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第7巻 第1章 最後の四天王(5)

灰が白い雨みたいに落ち続ける。頬に触れた温度が先に戻り、世界の形があとから追いかけてきた。アレスは鉛の膜を剥がすように瞼を持ち上げる。明度を失った空。鈍い白。乾いた匂い。耳の内側で、止まっていた時計が弱々しく打つ。


頸に腕が絡む。龍の鱗の滑りと、人の肌の震えが混じるその抱擁は、力よりも温度で彼を縫い留めた。襟元が湿る。かすかな吐息が、古い香を思い出させる。


「……温かい」


「アレス」


刃を含んだ甘さの声。エララの爪が、布の皺を探す。掴む力は薄いのに、離す気配はない。


「ああ。戻った」


「消えないで。今度は、もう二度と」


彼は返答のかわりに、銀糸の髪を一撫でした。指先に伝わる髪の軽さ。鱗と髪の境目のほんの小さな段差。かつてより艶を失い、乾いた紙を撫でるような音が爪の下で鳴る。彼は彼女をそっと横たえ、外套を肩へ掛けた。


「目を閉じていろ。呼吸を整えろ」


「……だめ。あなたの背が、霞みの向こうへ行ってしまいそうで」


「遠くへは行かない」


立ち上がると、膝から灰がさらりと崩れ落ち、革靴の縁に薄い冠を作る。白い冠の縁が不均一に欠けている。粒の大きさが揃っていない。風孔の詰まり。目が破られた気配。


「何を見てるの?」


「誤差の数」


答えた声は乾いていた。彼は足先で灰を払う。足裏でわずかな段差を拾い、耳で音の変化を聞き分ける。ここは、かつて彼が死の森を覆い隠すために彫り込んだ、完璧に近い幻。いまは、破壊の手つきが露骨に浮かび上がる舞台になった。


「見なくていい」


「あなたの庭。わたしは、あなたの横で見るの」


「私の目で見て、私の手で直す。君は呼吸を整えろ」


水晶の柱が横たわっている。彼が朝の光の角度を計り、音と光の道具にした透明の竪琴。根元から斜めに折れて、白く濁った断面が雨に濡れた骨みたいに鈍い。彼は欠片を持ち上げ、指で断面を撫でた。ざらつき。内部の線が黒く焦げ、砂へ戻ろうとして粉を吹く。その感触は、切れた弦の震えに似る。


「こんな……」


背後でエララの息が詰まる。


「見なくていいと言った」


「見る。あなたの目が、痛いほど綺麗だから、わたしはそれを見ていたいの」


言葉の最後に、彼女は唇を閉じ、喉の奥に何かを飲み込む。肩先で光が小さく反射する。鱗の一枚が剥がれて灰に沈む音が、乾いた雨音に紛れた。


幻惑の薔薇の列。花弁は黒い紙のように縮れ、茎は炭の筋になって折れ伏す。滴った樹脂の塊が、草の表面で黒い涙に固まっていた。棘が定まらない曲線を描き、方向感覚を失っている。


「匂いが違う」


エララが鼻をしかめる。彼女の嗅覚は鋭い。アレスは頷き、屈んで枯れた茎に触れた。指先から、ほんの欠片の甘さが立ち上がり、すぐ潰えた。


「香りの階段が崩された。朝露でひとつ増え、昼でひとつ減るよう組んだのに、今は逆だ。錆と油が上書きしている」


「誰がこんなふうに触ったの?」


「乱暴な手だ。花を花として認識しない手」


言葉を投げると、空が割れた縫い目から硬い光が差し込んだ。かつて彼が重ねた時間の薄布は裂け、死の森の灰色が覗く。影が長くも短くも見え、直線が他の直線と喧嘩する。光が刃。刃は輪郭を無理に切り出す。


「痛む?」


「痛みより、不出来の角度が気になる」


彼の視線は冷たく滑り、地を這う亀裂に止まった。卵殻のような細かなひびと、中心がずらされた幾何。靴釘の間隔が残したリズム。酸で焼かれた跡の色。指先で触れると、冷たいのではなく、死の湿り気が纏わりつく冷えが指に絡んだ。結界の節点が、火傷の縁みたいに盛り上がる。


