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第6巻 第5章 アレスの出張結界(5)

天蓋が悲鳴をあげ、白く細いひびが一斉に走った。次の瞬間、星屑に似た微光の欠片が雨になって落ちる。薄膜のような幾何の層が黒い圧力に触れて溶け、透明の雪片となって空に浮かぶ。そのひとひらが指の甲に触れると、冷たさが皮膚を薄く撫でた。瘴気の森は名を取り戻しつつあり、腐葉土と錆びた鉄の匂いが風に混じる。布の天幕は湿り、甲冑は曇り、呼吸がひとつ重くなる。


「上、また割れた!」外の兵が天幕越しに叫ぶ。布の向こうで木が軋み、遠くで何か大きいものが倒れる音。音の重さは、近づくものの大きさを教えた。


「落ちる光、全部あの方の結界の欠片ってことかね」とドワーフの若い兵が鼻を擦る。「香りが焦げた鉄に似とる」


「似ているわ。彼が描いたものの余韻」と、人間の医師ミリアが短く応じ、仕切り布に指を掛けた。「入る。殿下、お許しを」


薄布の内側は石の寝台と椅子がいくつか。寝台は無駄な曲線がなく、角が肌に当たれば痛むかもしれないほど質朴だ。その上にアレスが横たわる。灰色の瞼は閉じられ、睫毛は風のない水面の稚魚のようにときおり震え、乾いた唇が形にならない音を作る。手の甲には薄く血管が浮き、膚の下を流れる微かな脈が、触れればわかる程度に温かい。


エララは寝台の横に立ち、長い黒髪の先を親指と人差し指で軽く捻る。青銀の鱗は星屑の光を拾い、きらめきの角度が呼吸に合わせてわずかに変わる。黄金の瞳はほとんど瞬かず、アレスの喉の上下を追っていた。


「脈は落ち着いてきた」とミリアが手首に触れ、脈の数を口の中で刻む。「ただ……封じられていた記憶が波に叩かれて形を変えている。魔王の瘴気のせいか、ご本人の意思の名残か、判断が難しい。ほどくには時間が要る」


「時間は、贅沢ね」エララは声を柔らかく落とす。舌の先に金属の味があがった。噛みしめた奥歯のせいだ。


エルフの癒し手が、白い手をアレスの額から宙へ滑らせる。「殿下、これを乱暴に外せば、器が割れる。今の形は彼の心を守る輪でもある。刃では切れない繊維の束みたいなもの」


「束、ね」エララは寝台の縁に指先を一瞬当て、すぐ離した。爪が石に触れた場所に、白い線が残る。「彼のことは、あなたたちの手に預ける。……そのかわり、こちらには嘘はいらない。彼の呼吸の乱れ、目の動き、全部、隠さず伝えて」


ミリアが頷く。「承知しました。殿下、会議へ?」


「ええ。星の欠片、まだ降っている。あれが彼の帰るべき景色の破片なら、拾い集める人が要るの」エララは布へ向かう。その背で、空気の温度がひとつ下がった。彼女の肩より背で漏れた冷気が、天幕の布に白い薄霜を一瞬だけ描いた。


「殿下、一人では——」エルフの癒し手が息を含んだ声を出す。


エララは振り向かず、指先だけで制した。氷の欠片が指の関節に淡く生まれて消える。「一人じゃない。あの人の線が、まだここを囲ってる」微笑みが、唇の端に小さく乗る。「星のように壊れながら、まだ」


天幕の中心では木の卓が待つ。五つの椅子が側面に空き、背もたれはそれぞれの種族の意匠を刻む。白緑の蔦の彫り、鋲が蜂の巣のように並ぶ鉄、灰色の革の縫い目、香が染みた人の椅子、翼の影の意匠。背後には旗。紫地に銀の塔の王国旗、朽ちずの樹、牙の紋、ハンマーと鑿、螺旋する翼と眼。


誰も座らず視線だけが卓上に集まる。天幕の布が風に叩かれ、星の欠片が隙間から滑り込み、木目の上で光って溶ける。音は小さいのに、誰もがそれを合図のように感じていた。


「言おう。時は少ない」代行宰相セラフィナが口火を切る。頬に泥の薄い筋、目は鋭い。「魔王の器が満ち、殻が割れた。アレス殿の結界は……見ての通り。王都の民は避難を始めたが道は限られ、夜は短い。死の森の外縁も変質した」


