第7巻 第4章 エララの涙(4)
魔王の断末魔が、空気の膜をまるごと震わせた。耳鳴りの奥で骨がきしみ、舌に鉄の味が滲む。湿った土と樹脂が熱で焦げ、夜気の匂いに苦味が混ざる。裂け目が走ったのは音の方ではなく、世界の底の方だ。古い闇がひとつ、抜け落ちる音。
アレスは両腕を横に伸ばした姿勢のまま、そこに留まる。白銀の外套が斜めに引かれ、裏地が月の薄光を拾う。黒い髪が頬をかすめ、視界に闇の糸を落とす。まぶたは動かない。喉が微かに鳴り、息が白く散った。
「……美しい」
彼はそれ以上の言葉を用意しない。夜空は澄み、上空の大きな弧の内側に六角形の格子が広がる。光はその面で折れ、粒になり、梢へ降りた。星の粉が、静かに落ちる。指で触れる前に溶ける儚さで。
七年分の手触りが、掌に戻る。冬の夜の硬さ、夏の風のぬるさ、雨上がりの樹皮。列柱のように重ねた陣が、最後の瞬間でひとつの図に合わさった。歯車が噛み合う音はしない。代わりに、胸の裏で何かが止まる気配がある。
右手の指先が、ふっと遠のいた。痺れとは違う。鈍い暗がりが皮膚の内側から薄く広がる感覚。火が、芯から小さくなっていく。大崩壊で一度消えた命は、戻った。戻ったが、そこには他者の熱の輪郭がある。エララの核の半分が、彼の中で燃えていた炎。今、その炎が役目を終えようとする。
目を伏せる。脈が浅く、静かだ。右手を顔の前へ上げる。関節の薄い影が星の粒を欠けさせる。細かい震え。紙片ほどの揺れ。それを見て、アレスは息を一度だけ深く吸った。冷気が鼻を抜け、肺を滑る。落ち着いている。拾い上げた景色があるからだ。
背後で気配が切り替わる。土が蹴られ、空気の重さが変わった。
「アレス」
名を呼ぶ息が、近い。エララが駆け寄る足の踏み込みは、獣のものと人のものの間のような音を立てる。彼女は泣いていることに気づかない。頬に線ができ、雫が顎から落ちても、まばたきさえ節約する。視線はアレスの背の丸みに縫い付けられていた。
膝が地を蹴る。体が沈む前に、エララの腕が胸から抱き止める。衝突の鈍い音が一瞬だけ起き、すぐ消えた。支える腕は熱く、筋が固い。彼女は足を広げて踏ん張り、力をわずかに配る。壊れ物の上に手を置くみたいに、アレスを仰向けに寝かせた。苔の弾力が背にあたる。乾いた草の茎が外套の裾で折れ、香りが立つ。
上から星の粒が降る。六角の面が夜を返し、小さな光が髪に、頬に、指の甲に落ちる。アレスの瞳は開いたままだ。金の色が今だけ柔らかい。追い詰めるものも、測るものもない光がそこにあった。
「……ほんと、手間をかける人」
エララは彼の頭を両手で包む。掌に冷たさが乗る。声は柔らかく、そこに熱を潜らせている。
「言えば止めたのに」
「言ったところで、止めるからな」
「当然でしょう?」
「だから、言わなかった」
短いやり取りで、七年と一夜の埋め合わせをする。彼女は唇の内側を強く噛み、血の味を自分の舌で隠した。自分がどうするか、過去の自分がどうしたか、全部わかっている。結界より彼を選ぶ。そう言い切れる今の自分がいる。アレスは薄く笑い、視線を上へずらした。
「完成だ。見ろ」
「……すごい、ね」
エララの言葉が素直に落ちる。彼女は普段なら口にしない種類の賛辞を滑らせた。星が降る。六角の一面ごとに明るさが違い、風が揺らす枝の影が薄く動く。瘴気の膜が消えた天蓋には、点が多い。梢の先が銀になり、葉の縁が淡く光る。彼の黒髪にも、彼女の赤い髪にも、均等に降る。
「よく、ここまで」