「魔王の軍、ここまで来たのね」


「汚れは皮膚だ。骨に触れたやつがいる」


「骨?」


「支えの線。音と風と光の、通り道の骨」


彼は空を仰ぐ。薄い膜のはずの天蓋が裂け、縫い糸がほどけ、外の灰汁が侵入する。硬い光が庭の輪郭を偽の鋭さで切り取り、影は定規で引いたように見えて、別の定規に従って歪む。


「直せる?」


「順序次第だ。どの裂け目から縫うか、どの色から戻すか」


「手伝う。わたしは強い」


彼は振り向かず、掌だけを上げて制した。空を撫でるような緩い手首の動き。


「焦るな。急ぎは美を壊す」


「アレス様、あなたがそう言うなら、待つ」


彼女はそう言って微笑む。目尻に笑みの皺。背中で、薄い氷の音がした。空気が一瞬だけ、息を飲むように縮む。


彼が足を置いたモザイクは、魯鈍な車輪で斜めに傷つけられていた。一片ごとに意味を与え、歩幅に音階を仕込んだ瑠璃片。その割れ目は、無作法な角度で音を濁す。指で縁をなぞると、磨かれたはずの面がざらつき、光が吸われる。


「二度通った跡だ。壊すことに躊躇がない」


「絵を切り裂く人の手つき、ってこと?」


「そうだが、ここは美術館ではない。呼吸する場所を切られた」


エララが小さく舌打ちする。尾の影が地を掃き、灰の薄膜が波打つ。


「あなたの作った線、好き。歩くと、体が勝手に歌うの」


「歩幅と五度を合わせた。今は音が狂っている」


彼は「狂っている」という言葉を吐きながら、心のどこかで、その狂いが作る新しいリズムを無意識に計り始める自分を観察する。彼の中の測る器官は、止まらない。


「アレス、これ」


彼女が指差す先には、符を刺繍のように刻んだ巨木の幹。薄い光の縫い目は引き裂かれ、焼けた糸の端から瘴気がじわりと滲む。彼は掌を幹に貼りつけ、耳で聴くように木の肌を感じた。かつて規則的に刻んだ拍が、いまは不意に硬く弾ける。凍った湖の下で割れる音。耳朶に響く低いひずみ。


「ここで初めて朝を見た。あなたが光の順番を直して、露が踊った」


エララの囁き。声が弱い。肩で鱗がそっと鳴る。


「覚えている。君の温度で露が早く溶けた」


彼は短く返す。言葉の背中に、静かな焔を隠したまま。


噴水のあるべき場所は、乾いた石の座に変わっていた。滴る水が星座の間隔に呼応するよう調えた音は消え、泥の中に口を開けた黒い穴がぽっかりと無音で笑う。彼は膝をつき、泥の光沢を観察する。黒い薄膜。瘴気の生き物。かつて彼はそれぞれに役割を与え、存在を許容し、名前まで付けた。いまは序列が壊れ、互いの位置を見失って蠢く。


「あなたの庭を荒らしたやつ、わたしは——」


彼女の声が低く沈む。そこで言葉は切られ、彼女は笑った。笑みは甘く、歯列の奥で氷が鳴る。彼女の指先から、白い霧がすっと漏れる。それは怒りの代わりに、温度で答えを示す仕草。


「順番を乱すな」


アレスは彼女の前に手を出した。手のひらは拒絶ではなく、単に止める動作。皮膚の温度が落ち着いている。


「あなたの代わりに血を流したの。ここで。だから、わたし、」


「知っている。砂の下にまだ温度が残っている」


彼は砂を撫で、耳で音を聴くように、指の腹で粒度を数えた。銀砂。黒い煤。砕けた雲母。湿り気に乗る腐臭。混ざり方の順序が、侵入者の歩法を語る。


「あなた、怒ってる?」


「怒っている。だが、荒らす怒りではない」


「どんな?」


「音のない炎だ」


返した瞬間、空気が一段冷えた。風が通る。破れ目から流れ込む不純な乱流。彼は目を細め、その速度のばらつきから崩壊図を逆算する。序を戻す。破を沈める。急を封じる。そう決めるだけで、呼吸が整った。


光る茸の小径に入る。夜には薄青い乳光が足元をやわらかく照らし、彼と彼女は指を絡め、古い星の話を数えた。いま、茸は半分が黒く溶け、半分が肥大して醜い輪郭を作る。アレスは一本を折り、鼻を近づけた。湿った紙を裂くような臭い。熱はないのに、鼻腔の奥だけが凍ったように疼く。


