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第6巻 第5章 アレスの出張結界(2)

空が割れた。

音はない。ただ、見上げていた視界の真ん中に、黒い裂け目が走っている。


「……計算が、狂った」


私の喉から漏れた音は、乾いた砂のようだった。結界の西区画。フラクタル構造の基点として配置した水晶花の座標が、根元から消えている。消えたのではない。物理法則ごと書き換えられ、無に還元された。


「黄金比が、崩れた」


膝が土を噛む。純白の外套に泥が染みる。血の匂い。焦げた魔力の臭気。私の美意識が最も嫌悪する「不規則な破壊」が、視界いっぱいに広がっていた。


「アレス」


背後から声が落ちた。エララだ。

振り返るより先に、彼女の指先が私の頬に触れた。氷のように冷たく、そして熱い。矛盾した温度。


「見ないで。醜いものは、見なくていい」


彼女の瞳は金色の奥で暗く燃えていた。背の半透明な翼が、わずかに空気を切る。彼女は私を庇うように立ち、その視線は空の裂け目ではなく、私だけを射抜いていた。


「離れろ。結界を再構築する。基点座標を三つずらせば、まだ——」


「無理よ」


彼女の指が、私の唇を塞いだ。柔らかい圧。だが、奥に硬い骨の意志がある。


「魔力回路が焼け焦げている。あなたの美しい指が、今は煤に塗れている。これ以上は、私が許さない」


「私の庭だ。私の美学だ。他人に壊されたまま放置するなど——」


「だから、私が直す」


エララは笑った。その笑みは、かつて私が彼女に与えた冷たい規矩とは違う。もっと原始的で、もっと重い。


「あなたが世界を美しく整えるなら、私は、その世界を壊すものを殺す。あなたの庭に落ちる泥は、私が全部、灰にする」


地鳴り。

空の裂け目から、漆黒の柱が落ちた。


魔王の目覚め。


空気が凍り、死の森の残骸すらも恐怖に沈黙した。圧倒的な質量を持った絶望が、空からゆっくり降りてくる。


「……波長が違う。これは、ただの魔力ではない」


私は唇を噛んだ。血の味がした。


「ええ。でも、関係ないわ」


エララは私を背に庇ったまま、ゆっくり立ち上がった。彼女の周囲で、空気が細かくひび割れる音がした。竜の核が、限界を超えて回転を始める音。


「アレス。あなたはそこで、目を閉じていて。私が、あなたのための完璧な夜を取り戻すから」


彼女の背中が、黒い光に向かって飛び立った。

私の制止の声は、轟音に掻き消された。

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