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第7巻 第1章 最後の四天王(1)

大結界の模様が悲鳴をあげる。空に散らした数式の星屑が、ひとつずつ音を立てて剥がれ落ちていく。


「やめて……この音、いやな高さ。軋むみたいに、きぃんって……」


エララが耳を押さえる。風は止まり、空気がぬるりと肌にまとわりつく。黄昏の天蓋に走ったひびの奥から、赤黒いものがゆっくり滲み出た。匂いは鉄を煮詰めたようで、舌の奥が痺れる。


「アレス、見て。湖が……色が、変だの」 

「……」


返事はない。数式で描いた空の幕、その隙間から漏れた瘴気が地表を舐めるたび、白い樹々がぱち、ぱち、と黒く焦げていく。枝はねじれ、葉はさざ波のようにめくれた。鏡のように張った静寂の湖面は、泡を吐きながら紫に濁る。気泡が破裂する音が、舌に残る苦味と同じ調子で耳の中に絡んだ。


「戻って。戻ってよ。ここは、あなたの……」


エララの声が掠れる。彼女の裾には血の乾いた色も、瘴気の湿った色もついている。銀の髪は煤で暗く、肘は擦り切れて冷えた地面に震えた。


大地がめくれ、舗道の魔力石が内圧に耐えられず爆ぜる。薄い石片が弧を描いて舞い、破裂音が空の裂け目に吸い込まれた。白い女神の像に絡みついた赤黒い糸が、像の輪郭をじわじわとかき消す。剤を垂らした砂糖のように溶け、形は肉塊めく。


「アレス、起きて……」


地に伏した白の外套が、煤で黒ずみ、縫い目から血が滲む。アレスの体は糸の切れた人形。均された土の上で、骨の折れるきしみが手のひらに伝わる位置に投げ出されている。


「……か……っ……」


息を吸うたび、肺の奥で薄く水が泡立つ。鉄の味が舌の側面に重く残り、喉の奥でぬるい温が渦を巻く。肋骨の断端が呼吸に合わせて内側を掻き、背筋から指先に至るまで、熱を持った線が走った。


その痛みより、ひどいのは別のものだ。結界の一部が欠けるたび、頭蓋の内側に細い針がまとまって落ちてくる感覚。森の線が一本曲がるたび、座標が僅かに揺れるたび、視界の縁が赤黒い雪でかさつく。


「アレス、聞こえる? 呼吸を、して」


エララが顔を近づける。彼女の吐息は冷たい。彼の頬に落ちた涙が、灰でざらついた肌をすべり落ちた。


「やめて、そんなふうに目を閉じないで……。ねえ、目を開けて」


耳は自分の荒い息と、遠くで砕ける高音しか拾わない。光は斜めに、右の視野だけ強く、赤が滲む。匂いは焦げた樹液に、溶けた石の粉っぽさが混ざった。


記憶が飛ぶ。彼が誰で、ここが何で、今何を相手にしているのか、輪郭がすべる。言葉が氷のように薄く割れて、意味を繋ぎとめられない。


エララは震える指で彼を抱き起こす。胸蓋に耳を当て、音を探す。


「いる……音がする。かすかだけど、いるの。ね、いるよね」


そのとき、彼女の脳裏に別の音がよみがえった。冷たい声。あの日の庭、薔薇の前。


『……花弁の展開角度が規定値より、0.2ずれた。不快だ』


「そのとき、わたしの手、こんなふうに温度が上がったの。見ていないあなたに、見せつけるみたいにね」


エララは自嘲めいた笑みを一瞬だけ口に乗せる。頬の筋肉は引きつる。背中で、竜の冷たい力が薄く漏れた。


「でも、もう、違うの。わかったわけ。あなたにとって、ここは……」


言いかけ、彼女は言葉を飲み込んだ代わりに彼を抱く腕に力を込める。骨ばった肩甲が手に当たる。驚くほど軽い。


「……だから、助ける。貸して、あなたの道を。わたしの流れ、全部使って」


彼女は両掌を彼の胸に添え、自分の内部を切り開くように息を吐いた。竜の魔力が喉の奥を通り抜けるたび、舌の裏側が冷たく痺れる。青白い光が掌から滲み、彼の皮膚に触れる。瞬間、刺すような反発。掌が弾かれ、火花すら散った。


