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第7巻 第4章 エララの涙(5)

石畳に片膝を落とし、アレスは敷石の継ぎ目へ白い指を差し入れた。薄く乾いた葉を摘み上げ、朝の角度を確かめるように葉脈へ光を通す。指先にざらりとした紙の手触り。冷えの残る石が脛へ触れて、体温との違いを静かに知らせる。


「……三センチ、ずれている」


吐息ほどの小声。だが、そのひとことが周囲の空気を引き締めた。薄紫の瞳が細くなる。刃のような視線。けれど動きは、街を撫でる掌そのもの。


朝霧がほどけ、広場と通りが姿を見せる。銀の屋根が順に光を拾い上げ、乳白色の城壁の層が内側から淡く反射した。藤の窓枠、深藍の扉。戸口に並ぶ白い星形の花——アストラリリーが一鉢ずつ頷き、鉢の向きは揃っている。風が通る線と香りの流れが見えるような、そんな朝。


「アレスさま、おはようございます!」


籠いっぱいの焼き立てのパンを抱えた兎人の少女が立ち止まる。香ばしい湯気が鼻へふんわり触れた。


「あの、それ、わたしが落とした葉かもしれなくて……」


「いや、君のせいではない」


アレスは葉から視線を外さず答える。


「北北東から零・二秒だけ吹いた弱い風。その揺らぎを見落とした私の責任だ。補正を入れる」


彼が息をひとつだけ吐く。指先から薄青い糸が継ぎ目へすっと吸い込まれた。直後、空気の澄みが一段上がる。風の通り道が撫で直され、見えない手が髪を梳く感覚が広場へ広がった。


「わ、今、頬に触った風、柔らかかったです。ほんとに、アレスさまの溜息で街がきれいになるんですね」


「半分は言い過ぎだ。半分は観察力だ」


少女は耳をぴんと立てて笑い、ぺこりと頭を下げて駆けていく。白い尻尾が弾む。その小刻みな周期と通りの直線の対比まで、アレスの目は拾った。


「おばあちゃん、見て、水が七段もある!」


中央広場の七層の噴水で、猫人の孫がはしゃぐ。最上層から透明な水がこぼれ、星形の水盤へ落ちていく。水音が重なり、陽に合わせて小さな魔石が七色の筋を投げた。


「足を入れるなら端っこでね。冷えるよ」


猫人の老婆が笑い、縁に腰を寄せる。彼女のしっぽがゆっくり動き、水面に小さな波。


「おーい、台はこっちだ。脚、あと一ミリ短い!」


通りの向こうではトカゲ人の青年が朝市の屋台を整え、木と木が擦れる音が合図のように響く。


「郵便、北通りに四件! 風、良い感じ!」


屋根へ影を落としながら、有翼人の配達少年が翼を震わせた。瓦の銀が朝陽を返し、彼の影が幾何の模様に見える。


「ん、今日は土、やわらかいねえ」


地下から土霊が顔を出す。掌で土をほぐすたび、地面に微細な震えが走った。


「半年前なら、こんな朝、夢みたいだったよな」


「俺ら、森の奥に隠れてたからな」


ふたりの亜人が声を低く交わす。人間の街から追われ、死の森へ押しやられていた記憶は薄れつつある。代わりに今、種族の垣根を越えて「おはよう」が行き交う現実が、身体に馴染んだ。


「最近な、夜、よく眠れるんだ」


「うちの畑も芽吹きが早いよ」


「心の裏がざわざわしないっていうか……」


通りの端から端へ、そんな声が漏れる。理由はこの街の誰もがもう知っている。アレスの結界が、害を遮るだけの殻から、命を支える器へ変わったからだ。あの半年前——彼が一度消え、竜姫エララの心臓の鼓動に身を預ける形で戻った、その出来事のあとから。


