり抜け、どんな防壁も欺いてきた。だが、アレスの防壁は違った。それは防ぐものではなく、拒絶するものだった。アレスの美意識にそぐわないものを、存在そのものから否定する、絶対的な拒絶。
シオンは残された片目で、血に濡れた指を見下ろす。指先がかすかに震える。術を破られた痛みではない。恐怖でも、まだない。理解の外側から、無造作に自分の精緻な幻影を踏み潰されたことへの、屈辱と驚愕が混じった震えだ。
一方、光幕の内側の丘の上では、何の音も起きていない。
アレスは指先を下ろし、天蓋の北西を見つめる。そこにあった一点は、もうない。星灯配列の第五群と第六群の間には、彼が望んだ通りの余白が戻る。余白は沈黙し、沈黙は奥行きを生み、奥行きは白樺の幹に淡い青を与えた。小川の反射は半音明るさを取り戻し、丘の朝露は蒸発の時刻を乱されることなく、真珠色から白金へと滑らかに移りつつある。
「よし」
アレスは小さく言う。
それは勝利宣言ではない。掃除を終えた者の確認だ。机の上の埃を払った後、花の向きを直した後、額縁の傾きを正した後に漏れる、満足というには冷たく、安堵というには淡い声。彼の表情から不快の影がわずかに消え、灰青の瞳に、再び趣を測る静かな光が戻る。
エララはその横顔を見て、胸の奥を掻き毟られるような陶酔を覚える。
彼女には、アレスが何をしたのか完全には分からない。ただ、竜炎を放つこともなく、怒声を上げることもなく、戦いの構えを取ることすらなく、あの不快な虫を消したことだけは分かる。しかも、彼の指はほとんど動いていない。彼の美意識が、封じそのものを手足のように従わせた。エララの唇が震える。羨望と恋慕と崇拝と、そして少しだけ、自分が焼き殺す機会を失ったことへの暗い嫉妬が、蜜のように混ざり合う。
「アレス様……やっぱり、あなたは研ぎ澄まされています。あなたが不快だと思ったものは、世界に残ることすら許されないのですね。わたし、見ていました。あなたが指を動かしただけで、あれは最初からなかったみたいに消えました。ああ、でも……わたしが消したかった。あなたのために、わたしが、わたしの爪で、炎で、あの汚れを――」
「君が動かなかったから、露は保たれた」
アレスは、天蓋から視線を外さぬまま言う。
その一言で、エララの嫉妬は歓喜へ反転する。彼女は両手を胸に当て、心臓をアレスへ捧げるように身を傾ける。翼はゆっくり畳まれ、尾は芝を撫でるほど静かになる。先ほど焦げかけた苔の端には、アレスの補正によって再び冷気が宿り、小さな露がひと粒だけ生まれる。エララはその露を見て、ぞっとするほど幸福そうに微笑む。自分の殺意を止めた結果として残った雫。アレスが大切だと言った輝き。ならばそれは、彼女にとって聖別された宝石にも等しい。
「はい。わたし、あなたの露を守れました。あなたに止めていただけたから。あなたの景色の中で、邪魔にならずにいられました」
「邪魔にならない位置を覚えることだ」
「覚えます。何度でも。たとえ忘れても、あなたがもう一度置いてください。わたしを、あなたのいちばん眩い場所に」
アレスは返事をしない。エララの言葉の底にある狂気を、受け止めるでも、拒絶するでもなく、ただ風景の一要素として聞き流す。今、彼にとって重要なのは、天蓋の余白が正しく戻ったかどうかであり、朝露の消える時刻が予定からずれていないかであり、北西の白樺の影が丘の曲線に対して適切な濃度を保っているかだ。
整った彼の世界は、何事もなかったかのように息をする。
外界では魔王軍の黒い旗がはためき、四天王の一人が砕けた水晶盤の前で沈黙する。それでもこの内側に届くのは、濾過された風の香りと、葉擦れの均衡と、水面に散る光だけだ。アレスは満足げに目を細め、それから、ほんの少しだけ眉を動かす。
指先に、奇妙な既視感が残る。
今と同じように、何かを消したことがある。そう思う。眺めを乱すものを、意識するまでもなく、ただ不要だからと拭い去ったことが。虫だったのか、影だったのか、誰かの声だったのか。記憶は薄い霧の向こうで、形を結ぶ前にほどけていく。心の底でに、針先ほどの空白が触れた気がする。
アレスはその感覚を、しばらく見つめていた。




