第7巻 第2章 結界のほころび(1)
焦げて甘い樹液の匂いが肺の一番奥で薄く渦を巻く。舌の裏にひやりとした雪片が落ちるような冷感が、意識の底に触れた瞬間、アレスは指の腹で砂の粒を数えるように世界へ戻る。目を開ける前から足下の粒の位置と重さが掌の地図に刻まれ、見えない格子へ一粒ずつ納まっていく。瞼を持ち上げる。透明な膜が層を重ね、角度を変えたガラス片の束のように光を返す。薄い振動が空気の音階を示し、周囲へ散っていく。音はまだ足りない。欠けがある。欠けを拾う耳は熱を帯びる。
横に柔らかな熱。鱗の奥で細く走る脈、硬い輪郭が夜明け前の灰色で少しだけ丸く見える。腕。エララの腕が胸に絡んでいる。力は弱いのに、離さない記憶だけが強く残る。頬に触れる角の銀はいつもほど澄み切らず、少し曇る。彼女がここへ彼を引き戻すために何を燃やしたか、アレスにはわかっている。安堵が背筋に落ち、同時に胃が冷える。呼吸を一つ整え、視線を持ち上げた。
庭は、崩れかけの釣り合いの中にある。白砂の筋は半月の夜に整えた縞をかすかに残しながら、足跡と跳ねた血の点、煤の指の跡で拍が乱れる。星苔の絨毯は翡翠からところどころ黄緑へ乾き、踏まれた葉脈が走り書きの線を引く。反射の池は薄い灰が膜となって浮き、鏡面にうっすらと汚れ。周囲の死の森は結界の外縁でわずかにゆらぎ、黒い枝先から灰白の霧が垂れる。結界の内側では波紋のような息が織られ、極細の亀裂が光を裂き、光条に滲みが生じる。世界の皮膚のささくれ。目を逸らしたくなる小さな不一致。だが、無視していいほど小さくはない。
彼の不在の数刻で、秩序の端がほつれた。色の配分が狂い、砂と星苔の境目が甘くなる。灰と血が点描を乱し、構図の重心がわずかにずれる。アレスは美に関する痛みを持つ。崩れた呼吸は痛みだ。額の内側がきしみ、喉の奥へ金属の味が上がる。見えない指で傷を入れられたキャンバスを見た画家のように、上体を起こす。
「……アレス?」掠れた声が頬の脇から上がる。エララのまぶたは影を落とし、長い睫毛の下で瞳孔が自分の輪郭を掬うように揺れる。焦点は合っている。だが呼吸が浅く、胸の上下に力が通らない。龍の血は強い。それでも彼女は儀式で自らの根を削った。鱗の光沢が薄く、爪先にわずかな震え。唇の隅に乾いた紅、そこから拾われた愛の証が胸へ重さを残す。
「起きなくていい」アレスの囁きは冷たい。冷たさは心臓の鼓動に合わせて微かに割れ、芯の温度が見える。「今は、休め」
彼は顔を上げる。世界を縫う針の穴を探す目。音。匂い。色の比重。結界の定理は体内で生きる。失っていた時間のあいだの仮修復が、どの程度で張られたかがわかる。線は崩れてはいない。だが、埋め切れていない毛穴、見逃された埃、意図しない影。魔王の眷属の血は鉄を強く含む。そのぬるい金属の匂いが風に薄まりながら漂う方向に、まだ脈打つ残滓。黒の棘の茂みの下で蠢く影。射線の死角に根を下ろした瘴気の塊が三。結界の節のひとつに寄生して貼り付いた呪紋の破片。美を汚す汚れ。悪意の形。掃除の対象だ。
「……片付ける」吐いた息に、薄い濁点が乗る。
エララの指が袖を掴む。力は弱いが、意思は強い。「今行くの?」
「今、すぐだ」迷いはない。遅れれば塵が積もり、積もりは縁を崩す。縁が崩れれば形が死ぬ。彼の設えた空間は死の森の中で唯一の呼吸。その細密な構造は美のためだけではなく、ここで眠る者、生きる者の肺であり鼓動。乱れた呼吸を正しい拍へ戻す。