背後で低い声が落ちた。


「アレス」


振り返らずともわかる。半径数メートルの空気が密になり、重さが変わる。竜姫エララだ。


「おはよう、エララ」


「おはよう、ではない。朝餉に来なかったな」


朝陽を背に立つ姿は目を引く。波打つ漆黒の髪が腰の下まで流れ、先だけかすかに紅を含む。瞳は金。黒絹に銀糸の刺繍が走る長衣は、襟元の鱗を思わせる紋様が細かく織られている。こめかみに残る小さな銀鱗が、朝の光を受けて瞬く。


「葉が落ちていた」


「それで街全体の風を撫で直したのか。……あなた、手を止める気はあるの」


呆れた声の端に、わずかな緩み。片手には大きな籠。蒸しパンの湯気、色の良い果物、白磁の水筒——食卓を連れてきたのだ。


「エララさま! 今日も、その……お、美しいです!」


太陽みたいな笑顔を向けてきたのは熊人の青年大工。勇気を振り絞ったのだろう。


金の瞳が細くなった瞬間、街路樹の梢がぞわりと震え、鳥が一斉に舞い上がった。噴水の水しぶきが一拍だけ宙に留まる。空気が冷え、背筋に薄い膜が張る。


「……アレスより先に、私の容姿に触れるな」


声は低い。耳の裏をくすぐるような響き。彼女の笑みは口元だけで、目は笑っていない。黒い袖口の陰で、光が細く屈折した。


「ヒッ、す、すいません! 他意はなく、街並みの一部として……」


「エララ」


アレスがそっと彼女の手首に触れる。ごくわずかな圧。何気ないようで確かな制止。熱を持つ掌が、彼女の皮膚の下を流れる鼓動へ静かなリズムを与える。


金の瞳に宿っていた棘が溶ける。こめかみの銀鱗が小さく震え、落ち着いた。


「彼は職人だ。西区画の鐘楼は、彼の腕で立った。端正な街は、端正な手で形になる」


それは半分、街を守る言葉。半分、彼女の心へ向けた撫で声。


「……アレスがそう言うなら」


「許してやってくれ」


「うん。あなたが言うなら」


熊人の青年は腰を抜かしたまま、何度も頭を下げて後ずさる。やがて走り出し、木材の音が遠のいた。広場に残る空気が、元の温度へ戻っていく。


「座れ」


アレスは噴水の縁に腰を下ろし、エララも隣に座る。肩が触れる位置に、彼女は落ち着く。黒の長衣の裾が石へ影を落とした。


「食べる」


蒸しパンを一つ、半ば押し付けるように彼の口元へ差し出す。


「自分で食べる」


「いいの。私が作ったから」


「……君が?」


「人の姿で台所に立つの、覚えた。あなたのために」


竜が台所で粉を練る。蒸気を読み、火を見張る。その絵が胸に浮かんで、アレスは目を瞬いた。蒸しパンを口へ運ぶ。ふわりとした生地、甘く煮た木の実が歯に触れ、香りが鼻へ上がる。


「美味い」


「当然」


エララは満足げに息をつく。だが、金の瞳の奥に薄い脆さが灯った。アレスは彼女の掌に自分の手を重ねる。人より少し高い温度が、ちょうど良い。


「エララ」


「なに」


「この街は、綺麗だろう」


「あたり前。あなたが造ったんだから」


「違う。君がいるから、そう見える」


肩がぴくりと跳ねた。俯いた黒髪が頬を半ば隠す。露わになった耳の先が、ほんのり赤い。朝の光が銀の屋根に一斉に跳ね、街じゅうが星屑を浴びたみたいに煌めいた。


「おばあちゃん、この石、つるつる!」


「指を切らないようにね」


「兄ちゃん、そっちの棚、香草は上段に。香りが混ざるから!」


市場の方から声が飛ぶ。乾いた香草の匂いと新しい木材の香りが、朝の空気へ溶け込んだ。有翼人の少年が屋根の縁にとまり、足で瓦を軽く叩く。カン、と澄んだ音が一つ走る。


「アレス、南の水路の曲がり角、昨日の流れ、ちょっと鈍かった」


隣でエララが囁く。


「石を一つ置き換える」


「手伝う」


「頼む」


短い言葉で足取りが決まる。二人の会話は常にそうだ。要点だけで、足りないところは指先の温度が補う。


「おーい、アレス様!」


西で熊人の青年が手を上げた。さきほどの失態を引きずりながらも、声に明るさが戻っている。


「午前中の西区画は風が強くなる。作業は昼からだ」


「はいっ! ……助かります!」


返る声は軽い。恐れが皆無なわけではないが、尊敬が上回っている。


噴水の水面に映る空は灰青から薄い水色へ変わっていく。太陽の角度が上がり、影が短くなり、音の層が厚くなる。台車の軋みが続き、人々の足取りが速くなっても、街の呼吸は乱れない。


