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第1巻 第5章 亜人の受入れと星降る領地(3)

天を覆う分厚い暗雲が、永遠に晴れることのない夜を演出している。魔王軍の本拠地たる『黒曜の城塞』は、切り立った絶壁の頂にその威容を誇る。天を突くようにそびえ立つ無数の尖塔は、大地が流す黒い血が凝固したかのような禍々しさを放つ。城塞の周囲には常に冷たい瘴気の風が吹き荒れ、岩肌を削る甲高い音が絶え間なく響き渡る。

 その城塞の最深部。魔王の玉座へと続く広大な謁見の間は、重苦しい沈黙に支配されている。床に敷き詰められた漆黒の大理石は、壁際に並ぶ松明の揺らめく炎を鈍く反射し、空間全体に底知れぬ奥行きを与える。

 天井を支える巨大な柱には、かつて魔王軍に逆らった者たちの骨が埋め込まれている。彼らの怨嗟の声が微かな風鳴りとなって広間を漂い、足を踏み入れた者の精神をじわじわと削り取る。ここは、力こそが絶対の正義とされる魔族たちの頂点。弱者はその存在すら許されない、冷酷にして無慈悲な空間である。

 その冷たい床に、片膝をついて荒い息を吐く者の姿があった。

 魔王軍四天王の一角、『幻影のシオン』。

 常に優雅で冷酷な微笑を絶やさない彼女の姿は、今は見る影もない。豪奢な紫黒のローブは無残に引き裂かれ、そこから覗く青白い肌には、焼け焦げたような生々しい傷跡が幾つも刻まれている。傷口からはどす黒い血が滲み、大理石の床に赤い染みを作る。彼女の周囲には、未だに制御しきれない幻影の魔力が、ノイズのように明滅しては消える。

 傷跡からは、わずかに焦げた肉の臭いと、竜特有の強烈な魔力の残滓が漂う。シオンの端整な顔は苦痛に歪み、額からは脂汗が滝のように流れ落ちる。肉体的な苦痛もさることながら、彼女の誇り高き自尊心は、その傷以上に深く抉られている。己の絶対的な魔法が、いとも容易く無に帰されたという事実が、彼女の精神を内側から食い破ろうとする。


「……報告いたします。死の森における偵察任務、失敗に終わりました」


 シオンの震える声が、広大な謁見の間に虚しく響き渡る。肺の奥から絞り出したようなその声は、かつての艶やかな響きを完全に失う。

 その言葉に、周囲を取り囲む魔王軍の幹部たちから、どよめきが漏れる。幻影のシオンといえば、魔王軍の中でも屈指の隠密行動と情報収集のスペシャリストだ。彼女の幻影魔法は、いかなる高位の魔術師の目をも欺き、対象の精神を絡め取る絶対の力を持っていたはずである。その彼女が、これほどまでに無残な姿で敗走してくるなど、誰一人として予想だにしていなかった。

 幹部たちの間には、驚愕と同時に、微かな嘲笑の色も浮かぶ。魔族の社会は徹底した実力主義。他者の失敗は、自身の地位向上の絶好の機会だ。血生臭い野心と暗い歓喜が、謁見の間の空気をじっとりと湿らせていく。


「失敗だと? 貴様ほどの者が、たかが辺境の森の偵察で後れを取ったというのか」


 玉座の傍らに立つ、重装甲に身を包んだ巨漢の将軍が、侮蔑の籠もった低い声で吐き捨てた。彼の名はゴルザ。身の丈を優に超える巨大な戦斧を背負い、歩くたびに分厚い鋼の鎧が耳障りな金属音を立てる。力こそすべてと信じる生粋の武闘派であり、搦め手を得意とするシオンとは以前から反りが合わなかった。


「黙りなさい、ゴルザ。あの森は……もはや森などではありません。狂気の産物です」


 シオンは、喉の奥から血の味を感じながら言葉を紡いだ。

 死の森。かつては凶悪な魔獣が跋扈し、濃密な瘴気が立ち込める魔王軍の天然の防壁であったはずの場所。そこは生命が朽ち果て、腐敗と死が支配する領域だった。しかし、彼女がそこで見たものは、その常識を根底から覆す異様な光景である。