アレスは空気の薄膜へ触れるように指を滑らせる。動くごとに見えない線が現れ、白銀の細い紐が空間に引き出される。結界の網は蜂の巣のような六角形を幾重にも組み合わせたが、節と節の間には蔓のような余白がある。そこへ歪んだ張力を解き、正しい緊張を通す。音が変わる。高すぎる弦を半音だけ緩めるように、軋んでいた空気が滑らかになり、池の表面の灰膜が波紋も立てずに沈んで消える。砂の上を撫でる微風が、間違って流れていた一本の筋を正す。皮膚がこの世界の皮膚と呼応し、呼吸が結界の呼吸に戻る。
「アレス、私も……」エララが身を起こす。肩に力。重心が傾いた瞬間、アレスは自然と背を支える。骨の上の薄皮の滑り、体温の偏り、心臓の速さ。目を眇める。「だめだ。まだ脈が速い。内側の火が落ち着いていない」
「でも、あなたを一人にはしない。誰も近づけない」言葉の最後に、わずかな唸り。棘が彼の肌に触れる。アレスはそれを痛みではなく、重さとして受け止める。彼のために燃え尽きた炎が煤を残す。それでも彼女は掴む。ならば、掴む手の先を整えるのが彼の役目だ。
「一緒に行く。ただし、お前は包む」掌を滑らせる。真珠の内側のような淡い光の揺り籠が姿を取る。半透明の殻は呼吸し、外からの刃を受ければ内へ流し、鈍らせる仕掛け。音をやんわり曲げ、瘴気の粒子を直角に散らし、温度の偏りを均す。肩と腰に重ねる。光は鱗を滑り、角の根に絡んで留まる。エララの眉が寄る。「包まれても、あなたからは離れない」
「離さない」短く、確実。世界の定理に似た声。
立ち上がる。膝の裏の空虚は足裏の砂へ沈む感覚に吸われ、消える。一歩。足音に合わせ砂の波紋が整列し、乱れた縞が歩みの後ろで順に正される。影は破れた苔の穴を縫い、砕けていた白い花弁を束ねて一本の線へ。指先を振る。千の細い刷毛が見えないまま飛び、砂粒の角が揃い、血の点が音もなく湖へ溶けるように消え、枝の折口が滑らかに丸まる。これを掃除と呼ばない者はいない。
結界の縁の角。陰。汚れが溜まりやすい場所に敵は潜む。魔王の眷属の残りは隊を組むほど残っていないが、汚れの性質でそこへ集まる。粘る黒い影が苔の下で息を潜める。視線を投げる。視線は線であり、線は命令。命令に従って結界の糸がそこへ密度を増す。音はまだ完全ではない。だが従う音が増える。編目が細かくなる。影が焦り、わずかに動く。動きが歪みを作る。歪みは見える。見えたものは整えられる。
「エララ」振り返らずに言う。「お前のために、ここを寸分も狂いなく整える。誰にも触れさせない」
背へ小さな息。「あなたのために私が燃やしたら、あなたは磨くのね」
「燃えた灰は肥やしになる」事実の列。胸で言葉が美へ寄って滑らかにつながる。犠牲は無駄ではない。灰から芽吹くものがある。芽吹きが空間へ深みを加える。「傷のないものだけを残す」
腕を上げる。空気の微細な塵が星座のように結び合い、小さな点光が亀裂に沿って並ぶ。ひとつ、ふたつ、十六。数える。欠け十六。呪紋の欠片三。影の塊二。順序。音階を組むように。左から右へ、低から高へ、暖から冷へ。掃除は儀式。儀式は秩序。秩序は美。美は救い。
