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第1巻 第5章 亜人の受入れと星降る領地(1)

森の縁に、薄い白が降りた。朝靄に似て、湿り気が違う。鼻腔を抜けた空気に、土の甘みではなく金属めいた澄みが混じる。触れれば冷たく、しかし肌を濡らさない。絹の裏地を撫でる指先の感触に近い膜が、枝葉の間でゆっくり渦を描く。


渦の芯に、人影。


長い影。細い体躯。腰までの黒銀の髪が流れ、目元には細い仮面。魔王軍四天王のひとり、幻影のシオン。本体は北の岩窟に籠もる身。ここに立つのは意識を編んだ投影だけ。足元に影はなく、苔は彼を重みとして受け取らない。踏み込む動きに揺らぐのは、草の先だけ。


「……これは、これは」


仮面の下で息を吐く。ため息とも、感嘆とも、皮肉とも取れる音色。


目の前には、死の森のはずの土地が広がる。瘴気の名残は見当たらない。湿った腐葉土の匂いはある。だが、その上に置かれた色が違う。翡翠の星苔が岩の凹凸を縫い、深い緑が陰を受け持つ。枝の分かれは交わらず、葉の薄さにまで光が行き届く。庭に長けた誰かの手が、間引きと剪定と配置を積み重ねた結果――そう言い当てたくなる景色。


「結界、と一言で済ませるのは惜しいな」


男は薄く笑う。


「防御とは効率。ぎっしり詰めた図形で堅くする。それが常識だ。だが、ここは……見目が力に直結している」


彼は片手を上げ、指先に薄い黒を絡めた。墨でも煙でもない、熱のない影。薄膜に触れる。弾かれない。白に黒が滲む。吸い込まれていく。


「やはり。隙なく整えた景色は、『似たもの』を拒まない。私は私の輪郭を削り、こちらの意匠に合わせる。異物ではなく、一片の飾り。そう見せれば、門は開く」


言い切る声は軽い。軽さの奥で、計算が回る。


投影の体は結界の縁を越えた。苔は彼を風と同じ扱いにする。撫でられた葉がわずかに揺れ、戻る。その場に痕跡は残らない。


「美の皮を剥いで崩すつもりが、皮自体が骨になっている。剥いだ端から新しく生える。……厄介だが、理解できる範囲だ。中枢まで行ける」


口元が上がる。自信の角度。


その瞬間。


透明な硝子に囲まれた塔の露台で、長椅子に座る少女が耳をぴくりと動かした。黒髪を高く結い、控えめな衣。侍女のような姿。彼女の名はエララ。竜の血を引く姫。人の形を保つのに困難はない。だが今、縁どりが揺らぐ。瞳孔が縦に細まり、白目に淡い金のうろこが薄く浮かぶ。


鼻先に、違う温度。


「……アレス様の、空気に……虫が、混じった」


囁きに音の重さがない。冷えた刃のような薄さ。


エララは膝の裏から静かに立ち上がる。繻子の張地に残した温もりが椅子に沈み、それもすぐ消える。腰のひねりが柔らかく、踏み出す足に音がない。露台から見下ろす庭は、遠目には緻密な装いに見える。だが彼女にとっては一つの円。中心はいつも同じ。温室。そこにいる人。そこで動く指。そこで微かに笑う口元。


視線は円の縁へ滑る。そこに、薄い欠け。


「……いた」


言葉が熱を帯びる。笑みが浮く。喜びの曲線ではない。獲物を見定めた獣のきらめき。


「見てる。私の人を、見てる。ふふ」


唇の奥で息が振動した。彼女は露台の縁に片足を置き、重さを預ける。次の瞬間、黒髪が弧を描いた。髪先が一瞬、銀の鱗へと転じる。人の形を崩さぬまま、重力を半分無視する歩幅で、白い塔の外壁を駆け下りた。石肌を軽く蹴るたび、靴裏が仄青い点を残す。すぐに消える点。



