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第7巻 第5章 魔王完全復活(1)

夜空から垂らされる柔らかな光の糸を、エララは静かに見上げた。星は落ちるのではない。意思を持って降りてくる。結界の内側は、夜ごとにその糸を光の雫に変え、園の隅々に撒き散らす。白砂の回廊には星露が並び、小さな水路に沿って微かな水音が走る。石は寸分の狂いなく端に寄せられ、苔は切り揃えられた髪のごとく、風にそよぎながら整列する。空は透明な鉢の裏面。指先で撫でれば澄んだ音を返しそうな、薄い張りつめをまとっている。


エララの裳裾の先が砂に触れるたび、砂は星の粉のようにきらめき、彼女の影を静かに形づくる。影は長い。星の光が伸ばしたそれは、他のどんな影とも交わらない。彼女の翼は折りたたまれ、背中に収められている。かつての鱗の剛い光は消え、代わりに彼女の肌には薄い擦過痕のような円環の痕が刻まれる。心核の半分を彼に渡したとき、そこに熱い輪が燃えた。今も時折、その輪は夜の庭を移ろう風と同じ速さでかすかに疼く。


「……きれい」


吐息に乗って零れた声は、あまりにも静かだ。庭のどこを指しての言葉だったのか、自分でもわからない。白砂の波紋なのか、黒光りする立石なのか、用心深く刈り込まれた常緑の並木なのか。それとも、透明な水鏡に浮かぶ一枚の葉の、銀に近い裏面か。あるいは——


「アレスが好きな角度」


足の位置を一歩ずらすと、並木と水路と石が、彼の好む対角線の透視を描く。遠近の消失点が生まれ、見えない糸が彼女の足首から空へ投げられ、星の一つと結び合う。アレスがいつも、指の先で空気を撫でながら探した線。彼にとって世界は線だ。見出すべき筋、整えるべき角度、補うべき光と影。その全てを彼は「一分の隙もない造形」と呼んだ。


「『この石は、もう半分尺右だ。苔が、この角を食っているのが惜しい』」


囁くように彼の声を真似る。昔、死の森の奥、腐海の瘴気が人の骨を溶かした場所で、彼は無表情に石を持ち上げ、置き直した。手は細いが強い。爪の先まで幾何学。彼の背に、彼女はすぐに恋をした。恋というより、それは咬み痕のように、自分の心に彼の影を刻む行為。彼の設計した空間を守るためならば、血に塗れても構わない。そう思った。実際、彼に近づくものは片端から遠ざけた。遠ざけられないとわかれば、消した。今、その回想の片鱗が、この精緻な庭の端々に染みている自分の指紋のように恥ずかしい。


「ごめんね」


小さく、誰にともなく詫びる。風鈴が答えるように音を振った。風鈴は龍の鱗から削られた薄い欠片で作られている。彼女が渡し、彼が吊した。彼は、心地よい音を求めたのではない。空間に必要な音を求めた。庭の音色の配置も、彼の厳密さの範囲内。それでも、鱗の鈴の音は、彼女の胸の痕を撫でる指のように、甘く柔らかい。


「『音が遅い』」


今も耳に残る、批評の声。あのとき、鈴はもっと重かった。死の森の腐敗した風に、重みは適合しない。彼は鈴をひとつひとつ削り、庭の音が生まれる速度を調整した。星が降る速さと、風が渡る速さと、苔が胞子を飛ばす速さ。それらがすべて、ひとつの拍に集約される瞬間を待つように。彼はいつでも、待つことができた。完全という完成の瞬間まで。


彼が消えた瞬間だけは、待たなかった。エララは自分の爪で胸を裂き、心核を彼に押し込んだ。痛みも恐怖も、彼が不在である風景の方がはるかに恐ろしい。彼を取り去った世界は、無残な欠落にしか見えない。それを埋めたい衝動が、彼女を破壊へ突き動かした。彼が戻ったとき、彼女は笑ったのだろうか。それとも泣いたのだろうか。思い出せない。覚えているのは、彼の指の冷たさと、触れながらもその下に確かに宿る温度。


「『……ただいま』」


復活の直後、彼が絞り出した言葉。それは彼らの間にあったすべての刃を無意味にした。彼はどこにも行っていなかった。彼の美意識も、彼の執念も、彼の指の角度も、すべてそこにある。逆に、この庭はどれほど彼に似ていることか。白砂の回廊に敷かれた石は彼の歯列のように正確で、苔の縁は彼の睫毛の影のように微細で、並木の高さは彼の横顔の骨格のように清潔だ。この庭は彼の肖像画であり、彼の自画像。彼の目が、貪欲に測り、同時に厳格に切り捨てた結果の輪郭線が、あらゆるところに走る。