「行こう」足を前へ。砂の上の足跡が世界の縫い目になる。遠く、障壁の外、死の森の向こうから魔王の息の気配。地平の鉛色の帯。今はまだ正面から斬る時ではない。祭壇を清めずに祭祀は始まらない。領域を清める。欠けのない空間のための掃除に余白はない。目は汚れを見逃さない硬い光。
「少し待っていろ、掃除をしてくる」
声が薄い膜のように空気へ沈み、触れるもの全てが僅かに冷える。淡い粉が天蓋から星の降雪のように落ちる。死の森の黒い樹皮は光幕に磨かれ、瑠璃の影を帯び、骨のような白い朽ち枝は等間隔に並ぶ。均し、秩序、呼吸を整える几帳面。中心の男が一歩前へ――その瞬間、エララの世界は音を失う。
胸の内でぎゅっと詰まる音。アレスの「待っていろ」が鼓膜へ棘として残り、竜の感覚を逆撫でする。待つ? 待つことが、どれほど恐ろしいかを彼女は知る。あのとき、世界が崩れる中で彼が白い光の砂となり、指の間から零れ落ちていった。喉を裂いても届かない呼び声。声は出ず、代わりに血の味。鉄の匂いが喉の奥でひりつく。
「あ……」息が漏れるより速く身が動く。裾が波打つ。薄い布が掌へ滑る。アレスの上衣の裾。縫い目の規則が指の腹で震える。ぎゅ、と握る。白い関節が浮く。爪が綿の織り目にわずかに引っかかり、布の下の体温が滲む。それは現実の証拠。彼がここにいる唯一の証明。
「いま行くのは駄目。私も行く」喉の奥で震え、ようやく形になった声。
静かだが重い。黒曜の瞳に星が埋まり、その奥の暗い情が織り目の光を吸う。瞳孔がわずかに細くなり、影が落ちる。光が射す隙間を許さない。呼吸は浅く速い。喉元の薄皮が上下し、脈が露わになる。肩の銀髪は緊張で微かに立ち、周囲の空気が温度と匂いで揺れる。焦げた甘い香り。皮膚の下で乾いた羽音のように炎が走る。
「エララ」アレスの眉がわずかに寄る。その動きさえ美の律を守る。本来なら彼は乱れを嫌う。だが裾の皺も、張り詰めた筋も、彼女の震えも、いまはこの空間の一部として許されるのか、すぐ正しにかからない。
震える手。それは弱さではない。行き場のない力。彼女の中の竜が叫ぶ。離すな。空白を与えるな。彼を連れて行く風も、土も、光も許すな。待つことは死だ。奪っていくものは何であれ呑み込み、焼き、砕き、この庭の景色へ自分の影を刻め、と。
「少しの間でいい。あの朽ちた斜面の線が乱れている。均しに行く。まだ雑だ」
指し示す先、倒木の角度がわずかに不揃い。エララにも見える。理由は理解できる。行けば戻ると彼が判断していることも。だが理解は恐怖を薄めない。恐怖は理屈より速く皮膚の下を這い、指先を痺れさせる。一歩。彼が踏み出す予感だけで風景の全てが崩れる雷のような兆し。
「置いていかないで」小さく、鋭い。「あなたが『掃除』と口にするたび、どこかに消える気がする。白い粒になって目の前から零れて、二度と掬えなくなるみたい」
言葉に自分が震える。記憶が肉体化して身を裂く。脳裏に浮かぶ瞬間。彼の輪郭を追い、心核を裂いて差し出した感覚。胸の中央にまだ火の穴があるように熱い。その熱が頬の内側まで染み、瞼の裏まで赤くする。
エララの言葉の端に甘さと刃が混じり、アレスへ絡む。掌の汗が布地へ移り、裾に暗い色が宿る。染みを見て、一瞬だけ申し訳なさそうに目を伏せる。次の瞬間、弱さを飲み込み、指の力をさらに強める。存在が一点で繋がれる。離す選択はない。
アレスは瞳を見下ろし、細く吐息。「待てないのか」