結界の第二層に達したところで、シオンの歩が止まった。


「……寒い?」


投影に体温はない。あるはずがない。なのに、肌のない肌が冷えたような錯覚が走る。いや、錯覚と切り捨てるには、感覚が鮮明だ。神経は使っていない。魔素の網で世界を撫でる。網が震える。


「見られている?」


視線を巡らす。一糸乱れぬ小径。刈り込みの角がこの上なく心地よい。白い薔薇が左肩の高さで静止。風はない。なのに、花弁が一枚、ゆっくり外れた。


白が滑空し、落ちる瞬間、薄い表面に映り込みが走る。


縦に裂けた金の瞳。


「――」


仮面の下で、息が凍る。寒気が投影の背骨を貫き、本体まで届いた。彼は座標を十歩分後方にずらす。足ではない。空間に貼り付けた存在の位置情報に手を入れる。幻影術の根幹。


彼のいた場所を、白い線が薙いだ。


風ではない。腕。女の腕。白い肌。指先が透明に伸び、刃と化す。何の音もなく、空気が切られた。薔薇の香りが一瞬だけ濃くなり、すぐ薄れる。


「……竜か」


シオンの声が初めて掠れた。


「報告にあった『姫』。比喩じゃなかった。竜の姫」


姿はまだ見えない。薄い気配が、四方からまとわる。自分の影の中。薔薇の茂みの中。梢。苔。目に見えるものが全部、匂いのようにこちらへ寄って来る。押し寄せる感情は熱を持つ。冷たい刃の軌跡とは裏腹に、湿り気がある。


「守護獣の勘定ではないな。主の命令だけで動く硬い筋ではない。……好き、なのか。あの結界師を」


仮面の奥で、口元が歪む。愉快とも不気味ともつかぬ笑い方。


「面白い。しかし、今日は退く」


彼は投影の構造線に命令を流す。「散る」。塗り込めた輪郭を剝がし、一枚ずつ景色へ戻す。靄に、一筋の光に、一枚の落葉に。シオンは庭の意匠に溶けた。気配が紙吹雪のように分解し、静けさに落ちる。


最後の一片が消える刹那。


茂みの陰から、エララが出た。


人の姿。侍女の衣。瞳孔はまだ縦に細く、唇の端から小さな牙が光る。彼女はシオンのいた空間を眺める。見つめ続ける。長い秒が落ちる。苔の上の露が、彼女の吐息で震えた。


深く吸う。


「……残り香。雄。……強い、術者。アレス様より、若い。……仮面」


一つ一つを舌で転がす。言葉ではなく、味わいを記録する仕草に近い。


「さっき、見ていた。うちの人を、じっと」


膝をついた。膝頭が柔らかい苔を押し、指先が緑を撫でる。指の腹に香りを集め、唇へ運ぶ。触れ、舌先に当てる。微かな鉄の匂い。乾いた香。冷えた石。


「覚えた。消えない。次」


彼女は、自分の親指をそっと噛んだ。皮膚に白い歯が触れるだけ。血は出さない。噛む音は出さない。その仕草の中で、何かが決まる。


「また来るね、きっと。ふふ。……内緒にしよう。あの人の景色、ざわつかせたくないの。私が片付ける」


楽しい秘密を抱え込む子どもの声に近い。目は笑っていない。縦に細い金が、冷えたまま光る。


遠くから、声。


「エララ、どこにいる。北東の藤棚の色味について意見を聞きたい。きみの目はあの淡紫の機微を解する」


名を呼ぶ音が、塔の壁と葉裏でやさしく跳ねる。温室で響く声は乾いた紙の擦れに似て、耳に柔らかく入る。


その瞬間、エララの瞳孔が丸く戻った。牙が唇の中へ収まり、頬に淡い熱がさす。頬の血の色が、藤の薄紫と呼応する。


「はーい。今、行く」


明るく返す。足を払って立ち上がる。スカートの裾についた苔を軽く払う。指で髪の乱れを整える。走り出す背中から、ほんの一瞬だけ、熱の揺らぎが遠くの地面にひろがる。巨大な影の形。すぐに散った。



