表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
154/173

第7巻 第1章 最後の四天王(4)

空が、軋んだ。


 耳朶を引っかく細い金属音。青を均した天蓋に、ぴしりと裂け目が走り、ひとすじの黒が滲み出る。黒はすぐ赤に化け、東の地平から古い鉄の錆の色が染み広がった。風は冷たく、土の匂いに鉄分の味が混じる。光の角度が変わる。森の葉の縁に乗っていた朝の輝きが、赤と黒に押し潰されて鈍い。


 アレスは、復帰したばかりの身体でその変化を仰いだ。銀の髪が一束、空気の震えに合わせてさざめく。整った眉が、わずかに下がる。


「……悪趣味ですね」


 第一声はそれだけ。救ってくれた相手への感謝も、蘇ったことへの感慨も、この瞬間の彼には不要だ。


「赤と黒の重ね方は、退廃を狙ったお約束の手口。並べるだけなら目を引きますが、私が意匠を組んだ空に対する礼がありません。塗り潰しは表現とは言いません」


 言いながら彼は、かたわらの指にそっと触れられるのを感じた。エララが、自分の指を絡めてくる。竜姫の白い頬には銀の鱗がまだ残る。その光沢は薄曇りの光を跳ね返し、彼女の青い瞳の奥では、灯が潜んでこちらを見ている。


「ねえ、見て。わたしのほうを」


 彼女は小さく笑い、肩がふるえた。笑いは柔らかいが、その背後で空気の温度が一段下がる。目に見えない氷の粒子が、彼女の袖口から逃げた。


「空、嫌い。あなたの視界に要らない」


「エララ、後で見せたいものはいくらでもあります。今は……」


 アレスは視線を上げたまま、彼女の手を軽く握り返す。指の腹が触れるたび、彼女の呼吸が甘く揺れる。


「世界の配色が目障りで」


 淡々と告げられるその言葉に、エララの頬がほんのりと染まった。叱責ではない。けれど、彼女は叱られた子どものように目を細め、喉を鳴らす。


 空の変質は、止まらない。赤は深まり、臓腑の色へ沈んでいく。層の下で黒が重く沈殿して、雲は炎めいた渦を作るが、熱はない。太陽は昇れず、光は瘴気にすり減って、地上に落ちるのは赤黒い薄明だけ。昼でも夜でもない、時間の継ぎ目。風がやみ、鳥のさえずりも途絶えて、代わりに遠くから軋むような響きが流れこむ。


 アレスが耳をすませると、ひとつ、鐘の音が混じってきた。金属の輪郭がないのに響く鐘。どこからともなく、祈りを忘れた祈祷の残響。


「聞こえますか、エララ。王都の鐘です。誰も引いていない」


「……いま、子が泣いた音。誰の胸元かしら。潮の匂いもする」


「港です。網が地面に落ちる音も混じっている。北は雪が硬く鳴る。武器の落ちる音、数回」


「あなた、遠くの音まで拾うの。ずるい」


 言葉と一緒に、エララは彼の肩に頬を寄せた。骨ばった肩の形を確かめる指先が、震えを忘れない。彼女の髪がアレスの首筋に触れて冷たい。肌に触れた冷えが、彼女の心の形を語る。