「変わらなかったのは、お前たちの鈍い耳だ」と獣人の群長ガルドが唸る。片耳の欠けた影が揺れた。「野はずっと唸ってた。人の狩りが野を裂き、獣は罠に絡んだ。静けさ? 耳に綿でも詰めとけ」


「群長、今は舌戦の手数を数えている場合じゃない」とセラフィナはまぶたを一瞬閉じ、また開ける。「価値のある言い争いは後で記録に残す。今は、崩れる音を数える」


ドワーフの砦王ブロム・スレイグが腕を解き、卓へ歩む。厚い指が木を叩くと、震えが掌に戻る。「祖父の代、わしらはこの森の北でエルフと火床を奪い合った。わしの代は地図を広げ、山腹を穿ち、地下の道を繋げた。だが地図が滑る。森が動く。瘴気が地形を舐めて、線が消える。道は繋ぎ直しだ」


エルフの長老アルティリエは目を閉じ、細い手を空に上げる。指先が枝を探るみたいに震え、耳が外の音に澄み渡る。「梢は身を捩り、根は悲鳴をあげる。魔王の息——古語で『第一の風』。最初の風は世界の骨組みを舐めて確かめる。こちらの歌は耐える調べに変わる」


「耐えて、どれだけ持つの」エララの声が加わる。彼女は翼を畳み、背筋を伸ばし、椅子の背後に立った。「ひとりで」


セラフィナが頷く。「だから呼んだ。竜姫殿」


「呼ばれたから来たわけじゃない」エララは視線を卓へ落とす。「彼の……一度だけ言う。彼の設計にいた。中心で鳴る心を抱えて。他の爪を全部折って、他の羽を焦がして、ひとつの線を守ろうとした。そうしていれば彼は振り向くと、勝手に思ってた。でも今、彼は私の名前も、自分の名前も、零したまま眠ってる」


ガルドが鼻を鳴らす。「で、どうする。空から全部覆うか。森ごと焔にするか。昔のお前らは、それが手っ取り早いと信じてた」


エララは小さく首を振る。目尻に笑みが短く触れて離れた。「覆いもしない。焼きもしない。差し出す。私の血と、竜族の誇りを」


ブロムの眉が跳ねる。「誇りを? なんの仕掛けだ」


アルティリエが息をのみ、「竜の誓いか」と低く呟く。「翼の血を混ぜ、言葉を交わし、代々ほどけぬ環を作る古の習わし」


「鎖じゃない」エララは卓の端に指を置く。爪が木肌をかすめ、音がごく小さく走る。「環。私が世界を絡め取るために使うんじゃない。私自身を環にして、みんなの力を縫い合わせる。竜は長く独立を鼻にかけ、空から見下ろしてきた。でも、星が土に降るほどの闇の前で、地を歩く者に翼を貸す時だ。私の血で、人、エルフ、獣、ドワーフを繋ぐ。核は、アレスの欠片」