「アレス」


名を呼ぶ。呼べば、呼ぶほど、その名は彼女の内側に沈む。水路の水は脈を打つ。水鏡に映る自分は、竜の姫という威名からは程遠い、人の女の目をしている。静かな悲しみがその目に滲み、あらゆる凶暴な棘が削ぎ落とされる。ヤンデレ、と人は陰で囁いた。彼女自身、否定しきれない衝動に幾度も身を任せた。それでも今、ここに立つ自分は、彼の前で凶器を隠すのではない。凶器そのものを焚いて灰にしてしまいたい、と初めて願う。


「わたし、あなたの世界を壊したくない」


かつてなら、その言葉は「あなたを独占したい」と同義だ。今は違う。独占の器は、彼の手がける庭のように手入れを必要とすることを知ってしまった。手入れとは、切ること。切って、捨てて、整える。独占の名で押し付けるものを、彼は評価しない。彼が価値を見出すもののために、彼女は今日も刃を内側へ向ける。内側へ向けた刃は、彼の手で研ぎ澄まされた。


「『エララ、そこに立つと風の路が死ぬ』」


彼の淡白な注意が聞こえる気がして、一歩退く。退いた瞬間、風が生き返った。水面が、さざめきの縞をつくる。庭の奥にある枝垂れの木が、星露をこぼし、それが水面に落ちて、細かい拍手のような音を鳴らす。この配置も彼の計算のうちだろうか。彼の脳裏に、この庭の風の地図があるに違いない。風がどのように曲がり、どの枝に当たり、どの鈴を鳴らし、どの石の影を撫でるか。それらを全て、彼は試算し、結果だけをここに置いた。


「ねえ、アレス。あなたのいない完成なんて、ほんとうはないんだよ」


言葉はひどく個人的で、夜空の違う星まで届く必要はない。届くべき相手は、いつかの彼の耳であり、いつかの彼のため息だ。彼はどこかで、魔王の輪郭と向き合っているのか。第八の壁の向こう、結界の最外郭には、世界の崩壊の名残がまだ蠢く。黒い霧は彼女の祖先が焼き払った龍炎さえ鈍らせ、根から腐らせた。ただひとつ、彼の結界だけが、その腐海に秩序の絵筆を入れる。ここに立つと、外側の騒乱は夢に思える。夢のように遠く、夢のように無力だ。


「『諦めるか、整えるか。私は後者しか、選べない』」


彼はそう言って、笑わなかった。笑いは、彼の顔に似合わない。笑いは、彼の手つきの繊細さと、相容れない。けれど、彼が笑わないことに安心した自分は、いつからだろう。笑いは無用。必要なのは、彼の重ねる沈黙だ。沈黙は層を成し、厚みをつくり、世界を支える柱になる。彼の沈黙に、彼女は身を預ける。沈黙は、暴力よりも彼女を落ち着かせる。彼女の暴力は、彼の沈黙に吸いとられて、狼の牙が乳歯に変わる。


庭の中心に、彼が愛した鏡池がある。水際に、彼の手で刻まれたほとんど見えない刻線が走る。そこには彼の手書きの星座があり、星はその刻みに沿って降る。星の降り方は偶然ではない。彼の手の癖が星涼の軌跡を決め、彼の心臓の鼓動がその間隔を測る。エララは膝をつき、指先で刻線をなぞった。指が楽譜をなぞるようだ。彼の音楽。彼女の血はその音楽に合わない。彼女の血は、もっと粗野で、もっと熱い。彼の音楽を壊すほどに。だからこそ、彼は彼女を使って仕事をしなかった。彼女を庭の構成に組み込んだことも、あまりない。


「『おまえがいると完成する造形もあるけれど、完成した瞬間、おまえは動きたがるだろう?』」


炎のように、動きたがる。彼はそれを見抜き、笑いではなく微笑で否定した。微笑は、彼の厳密さの割れ目から漏れる人間の温度。そのひとひらの温度に、彼女はどれほど救われたことか。彼が消えた時、その割れ目ごと世界が閉じられ、彼女の内部で音が止んだ。何もしなければ、耳が痛くなるほどの無音。だから、彼を呼び戻した。呼び戻した後でようやく、音が戻る。