 遠いところで、人々は天を仰いだ。立てなくなった膝。崩れる指。呟き。笑い声。泣き声。諦めの息。それらの断片が風に混ざって、ここまで届く。


 世界そのものが、否と言っている。生きることに、明日に、望むことに。


「これは魔王の波です。言葉ではなく、常識を書き換える力。脊髄に刺さる針」


「だったら抜けばいい。わたし、抜く」


 エララの冗談めいたささやきに、アレスは鼻で笑った。


「抜くなら根から」


 その時、空の赤黒の中心──大陸の北東、「世界の傷」と呼ばれた裂け目の上空に、それが姿を見せた。


 輪郭の決まらない巨影。ある瞬間は巨大な王の形、別の瞬間は眼と翼だらけの獣、またある瞬間は光を食う穴。見え方が定まらず、見ている側の感覚のほうが揺さぶられる。


「見ないで、アレス」


 エララが囁き、彼の視界を指で遮るまねをする。指先に残る冷気は細い氷柱のよう。彼女の笑みは愛想が良いのに、頬の筋肉だけがぴたりと硬い。


「名前をつける価値もない何か。ねえ、もう呼び名はいらないでしょう?」


「概念に名を与えるのは、統御の第一歩です。しかし、あれに関しては……雑」


 あの存在から放たれる威圧は、距離を笑う。世界中で膝が抜け、ここ、死の森の奥ですら、結界の奥まで刃のように入り込んできた。


 空間に張り巡らせた幾何の線が、ふっとたわむ。アレスは視線を天から地に落とし、すぐにまた上げた。


「左上から三十七番目の構造線、〇・〇二ミリ」


 彼は指をひとつ折り、数えるように呟いた。


「いやね、いま眉が少し動いたわ。そういう顔も好き」


 エララは耳の後ろの髪をかき上げ、無邪気に言う。その背で、空気がきしむ。竜の鱗が皮膚の下で呼吸するときの音。彼女の周囲に陽炎のような気配が立ち、にじむ。アレスの首に絡みつくような、危うい熱。


「苦しくない?」


「私が? 退屈よりはましです」


「なら、代わりに噛んでこようか。あの不格好、口に入るかな」


 冗談の濃度が高い。それでも、エララの声は愛らしい。唇の端が笑いの形を保ったまま、背後の影だけが深くなる。


 アレスは彼女の頭に手を置いた。軽く、正確に。撫でる手つきは、日の当たる窓辺に置く小物の角の向きを直すときの慎重さ。


「下品な敷物は要りません。ここには似合わない」


「……ふふ」


 その一言で、エララの心は簡単に満たされる。瞼がとろんと落ち、長い睫毛に光が触れる。彼女は深く息を吐き、肩の力をほんの少し抜いた。


 しかし、状況が甘くなることはない。赤黒の天は、死の森の上空へ迫ってくる。アレスが手ずから整えた蒼穹の演出──樹冠の葉に反射させる角度、雲と空の白と青の割合、風が花弁を運ぶための道筋。そうした細工が、一様に雑音に紛れていく。


 森の獣たちが、こっそり巣穴から顔を出し、やがて一歩を踏み出した。狼、鹿、銀の梟。アレスの足元へ、まるで出口を求める子どものように寄ってくる。瞳は曇らず、闇に飲まれていない。彼らは理解している。ここが安全だと。ここだけは秩序があると。


「ほら、来た。あなたが呼んだの?」


 エララが囁き、狼の耳の後ろを撫でる。狼は瞳を眇め、喉を鳴らした。


「呼んでいません。選ぶ目を教えただけです」


 アレスは銀狼の首筋をゆっくり撫でる。毛並みに指を滑らせると、柔らかな反発が指先を押し返す。温もり。匂いは乾いた草と雨の間。


 紅と黒に染まる空。歪んだ雲。遠くで鳴り続ける世界の悲鳴。彼の瞳に、淡い怒りが灯った。正義ではない。怒号でもない。自分の作品に泥を投げつけられたときにだけ発生する、氷のような熱。


「エララ」


「うん」


「この内側だけは、まだ整っています。けれど、あの色、あの構図の無さは目に負担です。そして何より」


 言葉を一度切り、視線を落とす。睫毛が影を作り、頬に落ちた。


「あなたが身を削って呼び戻したこの世界を、あの配色で上書きされるのは、私が我慢できません」


「……」


 エララの瞳孔が、きゅっと細くなる。うっとりと曇っていた光の向こうに、別の色が立ち上がった。驚き。若い姫の素の顔。彼女の胸の中心に、名のない温度が灯る。柔らかい。熱い。けれど、彼女はそれを言葉にできない。指先がアレスの袖を握り、心はふたたび別の衣にくるまる。


「嬉しい。ねえ、今の、もう一度言って」


「終わらせません。許可していない」


 アレスは短く言い切った。その響きは乾いているのに、土に水がしみ込むような安堵を呼ぶ。


 同時に、彼の周囲に透明な幾何学模様が立ち上がった。六芒、十二芒、二十四芒。星型が順序よく展開し、点と線が空間を縫う。光は白銀。輪郭が澄んで、刺すように美しい。森の獣たちはその光に目を伏せる。教会のガラスを見上げる群衆と同じ顔になる。


「きれい。……好き」


「手続きです」


 彼が言い終える前に、遠い空で現象が裂けた。魔王の咆哮。音ではない。空気圧でもない。言葉で説明できないのに、理解できてしまう破壊。山の骨が砕け、海の皮膚が裏返り、稲妻が地面から天へ昇る。瘴気の層で蠢くのは、無数の魂の残像。彼らが囁く。「やめろ」「もういい」「受け入れろ」


