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第7巻 第1章 最後の四天王(2)

大結界が堕ちていく。


 空に張り渡した七彩の玻璃が、甲高い悲鳴を上げて罅を走らせ、薄片へ砕け、風に散る。ひとひらが頬をかすめ、冷たい。湿った土の匂いへ、鉄と腐りの重い気配がまざって鼻の奥にまとわりつく。


「見える、アレス。あなたが何年も重ねた線が、ほどけてる」


 膝をつき、仰向けに倒れた男のそばで囁いた。銀髪が泥に濡れ、月光がふるえながら落ちる。整えてきた前髪は乱れ、汗と血が額へ貼り付く。右頬を斜めに走る傷から紅の珠がこめかみへ伝い、その軌跡だけが鮮やかだ。


「……痛いだろうね。あの柱の並び、角度まで合わせてたのに」


 指先を伸ばす。傷に触れる寸前で止めた。そこに自分の熱を重ねたら、壊してしまいそうで。


「触れていいタイミング、あなたなら決めるでしょう?」


 息は浅い。胸の上下が頼りない。シャツの銀糸の刺繍は、いつもの光を失って沈黙する。彼の指は土へ投げ出され、汚れを受け入れている。いつも空へ構図を描いた手だ。砂粒のざらり、とした感触が爪に伝わる。


「起きて。……ねえ、聞こえてる?」


 睫毛がかすかに震える。その微少な動きに、世界の騒音が遠のいた。


 かつての自分なら――この光景を前に、世界を焼き払っただろう。彼を傷つけたもの全部に火をつけ、彼の目に映った他の名を手帳から消して、彼だけを閉じ込める仕立てを考えた。指と針で、きっちりと。自分の胸の中心にあった軸はそれだった。


「ねえ、前に聞いたことがあったかしら。あの人の名前、って。……もう、いいの」


 唇の端だけが動く。声は低い。背後で紅の気配が薄く漏れ、空気の温度がわずかに落ちた。笑みは柔らかいのに、土の上で霜がひとすじ走る。自分で自分の影に足首を絡め、静かに留める。


「今は違う。ここで息してるあなたが最優先」


 崩れゆく結界の彼方、地平の端から黒い影がぞろりと立ち上がる。瘴の海の底から首をもたげる古い災い。視線が向いているのは、もはやこの死の森ではない。北西。アステリア。白い尖塔が光っている王都へ。


「行くつもり……王都へ。気づいてるね?」


 風が変わる。黒い潮が木々を呑み込み始めた。余光は最後の流星みたいに散る。硝子鈴が砕ける音。遠くの樫が根元から黒炎に侵され、内側から崩れていく。世界の歯車の音が軋み、並びがずれていく気配――そのすべてが、今、耳から離れていった。


「アレス、吸って。吐いて。……うん、その調子」


 鎖骨のあたりへ耳を寄せる。絹を裂くほど細い吐息が、確かな律を持って流れる。吸う、吐く、吸う、吐く。間が乱れたら、心の底が落ちてしまいそうだ。


「大丈夫。私は離れない」


 左の腕を肩の下へ差し入れ、首筋を支える。右の腕は背へ回し、こちらへ引いた。軽い。魔力を使い果たした重さの無さだ。胸の奥が鋭く抉られる。膝上に上半身を抱え込む。銀髪が黒衣の上へ零れ、淡い光の川ができた。


「冷たいね。……あ、やだ」


 頬をこめかみへ寄せ、傷から滲む血が自分の肌へ赤い線を引く。構わない。血は温い。温度が、嬉しい。竜の血を持つ自分の体温がわずかに高いせいで、布越しに、肌越しに、彼へ熱が移っていく気がする。


「わがまま、ひとつだけ。少しだけ、受け取って」


 崩壊の音は続く。結界の天蓋が剥がれ落ち、無数の光鱗が降り注ぐ。瘴の波は森の縁に到達。地が震える。空が裂ける。終わりが傾ぐ。すべてが落ちていく感触。


「聞いて、アレス。……私、決めた」


 目を閉じ、心の底で、心臓のさらに深いところへ意識を沈める。骨の髄に潜む古い火が息を吹き返す。背骨に沿って紅い紋が浮かび、肌の下で鱗の文様が蠢き、黒髪の先が薄く逆立つ。瞳孔が縦へ裂け、虹彩は溶岩の色に染まる。抱く腕の力は繊細に保つ。壊しやすいものに触れる時の手。眠る幼子に触れる時の手。


「全部、使う。……あなたのためなら、何でも」


 額へ唇を寄せる。触れるか触れないか。その間。刻印ではない。祈りに近い、ほのかな接吻。


「約束する。必ず、守る」


 低く、地の底から共鳴する声が出た。


「あなたの世界も。あなたの命も。あなたが愛したこの庭も。……あなたが、私を忘れたとしても」


 言葉は瘴の渦へ呑まれ、空へ昇る。紅金の匂いが薄く漂い、誓いが契約へ変わっていく感覚が皮膚に触れる。


 頭上で、魔王の影がゆっくり首をもたげる。


「気づいたのね。見てる」


 空が裂けた。雲の層の奥に黒曜を断ち割るような縦の傷が走り、そこから墨より濃い闇が痙攣めいて溢れる。闇は液体のように流れ、気体のように膨らみ、天蓋を覆う。太陽は鈍色の眼球めいて歪み、光を失う。昼だった世界が数呼吸のうちに夜へ――星も月もない無光の領域へ転じる。


