第6巻 第5章 アレスの出張結界(1)
光が裂けた。白金の奔流に、煤じみた黒が噛みつく。裂け目は一息で広がり、死の森の空気が歯の根に響く音もない悲鳴でふるえた。大結界の外皮が擦れる匂いは、焼けた金属と湿った苔の混ざったもの。耳の奥に細い針が立てられたような共鳴が胸板を叩く。
「……まだだ。繋げ」
指が勝手に動く。来歴に穴が空いても、手は覚えている。空に指を差し入れ、痩せた糸を拾い上げ、結び直す。青白い火花がこぼれ、皮膚の内側から砂が流れ落ちる感覚。息が浅くなり、視界は斑に欠けた。空間の歪みが軋む度、骨がきしむ。
黒は歩く。舌を持ち、緑をなめ、泉を濁し、土の色を吸う。かつて自分が描いた線と点の約束がほどけていく。光紋は消え、網の目が途切れ、ひと匙の墨ではない、黒そのものが侵入する足音。地面の割れ目からは煙の柱が立ち、空は毒を含んだ紫にまみれた。
――その時、風が逆巻いた。
「アレス!」
銀の髪が、逆風で暴れる。竜姫エララが足を踏み入れた瞬間、瘴気が一歩退いた。半透明の翼が背に咲く。羽撃きに合わせて真紅の粒子が散り、黒が薄まる。彼女の目は恐怖と決意で射抜くようだった。
「息してる? 返事して」
「……手は動く」
「なら、間に合う。間に合わせる」
彼女の胸の奥で紅が熾った。宝石のような光が鼓動とともにふくらみ、しぼむ。竜の核。竜族の命脈そのもの。外へ出すなど、骨の奥から心を引き抜く行いだと、幼い頃から聞かされてきた。
「やめろ」
彼がそう言った時には、彼女の指はもう胸元へ沈んでいた。皮膚と骨が内から透ける。光の刃が瘴気を裂き、二人の足場を確保する。
「無茶だ。それは――」
「うるさい」
小さく笑って、彼女は背後へ視線も向けない。笑みの形のまま、足元で氷が鳴る。薄い霜が草を覆い、空気の温度が一度落ちた。
「アレス、聞いて。昔話。核を渡した竜は、数えるほど。名前は残ってない。眠りだけが残ったって」
「……知っている。だからこそ――」
「それでもいい。あなたが息をするなら、それで」
言葉の余白に、きらりと刃筋の冷たさ。彼女はまた一歩、歪んだ結界に足を踏み込む。目に見えない刃が足首を切り、頬をかすめ、赤を滲ませた。顔色は変えない。視線は、彼に釘付け。
「受け取って。私の全部」
指先が彼の胸骨に触れた瞬間、光の室が開く。爆ぜた光が円形の空を作り、二人を包んだ。外の黒は光の壁に触れて、砂に水が触れたみたいにしゅうと気配を消す。
――ドクン。
異質な律が落ちる。自分の鼓動と違う拍。温かい川が干上がった血管に水を通すように満ちた。力だけではない。感情の断片、記憶の色、そして彼へ向けられた、やり場のないほどの濃度。その奔流が眠っていた回路を叩く。
「これが……君の時間、か」
暗い扉の蝶番がきしむ。苔の色を選んだ指先。泉の深さに手を浸した朝。季節ごとの光の角度を測った黄昏。一本の枝の向きを決めるために眠らなかった夜。自分が引いた線のそばで笑い、怒り、泣き、拗ね、額を預けた少女の温度。笑みの角度、唇の震え、耳朶が赤くなる癖、涙でにじむ睫毛。流れは彼の中で一枚の景にまとまった。
「アレス、戻ってきて」
彼の名を呼ぶ声が、ふと柔らかい。彼はその声に合わせて、指先を跳ねさせた。青白い魔と真紅の拍が混ざり、黄金を得る。新しい光だ。崩れかけた骨組みに、金の脈が走る。緩んだ結び目が締まり、歪みが整い、面が生まれる。
彼は短く呟いた。
「……沈め」
指を鳴らす。それだけで、周囲の瘴気が幾何の粉へほどけ、風に散った。
金の波がひろがる。黒は光に触れた瞬間、火に紙が触れるみたいに退く。ひび割れた地面が静かに塞がり、枯れ木に萌黄が点る。構図が呼吸を取り戻す。彼の描いた箱庭に、彼女の生命が注がれた結果。
握手に代償はつきもの。核から光を絞ったエララの体は軽くなり、髪の艶が落ち、頬から血色が逃げる。背の翼は光粒になって空気へ消えた。
「よかった……あなたの、目の色が、戻った」
膝が外れ、体が傾ぐ。彼の腕が伸びる。焦点が結ばれた瞳が、彼女を捉えた。
「……エララ」
掠れても、芯は通る。ひと声で、彼女の体が震えた。あり得ない救いを見た眼差し。唇が震える。
「アレス……? 帰ってきたの?」
「ああ。思い出した。私は……君に、背負わせすぎた」
彼女が彼の胸へ落ちる。支える手の温度が現実を告げる。張詰めていた何かが切れ、彼女は子どものように泣いた。
「アレス……っ、アレス……!」
「ここにいる」
背に手を添え、指の腹で骨を数える。そこにまだ温もりがあることを確かめる。彼は視線を巡らせた。金の光が森全体へ薄膜のように伸び、黒を焼いていく。結界は道半ばだが、骨は立った。線は生きた。
けれど、金の光は長く続かない。彼の指先が震え始める。温もりが引く。竜核の拍は彼の中で鳴り続けているが、記憶の糸はまた、ほつれかけている。
「アレス?」
「……ああ。大丈夫だ。大丈夫、だ」
繰り返す。繰り返すことで、自分に言い聞かせている。彼女の名は、まだ舌の上にある。まだ。
エララは彼の胸に額を押し当てたまま、目を閉じた。彼の心臓の音を数える。自分の核の拍と、彼の拍が重なる瞬間を探す。重なりは、まだある。まだ、ある。
森の端で、黒がまた蠢いた。