天幕に低いざわめき。星の欠片がまたひとつ卓に落ちる。セラフィナはそれを拾い上げ、薄板の表に指腹を滑らせた。「この薄さで、こんな紋が密に……。これを核に?」


「そう。これに言葉と歌と印と符と血を縫う」


ガルドが牙を見せずに笑う。「牙の印、か。人の街の壁に吊られた牙を忘れてない。あれと同じものをここに置けって?」


セラフィナの顔が陰る。「記録から消したいものほど残る。だから新しい記録を作る。過去は残る。今、吊られるのは全員の首になるかもしれない」


ブロムが低く笑い、「言葉は軽い。誓いは重い」と言って指の環を外す。鈍い光の鉄指輪。「重いほうを取る。が、その重さを支える梁の材は吟味する」


アルティリエが葉刃を卓に置いた。「なら、私の森から切り出す。怨嗟が絡む根も歌でほどく。樹の道を開く。人の避難、獣の狩り、ドワーフの貨車、それぞれの通り道に」


「道に罠は?」ブロムが肩を竦める。軽口とも針ともつかぬ。


アルティリエの瞳がひと瞬き真昼のように光を帯び、「あなたたちの棍棒が何本も枝を折った事実は忘れていない」と目で返し、言葉は円やかに戻した。「今は折らない」


空気が一段冷え、天幕が大きく揺れる。外で連続する倒木の音。走り込んできた獣人の若者が膝をつく。背に矢が刺さり、肩が濡れている。


「報告!」喉が裂ける声。「北東、黒の軍勢。木と木の間を水のように流れる。これは森のざわめきじゃない。鼓動がある。魔王の鼓動。十三の列。重装、魔導、……獣? いや、死肉の群れ。臭いが——」


彼は言葉を落として倒れ込む。ガルドが素早く矢を抜き、傷口を手で押さえる。「戻れと言ったな。よく戻った」


「戻……りました、群長」若者は口元を動かし、眠りに落ちた。


星の欠片がひとつ、卓の中心に落ち、音を置き土産に消える。


「選ぶなら今だ」とセラフィナが結界片を掲げる。「星が落ち、その分、闇が迫る。逃げ道は細くなる」


ブロムは深く息を吐き、鉄の指輪を卓に置く。「わしは誓う。鉄は熱のうちに打て。今が熱だ。竜の血でも人の言葉でも、わしの金床は受け止める。石と鉄の道を繋げる。地下に新たな道、地上に煙の橋。避難と補給は任せろ。ただし——」目が刃物になる。「その道で誰かが誰かを刺したら、そいつの足元から地を抜く」


「私も誓う」とアルティリエ。「森は開く。枝は低く、道は曲がるが結び目はほどく。歌はあなたたちの言葉を含む。夜ごと灯のまわりで声を合わせましょう。過去の火種はそこで小さく燃やす。爆ぜさせない」


ガルドは短剣を抜き、掌を切る。滴る赤。「俺は仲間を守る。そのためにお前らのためにも戦う。偵察は俺たちが担う。森で俺たちより静かな影はない。……そして、壁に牙を吊った街は、連合の地図から消せ」


セラフィナが目を伏せ、「消す」と言った。「塔の書庫からも、広場の石からも。象徴は作り直す。王国の残りの兵はここに合流。補給はドワーフの道に繋ぐ。税は一つにまとめる。逃げた商人は追わない。連合の食卓は身分を問わず。……私自身にも誓う。塔から身を……いや、愚かね。代わりに目を差し出す。裏切りは見逃さない」


「いい目だ、人の女」ブロムが笑い、髭の護符が鳴る。「言葉がだんだん鉄臭くなった」


皆の視線がエララに寄る。エララは腕輪を外した。竜の骨を削って作った輪。母から渡されたもの。空気が指の肌に触れる感覚が剥き出しになる。彼女は視線を上げ、ゆっくり息を吸う。


「私は竜姫エララ。翡翠の冠、青銀の鱗。天上と地の間の者。ここに、翼の血を捧げる」


彼女は爪先で指を傷つけた。赤が光を帯びて零れ、結界片に落ちる。薄板が微かに輝き、紋様が息をしたみたいに揺れる。


アルティリエの歌が低く始まり、セラフィナが言葉を紡ぎ、ガルドが喉で響きを添え、ブロムが小さな符を刻む。四つの力が竜の血に導かれ、薄い板へ染み込む。幾何の花はほどけ、四つの切っ先を持つ環が姿を現す。中心に白い空洞。そこはまだ空いている。アレスの居場所のような余白だ。