「アレス」


「なんだ」


「北門の門番が言っていた。夜の風が少し冷たいって」


「魔晶石の層の一部が冷やされ過ぎた。熱の配分を調える」


彼は指をひと振りしただけだ。


「……巡れ」


小さな声。城壁の白に沿って微光がすっと走り、石の奥で見えない脈が組み替えられる。胸の内側に、温度が均されていく感覚が広がった。


「ふふ。あなたがいると、この街の鼓動、乱れないね」


「君が隣にいると、私の手も迷わない」


視線が重なる。二人を見ていた子供が、小さな手で友達の手を握って真似をする。笑い声が連鎖した。


「お針子さん、これ長さ、どう?」


「針はこう。指に力を入れすぎない」


猫人の老婆が孫へ縫い針の扱いを教える声が聞こえる。トカゲ人の青年は屋台の脚に小さな木片を噛ませ、がたつきを消した。


「アレス様、最近、夜、悪夢を見なくなりました」


通りの端で、疲れが抜けた顔の獣人が会釈する。アレスは短く頷き、風の経路と光の角度、音の通りを整え続けた。耳へ入るのは、石へ落ちた水音、遠い鐘の練習の響き、果物を切る小さな刃の音。鼻の奥へは、焼き上がる生地の甘い香りと、湿った土の匂いが交互に届く。


「アレス様、あの花、鉢の向き、これでいい?」


アストラリリーを両手で抱えた小柄な土霊が控えめに声を掛ける。


「もう少し右へ三度。影の線を見て」


「三度……はい、こう?」


「光が背を撫でるように」


「うん、気持ち良くなった」


土霊は嬉しそうに土を整え、土の中からほくほくとした熱がふわりと昇る。鉢の影が床に描く線は、流れの方向を示す矢印だ。


「アレス様、最近、空気が甘い日があるの、なんでかしら」


屋根の上から有翼人の少年が首をかしげた。


「南の果樹園の花が増えた。風向きの線を一本、変えたからだ」


「へえ! じゃあ、手紙が果物の匂いになる日があるんだね!」


笑い声が瓦の上で弾んだ。


「飲め」


エララが水筒の蓋を外し、温かい飲み物を注ぐ。穀物と果皮の香りが蒸気とともに立ち上り、鼻先に触れた。


「次、何を作るの、教えて」


「汁物だ。季節の野菜を使って、体を温めるもの」


「わかった。今日の夕方、台所に立つ。……アレス様、味見、頼んでもいい?」


彼女はさらりと呼びかけ、視線だけ彼の反応をうかがう。


「ああ。喜んで」


彼の答えに、エララの耳の先がまた赤くなる。指が触れ合い、ほんの少しだけ絡んだ。


「おまえら、昼は南の水路行くのか?」


遠くで熊人の青年が声を張る。


「行く。曲がり角で石を一つ入れ替える」


「水音、良くなるな。それ、俺も好きだ」


「私も好き」


エララが小さく頷く。彼女の金の瞳が柔らかく揺れ、水面の陽が跳ねるのと同じリズムで光る。彼が消えるかもしれないという恐怖は、こうして一緒に過ごす朝の積み重ねで薄れていく。彼女は他者の視線に反応しがちで、彼の姿を確かめる回数は多い。だからこそ、彼は彼女の手首に触れ、肩を寄せ、言葉を重ねる。それだけで世界は落ち着く。