「狂気の産物だと? 言い訳がましいぞ、シオン」

「言い訳ではありません。森の一部が、完全に『書き換えられて』いました。木々は幾何学的な整然さで配置され、枝葉の一枚に至るまで計算し尽くされたように揺れている。流れる小川は水晶のように澄み切り、咲き誇る花々は季節を無視して寸分の狂いもない均衡を保っている。腐敗の匂いなど微塵もなく、ただ甘く清浄な空気が満ちていました。……それは、一人の人間の異常な執着によって構築された、巨大な『異界』でした」


 シオンの報告に、幹部たちの間に困惑の波が広がる。結界魔術によって拠点を防衛すること自体は、決して珍しい戦術ではない。魔族の軍勢も、野営の際には簡易的な結界を張る。とはいえ、シオンが語るそれは、防衛という本来の目的を完全に逸脱している。自然の摂理そのものを捻じ曲げ、己の理想のままに空間の法則を支配する。それはもはや、神の領域に足を踏み入れるような恐れ多い所業だ。

 先ほどまでシオンを嘲笑っていたゴルザでさえも、その常軌を逸した報告に太い眉をひそめ、沈黙せざるを得ない。理解の範疇を超えた事象に対する本能的な警戒が、屈強な戦士の口を閉ざさせた。


「その異界の主は、アレスと名乗る人間の結界師です。奴の結界は、私の幻影魔法を完全に無効化しました。いや、無効化したという生易しいものではありません。私の魔法が、奴の領域を乱すノイズとして認識され、結界そのものによって自動的に排除されたのです」


 シオンの言葉には、隠しきれない恐怖が滲む。

 幻影魔法の極致にある彼女の力が、ただ「美しくない」という理由だけで、いとも容易く掻き消された。それは、魔術師としての彼女の存在意義を根底から否定されるような、圧倒的な絶望である。何百年もの歳月をかけて磨き上げてきた技術が、児戯にも等しい扱いを受けた。

 彼女が展開した幻影は、アレスの結界に触れた瞬間、無残に霧散した。汚れた染みを無造作に拭き取る手つきだった。何の抵抗も許されず、ただ「そこに在るべきではない」と世界から弾き出された。その時の、自分の魂そのものが漂白され、存在を否定されたかのような感覚は、今思い出しても背筋が凍る。指先が微かに震え、彼女は無意識のうちに自身の腕を強く抱きしめた。


「さらに……奴の傍らには、極めて厄介な番犬がいました」


 シオンは、自身の身体に刻まれた生々しい傷跡を忌々しげに見下ろす。


「番犬? まさか、あの森に棲み着いていたという……」

「ええ。竜姫エララ。かつて我々が手を焼いた、あの狂暴な竜の末裔です。彼女はアレスという人間に異常なまでの執着を見せ、彼に近づく者すべてを容赦なく排除しようとします。私のこの傷も、彼女の竜の炎と鋭い爪によるものです。奴の絶対的な結界と、エララの理不尽なまでの暴力。この二つが組み合わさったあの空間は、もはや難攻不落の要塞と化しています」


 謁見の間は、水を打ったような静寂に包まれた。

 アレスという正体不明の結界師と、彼に付き従う竜姫エララ。その二人の存在は、魔王軍にとって決して無視できない巨大な脅威として、突如として喉元に突きつけられた刃となった。

 エララの放つ炎は、単なる物理的な熱量にとどまらない。それは対象の魔力そのものを燃料として燃え上がり、魂の形すらも焼き尽くす恐るべき性質を持つ。シオンが辛うじて命からがら逃げ延びることができたのは、彼女が幻影魔法の奥義を惜しげもなく使い、自身の分身を身代わりにしたからに過ぎない。もし一瞬でも判断が遅れていれば、彼女は灰すら残さず消滅し、あの忌まわしい庭の肥料になるはずだ。思い出すだけで、焼かれた皮膚の下で幻痛が暴れ回る。