「待つことは、あなたを失うことになった」即答。「私は弱いからじゃない。私は、あなたの描く線の外で呼吸できない。外側で息をする自分を想像するくらいなら、この森ごと焼いて眠るほうが楽」
口にして危うさを自覚する。暗く笑う影の囁き。壊してしまえば不安は消える、と。それを噛み砕く。彼が望むのは欠けのない空間。灰の荒野ではない。だから破壊の衝動を守る形へ変える。燃やす炎を侵入者にだけ向ける。線を引き直す風を封じ、色を曇らせる影を斬る。
「お願い」さらに一歩近づく。体温が彼の前面へ薄く伝わる距離。弾む鼓動が衣擦れに同調するほどの近さ。「連れて行って。隣に置いて。何も触れさせない。目も牙も爪も、あなたの景色を護る。私が、掃除の最後の一筆になる」
瞳の奥。澄んだ暗闇の底で黒い火が丁寧に燃える。整えられた庭に手を伸ばす来訪者の指を静かに焼く火。静けさの守り火。袖に伝う震えがやがてわずかに収まる。握る力は強い。だがそこに規則が生まれ、呼吸と一致。吸って、吐いて。裾が引かれ、戻る。トン、トン。心の拍に沿う。
天蓋から落ちる粉が二人の肩に積もる。淡い金の粒が睫毛に乗り、瞬きのたび小さな光が跳ねる。その粒へ、エララは一瞬刺すような感覚を覚える。あなたに触れている。あなたの睫毛に触れている。次の瞬間、光もまたアレスの障壁の素材であり、彼の美へ従う存在だと理解して、わずかに許す。許せるものと許せないもの。線引きは彼の望みによる。だからこそ、彼の望みの中心へ立つ。
「……手を離せ。裾が皺になる」アレスの声は苦笑に似た柔らかさ。指がわずかに動き、彼女の手の甲へ軽く触れ、すぐ離れる。慰撫にも警告にもならない、ただ存在を確かめる接触。それだけで胸の深いところへ冷たい水が一滴落ち、火照りが静まる。
「でも、離れたら行くでしょう」首を横に振る。「だから、離さない。頷くまで」
頑なさを覆う柔らかい声。竜の姫が膝を落として懇願する異常さを彼女自身が一番知る。プライドは砂糖菓子のように溶け、彼の名残香に混じる。ただ振り向き、手を伸ばし、「共に」と言ってくれるだけで世界は正しい音を取り戻す。それ以外は、全部、無音で構わない。他の声は沈めればいい。
アレスの瞳が細くなる。測る視線。この領域の距離、角度、風の道を知る男。彼女の瞳の奥の暗さを見て、燃える火の温度を測る。許容か。壊す火か、護る火か。判断する。エララは頷く未来だけを想像し、呼吸を止める。光幕がひとつ響く。掌の上の鐘のような微かな音。
もう一度、静かに。「私も行く」
アレスは掌をそっと上げる。拒絶の形ではない。風を撫でて流れを変えるような、柔和なのに否を許さない線。空気が指先の動きへ呼応し、透明な膜が微細な織り目を示す。死の森を覆う天蓋は星の粉のような光粒を降らせ、腐葉土の匂いと竜の吐息が混じる濃密な夜を、薄い硝子で包む。
「……エララ」
名を呼ぶだけで、頸の鱗が震え、内側から熱が溢れそうになる。飛び込んで、噛みついて、彼の全てをまた自分だけのものにしたい。掌には、誰かを消し去るための力が焦燥となって凝る。けれど、アレスの視線が触れた瞬間、炎は細い管へ通され、淀みなく息を吸うように落ち着きを取り戻す。
「駄目、なの……?」唇を噛み、黒曜の爪で自分の二の腕を押さえる。爪の下で竜の脈が打つ。どこまでも待つと誓った自分が、たやすく露見する衝動へ顔をしかめる。