小さく呟いた瞬間、アレスの呼吸が浅くなった。手のひらが、重さを失う。体温が逃げる。エララは頬を挟む手に力を足す。指が冷たい皮膚に沈む。眉間が小さく寄る。
「アレス、目を見て」
「……うるさい」
「閉じないで」
「閉じないさ」
「今は、だめ」
白い息が細い。夜の温度だけのせいではない。内側の熱が薄くなっている。判断は速い。彼女は左手の甲に爪を立て、ためらいなく裂いた。血が強く匂う。竜の血は人の傷に効く。それは知っている。だが、その効能が視界の淵にある刃に変わることも知っている。あの夜、核を半分彼に与えた。残りはひとつ。ここで使えば、世界から自分の輪郭が薄くなる覚悟が必要だ。
それでも、彼の唇の方へ手がいく。赤が流れる。落ちる前に、アレスの右手が彼女の手首を掴んだ。乾いたはずの指が、強い。骨の奥で止まるほどの力。
「やめろ」
「……放して。今しかないの」
「お前の核は、これ以上削らない」
「また私の勝手、って言う?」
「今回は、私の番だ」
金の瞳がまっすぐこちらを見据える。ひどく静かな硬さがあった。言い訳の余地を削り落とす視線。
「お前がいなくなれば、この景色を分かつ相手がいない。完成の意味が薄れる」
エララの睫毛が震え、雫がこぼれる。彼の言い方は昔から変わらない。彼の愛は別の語彙で話される。「美しくない」とは言わない。けれど同じことだと、もうわかっている。
「……ずるい」
「そうだ」
「七年も、黙って準備して。私が止めるって知ってたくせに」
「止めるから、言わなかった。お前がどうするか、私は知っている」
「知ってるなら、頼って」
「終わるまでは無理だ」
彼は彼女の手首を引き下ろす。血の線がぷつ、と切れた。エララの手を自分の胸に置く。掌の下で心臓が硬く打つ。小さく、でも規則的に。背中の苔がひんやりして、外套越しにも湿り気がわかる。
沈黙が降りた。上からの光と、遠い場所からこちらへ向かう足音のリズムだけがある。枯れ草が順に踏まれ、乾いた破片が擦れる音が少しずつ近づく。
エララはアレスの顔を覗き込む。彼のまぶたは重い。眠気がある。消えかけの線ではなく、単に落ちようとする眠りだと確かめる。呼吸の深さが戻りつつある。胸がゆっくり持ち上がり、下がる。
「寝て。起きたら、全部話すの」
「……長いぞ」
「いい。こっちは暇だから」
口元がわずかに上がる。笑った。吐息がほっと緩む。
「なら、そうする」
それが今夜の終わりの合図になった。彼の体から力が抜ける。完全に、静かな落下。腕の重さがエララの太腿に移る。膝の上に頭を乗せ、彼女は額に手を置いた。竜の体温が、冷たい皮膚を温める。指先で髪を梳く。黒い一本一本に光が宿る。
星の粒がまだ降る。箱庭は、いま完成したばかりだ。アレスが七年をかけて積み上げたものが、ようやく形を持つ。彼が愛したものを包み、守るための器。エララは今夜、初めて心からそれを「綺麗」と認めた。彼が命を賭けた理由が、胸の中で音もなく定位置に収まる。
足音がいくつも集まる。仲間たちが駆け寄る影が、星粒を遮って伸びた。
「姫さん、無事か!」
「アレスは?」
「脈、どうだ?」
口々の問いが重なる。手が伸びる。触れようとする。
エララは視線だけで制した。笑う。唇の端を上げる。背後でわずかに冷気が揺れ、彼女の髪の周りに薄い白の息が輪になる。足元の草が、霜に似た透明を刹那だけ纏った。
「順番。ひとりずつ、ね」
その声はやわらかい。けれど、誰も一度に近づかない。彼女の静かな合図が、刃より効く夜がある。
「僕、脈だけ診させて。器具は使わない」