「……ほう、面白い」


 玉座の奥深く。光すらも届かない深い闇の中から、地を這うような低い声が響いた。

 その声を聞いた瞬間、シオンを含むすべての魔族が、弾かれたように頭を垂れる。魔王軍の絶対的な支配者。その姿は濃密な闇に覆われて定かではないが、そこから発せられる魔力の波動は、謁見の間の空気を物理的な重さを持って圧迫する。肺が押し潰されそうになり、呼吸すらも困難になるほどの重圧。

 魔王の存在感は、そこに座しているだけで周囲の空間を歪めるほどに強大である。彼が言葉を発するたびに、分厚い大理石の床がわずかに震え、壁際の松明の炎が怯えたように小さく揺らめいた。


「単なる人間の結界師が、我らが領域の目と鼻の先で、己の異界を作り上げていると。しかも、あの誇り高き竜姫を飼い慣らしてな」


 闇の中で、二つの赤い眼光が妖しく輝く。それは血よりも赤く、深淵よりも暗い光を放つ。


「シオンよ。貴様の報告が真実であるならば、そのアレスという男の結界は、単なる防壁ではない。それは、世界そのものを己の法則で塗り替えようとする『侵食』だ。放置すれば、いずれ我らが黒曜の城塞すらも、奴の『仕上がった風景』の一部として飲み込まれるやもしれん」


 魔王の言葉に、幹部たちの間に冷たい戦慄が走る。

 結界とは通常、内側を守るためのものである。外敵の侵入を防ぎ、中の安全を確保する盾。だが、アレスの防壁は根本的に性質が異なる。己の異常な執念に反するものを徹底的に排除し、空間を己の望む形に強制的に作り変える。その執着が外側へと向かった時、それは最も恐ろしい侵略兵器と化す。

 仮に、この黒曜の城塞がアレスの防壁に飲み込まれればどうなるか。禍々しくも威厳あるこの城塞が、彼にとっての「理想通りの光景」に書き換えられ、魔族たちはその光景を乱す不純物として一方的に消去される。それは、魔王軍の完全なる敗北、いや、存在そのものの抹消を意味する。


「……それに、気になることもある」


 魔王の声が、わずかに思案するような響きを帯びる。


「それほどまでに強大な封じを維持し、自然の摂理を捻じ曲げるには、莫大な魔力だけでは到底足りん。魂の根源に関わるような、何か決定的な『代償』を支払っているはずだ。……奴の結界には、まだ我々の知らない脆弱性が隠されているかもしれん」


 その言葉に、シオンはハッと顔を上げた。

 確かに、アレスの結界は常軌を逸している。その異常さゆえに、どこか危ういバランスの上に成り立っているような、微かな違和感を覚えたのも事実だ。彼が何か重大なものを犠牲にしてあの封じを維持しているのだとすれば、そこを突くことができるかもしれない。

 シオンは記憶の糸をたぐる。アレスの瞳の奥に、時折よぎる虚ろな光。彼が一分の隙もない情景を追求するあまり、人間としての大切な何かを少しずつ失っているような、そんな微かな兆候。感情の欠落か、あるいは記憶の摩耗か。それは、幻影魔法で人の心の深淵を覗き見る彼女だからこそ感じ取れた、かすかな綻びだ。


「全軍に告ぐ」


 魔王の冷徹な声が、謁見の間に響き渡る。それは、いかなる異論も挟むことを許さない絶対の命令だ。


「死の森に展開するアレスの領地を、我が軍の最優先排除目標とする。これより、大規模侵攻の準備を開始せよ。第一陣として、魔獣の大群と重装甲部隊を差し向ける。奴の封じがどれほどのものか、その限界を物理的に見極めるのだ」


「はっ!」


 幹部たちが一斉に呼応し、謁見の間に地鳴りのような怒声が響いた。

 ゴルザは獰猛な笑みを浮かべ、自身の巨大な戦斧を大理石の床に力任せに打ち付ける。火花が散り、ひび割れた床から魔力が漏れ出した。他の幹部たちも、それぞれの武器を手に取り、血に飢えた獣のように戦意を高揚させる。魔王軍という巨大な軍事機構が、ついに本格的に動き出そうとする。