アレスは首を横に振る。否定の動きが美しい。無駄がないのに温度がある。一歩踏み出し、髪にまじる銀の鱗の端へ指を触れる。一瞬。次には指先で宙へ見えない曲線を描く。光幕の糸が応じ、周囲の景色がわずかに揺れる。荒れた木々の黒い輪郭の間から、淡い花弁の幻影が現れては消える。世界の傷をなぞり、別の図像を挿し木するような静かな執念。
「君を傷つけたくない」声が落ちる。「そして――君の前に、完全なものを置きたい。妥協や、場当たりの暴力の痕のない景色を。死の森に幕を引くなら、それもまた、最も洗練された幕であるべきだ」
苦笑に似た息。「あなたは、いつも耳障りの良いことしか言わない」
「そうでなければ、僕は僕でなくなる」横顔にほんの少し陰が差し、輪郭をする。「ねえ、エララ。君の捧げたものを、僕は軽んじない。君がいなければ、僕の光幕はただの箱に過ぎない。眺める君がいなければ、どれほど整えても、空虚なんだ」
星の粉が言葉に合わせて増減する。落ちる光の粒は熱も重さもないのに、胸の内側の焦げた穴をそっと埋める。あの夜の記憶が断片的に蒼る。アレスが消えたとき、世界の輪郭が崩れたこと。身を裂いて、鱗を剥いで献げるような痛みで彼を引き戻したこと。彼が戻った瞬間に感じた冷たい安堵。氷原の下に眠る暖かい泉の気配。
「だから、待ってほしい。焦って切り落とす必要のない枝まで切ってしまえば、景色は痩せる。嫉妬で染めれば、光は濁る。君の衝動は理解しているし、愛しいとも思う。けれど、僕が立てるこの輪郭は、君の衝動のためにあるんじゃない。君の瞳のためにある」
目を瞬く。君の瞳のために。言葉が体温となって肺から骨へ、骨から翼へ、翼から尾へ浸透する。彼のいう「絶対の調和」が、彼だけの法ではないと気づく。独善に閉じこもる天才ではない。世界を彼女へ渡すために、世界を調える。彼女の視界の幅と深さを信じ、その中央へ自分の作り上げたものを置く男。
「でも、私、こわいの。あなたに近づくもの全部が、あなたの色を曇らせる気がして。だったら燃やしてしまえば、と……」声は震える。震えの裏に、知られたくなかった弱さが露出するのを隠さない。
「曇りは僕が拭う」即答。迷いがない。「君には君の火がある。けれど、ここは僕の仕事場でもあるんだ。僕は結界師だ。線を引くことが生業で、境目を美しくすることが矜持だ。乱暴に焼けば、確かに楽だ。けれど、楽は美しくない。時間をかけ、確かめ、磨き、最後の埃まで払ってから、君に見せたい」
低い声が天蓋そのものの響きのように広がる。「仕事場」と言ったとき、胸の内で小さく頷く。彼がいつだって遊びではなく、祈りにも似た厳しさで世界を扱ってきたことを知る。境界へ名を与え、距離へ慈しみを与え、触れてはいけないものへ触れないための礼法を作ってきた男。彼の矜持は、彼女を遠ざける盾ではなく、迎えるための敷居。
「私が、待てば……あなたは、私に最初に見せてくれる?」幼子のような問いを口にした自分へ、唇の端で自嘲する。それでも問わずにはいられない。確かめることは、彼の作る線へ従う第一歩。
「約束する。君が最初の観客で、最後の証人だ」微笑む。月に手を翳したときの指の影のように柔らかい曲線。「僕は、君の驚きの音を聞くために、細部を整える。君が息を飲む瞬間のために、星を一粒多く落とす。君が目を伏せる瞬間のために、風の向きを調える。それが僕の美学だ。君の反応なしに、完成はない」