医務係の青年が両手を上げて見せる。掌が空だと示す仕草は、野生の群れの前で身を低くするのに似る。エララは考え、短く頷いた。
「三つ数える間だけ」
「一、二、三……良かった。安定してる」
「次は、布。彼に触れないで敷くだけ」
仲間が外套を広げ、苔と草の湿りと冷えが上がってこないように下へ差し込む。エララはわずかに体を浮かせ、彼の頭の位置を崩さないように布の端を整えた。指の動きは細かい。髪が乱れないよう、首筋の隙間に風が入らないよう。
「エララ、あなたの手、血が」
女魔術師が小さく声を上げる。エララの左手の甲から、まだ赤が伝っていた。彼女はそれを見下ろし、肩をすくめた。
「平気。噛むのが怖いなら、私に触らないこと」
冗談に置いた調子に、周囲の空気がすこし緩む。笑う者はないが、張り詰めた音がひとつ外れる。彼女は傷を舌で舐め、血の鉄っぽさを飲み込む。竜の血はすぐに止まる。皮膚が寄り、赤が薄れる。
周囲の視線がアレスに戻る。彼は眠る。胸の上下が規則正しく、顔の表情筋がゆるい。睫毛に星の粉が一粒だけ残る。エララはそっとそれを指先で取る。それを見た弓手が、息を飲んだ。
「姫……そんな顔、初めて見た」
「そう? 寝顔を見られるの、あなたたちの方が珍しいのに」
穏やかな笑みは、夜の端を明るくした。竜姫の異名を知る者が、同じ人物の別の面に言葉を失う。彼女の微笑は刃を隠す鞘ではなく、刃そのものの光をやわらげる布のようだ。
「アレス、聞こえる? 私はここ。起きたら叱るから」
「起きたら、でいいのか?」
からかう声が出る。短い笑いがいくつか出て、すぐに消える。場は戻り、誰も大きな物音を立てない。枯れ草の上で足の置き方が変わる。
エララは彼の額に手を当て続けた。温度差がじわじわ埋まる。肌の乾きを掌で感じる。夜の匂いの中に、彼の匂いが薄く戻ってきた。金属と紙と墨の匂い。長い年月、彼の周囲にあったものの匂いだ。
「……ねえ、七年のこと、覚えてる?」
彼女は彼の耳元に囁くように問う。眠りに落ちている彼に届くかどうかは関係ない。自分のための言葉だ。
「あなたが線を引いて、消して、また引いて。雨の日も、雪の日も。私を避ける日も、わざとぶつかってくる日も」
微笑は、そこに留まる。声がわずかに揺れる。星の粒がまたひとつ髪に落ちた。
「あの夜のこと、覚えてる。あなたが消えた瞬間。私は核を割って、半分を押し込んだ。戻ってきたあなたは、私を見もしないで言ったの。『次に、最後の線だ』って。腹が立ったのに、嬉しかった」
仲間たちは黙って聞く。誰も楽な相槌を挟まない。彼らも知っている。あの夜の冷たさ。今夜の星の温度。それが同じ世界の温度差であること。
「全部終わったら、言うって約束。あなた、忘れてないでしょう?」
返事はない。代わりに、呼吸のリズムがふっとなった。
「いい子。寝て」
彼女は囁き、髪を撫でる。その仕草は恐ろしく静かで、下草が擦れ合う音さえ遠のく。背筋の奥で冷気が鳴る。彼女の背後の空気が、薄く白い欠片を光に立ち上らせた。周りの者たちは、一歩だけ引いた。
「エララ、夜明けまでここに?」
「動かない。彼が起きるまで、ね」
「なら、周囲を見てくる」
斥候が影の中に消える。他の者が火を起こそうと手を動かすが、エララは首を振った。
「火は要らない。煙が残るの、嫌い」
「了解」
彼らは厚手の布を重ね、風を遮るだけに留めた。結界の面がほんの少しだけ音を立て、遠い夜の向こうで鳥が羽音を落とす。樹皮の割れ目に冷気がたまる。星の粒が減ってきた。落ちる速度が緩い。最後の方の光は重い。