「シオン。貴様には雪辱の機会を与えよう。傷を癒し、次なる作戦の立案に加われ。奴の防壁の構造、そしてエララの動き。貴様が命懸けで持ち帰った情報が、この戦いの鍵となる」


「……御意に。必ずや、あの忌まわしい庭を、我らが瘴気で黒く染め上げてご覧に入れます」


 シオンは深く頭を下げながら、その瞳に暗い復讐の炎を燃え上がらせる。

 彼女の誇りを粉々に打ち砕いた、あの忌々しいほどに整然とした防壁。そして、自分を路傍の石ころのように見下ろした竜姫エララ。次こそは、必ずそのすべてを無残に破壊し尽くしてやる。

 彼女の傷跡が、復讐の誓いに呼応するようにズキリと痛む。しかし、その焼け付くような痛みすらも、今の彼女にとっては精神を研ぎ澄ます心地よい刺激だ。


 謁見の間での軍議が終わり、幹部たちが次々と退出していく。

 黒曜の城塞は、にわかに殺気立った慌ただしい空気に包まれ始めた。地下の広大な武器庫からは、剣や鎧を打ち据える重々しい金属音が絶え間なく響き渡る。底知れぬ深淵に設けられた魔獣の檻からは、新鮮な血肉に飢えた凶暴な咆哮が幾重にも轟く。魔王軍という巨大な軍事機構が、アレスというたった一人の結界師をすり潰すためだけに、その重く冷たい歯車を回し始めたのである。

 空を覆う暗雲はさらに厚みを増し、時折、空を引き裂くように紫色の稲妻が走る。雷鳴が遅れて腹の底に響く。


 シオンは自室へと戻る薄暗い回廊を歩きながら、ふと立ち止まり、石造りの窓枠から外を見下ろした。

 眼下に広がるのは、魔王軍の支配領域である荒涼とした大地。ひび割れた赤茶けた土と、枯れ果てた木々がどこまでも続く死の世界だ。そしてその遥か彼方、分厚い暗雲の切れ間から、微かに死の森の方角が見える。

 あそこに、あの異常な空間がある。

 アレスという男は、今もあの狂気じみた妄執の中で、防壁の微細な調整を続けているのだろうか。そしてエララは、その傍らで彼に愛を注ぎ、甘い声で囁きかけているのだろうか。


(……至高の領域、か。反吐が出る)


 シオンは、焼け焦げた自身の腕をそっと撫でる。

 彼女の幻影魔法は、人の心の隙間に入り込み、ほんの小さな恐怖や絶望を何百倍にも増幅させることを得意としている。アレスの防壁がどれほど非の打ちどころがなかろうとも、彼自身の心に何らかの綻びがあれば、そこから内側へと侵入し、精神を崩壊させることができるはずだ。

 魔王が指摘した「代償」。

 もしアレスが、あの障壁を維持するために何か大切なものを失い続けているのだとすれば。その微かな兆候、違和感を見逃さず、そこを徹底的に抉り出せばいい。

 アレスがふとした瞬間に見せる、記憶の欠落のようなもの。彼自身は気付いていないかもしれないが、シオンの目は誤魔化せない。あの領域は、彼の魂を少しずつ削りながら維持されている、脆く儚い砂上の楼閣に過ぎない。


(待っていなさい、アレス。そしてエララ。あなたたちのあの庭を、最も醜悪で血生臭い地獄へと変えてあげるわ)


 シオンの唇の端が、歪な三日月のように吊り上がった。

 嵐の前の静けさが、黒曜の城塞を包み込んでいる。だが、その地下深くでは、死の森を焼き尽くすための業火が、今まさに産声を上げようとしている。

 アレスの異常な執着と、エララの愛。そして、魔王軍の圧倒的な暴力。

 それらが激突する時は、もう間近に迫っている。世界を巻き込む巨大な戦乱の足音が、確かな地鳴りとなって、死の森へと近づきつつあった。

 シオンは窓から視線を外し、再び薄暗い回廊を歩き始める。彼女の足音は、冷たい石造りの床に不気味な反響を残しながら、底知れぬ闇の奥へと消えていった。

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