「っ……どうして。ねえ、今は意地を張るときじゃないでしょう? このままだと」


彼女は懇願の声を殺して、空っぽの笑みで指先を整える。背後、森の向こうから黒い波がじわりと広がった。波の端は、触れた草を粉末に変える。音は湿った呼吸に似て、押し寄せ、引いていく。


「ここで消えるなんて、冗談、笑えない。アレス、ねえ……」


涙が止まらない。頬に伝う軌道が冷たく固まり、風でひび割れる。彼女は眉を寄せて顔を上げた。瞳に、細い光が宿る。


「わたしが、立つ。あなたの前に」


エララはゆっくり彼を地面に戻した。膝で土を鳴らし、立ち上がる。背骨のところから、透明な薄膜が開く。竜の翼。血の代わりに光が流れる。温度がぐっと下がり、周囲の空気が軋んだ。


「来るなら、どうぞ。ここから先は……」


言葉を途中で切り、彼女は笑う。目尻だけが柔らかい。背へ回した手の甲に、凍える白い霧が生まれる。


その時。背後、地面に伏した男の指先がわずかに動いた。土を掻く軽い音。音は薄いが、彼女の耳に届く。


「……ぁ……」


泥に沈む意識の底。崩れた骨が体の内で冷え、魔術回路が赤く暴れて皮膚の下で光る。脳の隅で、別の光がくすぶる。彼を形作るもの。ひとつだけ、薄れない。


不快。


線が曲がる音。角度の狂った影。何より、無造作に、無秩序に、かさついた手で触れてくる赤黒いもの。彼の感覚のなかで、音は色になり、温度は重さに反転して押しかかる。


(醜い)


言葉にならない呻きが、別の形で瞼の裏に浮上する。記憶は抜け落ちる。名も、理由も、誰が傍らにいるかも、輪郭があいまいになる。ただ、線と面の乱れだけが、はっきりと、骨の中に刺さる。彼の内側にある美の羅針盤は、摩耗していない。むしろ、その一点だけが研ぎ澄まされた刃になっている。


「……アレス?」


エララが振り向く。彼の右腕が持ち上がる。内側でことごとく断たれた筋が軋む音を、皮膚越しに見るような感覚。震える指。けれど、その軌道は、過去にタクトを振るったときのそれに重なる。余分がひとつもない動きだ。


焦点のない目が、光を反射する。見ていない。しかし、睨んでいる。崩れゆく森の輪郭を、近づく波を。


憎しみではない。恐怖も、違う。


かたちを乱すものへの拒絶。彼の血に染まった唇がわずかに開いた。肺の底の泡が、喉を抜けて震える。


「……私の庭が……汚れる……」


瞬間、彼の指先から白い線が走る。どんな色も混ざらない白。空気が乾く。温度が一段落ちる。肌の表面の汗が瞬時に引き、毛穴がきゅっと縮む。


「アレス様、それ以上は……!」


エララの声が跳ね、白はまっすぐ進む。空間に細い傷が生まれる。正多面の形が一点で芽吹き、数を増やす。四つ、六つ、八つ。球のようでいて、角がある。角があるのに、流れがある。彼の指は最短の線で最小の構成を選び、めざす形に繋げる。


「……不快。非対称。ノイズ。色が臭う」


捨てるように吐く言葉は短い。白い線が呼応し、配列が変わる。結ぶ点が変わる。繋がれた形は流星の群れのように軌道を描き、空間に浮かぶ格子を組んだ。


赤黒い波が、その格子に触れる。触れたところから、音が消えた。燃やされるでも、洗われるでもない。無に落ちる。理由はひとつ、「汚い」から。彼の空間で、その概念の存在確率はゼロに下げられた。