エララは空を見る。六角の面の継ぎ目が、星の川を微妙に曲げている。こういう歪みの好みは彼だけの癖だと、彼女はもう知っている。直線も曲線も、その場の明るさに合わせていた彼の手元を、間近で何百回も見た。彼が線を消す時の癖。息を吐くタイミング。光の角度を指で測る動き。そうした細部が、今は全部静かに眠っている。
「アレス様、起きたら何食べるの」
わざと、ふざけるような声の調子を乗せる。呼び方の古い響きに、彼の口が動いた気がした。見間違いかもしれない。同時に、そうでなくてもいいと思う。
「熱いスープ? それとも、いつもの薄い茶と固いパン。ねえ、あなたは味に頓着ないから、困るの」
仲間の誰かが、息を飲んで笑いを止めた。彼女の声の柔らかさは、いつもの刃の音と違う。彼らは、拾い物のようにその空気を扱う。落とさないよう、静かに。
東の気配が変わる。木々の隙間の一角が白む。冷えがほんの少し軽くなる。湿った土の匂いに、乾いた空気の匂いが混じる。夜の音が減り、遠いところで水が薄く鳴く。夜明けが来る前の沈黙は、いつもより厚い。
「最後の粒、落ちるまで」
エララは呟いて、目を眇めた。降り注いだ星の火が、森の隅々に散った。今夜の層が終わる。彼が描いた箱庭は、朝に引き渡される準備をしている。彼女は手のひらに彼の重さを感じ続けている。重さが変わらない限り、ここにいる。
医務係が小声で伝える。
「体温、少し戻ってる」
「知ってる」
「あなたの手、熱いから」
「こういうときに役に立つの、便利でしょう?」
「……助かってる」
短い会話の合間に、風が一度だけ強く吹いた。六角の面が一斉に薄く鳴り、森の上に揃った音が広がる。楽器の調整のように、どこかの点に合わせて音が収束した。アレスは、眠ったまま口の端をほんの少しだけ上げた。夢の中ででも、彼はたぶん、音の行方を追っている。
「あなたなら、きっと言う。『少しだけ歪みがある』って」
「言うだろうな」
誰かが相槌を打つ。エララは笑った。短く、含むものの多い笑い。
「……朝になったら、彼に言って。次はあなたたちの番だって。私は、見ているだけ」
「え?」
「彼が起きたら、説明するの。七年の線の全部じゃない。けど、彼がひとりで担いだ重さのいくつかを、分ける方法はあるから」
仲間たちは顔を見合わせ、ひとりが深く頷いた。
「任せて」
エララはもう一度、彼の額に触れる。肌の下で血が流れる音が、自分の手に伝わってくる気がする。実際は伝わらない。けれど、こうして初めて本当に彼の内側の動きを一緒に数えている気がする。
「……眠ってていい。起きたら、話そう」
光が増す。六角の面のそれぞれに、薄い朝の色が差す。星の粒はほとんど落ち尽くし、最後のひとつが、ゆっくり彼の頬の近くに降りてきた。エララは手を伸ばさない。それが触れる瞬間を見届ける。
箱庭に、朝が来る。彼が作った器は、夜を無事に越えた。この夜の意味は、たぶん彼が目を覚ましたときにしか完全には整わない。だから、それまで守る。彼の眠りと、彼が見たがった景色と、彼の帰る場所。
エララは笑い、息を整える。微笑は長く、薄く続いた。彼女の笑みを初めて見る者は、言葉を失い、目を伏せる。恐れられた顔に、こんな穏やかさが宿ることを知らなかったからだ。
彼は、ここにいる。消えずに、戻ってきた。その重みが膝の上で確かな分だけ、世界は軽くなる。朝の最初の光が、彼の睫毛に触れる。エララはまぶたの上の薄い影を見つめ、目を閉じない。彼が開けるまでは。彼の呼吸に合わせ、じっと数える。最後の星の粒が、穏やかに、静かに、落ち切るまで。