「見ないで。……いいえ、見ていてくれてもいい」


 地が応じた。大地のあちこちから黒い噴泉が立ち、罅が走る。裂け目の底で紅い眼が幾つも明滅して、こちらをうかがう。森の樹々は内側から黒く染まり、葉が灰になって舞い、幹が捻れ、枝は鉤爪めいて天を掻く。死の森が名前どおりの姿へ、さらに歪んだ形へ変わる。


「……近い」


 中央に影が立ち上がる。瘴の海から巨大なものがずるりと半身を出した。輪郭は定まらない。見る者に応じて姿が変わる。角を持つ獣、羽を広げる竜、冠を戴いた亡骸。共通する一点――眼。無数の紅い眼が一斉に世界を見渡し、そして定める。


「北西。アステリア。あなたが帰る場所」


 白亜の尖塔を七つ抱く都。光と知と祈りの集積。夕餉の支度に竈へ火が入り、子が笑い、老が針を走らせる。まさに今、その日常。そこへ影が一歩を踏み出す。


「やめて」


 その一歩で地形が変わった。森が踏み潰されたのではない。踏まれた領域の存在が世界の織り目から抜け落ちる。緑も土も岩も、なかったことへ書き換わる。後へ残るのは黒く滑らかな空隙だけ。二歩目で湖がひとつ消え、三歩目で地平の稜が削り落とされたように低くなる。


「止める。……聞こえる?」


 歩みは止まらない。アステリアの方向へ、ゆっくり、しかし確実に、世界を踏み消しながら進む。空の亀裂が広がり、そこから無数の小さな影――眷属の予兆――が群れをなし溢れ出る。雲の群れのように連なり、黒い敷物となって王都へ先回りする。風が運ぶ前触れが肌に触れる。


「間に合う。間に合わせる」


 絶望という語では足りない。世界が終わるのではない。別の何かに上書きされていく。光の織り目が黒糸へ縫い直され、命の韻律が腐臭の旋律へ差し替えられていく。耳の奥でリズムが変わる。


「聞いて。……私はここにいる」


 地獄の中心で、膝の上にアレスを抱え、動かない。黒衣の裾は瘴に侵食され、ほつれ、千切れる。長い髪は黒い風に煽られ、頬に灰が降り積もる。彼を抱く腕だけが揺るがない。心の底で竜の血が燃え、紅の文様は喉元まで這い上がる。彼女のまわりに薄い紅金の円環が浮かぶ。瘴を一歩、ただの一歩だけ押し留める結界。命を削って張った、ささやかな盾だ。


「ここから先は入れない。……今だけでも」


 その内側で、アレスの睫毛がふ、と動いた。


「……アレス、起きる?」


 目覚めの兆し。だが、その瞳が開いた時に映るのは彼の知る世界ではない。彼の箱庭は、もうない。彼の手で仕上げた眺めは失われた。そして――おそらくは、記憶の奥からエララという名も薄れていく。


「いいの。私は、あなたを生かすために、ここにいる」


 顔を上げる。地平を踏み消して進む魔王の影をまっすぐ見据えた。竜の縦瞳が紅蓮に燃える。瞳の奥にあるのは、静かな決意の灯。


「……行かせない」


 囁きは世界の轟音へ容易く掻き消えたはずなのに、空気がふるえ、紅金の円環がわずかに強く脈打つ。


 その瞬間、地平の影が初めて動きを止める。無数の紅眼がゆっくり、ぐるりとこちらへ向き直った。アステリアへ向けた首がねじれ、死の森の中心――エララのいるただ一点へ。


「聞こえたのね」


 山の影が虚空を割り、声を発する。音ではない。世界そのものを揺らす概念。聞く者の魂へ直接刻まれる、ひとつの問い。


『――竜の娘よ。お前は、何を、贄に差し出す?』


 唇の形が静かな笑みを描いた。頬の筋肉がほとんど動かない。指先がわずかに震え、背後の紅が漏れる。円環の縁がきりり、と締まった。


「贄……そう呼ぶのね。名前はどうでもいい。結果が残れば」


 答えを紡ごうとした刹那。


「……」


 膝の上で、アレスの瞳がゆっくり開いた。失われた記憶の底から初めて世界をすくい上げるような、澄んだ銀の眼だ。空白でありながら、痛いほど清潔な視線。光を受けて、角度が変わるたびに色が薄く揺れる。


「ここは……冷たい。匂いが……鉄と、灰」


 喉が乾いた音で動く。彼は、腕の中の女を見上げる。緊張が手の甲の皮膚へ細かく伝わる。呼吸がわずかに速くなっていく。


「急がなくていい。……目を合わせて」


 エララは微笑んだ。笑みは短く、瞬きほどの長さ。背で紅の輪が小さく唸る。彼の髪へ指の腹を滑らせ、額から乱れを払った。指は丁寧に。撫でるよりも、置く。そこから離れる時の速度が一定に保たれる。