迫っていた波の厚みが、縁で止まる。エララの頬を撫でていた湿った息が、ぴたりと途切れた。聞こえるのは、自分たちの息と、白の線が空間を撫でる乾いた音だけ。


「戻してるの? いいえ、違う。切って、新しく置いて……」


エララは呟く。彼の動きに合わせて自分の羽を閉じ、背の膜を小さく畳んだ。目を凝らす。白い光は一定の間隔で脈打ち、薄い規則が空間に流れ込む。古い波は、その規則に噛み合わない。噛み合わないものは、定義から外れる。


「……私の世界の中では……私が定めた形だけが、残る」


アレスの声は糸みたいだが、切れない。彼の頬についた泥が乾いて、ひび割れる。割れ目から薄い血が滲む。揮発した鉄の匂いが鼻に残る。


「やめて。あなた、限界を超えてる。その光、あなたの中身を削ってる」


エララはそっと彼の手首に触れようとして、途中で止めた。触れる前に、白がわずかに跳ねる。拒絶が本能の深さで働いている。


「アレス、どこまで……」


「……一ミリも……過誤を、許さない」


ほんの一度、彼のまぶたが下りる。次に上がるとき、瞳に薄い焦点が戻った。光の角度を読み取る目。濁った湖面の反射に、彼はまっすぐ線を引く。正面、側面、斜め。手元で刻む図形は最短路で編み直されていく。


「ずっとそう。あなたはそう。わたしに背中を向けて、薔薇を見て、角度を直して」


エララは低く笑って肩を落とす。その笑いの下に冷えた光が通る。背に薄い霜が張り、羽の縁が透明に輝いた。


「あのとき、本当は……」


言葉が止まる。彼女は代わりに、自分の指先を見せるようにそっと開いた。爪の先で空をなぞる。白い霧がついてくる。


「今は、いいの。ねえ、見て。あなたの線が、戻しているわけじゃない。描き直している。あなたらしい」


赤黒い波は、白に触れるたびにすり減り、端が欠ける。欠けた破片は音もなく萎む。白の格子は、さらに内側へ踏み込まない。守りたい場所だけに、薄く濃く、線を重ねる。


「ここまで退けるなんて……」


エララは息を漏らす。驚嘆とも安堵ともつかない吐息。彼の横顔は血と泥で汚れているのに、その輪郭には背筋が伸びるような気配がある。静けさが一瞬だけ戻る。風が動き、鼻孔の奥に溜まっていた焦げ臭が薄まった。


「あなたは……」


言いかけて、彼女は笑う。その笑みは柔らかく見えるが、目には涙が重い。泣き疲れた子どものように、頬の筋肉だけが緩む。


「手を出すなって、そう言いたいの?」


アレスは答えない。代わりに、指を一度鳴らした。小さな音。だが、彼が引いた線はそれで確定する。白い多面体が一度だけ瞬いて、薄くなる。薄くなったのは、不要な部分だけ。核は残る。


「……息、吸え」


彼は自分に言うように囁く。肺の奥に残った血が喉を滑る。咳は出ない。呼吸がひとつ通った。冷えた空気が舌の裏に触れる。味が薄い。鼻の奥に、苔と石の湿りの香りが戻る。


「アレス、こっちを向いて」


エララが覗き込む。彼のまつげに灰がひとひら乗っている。彼女はそれをそっと摘み取った。指先は凍るほど冷えているのに、動きはやさしい。


「ねえ、わたし、盾になるって決めたの。あなたの前で、何度でも。あなたが、わたしを必要としなくても」


彼女は微笑む。口角だけ、すっと上がる。背中の羽膜がゆっくり閉じる音がする。


「でも、今は——」


彼女は半歩下がった。彼の光が動きやすいよう、空間の流れを邪魔しない距離を取る。敬意の距離。彼女は翼を畳み、腕を胸前で交差させる。掌に力を込め、ここにいる、と伝える。


