第6巻 第4章 魔王軍の奇襲(5)
結界の空に滲んだ色が、悪夢の濃さを増してゆく。紫の毒が雨の準備をし、黒い煙が擦りガラスをこするような音を立てる。外からは、牙の擦れる響き、翼が風を裂く乾いた拍動、巨体が膜を押し潰そうとする鈍い衝突の連打。弓なりに張った大結界は、光と音の圧に耐えながら軋み、うすい破片が天井からこぼれ始めていた。
「……聞こえるでしょう、アレス。向こうで吠えてる。ここの空気が焦げた匂いになってきたの、分かる?」エララは祭壇に横たわる彼の頬へ、指をそっと滑らせる。「あなたの庭が、ぎりぎりで耐えてる。ほら、天井の亀裂——光の筋が、震えるたびに色が濁ってる」
その指先に触れた肌は氷片みたいに冷たかった。白百合の花粉の乾いた甘い匂いが空気に残っているのに、鼻腔の奥では金属が焼ける匂いが刺さる。彼の純白の法衣は泥と血で重く、銀の髪は汗で額に貼りつき、光を拾う角度が不均一になっていた。まぶたの重み。唇の色。触れれば、微かな温度の差が分かる。
「アレス様、起きて。……ううん、今は聞いてなくてもいい」彼女は小さな息を吐く。「外で彼らが結界を叩く音がする。内側は、あなたが整えた光の流れでまだ保たれてる。でも——このままじゃ、飲み込まれる」
星降る神殿の最奥は白で満たされていたはずなのに、今は色が変わっている。ステンドグラスの破片が床に散り、空気に混ざる細かな粉が舌先にざらりと乗った。百合の白はまだ美しいのに、香りが熱で歪んでいた。柱の影が伸び縮みして、光の線が乱れる。すべてがわずかに傾く。彼が嫌う傾きだ。
「あなたの庭に、こんな音を入れたくなかったのに」エララは目を伏せる。「外の酸の雨、見える? 翼の数、ざっと数えると三百。体当たりする巨獣は一列に十体以上。……あなたなら、とっくに排除してるはずなのに」
呼びかけても、彼のまぶたは静かに閉じたまま。喉を通る空気の流れが浅い。胸に触れると、上下の動きはひと呼吸ごとに迷う。冷たい皮膚に自分の手の温度が奪われていくのが分かる。
「前の私なら、笑ってたかもしれないね」エララは目だけで天井を見上げる。「誰にも触れられない場所で、あなたが私の手の届くところにいて、他の足音が近づかない。それを思うと、胸のどこかが落ち着いてしまって……でも違う。そんな静けさじゃ、あなたの光が消える」
彼女の瞳は真紅。縦に揃う瞳孔が神殿の明かりを細長く切り分ける。動く影を追うその眼差しに震えが差していた。彼の指に触れる。冷たい。彼女はその冷たさに肩を強張らせ、しかしすぐに指先で頬を撫でる。
「私が好きになったのは、ここで眠っている人じゃない。立って、目を伏せて、欠けた線に苛立って、手を動かして全部やり直す人」彼女は薄く笑う。「『私の庭を血で汚すな』って、あなた、私に言ったでしょう。あのとき、私はすごく黙ってしまった。あなたの線の上に立つって決めたの」
エララは顔を上げ、天井の割れ目からこぼれる光の粒をじっと見る。「この箱庭を残して、あなたがいなくなるの、想像もしたくない。あなたの作った線が、乱暴な影で踏み荒らされていくの、絶対に嫌」
指を胸に移す。心臓の上。薄い布が指の腹に触れ、鼓動の数が数えられるくらいに弱い。「だから、選ぶ。これしかない」
彼女は自分の胸へ手を置いたまま、視線だけで祭壇を一周した。「普通の治癒じゃ間に合わない。外から魔力を流しても、器が崩れてる。あなたの回路、熱で焼けてね、核が砕けた。私の血をいくら注いでも、底から漏れるだけ」小さな笑み。「それなら——もう、源を丸ごと渡すしかない」
「アレス、あなたには言ったっけ? 竜の核のこと。私たちの中心にある、光って、重くて、熱くて、冷たい、あれ」エララは祭壇の端を指で軽く叩く。「それをあなたの胸に繋ぐ。名のある古い儀だよ。やってはいけないって、いつも言われるやり方」