「わたしは、あなたの音を守る」


池の水面に、星が落ち、波紋が広がった。波紋の輪は、彼女の胸の輪痕と呼応する。輪と輪が重なり、彼女の内側の疼きは、波の中心に吸い込まれる。疼きは痛みではなく、記憶に近い。記憶は、彼と共有したひとつひとつの瞬間だ。彼女が手を伸ばせば、彼は避けない。ただ、避けないのと同じ分だけ、進まない。その距離感の中に、彼の美意識は安住する。彼女は彼に学んだ。その距離を奪う愛は、破壊と同義だと。距離をつくる愛が、風景に続きを与えるのだと。


「『愛は、輪郭を壊さない』」


彼が言ったことがある。彼女の舌は甘い毒を含んで、世界の形を歪めようとした。彼はそれを見て、ただ言葉を置いた。命令ではなく、感想のように。感想としての真理。ここ、結界の内側で、その言葉は真理になった。輪郭は大切にされ、空間は守られ、誰も踏み越えない線がある。


風の路が、彼女の髪を撫で、香りを運ぶ。白い花の香り。庭の中心近くに、彼が唯一、自然に任せた区域がある。小さな花畑。白い、五弁の小さな花が、星を写して光る。アレスは、その花の枝に手を入れなかった。なぜ、と彼女が問うたとき、彼は一言だけ言った。


「『ここは、私のものではない』」


神域のように扱うのではなく、所有の概念の外に置く。その行為が、彼を彼たらしめた。彼は自分が手を入れるべきものと、触れてはいけないものを、冷酷なほど正確に分ける。それは彼の愛の形でもあった。触れずに置く愛。触れる必要がなくなるほど、瑕疵のない場所を用意し、そこに、彼女を招く。招かれたことの幸福は、招かれなかった場所への嫉妬より大きく、彼女はそれを飲み込む術を覚えた。


「わたし、ここで待つね」


声にして確かめることで、彼女の足に杭が打たれる。待つことは、彼女には難しい。胸の輪痕がそのたびに熱を持ち、暴れたくなる。翼は羽音を立てたがって、肩先で震える。爪先が砂の線を乱したくなり、舌が名前を呼び過ぎて滞る。彼が鋭利に整えた静謐に、自分の粗雑さを落としたくて、堪らなくなる。それでも、彼女は知っている。待つことが、彼の音楽に最も近い行為だと。


「『星は、焦らない』」


彼は昔、彼女の焦燥に気づいた夜、天を仰ぎながら呟いた。星は、本当に焦らないのだろうか。星は燃えている。燃えているのに、焦らない。燃えることと、焦ることは別。彼はそう言っていた。燃焼の音は穏やかで、焦燥の音は刺々しい。庭は燃焼の音を許すが、焦燥の音は受け付けない。今夜の庭は、彼の言葉の正しさを、音で示している。チリ、チリ、と聞こえる光の音。水の縁で、ひそやかな燃焼が続く。誰の血も蒸発させない穏やかな温度。


結界の上層では、魔王の影響がかすかにきしみ音を立てた。遠雷にも似たその音は、肌よりも骨に響く。彼は、外で何かを整えているのだろう。崩壊の名前を持つ存在と対峙しながら、彼はきっと、それをひとつの事象として扱っている。彼の中で、敵は敵ではなく、不整の名であり、欠落の名だ。欠落は埋められる。線は正される。彼はそれを信じている。その信仰を彼女は信じる。彼の信仰に、自分の血を供えた。彼の信仰に、自分の心臓を繋ぎ、彼の音楽が止まらないよう、祈りという名の手入れを続ける。


「勝って、帰ってきて」


祈りは言葉だ。言葉でしかないが、彼女の血は言葉の上に滲む。言葉を味わうのは難しい。甘くも苦くもなく、自分の舌の形を知らされるだけ。実に嫌になる。それでも口にする。口にするたび、庭が答える。白砂が音もなく崩れ、また整う。風がほのかにそれを撫でる。星が降り、すぐに溶ける。溶けた星は夜気に混じり、彼女の肺に入って、彼の匂いを思い出させる。石粉、金属、樹皮、湿った土。彼の匂いは、いつもどれか一つではなく、重なり合って複合の響きを持つ。彼女はその匂いを血に染み込ませ、心核の輪に刻む。


「ねえ、わたし、変われるよ」


自分に向ける宣言は、初めてではない。何度もしてきた。何度も失敗した。変わるという言葉は、ヤンデレを口にした他者の嘲笑に簡単にひっくり返る。けれど今回は違う。彼女の変化は、言葉の上に逆立ちしない。庭がある。彼の庭が、彼女の変化の骨組みになる。庭の仕草を真似する。余計なものを削って、余白をつくる。余白は恐ろしい。余白は、他の誰かが入りうるスペースだ。彼女はそのスペースを、ここに初めて認める。彼以外の誰かではない。彼が一歩、二歩、戻ってくるためのスペース。彼が好きな角度から、この庭を見直すための余白。