「——見ている」


彼の白は、なおも痩せない。余分を削ぎ落とした線は、無遠慮に侵入するものを淡々と消す。直線と曲線の交点が、空間に小さな星座をつくる。


「……わたしの、箱庭」


アレスが唇の裏で転がすように言った。声はほとんど風の音と紛れる。だが、その言葉だけで周囲の光がひときわ固くなっていく。


エララは目を閉じる。まぶたの裏に、崩れていく世界の輪郭、白い線の軌跡、そして彼の横顔が重なる。彼の中にあるものは優しさではない。救われたいという願いですらない。世界を自分の形に合わせたいという意志。そこに惹かれ、そこに傷つき、そこに救われる自分を、彼女は認める。


「そういう人、だものね」


頬に涙が一筋、温かく流れる。風がそれを拭い、塩の味だけが残る。


「アレス様、聞こえる? あなたが好きな角度で、また星を置いて。わたし、邪魔しない」


彼の肩がわずかに上下する。返事の代わりの動き。白い線は、より簡素に、より強く、配置を固定する。ここに、これは置く。これは捨てる。その選別。美の秩序の一点が、空間に染みる。


「息をして。そして、また、ケチをつけて。『ずれている、不快だ』って」


エララは笑って、泣く。笑い声に涙の音が混ざる。背後、赤黒い波は遠巻きに動いている。立ち止まり、様子を窺う獣の目。今は踏み込めない。白い格子が、それを許さない。


彼女はそっと地に膝をつき、彼の手の甲に額を寄せた。冷たい。けれど、そこに確かな鼓動がある。音は薄いが、規則がある。それだけで、世界が一本の線で繋がる気がした。


「もう一度だけ、言わせて。生きて」


彼女の声が震える。彼は短く、低く息を吐く。返事なのかどうか、彼女にはわからない。ただ、彼の白が少しだけ明るくなった気がした。


——崩壊のただ中で、一本の線が通った。空はまだ裂けている。湖はまだ濁っている。樹々はまだ黒い。だが、白の格子は折れない。彼の美のルールが、局所的に世界の上に置かれた。


魔王という災いの完全な復帰、その圧が大地を沈めるように続いているのに、ここだけは違う。小さく、しかし侵しがたい領域。エララはそこにひざまずき、彼はそこに立ち直る準備を始める。


「アレス、見て。あなたの空が、まだ、ここにいる」


彼は目を閉じ、短く頷くように顎を動かした。その瞬間、白が一度だけ脈を打つ。彼の指が降りる。線は残る。残したいものだけが、残る。


世界はまだ終わらない。終わらせない、と彼は思う。思考はちぎれ、痛みは強い。けれど、指先に残る微かな温度、鼻腔に戻った苔の湿り、耳に届く羽ばたきの音。その一切が今、彼の側にある。


エララは彼の横顔を見つめ続けた。自分が救おうとした人は、自分の力で立ち上がった。彼女の盾は、今は必要ない。けれど、彼が剣を握るなら、その後ろで羽を広げることならできる。彼が前を見るなら、背中を守ることならできる。


「わたしは、あなたの線の外に立つ。いい?」


彼は何も言わない。白い格子が一度だけ細く歌うように震えた。答えはそれで充分だと、エララは思った。灰と血の匂いの中で、冷たい風が頬を撫でる。遠くから鳥の鳴きまねのような金属音がする。世界の隅々で何かがまだ壊れ続けている。でも、この場所だけは、薄いが確かな秩序がある。


彼の「箱庭」は汚された。だが、線は引き直された。彼はまだ、手放していない。彼女はそれを見た。見続ける、と決めた。


白い光が、崩れかけた闇の中でひときわ硬く、輝き続ける。

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