外の音が濃くなり、木が倒れ、地が震える。黒い息が天の光を鈍らせ、結界片の光は逆に強くなる。卓上で微かな音が弾けた。


「名が要る」とセラフィナが囁く。「この環に」


「名は力だ。雑には乗せんぞ」とブロムが言い、鼻で笑う。


「『星』を忘れない名を」とアルティリエ。「降る光を拾い上げ、庭にする意志を込める」


「『星庭連合』。庭は掘れば土、土は爪に入る。星は遠いが、降れば掴める」ガルドが短く言う。


セラフィナの口元に笑み。「星庭連合。いい。アレス殿が目を開けたら眉をひそめるかな。『庭という音は旋律に合わない』とか」


そのとき、薄布の向こうからかすれた声。「……違う。……足りない。端正……線が、歪む……」


空気が止まる。布がわずかに揺れ、内側の気配が動いた。エララの足が半歩出て、そこで止まる。手の甲に血の温度がまだ残る。指が震える。笑みが、ほんのわずかになる。


「線を引こう」彼女は静かに言った。「境界を恐れじゃなく、愛で描くために。今、私が越えないために」


ガルドが横目で彼女を見、「巣から子を出すとき、喉が裂ける感じだな」と鼻で笑い、声は穏やかだった。


セラフィナが結界片を掲げ、「星庭連合の誓い。ここに始める。どの国も、どの種族も、この環から外れない。裏切りは自分の首を締める。助けは相互に。戦いは魔王へ」と宣した。


「よかろう!」ブロムが拳を打ち鳴らす。「わしの孫ども、耳の穴、開けとけ!」


「鉄は熱で柔らかくもなる」とアルティリエが微笑み、歌の調べをひとつ高めた。


「狩り、始めるぞ」ガルドが掌の血を結界片に擦り付け、傷口を結んだ。


エララは最後の一滴を落とし、風の祈りを黙って口の中で回す。息が頬を撫で、布を揺らし、外へ抜ける。


外で足音が重なり、装備が擦れあい、人の槍が並び、ドワーフの車輪が転がり、獣の影が地を這い、エルフの歌が風を澄ませる。遠くの空に、竜の翼が空気をつかむ音。天の裂け目に呼応するような振動。


エララは布越しに寝台の方へ目をやり、誰にも聞こえない声で囁いた。「アレス様、待っていなさい。あなたの庭、あなたのために守る」


布を払って外へ。空気は冷たい。光は濁り、空は裂け目を幾本も走らせる。その裂け目から黒いほど濃いものが滲み出し、地上の影と混ざる。第一の風が頬を刺す。


「竜姫殿、最後に!」セラフィナが声を飛ばす。「竜たちにどこを抑えさせる?」


エララは振り返らずに応じる。「空。頭上。恐れずに顔を上げられるように。空は誰のものでもなかった。今だけ、貸す」


「恩に着る。酒で返す!」ブロムが胸を叩く。


「酒は、仕事のあと」笑みが短い稲妻のように走り、消える。


彼女は翼を広げた。鱗の隙間を牙のような風が通り、背骨に沿って震えが走る。尾の先がわずかに揺れ、光を千切る。羨望でも怨嗟でも欲でもない、名のないものが彼女の中でざわめき、寝台へ戻れと囁く。エララは指先を固く開き、その囁きを払った。血の温度が掌に灯りのように残り、前へ押す。


遠方、森の稜線が波打ち、黒い波頭が持ち上がる。多数の足が地を踏む音。枝が折れ、葉が散り、土が震える。星の欠片が、その動きに合わせたかのように多く降る。濁った光の中で白い粒が見えたり消えたりする。


「第一隊、東の道を確保! 第二隊、北へ!」天幕の中からセラフィナの声。「ドワーフの車、間隔二十! エルフの弓、先行! 獣人の斥候、風上! 竜は高みから! ——初陣よ。後退は恥じゃない。無駄死には罪」


「おおい、根っこは噛むなよ!」ブロムの笑い声が鉄の響きと混ざる。


アルティリエの歌が風に乗り、旗の端を持ち上げる。ガルドの咆哮が恐怖を押し出し、血を温める。


エララは足を一度地に食い込ませ、膝を曲げ、跳ぶ。風が頬を叩き、瞼を重くする。高みで旋回し、眼下を見下ろす。そこに広がるのは未完成の庭。星の欠片が土に混じり、道が縦横に編まれていく。完璧な左右対称ではない。けれど、生きた線が伸びて交わり、脈打つ。地の下から、木の上から、人の胸から、獣の筋から、鉄の響きから鼓動が立ち上がる。