「『エララ、おまえがいると、星がよく降る』」


彼の言葉の中で、彼女が最も好きな一つ。褒め言葉ではない。観察の結果としての、一文。彼は、星がよく降る庭を好む。彼女は星に選ばれたのだろうか。そんなことはない。星は、焦らない。焦らない星は、ただ、降りたい場所に降る。その場所に彼女がいた。それだけのこと。だけれど、それが「だけ」と切って捨てられない。彼の言葉は、彼女の胸の輪痕に温度を与える。


耳を澄ますと、遠くの方で、結界の縁を叩くものの気配がうごめく。魔王の使いが挙動しているのだろう。笑い声に似た風の歪み。彼女はその歪みに牙を向けたくなる。舌先に旧く鋭い味が蘇り、唇の内側に血が滲むほど歯を食いしばる。庭の石はその震えを均す。彼女の震えは、石の肌の平衡に吸い込まれる。手を握りしめ、解く。握る、解く。その動きの速さを、星の降る速度に合わせる。彼女は彼に合わせることを覚えた。合わせるのは服従ではない。調和だ。彼の調和に自分の粗い拍を寄せる。


「わたし、もう、いらないものを捨てるよ」


いらないものは山ほどある。嫉妬の刃、独占の鎖、嘘の蜜、見張る目。捨てれば、寒くなる。寒さに震えて、昔の自分が布団のように恋しくなる。そのたび、彼の庭の音を思い出す。燃焼の音。彼の沈黙。鱗の鈴。焦らない星。寒さはここでは、鋭さに変わる。鋭さは刃ではない。輪郭器。輪郭器で、自分の形をなぞる。彼に似るためではない。彼に会いに戻るための形。


夜の深さが、一段階、変わる。星の数は増えない。ただ、近くなる。天井が低くなり、空に手が届くような錯覚がある。手を伸ばしても、届かない。届かないことが、安堵を生む。届かないからこそ、待てる。届いてしまうものは、すぐに壊れてしまうのを彼女は知っている。彼女は壊すのが得意だった。得意だからこそ、壊したくないと強く思う。得意を抑えるのは、敗北ではない。彼にとっての価値とは何か、彼女はやっと内側から知り始めた。


「アレス」


もう一度、名を呼ぶ。呼ぶこと自体が、彼の定規に沿っている。彼女の声は、過去の暴力の記憶を薄く引き伸ばし、今の静けさに溶かす。水路の水は、彼の名前に波紋をつくり、石の間の苔は、その波紋の分だけ胞子を跳ねさせる。庭が彼の名に反応する。庭は彼の延長だから当然だ。エララはそれを見て、自分の中にある彼の延長も感じる。心核の輪痕はそれの証。半分の自分は彼に渡され、半分の彼が自分に宿っている。彼女は彼の欠片で生きている。彼は彼女の欠片で生きている。その対等は、この上なく甘美だ。


「帰ってきたら、叱ってもいいよ」


冗談めかして呟く。彼なら、本当に叱る。風の路を止めたこと、砂の線を乱したこと、水鏡の縁に近すぎたこと。彼の叱責は、体罰よりもよく効く。彼女の本能を磨耗させ、怒りを鈍らせ、愛だけを残す。叱責にも彼の美意識は滲む。余計な音を立てない。短い言葉。必要な角度だけの顎の傾き。


「その後で、抱きしめて」


それは願い。願いは、まだ彼の定規から少し逸れる。それでも、彼は彼女を抱く。抱く時間は短い。短さは、彼の庭の花のようにかすかに残酷で、逆に価値を増す。彼女は短い抱擁のために長く待つことを、学びたい。かつての彼女は、抱擁を永住権のように求めた。今は違う。門を開いたときだけの通行許可。短い経路の上に線香花火のような光。それで十分だ。十分と思える自分に、彼女は驚き続けている。


結界の端で、古い枯れ木が一本、枝を震わせた。それは、死の森の名残だ。彼は敢えてそれを残した。整えるためには、対照が必要だ。枯死と生。腐敗と清潔。粗野と精緻。彼はそれらを同時に置き、片方が片方を際立たせるようにした。エララは枯れ木を見て、昔の自分を見る。燃え盛る炎。黒焦げの灰。彼の手が、その灰の中から輪郭だけを救い上げてくれた。彼の手がなければ、彼女は灰の中で自分を見失っていた。