胸腔の奥で、尖った何かが静かに丸まる。彼へ近づく者を排除する衝動は、彼を独占するためのものだった。けれど彼は、世界そのものを彼女との共犯にしようとしている。彼の封じは、彼女が欠ければ閉じない仕掛け。ならば、待つことは置いて行かれることではない。待つことは、共同の作業。耐えることではなく、息を合わせること。
「……わかったわ」深く息を吐く。竜の喉が鳴り、熱がすこし鎮まる。「待つ。あなたの崇高なわがままに、私のわがままを合わせる。あなたが線を引くなら、私も自分の爪をひっこめる。誰かが境を破ろうとしたら、そのときは――」
「そのときは僕が止める。君が動く前に」瞳に薄い火が点る。「君は見届けて。君の炎は、最終の合図にしてほしい。魔王を落とす、最後の一枚の札として」
魔王。言葉が遠くの雷のように、木々の陰に潜む黒さを照らす。ここから先は、彼らの足音と息遣いで決めるべき舞台が待つ。翼をたたみ直し、尾の先を地面から離す。土がわずかに鳴り、防壁の繊毛のような光が動きに沿って揺れる。
視線をアレスの指先へ落とす。微細な傷。障壁を張り直したときに刻まれた、彼だけの戦いの刻印。傷を舐めたい衝動に震えるが、代わりに両手で彼の指を包む。指は冷たく、中心に熱が宿る。目を閉じ、頬をその指へ押し当てる。
「あなたが、私のために世界を磨くなら……私も、あなたのために、私を磨く。あなたの景色に似合うように。血で汚すんじゃなく、待つ時間で艶を出す」
「うん」返事は短く、満ちる。額へ触れ、額と額を合わせる。二人の呼吸が同じ間隔を見つけ、天蓋がそれに同調するようにわずかに脈打つ。星の粉は一時降るのをやめ、代わりに光が水面のように足元から上へ湧き上がる。
濃密な空気は重さを失わぬまま透明度を増す。封じの縁が遠くで鳴り、薄い鈴の音が風に乗る。死の森の腐臭は薄れ、代わりに湿った苔と新しい木肌の匂いがほんの少し鼻先をくすぐる。アレスの矜持は見えない柱となり、その柱へ身を預けるエララの心はきちんとした形を取り戻す。
「見せて、アレス」目を開け、囁く。「あなたの至高の調和を、私の瞳に」
「見せるよ、エララ」応える。「君の瞳にこそ、完成は宿る」
小さな約束が交わされ、光幕の織り目がそれを記憶する。二人の間を満たしていた熱は、暴力の予感ではなく、熟成の兆しとなって沈む。星は再び降り始め、さっきよりも粒が細かい。待つための光。森の奥、まだ見ぬ魔王の気配へ向かって、アレスは腕を下ろす。線を引く者の腕。エララはその横顔を見つめ、爪をひとつ、またひとつと鞘へ納めていく。
待つことが、こんなにも満ちることだと、彼女は知る由もなかった。胸の空洞へ、光の粉がひそかに積もる。彼の言葉が光の結晶となって積もる。魔王の影がどうあれ、二人の間はすでに防壁で守られ、同じ風を吸い、同じ方向へ検める準備ができている。微かな笑みを浮かべる。夜明け前の地平線へ、最初の薄明かりが差すときの曲線。ここから始まるのだと、確信しながら。
「……ねえ、アレス」
「何」
「私の名前、呼んで」
「エララ」
それだけで、彼女の牙が鞘へ深く入る。竜の尾が音もなく床を離れ、背の筋肉が緩む。呼ばれるたび、彼女の中の暴力は形を変え、守りへと収束する。彼の声は彼女のための障壁だ。
砂の上で風が角度を変え、彼の指の動きへ従う。彼は指を鳴らし、ひとつの呪紋を音で割る。パリン、とも言えない、小さな音の屑。光が細く裂け、跡が残らない。エララはその瞬きを目に焼きつける。