「なあ、あの鐘、もう正午に鳴るんだって?」


「昨日から鳴るよ。音、川沿いまで届くんだ」


「じゃあ、昼飯の合図がわかりやすくなるね」


西区画の鐘楼の話が飛び、川沿いの市場で笑いが起きた。香りの層が混ざり、時間の流れが街の上で太くなる。


「アレス様、ここの影、午後に伸びすぎる」


トカゲ人の青年が噴水の縁で、渋い顔をする。


「午後の光は高い角度から来る。軒の長さを手のひら分だけ切り詰めろ。影の形が整う」


「了解!」


返事はすっきりしている。彼の手は素直だ。


「ところで、アレス」


エララが小声で囁く。風の音に紛れるくらいの声量だ。


「昨夜、私、変な夢を見た。あなたの指が、音を集める夢」


「悪くない夢だ」


「起きたら、胸が軽かった。……だから、また朝餉を持ってきた」


彼女はそれだけ言って、ふいと視線を水面へ落とす。唇の端が、意識せずにほころんだ。


「その夢、君の鼓動が良いテンポを刻んだんだろう」


「うん」


短い肯定。銀鱗が光を拾い、頬があたたかい色に見えた。


「おい、門番!」


北門の方から声が飛ぶ。少し離れた場所で、門番同士が夜の巡回の話をしている。


「昨日の風、冷たかったよな」


「城壁、冷えすぎてた。手、触れたらひやりとしたもん」


その会話が届く前に、エララはもう報告していた。アレスはさっき組み替えた熱の流れに、耳の奥で手応えを感じる。街の心臓の鼓動が滑らかになり、皮膚の下で血がよく巡る錯覚。


「ねえ」


エララの視線が彼の横顔をなぞる。睫毛の影、頬の骨の線、喉仏の上下。視線の先を彼は受け止め、目を細め、肩を一つ小さく寄せた。


「人の視線、気になる?」


「少しだけ。……でも、今は大丈夫」


彼女は籠の中から最後の蒸しパンを取り出し、自分の口へ運ぶ。ふわりと頬が和らぎ、金の瞳の縁がほどけた。


「アストラリリー、また一輪、開いた」


土霊が小さな声で喜ぶ。その白は街の呼吸のリズムを目に見える形に変え、鉢の角度が昼の影の線を探っている。


夕方になれば銀の屋根は桃色を薄くまとう。鐘の音は西の丘へ伸びるだろう。夜には空から星が降りる錯覚の瞬間が来て、屋根の線と星の筋が重なって街は一つの図形になる。そこへ住む者たちは点であり線だ。誰もがこの場所を編む糸の一本。


「焦らないでいい」


アレスが指を彼女の手に絡める。手袋越しでもわかる熱が伝わった。


「焦ってない。あなたの笑う回数、増やしたいだけ」


彼の口元がゆるみ、喉から短い笑いがこぼれる。エララの耳の赤が、さっきより濃くなる。


朝はまだ続く。働く声、遊ぶ声、呼びかける声、叱る声、励ます声。音が層を重ね、香りが混じり、光が移る。水は落ち、石は冷たさを少しずつ手放し、木は柔らかな影を延ばす。空が広がり、鳥が線を引き、雲は形を忘れる。街は今日という章のページをめくる。


この世界の隅で、星を迎える準備は整いつつある。箱庭は狭いようで広く、限りがあるようで余白が多い。アレスはその枠を保ち、エララは内側へ熱を分ける。二人の静かな日常が中心にあり続ける。


死の森という名は、もう過去形だ。代わりにここにあるのは、星が落ちるのを待つ場所。彼の結界が風の迷子を導き、彼女の金の瞳が迷いを焼いて払う。復興はとっくに結果を出し始め、日常はようやく始まったところ。朝餉を分け、仕事を分け、心を分ける。そうして今日も、アステリアは生きる。


「行こう」


アレスが立ち上がる。石の冷たさが膝から離れ、足裏に地の感触が戻る。エララも立ち、籠を軽く持ち直した。


「南の水路。曲がり角の石を入れ替える」


「了解」


肩が触れたまま、二人は広場の端から南の水路へ歩き出す。昼の石の置き換え。今日の仕事の最初の章だ。

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