「あなたが消えたとき、わたし、ここでたくさん息を吐いた。吐けば吐くほど、空気が重くなって、音が消えて」


「君の息は、この場を守った。だから音がわずかに残った」


彼の声は淡々としている。心の深いところで、冷たい炎が広がる。色を持たない焔。凪の海の底で燃えるもの。


東屋の骨組み。唐草の細工は煤に塗れて、月光を集めるはずの梁は、焼けた枝の束に堕ちている。彫り込んだ星の名が黒い膜に隠れ、彼は指で煤を払った。露わになった刻みが欠けている。「アルデバラン」。中ほどが消え、記憶がそこから先に進めなくなる。


「あなたが戻ってきたから、もう怖くない」


エララの囁きが耳の根で痺れを残す。「わたし、あなたのためなら、世界の音を止められる」


「止め方は選べ」


彼は椀の欠片を拾い集め、掌に集める。乾いた重さ。茶の染みを指でなぞると、微かな香りが脳裏で再生した。甘く渋い香。いまの腐臭と対比すると、怒りは形を得る。


「行く。奥へ」


彼の歩みが早まる。庭の心臓部へ向かう道は、かつて彼が最も入念に手を入れた領域だ。光の屈折。風の旋回角。香りの滞在時間。息づかいの整え方。全部、彼の手の中にあった。いま、瘴気にねじ曲げられている。


「……ひどい」


背後でエララが肩を竦める。彼女の視線の先。「星の泉」。夜空を水面に映し、星の配置で魔力を循環させる核。いまは黒い泥沼。水面には獣の置き土産が浮き、腐臭が鼻を刺す。


アレスは泉の縁に立ち、静かに見下ろした。鏡だった面に、どす黒い失望の色が広がる。周囲に置かれた白い彫像は首を折られ、腕をもがれ、石屑になりかけている。ひとつひとつ、彼がノミを振るった象徴。今はただの破片。


エララが腕を掴む。指先が微かに震えた。彼の怒りが温度に変わり、彼女の肌に触れる。


「私の庭をここまで荒らしたか」


静かな言葉。静けさがかえって底の深さを示す。周囲の空気が一段冷える。凍り付く魔力が体から染み出し、瘴気を押し返した。音がすうっと引く。


「許さない。絶対に」


短く吐かれた子音が、刃のように冷たく響く。彼の瞳が、冬の星の光で固まる。


「アレス様、どうするの?」


「直す。前より綺麗に。骨を組み直す」


揺らがない声。決意には柔らかさがない。だが、破壊ではない。構築の熱だ。


「そして、ここを荒らした手に、価値のない痛みではなく、相応の終わりを渡す」


彼は黒い水面に手を伸ばす。指先から、純白の糸がほどける。光は音を立てない。白が黒を覆っていく。水面が薄膜のように張り替えられ、腐臭が退く。


「一度で十分だ」


それが彼の詠唱。短く、冷たい。二語で足りる。


エララの肩が震える。彼女は笑っている。楽しげではない。瞳を眇め、唇の端をわずかに上げた笑い。背後で氷の鈴の音が一瞬鳴り、すぐ溶けた。


「アレス、わたし、あなたの背を見てる。だから、早く」


「急がない。だが、止まらない」


彼は泉の縁を一歩、また一歩と巡る。足裏に落ちる振動。水面の白が広がる範囲を目で測る。破れた天蓋から入る硬い光が、白を刃物みたいに切り取る。その切先の方向を読み取り、指先で線を引き直す。


「星が、死んでる」


エララの呟きに、彼は頷いた。


「寝ているだけだ。起こす」


彼は掌で空気を押すように動かした。白が静かに下へと沈み、泥が収まる。音はまだ戻らないが、臭いが薄れる。肌に触れる温度がわずかに上がる。


「見ていろ、魔王」


彼は水面に映る自分の目を見た。色のない焔がその奥に燃える。ゆっくり言葉を置く。


「私の庭は、お前の血で洗い清める」


エララが息を吸う。その音が小さな風の誕生に似る。彼女は何も言わない。ただ彼の外套の裾を摘み、親指の爪で布地をなぞる。刃のない手つき。だが、その沈黙に満ちるものは、鋭い。


