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第7巻 第1章 最後の四天王(3)

「……痛い」


 肋骨がきしむ音で、アレスは意識の底から引き上げられた。

 視界が定まる前に、強烈な熱と重みが胸に押し付けられる。竜の血を宿す者の、手加減を忘れた抱擁。


 その中心で、二つの影が溶け合う。エララは人の女の姿を取りながらも、竜の膂力でアレスにしがみついていた。彼女の体は嗚咽で震え、涙は熱を帯びてアレスの胸元へと落ちる。彼女の鱗の端が涙で光り、蒸気のように霞みを生む。竜の血は常に炎を孕み、今もなお彼女の涙は熱かった。


「アレス……アレス……消えないで、お願い……」


 エララの声は掠れ、歯が震える。言葉は同じものを幾度も繰り返す。彼女の腕は彼の背を殴るように抱きしめ、指先は彼の衣を爪のように掴んで離さない。指の跡が織物の上に刻まれ、たちまちにそこに小さな焦げ跡のような模様が現れるのは、竜の熱の証だ。


 アレスは立っている。復活したばかりの彼は、世界の崩落に飲み込まれたあの日の残滓をまといながらも、彫刻のように静かだ。淡い符文が皮膚の下で脈動し、結界の残滓が身体を覆う。目はまだ世界の色を取り戻し切れていないが、その輪郭は確かにここにある。彼の服は瑕疵なく整えられているはずのものだが、灰と血の斑点が幾分か付着する。襟元には枯れ葉が一片はさまり、長い手袋の指先は薄く擦り切れる。彼は精緻さを愛する。配置を、光の角度を。だが今、彼の外套はエララの抱擁によって乱され、そこに彼女の涙と熱が残る。


「ああ、服が汚れる」


 声は乾いた苛立ちを含む。彫像から欠け落ちた小さな欠点を見つけた彫刻家のように、アレスはそれを指摘する。だがその声音は苛立ちだけではない。くぐもった笑いが混じり、彼の言葉は儀礼のように聞こえる。彼女の腕をほどくことなく、そっと、ほんの少しだけ遠慮深く言った。


 エララは肩を震わせ、唇を震わせて顔を上げる。瞳は真っ赤に腫れ、あふれそうな涙で光る。彼女の頬には鱗と人肌が混ざり合った風合いがあり、そこに流れる涙は溶けた銀のようだ。彼女はアレスの顔をじっと見つめ、震える声で答える。


「服でもいいの……アレスが戻ってきてくれたなら、私は何も…」


 その言葉に、アレスの眉がわずかに動く。一分の隙もない彼が、たった一つの衣の汚れを惜しむ声を発したが、次の瞬間には彼女の頭を撫でる手が伸びる。指先は柔らかく、慎重に髪に触れ、乱れを整えるでもなく、ただそこにある。彼女の髪は幾筋か銀色に輝き、星の滴が絡むように細い光を帯びる。アレスの掌の平は、細工をするのを忘れた彫刻家が素裸の石に触れるように、まだ冷たく震える。


「……汚れは落とす。君の頭は、ちょうどよい高さだ」


 彼は淡々と言う。言葉は相変わらず無駄がなく、皮肉とも取れるが、その瞳には甘やかな光が宿る。手のひらが彼女の髪を押し、熱い泣き声がふっと止む。その瞬間、この庭の風景が少しだけ和らいだように感じられた。小さな波紋が池の表面に広がり、星の露が一つ二つと落ち葉の上で弾ける。


 エララは息をつき、頭を更に沈める。彼女の顔は彼の胸に埋まり、そこに吐く息は震え、煙のように消える。彼女の毛髪の香りが、火と草と古い雨の匂いを混ぜ合わせて鼻腔を満たす。アレスはその香りを記憶の書庫にしまい込むように、目を閉じる。彼は精緻な構図を思い描くときの静謐を取り戻したかのようだ。だがその心底には、先刻までの死と空虚の深淵が消えたわけではない。


 しばらく、周囲の空気は二人の呼吸だけで満たされる。遠くで折れた木がまたたび音を立て、どこかで暗いものが牙を砥ぎ、魔王の軍勢の気配が風に乗って吐息となって来る。復活はまだ終わりではない。アレス自身も自らの復元を全うしたわけではない。彼の深部にはまだ欠片が残り、世界の崩壊の記憶が刺さる。だが此刻は、エララの存在が彼の輪郭を際立たせ、彼の精緻さを別の方向へと翻訳させる。


「……なぜ、そんなに泣くんだ? 私は戻った。戻ったのだから、もう――」


 アレスは言葉を途切れさせる。続けるべき言葉が見つからない。彼の口は「瑕疵なきであれ」と常に命じるが、今は既に彼の衣が少し乱れる。それでも彼は矯正するより先に、エララの頭を撫で続ける。その手の動きはやがて、自分でも知らぬうちに抑え難い温度を帯びる。掌からさざめく符文の光が彼女の髪に映り、それが彼女の涙を更に輝かせるのを見ると、アレスは小さな笑みを引く。