同じ時刻。


温室。アレスは硝子越しの光を肩で受け、紫の絵の具を皿で溶き、藤の花弁と見比べていた。指先に絵の具の重さ。鼻先に暈ける花の甘い匂い。光が葉に反射し、視界に淡い緑が混じる。額に手を当てる。手の熱が自分自身の皮膚に伝わり、その熱が硝子の冷えでゆるむ。


「……今、誰かが私の庭を、無遠慮に歩いた気がする」


言葉にして、喉に小骨の感触が残る。名前の出ない違和感。すぐ隣に置いたはずの筆が見つからない時の、あのずれに似る。


「気のせいか」


自ら答えを出す。肩を一度だけ回す。筋と筋がほぐれる感覚。視線を皿の上へ戻す。


「茶がほしい。エララの淹れるあの温度で」


独り言の声が薄く笑う。足音。彼は藤と絵の具の間にまた潜り込む。薄紫に、雫一滴ほど青を混ぜる。絵皿の縁に筆を当てて鳴らす。硝子越しの光の角度が少し変わる。藤の花房が風もないのにわずかに揺れ、光が葉脈に沿って走る。


「アレス様、お待たせしました」


エララが温室に入る。扉の開閉の音が小さい。彼女は盆を持ち、茶器を置く列に迷いがない。動きに止まる瞬間がない。置いた茶から立つ湯気が、柔らかい線を描く。紫の香に、焙じた香が加わる。


「きみの目を借りたい。北東の棚。淡紫の幅を五つに割った時、三番目が薄い気がする」


「見せて。あそこ、私も気になってたの」


エララは盆を下げずに窓の外を覗く。視線の動線が軽い。指で一点を指す。


「ここ。朝と昼で影が違うから、昼の薄さが夜に響くの。枝を半分だけ詰めるか、房の向き、少し変えるといいと思う。ほら、この房、下を向き過ぎ。風がないと寝ちゃうの」


「なるほど。ならば二節だけひねる」


アレスは指を二本、軽く鳴らす。枝の先が微かに震え、房の角度が整う。音は静か。だが、庭の隅々まで同じ命令が行き渡る。形が揃う瞬間に、温室の硝子に映る光が、わずかに澄んだ。


「いい。これで整った」


「うん、きれい。ねえ、藤の下に置く石、白を一枚足してもいい? 紫が沈むと、朝の光で映えないの」


「きみの判断に任せよう」


アレスの返答は短い。短いのに、そこに信頼の重さがある。エララはにっこり笑う。湯気越しに彼を見る目が、柔らかい。柔らかいのに、底が深い。手元で茶の蓋を少しずらす。香がふくらむ。


「熱いから気をつけて」


「ありがとう」


アレスは湯気を一度、鼻で受けた。その温度を舌で思い描き、少しだけ息を吹く。茶が口に入る。喉を落ちる線の太さ。胸の内側で広がる熱が、さきほどの違和感を薄めた。


「……先ほどの感覚、やはり気のせいだな」


「何かあった?」


「いや、ほんの、庭の空気が一枚乱れたような。だが、もう綺麗だ。きみの手が、よく働いているからだろう」


「そう。じゃあ、よかった」


エララの返事は穏やか。視線が庭に戻る。その瞳は丸い。縦に裂けた影は、どこにもない。ただ、笑みに薄い静けさが宿る。彼女は盆を抱えて一礼し、少しだけ腰を傾ける。


「藤の白、拾ってくるね。朝日がまだ柔らかいうちに」


「頼む」


エララは温室を出る。扉が閉まる直前、彼女の横顔にうっすらと影がよぎる。目の奥に金が沈み、すぐ消える。硝子は全てをよく映す。だが今の一瞬は、誰も見なかった。


アレスはまた筆を取る。紫に、白を少しだけ混ぜる。温室の湿り気は変わらず、外の葉擦れだけがわずかに響く。光の角度。匂い。絵皿の縁に残った絵の具の乾きかけた弾力。彼はその全てで、目の前の紫を決める。