「アレス、わたし、あなたに触れていたい」


「いまは目で触れろ」


彼は視線で次の傷を追う。白亜の彫像のひとつに近づき、折れた首の角度を見た。折るときの手の力の方向。躊躇のなさ。祭壇のように並ぶ破壊の記憶。彼は屈み、破片を指で撫でた。滑らかさが途中で途切れ、そこから先は石の粒だ。


「誰がやったの?」


「魔王の獣たちが大半。だが、ここ——」


彼は指で空を示す。天蓋の縫い目の裂け目。そこには人の意志がある。粗く、幼い意志。自分の力を誇示したがる手つき。


「人も混じる?」


「そうだ。獣より悪い時がある」


「どうして?」


「獣は腹を満たす。人は、形に触れたかっただけかもしれない」


「触れたいなら、撫でればいいのに」


エララは首を傾げ、目だけで笑う。尾の影が円を描いた。


「君は撫でるのが上手い」


「アレス様、あなたがそう言うなら」


彼女は彼の手を握ろうとし、寸前で止まる。自制の刃。彼の横顔を見上げ、唇を噛み、微笑む。背で氷の音が小さく震えた。


「戻す。ここから順番に」


彼は白の糸を泉から引き上げるように、空へ巻き上げた。破れた縫い目に白が走り、硬い光を柔らかく散らす。影が輪郭を取り戻す。


「音が……」


エララが耳を澄ます。ほんの小さな滴の音。途切れた拍の間に、わずかな合図。彼女の目が潤む。涙の代わりに、目の奥で光が揺れた。


「泣くな」


「泣いてない。目が勝手に熱いだけ。ほら、わたし、笑ってる」


笑っていた。美しいかどうかは問題ではない笑み。彼女の手の甲に白い霜が落ち、それがすぐに溶けて消える。氷を生むほど冷たいのに、彼に触れる前には溶ける。そんな温度管理を彼女は本能でやってのける。


「君は上手い」


「あなたほどじゃない」


彼は薄く笑った。口角がわずかに上がり、頬の煤が切れる。彼の中で、壊れたものを数える声と、直せるものを数える声が、同じテンポで鳴る。片方だけが速くならないように、意識して呼吸を合わせた。


「アレス、教えて。何から縫うの?」


「縁からだ。中心から手を出すと、全体が歪む」


「縁は、冷たい」


「冷たいところに布はよく貼り付く」


会話が、測量の道具に変わる。言葉を交わすたび、彼の視線が次の点へ跳ぶ。エララの問いかけが、角度の目印になる。


「柱は?」


「根から。折れた面を磨き直す」


「薔薇は?」


「棘の方向を直す。香りは最後だ」


「噴水は?」


「水脈を掃除して、音の穴を開ける」


「星の泉は?」


「白で底を封じる。星はあと」


「彫像は?」


「折れた首を返す。腕は別の角度に差し替える」


「どうして?」


「壊した手の意志を逆手に取る」


彼は指先を濡らし、空気の粒を撫でた。そこにあるのは数式ではない。匂い。温度。微かな風の方向。五感に刻んだ線を頼りに、彼は庭の骨を撫でていく。心のどこかで「精緻」という言葉が浮かび、彼はそれを、その場に置かずに飲み込む。言葉は最後でいい。


「アレス様、疲れない?」


「疲れるのは後だ」


「水、飲む?」


「いま、飲むと味が悪い」


「あとで、わたしが淹れる。あなたの指の節の形に合う椀、まだ一枚残ってる」


「残っているなら、直す」


彼らの声は重なり、庭の音の代わりに秩序を提供する。灰はまだ降る。だが、降り方が変わる。まばらになり、粒が揃い、風の通り道が細く戻る。


「アレス、さっき言ったこと、もう一度言って」


「どれだ」


「世界のこと」


「世界は壊していい形があるし、壊してはいけない形がある。魔王は前者にしてやる。だが先に、後者を見届ける」


「その時、わたしは横にいる」


彼は頷いた。頷きは小さい。だが、重みはある。彼の中で、長く止まっていた時計が完全に動き出す。耳の内側で打つ拍が、庭の拍と少しずつ重なった。


「見ていろ、魔王」


彼はもう一度、空に言う。詠み上げた言葉は、誓いと命令の境目にある。冷たい炎が箱庭全体に染み込み、ひび割れの隙間ひとつひとつを光の糸で満たす準備をする。


エララは外套の裾を離し、両の手を胸の前で重ねた。目を閉じ、呼吸を深くする。肩から静かに冷気が漏れ、彼の白に混じらぬよう、地へと落とす。彼女の中にも秩序を戻すための術式がある。だが、触れない。いまは目だけで支える。彼の背中を見ることを選ぶ。