「風、彼の名を忘れないで。星、彼の庭を照らして。血、彼の心を繋いで」エララは古い祈りを、声にならない温度で空に渡す。


翼を畳み、滑空。黒い気配に向け身体を傾ける。旗が翻り、歌が続き、足音が増える。星の欠片は降り続け、結界の破片は最後の輝きを惜しまず肩に触れるのだ。


天幕の中、石の寝台でアレスがわずかに息を吐いた。吐息は意識の底に落ちる泡のようで、どこかで線が揃うことを望む響きだった。白い世界の中で何も思い出せない。けれど外から届く足音、歌、鉄、叫びが耳の奥に色を差し込み始める。細く不揃いな線の集まり。中心には空洞。戻るための余白。


余白は何度でも描き直せる。星の欠片は何度でも降る。庭は何度でも作れる。彼がそこに立つ時まで。今は、代わりに、彼のための連合が、環が、第一歩が地上に刻まれていく。彼が選んだ世界が、彼に背を向けないように。


外で第一の風が唸り、星庭連合の旗がそれを受けて跳ねた。今夜が、種族を超えた団結の最初の夜。朝が来るかどうかは誰にもわからない。けれど、夜のあいだに交わされた誓いは星より固く、血より温かい。互いの眼差しが、もう敵ではないと知る瞬間瞬間が、崩れ落ちる音より強く、黒い息より深く、森の匂いより鮮烈だった。


「セラフィナ、こちら空の端まで見える」と空から竜の一頭が声を落とす。翼の一打に乗る声は澄んでいた。


「報告、継続。雲の切れ間で黒の旗三。進路は北東から南へ折れる可能性」別の竜が告げる。人と竜の声が重なり、連合の輪郭が音になって広がった。


「車列、斜めに。風上に臭いが回る。獣人、鼻を頼りに逸走を防げ!」ブロムが叫び、ドワーフの若者たちが車輪のピンを打ち直す音が響く。鋼と木が擦れ、火花が一つ、空気に消えた。


「森の歌、二の調べ。枝が低くなる。人の列、頭を下げて」アルティリエが合唱を組み、エルフたちの声が空気の層を変える。音の質が変わり、空気の通り道が滑らかになった。


「群長、斥候三、四、五、樹上から。風下に残り香」獣人の声が流れる。足音が地面の上ではなく、樹の皮の上を伝い、葉の震えが合図になる。


エララは黒い波の縁に影を落とし、翼の端で風の筋を切り直す。下から突き上がる冷気と、上から押し込む暖気の境目。そこに刃がある。彼女は身体を薄くし、切り込み、反転。鱗をかすめる冷気が、耳殻の根元に薄い痛みを残した。


「アレス様、聞こえる?」思わずこぼれた小さな声。風に呑まれ、誰にも届かない。自分の胸にだけ落ちる。「星庭、始めるね」


地上でセラフィナが旗を掲げ直す。「星庭連合、前へ! 生きて戻れ!」


「生きて戻れ!」と幾つもの喉が響き返す。人の声、獣の声、エルフの唱和、ドワーフの掛け声。音がひとつの輪になる。


星の欠片が最後のひと降りを見せ、天の薄膜がさらに剥げる。空の裂け目から冷たい風が吹き込み、汗の粒を冷やす。刃物の柄の木が掌に吸い付く感じ。革紐の感触。鼻腔の奥に広がる鉄と草の匂い。光の角度が低くなり、地面の影が長く伸びる。


エララは滑空の終わりに翼を広げ、風を掴み直す。黒い波の間を縫って上昇し、次の落下に備える。胸骨の間で鼓動が高鳴り、血が熱を運ぶ。指の爪に残った微かな血のざらつきが、現実の鍵みたいに感じられる。


天幕の奥で、アレスの指が一度だけ動いた。石の冷たさに指腹が触れ、感覚が短い電気のように走る。枕の布のざらつき、唇の乾き、舌に触れる空気の冷たさ。耳の奥で歌が層を作り、足音と鉄の音が異なる高さで並ぶ。目はまだ開かない。開かないが、白の中に灰の筋が一本、細く引かれる。そこからはじめる線。


外では、第一の風が森の最上段の枝を揺らし、星庭連合の旗を持ち上げた。旗の布が光を拾い、影を落とす。それを見上げる無数の目があった。握られた無数の手。踏み出された無数の足。ひとつの輪の始まり。果てしなく未完成な庭の、最初の夜。

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