 死の森の結界にも、余波が打ちつけられた。幾何学模様が、ふっと揺れる。わずかに。けれど確かに。


「〇・〇五ミリ」


 アレスは小さく息を吐いた。吐く息は白くない。けれど、温度が下がっていく。


「やりづらい相手ね」


「庭で雑草を見つけるのと同じです。早いほうが仕事が少ない」


 庭の仕事の話でもしているかの口ぶり。世界の終わりと、同じトーン。


「ねえ、わたし、盾にも剣にもなる。何でもして」


「まずは空気」


 アレスは右手を上げ、指先を軽くひねる。小さな光の粒が生まれ、くるりと渦を巻いた。言葉は一言だけ。


「澄め」


 銀の螺旋が頭上へ駆け上がり、赤黒の天蓋に到達すると、そこに丸い窓が開く。見事な円。輪郭は揺れず、内側に覗くのは本来の青。青が降りてくる。風が柔らかくなる。光が葉の上に戻り、影が清潔に伸びる。


 森の動物たちが短い声を上げた。子どもの笑いに似た音。狼の尾がひとつ、二つ、左右に揺れた。


「良い青です。これが正解」


「あなたの青。触れないのに、目が触ってるみたい」


 満足げに目を伏せるアレス。その丸い青空は、しかし、すぐに縁から侵食を受けはじめた。瘴気は染み、じわじわと円をすぼめる。押し合いの均衡は、こちらに不利。魔王の力はもう、個人が片手間でどうこうできる量ではない。世界の仕様が書き換えられつつあるのだ。


「長持ちはしません。時間は買いましたが」


「時間があれば、あなたは何でも整える」


「そうですね」


 アレスはゆっくり振り返った。視線の先には、自分の塔。かつて失った仲間たちの墓が見える場所。百種の薔薇が微細に配置された園。エララと初めて出会った泉が森の影で光る。水は冷たく、石の匂いがする。薔薇の棘は光を抱え、足もとは土が柔らかく沈む。


 彼は、掌に残る狼の毛の手触りを確かめるように拳を握った。


「エララ」


「なに」


「最終決戦の準備をします。私は、私の世界を守る。あなたも。あの不格好な魔王は──視界から、削除する」


 英雄譚の宣言ではない。散らかった机を前にした職人の、片付けの宣言。それで十分だった。


 エララは銀の鱗を残した頬を紅くし、こくりと頷く。背中の空気が震え、影が広がって、巨大な翼の影が赤黒い空へ浮かんだ。風の流れが変わる。羽ばたかないのに、風景が呼吸し直す。


「ねえ、どこから始める?」


「道具の確認。結界の増設。あなたの力の調律」


 アレスはあえて言葉を選んだ。「調和」という語を避け、指の動きで彼女の肩のあたりを指し示す。エララは満足げに肩を回し、首を傾げて笑った。笑みは明るいのに、その瞳孔の縁に氷の線が走る。


「言って。全部」


「命令ばかりでは退屈でしょう。相談にしましょう」


「……うれしい」


 彼女はふと黙り、指先で自分の喉元の鱗を撫でた。光がそこに当たり、白銀の斑点が揺れる。彼女の沈黙は肯定だ。沈黙の間、背後で霜の粒がぱらぱらと散った。音は小さいが、確かな音。愛の形が音になる。


 空はますます暗く、赤と黒が濃く絡み合っていく。太陽の残り香すら薄れて、風は冷え、樹皮は湿る。遠くで誰かの叫びが折れ、別の笑いが潰れる。世界は、ゆっくり沈む。


 けれど、死の森の境界の内側は違う。光がある。秩序がある。奇妙にねじれた愛が息をして、動物たちは目を澄ませ、人の二人は立っている。円い青は小さくなりながらも、青だ。


 アレスはその青を見上げ、手を一度だけ鳴らした。乾いた音が空間の芯を叩き、波紋が静かに広がる。


「行きましょう」


「どこへでも」


 彼らの声が交差し、森は深く息を吸う。葉の裏で水滴が震え、小枝がわずかに鳴った。土は温かい。空気は冷たい。光は硬い。音の輪郭は澄んでいる。


 終末に抗う最後の砦。ここから、始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