森の上、結界の天蓋の上、更にその向こう。昼のはずの空の奥で、目に見えない星がひとつ、瞬いた気配。



茂みの陰では、足跡が残らない。残り香だけが淡く漂う。エララは背の低い木の間を歩き、鼻先で空気を割る。塵の一粒にまで舌の神経が伸びるように、匂いを拾う。


「本当に、上手。溶けるのが」


評価の音は小さく、乾いている。嫉妬の節回しはない。声の代わりに、彼女は爪先で苔を撫でた。柔らかい緑が指の腹で寝る。起こす。寝かす。起こす。そうして、その場の香を記憶に焼き付ける。


「仮面。若い。自信がある。……うん」


一つずつ並べるたび、指が葉を一枚折る。折るたび、葉脈の水がほんの少しだけ光る。彼女は折った葉を地に戻す。整える。踏み荒らされた跡はない。目に見える乱れもない。それでも、彼女の内側は、少しだけ熱をためる。


「次は、見えるところまで来るといいのに」


葉の裏に口元を隠して笑う。言葉は軽い。軽いのに、笑いに温度が乏しい。手のひらに爪の先が触れる。うっすら白い筋が皮膚に刻まれる。すぐに消えた。


視線を塔に戻す。塔の上、温室の端で光が揺れる。アレスがそこにいる。これでいい。これだけでいい。そう言い聞かせるように、彼女は息を吐いた。吐息が葉に当たり、葉の表面に残った露がわずかに震える。


「内緒」


唇の内側で言葉が溶ける。誰にも届かない声の高さ。


彼女は白い石を一枚拾った。指先の冷えを楽しむように持ち替えながら、藤棚の下まで運ぶ。置く位置を迷わない。光の落ちる場所に正確に置く。置いた途端、紫の帯の一本が柔らかく浮かび上がった。


「いい子」


石に囁き、背筋を伸ばす。塔へ戻る足取りが軽い。軽さの裏で、指先だけに、硬い緊張が残る。彼女はそれを意図的に解かない。溶ける敵に、溶けない爪。噛まない歯。噛む瞬間は、次。



同じ日の夕刻。北の岩窟。


石の天井から冷水が一滴落ちる。広げた皮紙に音が響く。ランプの明かりで影が揺れる。仮面を外したシオンは、羽根ペンを走らせた。言葉は無駄がない。細い字が並ぶ。


「防壁は庭として完成されている。美が支え。飾りが骨。剥がせば生える。複雑な層構造。侵入は可能だが、速度と静けさが必須。侵入者が景色の一部に見える限り、門は開く」


一息置く。ペン先のインクを落とす。紙の端に滲む黒。


「そして」


彼は少しだけ手を止めた。白薔薇の花弁に映った眼を思い出す。縦の金。背筋に走った感覚。爪の透明。音のない切断。温度の高い意志。


「竜の姫。出会う前に嗅ぎ付ける鼻。主の傍では気配が倍加。視界に入らずとも届く腕。あれは結界より厄介だ。こちらの意志に触れてくる」


彼は最後の行を丁寧に書く。筆致が慎重になる。


『竜姫、要警戒。彼女は結界より厄介である。彼女は、愛している』


ペンを置く。岩窟の中、静けさが戻る。滴りの音だけが続く。シオンは仮面を指で回し、笑った。笑いの理由は自分にも説明しない。口の端に薄く上がる線だけ。


手紙を封じる。印を押す。使い魔に渡す。羽音が一度。洞窟の冷気が羽を押す。夜の空へ一筋、黒が飛ぶ。彼の視線はその後を追わない。目を閉じ、庭の白と紫を思い出す。薄い香。冷えた空気。透明な爪。


彼は目を開け、別の紙を取り出した。地図。次の線を引く。次は、もう少し近くまで行く。輪郭を、触る寸前まで近づける。触れない。触れずに、見渡す。彼の指先に薄い黒が絡む。笑いが消える。目が沈む。静かな準備。夜の底。空気が凍る。


そして、あの庭では、藤の色がひとつだけ、理想に近づいた。エララは石を一枚、さりげなく増やした。アレスは湯気を一口分、もう一度楽しんだ。違和感はどこにも見えない。見えないものは、ただ、そこにあるだけ。次の気配のために。

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