「落ち着ける音、いる?……聞かせようか」


 世界の崩壊音が、二人の間で薄紙に包まれたようになっていく。


「あなたは、誰、ですか?」


 鈴の音のような問いが落ちて響いた。


「……いい質問」


 彼女の目尻に、わずかな温度が宿る。台詞はそこで途切れ、代わりに息をひとつ吐く。喉の奥が熱い。紅金の円環がまたひとすじ強く光り、瘴の波が一歩ぶん後退した。


「名乗りの順番、今日はあなたが先でしょう?」


 指先が静かに髪を梳き、掌が背骨の線を確かめる。皮膚の下の温度が、少しだけ上がる。


「……ゆっくりでいい。ひとつずつ、取り戻そう」


 彼の銀の眼が瞬き、感触と言葉の間を手探りで行き来する。口の端が少しだけ震える。周りで闇が、形を変えて様子をうかがう。紅い眼がまたひとつ、またひとつ点る。


『竜の娘よ。答えよ』


 世界の声が重なる。エララの唇が、もう一度笑みへ。薄い。影の薄さのように。


「贄なら、もう捧げてる。……聞こえなかった?」


 喉の底から音が出る。ゆっくり。確かに。


「約束そのもの。血の温度。彼を抱くこの腕。私の明日、私の名前。全部、持っていけば満足?」


 紅金の輪が、彼女の周りでぱちりと火花を散らす。空気の層がわずかに動く。髪が音もなく揺れる。


「それでも、行かせない」


 肢体は細いのに、声が世界へ刻まれる。紅い眼の群れが瞬き、どこかで古い木が軋んだ。足元の土の粒がひとつ、ひとつ固まっていく。


「アレス。……いいね、もう一度だけ、聞く」


 その瞳へ、視線で触れる。冷たさと温かさの間へ指を差し入れるような目の動き。


「あなたは、誰、ですか?」


 彼は、彼自身の声で答えられない。今はまだ。エララは、それでいい、と目を伏せる。風がひと筋通り過ぎ、髪が頬を撫でた。血の匂いは薄く、土の匂いが強い。空は裂けたまま、闇は揺れ続ける。


「焦らない。……ここからだもの」


 膝の上の重さが、かすかに増えた気がして、肩が緩む。周囲の音が、遠くで落ち続ける。彼女は微動だにしない。紅金の輪は呼吸に合わせて脈打ち、瘴の波を薄く押し返す。


『贄を、示せ』


「指示は、いらない。……結果で納得して」


 地平で影が息を止める。無数の紅い眼が、二人の間の見えない線を測る。アステリアへ伸ばした意志を一瞬だけ切り離し、中心へ集中する。


「聞こえるね。……じゃあ、見ていて」


 彼女は言い切り、握っていない手をそっと土へ置いた。指先で地の温度を確かめる。冷えと熱の境目に、自分の脈を重ねる。頬へ落ちてくる灰が、薄く湿って肌に貼り付く。舌の裏へ金属の味が戻ってくる。


「アレス、呼吸。……あわせる」


 吸う、吐く。彼の胸の上下が、自分の呼吸へ寄ってくる。時間がひとつの波になる。波は長い。長いけれど、途切れない。


「いい。……そのまま」


 世界は終わりへ傾いだまま、止まらない。影は歩みを止め、問いを重ねる。彼女は答えを重ねない。代わりに目を閉じ、彼を抱く腕の角度を微調整する。肩の高さ、肘の角度、手の内の圧。すべてが同じ強さになるように。


「ここが、あなたの場所。……今は、それだけで十分」


 紅金の輪がまたひとつ強く光り、瘴が輪の縁で波紋を広げる。遠くの亀裂からは眷属の影が滲み続ける。その黒い群れの先頭が王都の方角へ薄く伸び、切先のような形になる。風の音が耳へ触れ、砂が音もなく擦れる。


「見てる? 魔王。……これが、私の贄」


 声は低く軽い。重さは別のところへ置いてある。背骨の下、胸の底。そこで火が燃え続ける。


『承知した』


 世界がひと呼吸、だけ、黙った。


「承知、ね。……いい言葉」


 彼女は微笑み、指先で彼の髪をもう一度払った。銀の線が光を受け、角度で色が変わる。柔らかい。濡れた絹。匂いは薄い。血の匂いが少し、土の匂いが少し。


「大丈夫。……あなたは、ここにいる」


 アレスの瞳がゆっくり瞬く。喉が動く。唇がかすかに形を変える。目が、彼女を映す。彼女は、その映りだけで、世界へ向けた背の筋肉をひとつ弛める。


「もう一度、聞く?」


 彼は短く息を吸い、出す。震えが少し和らぐ。指がわずかに動く。彼女の衣の端を、掴むでもなく、触れるでもなく。


「言葉は、急がない。……ただ、目を」


 彼は、彼自身の目で、女を見上げた。


「……あなたは、誰、ですか?」


 崩れた世界に、その問いだけが、鈴の音のように落ちて響く。

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