「あなたの指、綺麗」彼女がふっと笑う。「冷たいのに、中心が熱くて」
「君が温めた」無造作な返答。だがその一言に、彼女の胸へ星の粉がさらに積もる。
庭は整っていく。白砂の筋へ違う光の角度が差し、苔は深い緑へ戻る。池の面が風の向きへ素直に従い、細裂のような亀裂が光に溶ける。音が揃っていく。欠けが少しずつ埋まる。アレスの足音が拍子。エララの呼吸が伴奏。天蓋の粉が二人の上へ淡く降り、彼女の睫毛の上で跳ねる光が、この場の鍵になっていく。
「終わりが近い?」彼女の声。
「あと少し」指先で数える。「十六の欠けは十五。影は一。呪紋は二」
「手伝えることは?」
「見て。乱れを見つけたら、視線で指す」
彼女は頷き、するりと視線を走らせる。指は出さない。視線だけで命令を送るやり方を、彼女は彼から学びつつある。アレスがその視線へ応答し、薄い光の糸がそこへ集まり、汚れが音もなく消える。
「あなたといると、待つことが仕事になるのね」彼女の呟き。「嫌いじゃない。待つ時間が、光に変わっていくから」
「君が見てくれるからだ」アレスの横顔は穏やか。「独りで磨くのは、ただの作業。君の目があるから完成へ向かう」
彼女はほんの少し首を傾け、彼の耳朶に近づく。何も言わず、呼吸だけを彼の皮膚へ流す。彼は目を閉じず、ただ前を見る。そのまま、最後の影へ視線を投げる。視線が線。線は命令。命令に従って編目が絞られ、影は逃げ場をなくし、薄く溶ける。
「……終わり」アレスが低く告げる。
「ほんとう?」エララの声は期待を含む。
「君の目で確認して」彼は一歩横へずれる。彼女の視界を最良の角度へ合わせるための配慮。彼はそういう動きにいつも余計な言葉を足さない。エララは前へ一歩。足裏の砂が正しく柔らかい。苔の湿りが心地よい。池の面がひそかに呼吸する。天蓋が均一に粉を落とし、音階がひとつも欠けない。
彼女はゆっくり笑う。息を飲む音が障壁へ記憶される。驚きの音。彼はそれを待っていた。アレスは肩を落とし、ほんの少しだけ息を吐く。庭が正しく整ったことを体で確認するような細い吐息。
「……ありがとう」エララの言葉は短い。「待てた」
「君が待ったから、完成した」アレスは彼女の指へ視線を落とす。その指はもう裾を掴んでいない。彼の袖の端に沿って、軽く触れているだけ。境を守る触れ方。彼はその触れ方を肯うように、掌を重ねる。掌の温度が交わる。
「魔王は遠い」彼が言う。「だが、遠さはいい。距離は美しくなる。近づけば、消す」
「消すときは――」
「」彼の声は短く静か。「合図だけ。最後に」
「合図、ね」エララは目を伏せる。唇が熱で柔らかくなる。「あなたの合図に合わせて、私の火を出す」
「うん」
二人の呼吸がもう一段落ち着く。天蓋の粉がさらに細かくなる。待つための光が庭を満たす。死の森の気配は遠くで曇り、ここではもう騒がない。砂の粒が指の腹の記憶へきちんと納まり、苔の絨毯は艶を戻す。池の面に映る天蓋は、薄い硝子のように透明で、彼の指の動きへ敏感に反応する。
「行こう、次の場所へ」アレスが腕を持ち上げる。動きは短い。無駄がない。
「あなたの後ろで、同じ歩幅で」エララが答える。尾が柔らかく揺れる。牙が鞘で眠る。爪が光の中で丸く収まる。彼の靴音へ自分の音を重ね、天蓋の粉を二人で浴びる。