「アレス、あなた、戻ってきた匂いがする」


「どんな匂いだ」


「新しい刃を紙で包んだ時の匂い」


「悪くない」


彼は短く笑い、泉の白をさらに広げた。白が黒を圧し、腐臭が後退し、星の底となる面が音もなく顔を出す。そこにはまだ何もない。だが、何かを置ける面。彼は指で空中に星をなぞった。見えない星図。彼女には見えない。だが、彼には見える。


「順番は決まった」


「ねえ、アレス」


「何だ」


「あなたの庭は、まだ、あなたを待ってる?」


「待っているものと、諦めたものが混じる。だからこそ直す意味がある」


「待ってる子たち、嬉しいかな」


「嬉しいだろう」


「諦めた子たちは?」


「無理に呼び戻さない。新しく置く」


「あなたは優しい」


「優しさは道具だ」


「それでも、好き」


その言葉に、彼はわずかに息を飲んだ。返事はしない。必要な時に、必要な言葉を置く主義だ。かわりに、泉の白をぴたりと止めた。その静止に意味が宿る。


「行くぞ。縁からだ」


彼らは歩き出す。灰の音が軽くなる。足下のモザイクは、まだ傷だらけだが、彼の歩幅に合わせてわずかに音を返す。五度に近い音。完全ではない。だが、戻る手応えがある。


「アレス様、わたし、あなたの真似をする」


「真似は上達の近道だ」


「見て、覚える」


エララは空を切る彼の指の動きを凝視する。瞼の裏に焼き付けるように。彼女の尾の影が、彼の足取りと同じリズムで地を掃く。氷の音が一度だけ鳴り、すぐ消えた。


「世界の息が、ここで揺り返す。私はそれを掌む」


「掴んで、ほどいて、縫う」


「そうだ」


短い応酬が続き、彼の掌の動きが規則を持つ。空気の流れが変化する。硬かった光が柔らかく折れ、影が丸みを帯びる。耳の奥の拍が、庭の拍に重なる。鼻腔をくすぐる香りが、錆から少しだけ離れる。指先の皮膚が感じる温度が、恐怖ではなく緊張の温度に変わる。


「ねえ、アレス」


「何だ」


「あなたの手、音がする」


「君の耳が良いだけだ」


「でも、好き」


その「好き」を彼は無視しない。だが、答えない。背筋に微かな熱が走る。白の糸が彼の背から伸び、庭へ降りる。


「魔王」


彼は低く呼ぶ。敵はここにはいない。だが、言葉は届く。言葉そのものが糸になり、どこかへ刺さる。


「私は構築する。お前は破壊した。価値は対等ではない。対等に見せかける必要もない」


彼の声は冷たい。その冷たさが、熱を含んでいることだけが救いだ。


エララが横に立ち、彼の肩に頬を寄せる。短い接触。すぐ離れる。彼女は笑った。


「早く終わらせて、茶を飲もう」


「茶は、香りを戻してからだ」


「わたし、あなたの好きな葉をまだ隠してる。誰にも見せてない」


「いい隠し場所だ」


「あなたなら、見つける?」


「見つける」


彼の頬に、煤に混じって微かな笑いが走った。世界の色が少し戻る。灰はまだ降りる。だが、降り方に秩序が混ざる。風の道が細く通る。音が重なる。彼は歩みを止めない。白い糸は途切れない。


復活の結界師は、壊された箱庭の中で、冷たい炎を胸に、次の戦いの準備を粛々と進める。構築の手つきで、破壊への報いを用意する。その順序を間違えない者だけが、世界を扱える。今、彼がそれをやっている。彼はやめない。やめる必要がないからだ。彼女もまた、背で笑うだけで、何も言わない。笑みの奥に、氷の音が一瞬だけ鳴り、すぐ消えた。静かな兆し。次の瞬間に備えるための、やさしい無言。

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