 エララはアレスの胸を掴んだまま、低く囁く。


「あなたが……帰ってきたら、私、何でもする。あなたの庭を、汚すものなら何でも──」


 その言葉には狂気が沿う。愛が庇護と破壊を同時に望むとき、声は鋭く鋭くなる。彼女は自分の手が相手の背を傷つけているかもしれないことに気づかず、その熱に頼り切る。アレスの背中に刻まれた微かな痛みは、彼を再び精緻に戻す干渉波のように彼方へ吸い取られてゆく。


「私は汚すことは望まない、エララ」


 アレスは言う。


「だが、君の望みは分かる。君は――私を守るために、何をしたか知っている」


 彼の言葉は、回想の淵から絞り出されるようだ。エララの自己犠牲の記憶が、アレスの胸に鋭く刺さる。崩壊の記憶が、断片となって彼の内側で煌めく。彼女が自身を裂き、竜の心臓を彼の世界の核に差し入れ、世界の端が崩れるのを食い止めた。彼女は自らを代償にして、彼を呼び戻した。


 胸の内で、彼はその時の景色を甦らせる。崩れかけた結界が断片となって飛び散る様子。空が裂け、星が溶け落ち、彼の視界が暗い渦に呑まれる瞬間。そこに一筋の燃え上がる光が差し込み、竜の咆哮が世界を揺らす。エララの身体が光に包まれ、彼を跪かせるほどの力で結界の材を繋ぎ直す。彼女の呼吸はもう途絶えてもおかしくない瞬間だった――だがそれがあったからこそ、彼は戻った。


「ありがとう、エララ」


 言葉は短く、しかし深い。アレスは彼女の髪を更に優しく撫で、指先で額の汗を拭う。そこに残るのは血の混じった塩だ。彼の手は器用に、慎ましく拭い、決して乱暴には扱わない。一分の隙もない者は無造作に何かを失わせることを許せない。だが今、彼は彼女が差し出した不完全さを抱きしめる。


 二人の間に、微かな魔法の音が差し込む。結界の残響が耳元で低く震え、星の露がひとつ、彼らの肩に落ちる。それは小さな音符のように、彼らの時間を刻み直す。アレスは目を閉じ、内に秘めた詩のような言葉を呟く。


「この景色を、二人で完成させよう」


 その声はほとんど自分だけのためのものだったが、エララはその一言で肩をすくめ、かすかに笑う。


「二人で、ね?」


 彼女の返答は甘く、少し震える。腕の力を抜きそうで抜けない。彼女の胸に残る痛みは、竜の血が染み出している証だ。だがそれが、彼女の瞳の奥を静かに燃やす。彼女はアレスを抱きしめたまま、世界の崩壊の記憶と復活の温もりを天秤にかける。どちらも彼女にとっては同じ重さを持つ。


 外の気配は変わらない。魔王の影は尚も遠く、しかし確実に近づきつつある。空には粉末のような暗雲が集まり、結界の内側の縁はわずかに滲む。だが今はまだ、目の前の一瞬が優先される。アレスはその一瞬を切り取るように、エララの頭を掌の中で包み、じっと見下ろす。彼の視線は冷静で、分析的でありながら、その先に確かな慈愛を含む。寸分の狂いもないという名の檻は、いま初めて柔らかく開かれた。


「服の汚れは後で手当てしよう。結界の回復も、魔王との決戦も、その後で構わない」


 アレスは低く言う。声には任務宣言のような固さがあるが、同時にそれは誓いでもあった。彼は世界を整える者だ。だが今日は、まず彼女の傷を整える。それが彼にとっての『精緻』の新しい定義であるかのように。


 エララは唇を震わせて笑う。涙が一滴、彼の顎に落ちる。アレスはそれを拭うこともなく、軽く口元に触れてから頭に戻す。その仕草は、言語以上の和解を含む。二人は互いの欠けたピースを確かめ合うように抱き合い、粉塵の舞う世界の中で、小さな聖像を作り上げる。


 遠景で、設計された空間の輪郭が微かに光り、結界の痕跡が風に乗って波打つ。星はまだ落ち続け、葉の先で消えゆく。復活した結界師と、彼を愛する竜姫――その二つの存在は、世界の再生と終焉の両端に立つ。だが今はただ、互いの温度を確かめること。アレスは彼女の頭を撫でる手を緩めず、エララはその掌に顔を預ける。精緻を求める男と、破壊すらいとわぬ愛を抱く女。彼らの指先が触れる場所に、この庭の未来がひとつ、芽吹き始めるのを誰も知らない。


 そして、二人の間に落ちた最初の星の欠片が、静かに水面に溶けてゆく。遠い地平線の向こうで、魔王の影が長く伸びる音が聞こえる。だがその音は今、少しだけ遠く感じられた。アレスは、瑕疵のない配置を作る者として、そしてこれからの戦いを共にする者として、エララと共に立ち上がる決意をその胸に固める。彼の手は彼女の髪を優しく撫で続ける。服の汚れは、やがて洗われるだろう。だが今は、涙で濡れたその温もりを、どうか枯れさせないでおくれと、内なる詩人がそっと念じる。

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