「ありがとう、アレス」


感謝は、告白より難しい。思いもよらぬ角度から涙が湧く。こぼさない。ここで涙をこぼすと、砂が濡れてしまう。砂の湿度が変わっただけで、彼は分かる。きっと、分かる。分かって、砂の線を引き直すだろう。今は、それをしたくない。彼の負担を増やしたくない。だから、涙は目の縁で止める。止めた涙が、星のようにまた、内側から降り、胸の輪痕に落ちる。輪はひときわ明るく光った気がした。


風が変わる。外のきしみ音が、不意に収まり、空が一拍、深呼吸する。彼が此方に目を向けたかのような一瞬。エララは目を閉じる。暗闇の中で、庭を見直す。白砂の回廊、黒の石、苔の絨毯、風の路、鏡池、枝垂れ、星の糸、鱗の鈴。彼の構図は、暗闇でも崩れない。むしろ、暗闇でこそ、輪郭が際立ち、音が明確になる。彼の手は、光ではなく影で描くことを知っている。影の輪郭を切り出し、光をそこに注ぐ。


「わたしは、あなたの影でいられる」


彼の影であることは、やはり退屈ではない。影は動く。光に連なって、伸びたり縮んだりする。彼が動くと、影も動く。影は、彼が存在する証拠だ。存在の証拠を持つことほど、静かな幸福はない。


遠くで、誰かが彼を呼ぶ声がしたような気がした。風のうねりかもしれない。山脈の腹の鳴りかもしれない。世界が彼を必要としている声。それを、彼は振り向く。彼が振り向くたびに、ここに真空が生まれ、星が寄ってくる。星は焦らないが、誘われることには敏感だ。誘われた星たちは、白い花に落ち、花弁の中心に小さな焦点を作る。焦点は、彼女の視線を操り、視線は彼の刻線に沿って動く。庭全体が、彼への導線であり、彼女の胸の輪痕はその導線に火を灯す。


「おやすみ、アレス」


夜はなお深まる。彼は今夜、眠らないだろう。彼が眠らない夜に、彼女は眠る。眠ることで、彼の音楽の中に自分を薄く伸ばす。薄く伸ばした自分は、彼の庭の余白にふさわしく、存在しながら、ほとんどいない。ほとんどいないという在り方を、彼女はここで学んだ。これは、かつての彼女にはできなかった。彼女の愛はいつも、重かった。重さで沈めるものだと思っていた。今は違う。軽さで浮かぶことを覚えた。浮かんでいるから、星の降る速度を感じられる。


風鈴が、小さく鳴る。ささやかな合図。彼女は眉を上げ、微笑んだ。微笑は、彼のものを真似る。真似は、最初は哀しい。自分でなくなるようで。けれど、その真似が次第に自分の表情になっていくと、哀しみは溶けて、安堵が残る。彼の世界を、彼女の血で汚さないように。彼の庭を、彼女の爪で掻かないように。彼女の唇は、祈りの代わりに、星の名を数え始める。数えれば、いつか数えきれなくなる。その限界まで、彼女は数える覚悟を持つ。限界の手前で、彼は帰ってくる。彼の帰還は、いつも限界の手前で、彼女の手を取る。


その瞬間まで、エララは、ひとりで、この庭に立ち続ける。冷たい白砂の上で、彼が引いた線に沿って、息をする。世界の端のきしみと、庭の中心の静けさの間で、彼女の心臓は規則正しく、彼が好むテンポで打つ。静かな悲しみは、深い愛の根を養い、根は星露を吸って、夜の下で太る。朝が来る前の、この時間が、最も長い。彼女は、その長さを愛することにした。長さは、待つことの尊さだ。待つことは彼の美学に属する。彼の美学に自分を重ね合わせること、それが彼女の愛の新しい形。


「愛って、きっと、こんな庭のようなもの」


それは、独白か、あるいは彼に聞かせる宣言か。庭は、答えない。答えないことが、答えだと教えてくれるのも、彼の庭だ。エララは眼を閉じ、呼吸を一つ、二つ、数え、そして、ゆっくり、夜を吸い込んだ。吸い込まれた夜は、胸の輪に灯り、彼の名を、星のように、胸の内側で、永遠に降らせる。彼女の静かな悲しみと深い愛は、真夜中に、ひとつの情景として寸分の狂いなく据えられた。彼が戻ってくるそのときまで、崩れないように。彼女はただ、そこにいる。ひとりで。

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