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第6巻 第5章 アレスの出張結界(3)

――甲高い亀裂音が昼の空を突き刺した。


「ねえ、今の音、聞こえた?」


「ええ……空の割れる音よ」


人々の目が一斉に上空へ向く。青く澄んでいるはずの空が、みるみるうちに色を失っていく。


「まるで氷が割れるみたい……」


「こんなこと、初めてだ」


空の天蓋はアレスの手が届いた澄みきったドームだ。だが今、その薄氷が一気に砕け散るような音が連鎖し、光の網目にひびが走った。最初は一本の黒い線だった。それが次の瞬間には蜘蛛の巣のように広がり、全てを覆い尽くす。


「見て……黒い霧が、染み出してる……」


「……これは、ただ事じゃない」


空を青から墨の染みた紙へと変えていく、漆黒の泥がゆっくり世界を覆い始めていた。呼吸すら溶かされるような感覚。粉状の結界片は舞い上がるが、黒に触れた瞬間に焦げつく匂いを残して消えてしまう。


「ああ……やめてくれ……空が、落ちてくる……」


広場は混乱の渦。右も左も分からず、逃げ場もない。ここは残された唯一の安息だったのに、頭上の蓋は音を立てて歪み、救いのドームは絶望の蓋へと変わった。


「ゴゴゴ……」


遠雷か地鳴りか判別できない低い音が、空でも地でもなく、死の森の中心から響く。世界の骨組みが震えるような振動が足下を揺らし、梁もきしみ、まるで心臓を掴まれたみたいに胸が締めつけられる。


「……来た」


エララの声は風に溶けるほど軽い。だがその一言が、身体の奥に重く響いた。竜の本能が鱗を立て、死の気配を察知する。


「どうする、エララ?」


「私が、守る」


「守るって……ここで?」


「ええ。アレス様のために」


彼女は小さく息をつき、ゆっくり身体を引き締めた。昔の彼女なら、近づく者を焼き尽くしていた。望む世界は自分だけのもの。周りは雑音にすぎなかった。だが今は違う。記憶を失い、弱さを抱えた彼と、彼が創り上げたこの空間を守る。


「……それで、いいのか?」


「他に選択肢はない」


エララの瞳に炎が灯り、魔力が周囲を温める。瘴気が濃度を増し、昼の光が夜よりも深い闇に染まっていく。


「逃げろ! 建物の中へ!」


警備兵の叫びが空気を裂くが、人々は理性を失い、押し合い、泣き叫び、混沌だけが広がっていた。


エララは冷たい瞳でその混乱を見据えた。


「……行かせない」


一歩足を踏み出すと、彼女の輪郭を淡い光が縁取った。背中から炎の翼が広がり、瞳孔が縦に裂ける。魔力回路が歌い、奔流のような力が流れ込む。


「……ほう、小さき竜が道を塞ぐか」


三つの赤い目が彼女を射抜く。触れただけで血が沸騰するような視線。魔王の復活だ。


「あなたの黒は、アレス様の箱庭には踏み込めない」


掌に魔力を集め、炎の槍を浮かべる。一本一本が命の火を削り出している。


「滑稽だな、小技の寄せ集めが我に傷をつけられるとでも」


魔王の背から無数の漆黒の触手が溢れ出す。それは物理を超え、触れた瞬間に生命力を吸い取り精神を汚す呪いの鞭。


「はあああっ!」


エララの叫びと共に、槍の雨が降り注ぐ。炎と黒が空中でぶつかり合い、破裂音が連鎖する。


「くっ……」


触手の直撃を防いだが、衝撃波で背中を石畳に叩きつけられ、肺から空気が漏れる。唇に金属の味が広がり、顎を赤い血が伝う。


「弱い……愛という幻想にすがるからだ」


魔王が一歩踏み出すたびに、大地が黒く腐り、空気が淀む。足跡が疫病のように環境を変質させる。


「……アレス様」


エララは膝をつきながらも立ち上がる。骨が軋み、魔力回路が焼けつくが、瞳の奥の光は消えない。彼のことを思い出す。記憶を落とす前の、世界を指先で整えた彼の姿を。


「まだ終わらせない」


胸に手を当て、竜族の禁術を呼び覚ます。命を触媒に変える究極の術式だ。代償は分かっている。それでも、構わない。


「……自死の火か。いい、見ものだ」


魔王が目を細める。エララの身体から白炎が漏れ、瘴気を押し返し始めた。命の輝きが、世界を照らす光へと変わる。


「燃やせ、黒を」

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