彼女は肩をすくめる。「一度繋げば、外せない。あなたが結界を張るたび、術を使うたび、私の命が削られる。寿命は短くなる。身体は弱っていく。記憶も、輪郭も——最後は、灰みたいに散る。分かってる」
「怖い、な」小さく零す声に、高い音が混じる。彼女は彼の耳元に口を寄せ、囁く。「消えた後に、あなたが私の名前を思い出せないかもしれない。誰かと笑っている姿を想像したら、息が詰まる。……でも、あなたのいない日々を私だけの足で歩くなんて、思いつくだけで足が止まる。私は、置いていかれたくない」
彼女は立ち上がり、裾が床を滑る音を聞いた。真紅のドレスが血の海に広がるみたいに見える。床に膝をつき、右手の人差し指を口に含む。齧る。皮膚が裂ける瞬間、甘い痛みと金の味が舌に広がる。滴る血が白い石に落ち、ポタリという音が小さく響いた。
「あなたの神殿に、こんな線を引くの、ほんとは嫌」エララは笑いを零す。「でもやる。時間がないし、選びたくないものを選ぶときって、だいたいこんな感じ」
血を絵の具にして、床へ指を滑らせる。冷たい石の肌が指に抵抗を返し、金の液体が目地に吸われる。彼女が描くのは古いルーン。鋭くて、角ばって、丸くて、しぶとくて、生の匂い。エララは言葉にしない音で、ひと筆ごとに息を整える。
「アレス様、見てて。きっと、あなたなら笑う図形」彼女は顔を上げずに話す。「均一じゃない。左右の線もぴったり重ならない。対称性が破れてる。起きたら、怒るかな。怒ってくれたら、うれしいかもしれない」
指の腹が焼けるように熱い。描くたびに、床から焦げた匂いが上がる。空気が皮膚に密着する感じが強まり、髪の毛が静電気でふわりと持ち上がる。外の衝撃音が一段階強くなり、天井から細い光の破片が降る。視界に白い粉が舞い、頬に触れてひんやりする。
「急がないと」彼女は最後のルーンを描いて指を止める。祭壇を中心に広がる陣が、脈打つみたいに明滅した。赤黒い光。金の筋。呼吸の音。
エララは陣の中央、アレスの胸の上に片膝を置いて身を屈める。「……行くよ」彼女は自分の胸の中心に右手を向けた。ためらいは動きに出ない。手を入れる。肉体は傷つかないのに、奥の部分が裂ける感覚が走る。冷えた刃で神経を一本一本そぎ落とされるような痛み。骨の内側が熱を持って膨張する。目の前の光が角度を変え、音が遠のく。
「ッ——あぁぁぁぁ!」喉から声が溢れて神殿の空気を震わせる。ステンドグラスの残骸が細かく砕け、床に散る音が雨みたいに続く。滑らかな肌に赤黒い鱗が浮かぶ。額から角。擬態の膜は薄くなる。彼女は歯を食いしばる。口の中に金の味が戻る。体の隙間から血が出て、ドレスに暗い色が広がる。痛みが波になって身体中を巡り、波の引き際で微笑みが残る。瞬間だけ、口角が上がる。自分でも分かる。その表情を、誰かに見せたくない場面だった。
「……っ、まだ。まだ、離さない」彼女は右手をゆっくり引き抜く。掌の中に収まる光の球。真紅と黄金が渦を巻く。重さはないのに、手が落ちそうになる。眩しい。すべての線がこの光に吸われていくような錯覚。息を止め、目を眇めて、その中心を見据える。
核を外に出した瞬間、体から熱が抜ける。背中の皮膚に冷たい布を乗せられたみたいな感覚。指先の力が抜ける。視界の端が黒く染まる。彼女は自分の舌を奥歯で軽く噛み、意識を引き戻す。
「アレス、受け取って」彼女はその球を両手で包み、彼の胸へゆっくり押し当てる。「私の全部をまとめて送る。文句はあとで聞くから、今は黙って受け入れて」
彼女は古い言葉を紡ぐ。空気が震える。血の陣が強く輝き、神殿の影が一斉に短くなる。核は彼の肉を透過して沈む。手のひらから光が抜ける感覚、皮膚の内側へ何かが吸い込まれていく感覚。彼の体が大きく跳ねる。
「が、はっ……!」彼の喉から声が漏れる。口角に血が滲む。体の内部で、透明な青い力と荒々しい真紅がぶつかる。青は静けさの形を持ち、赤は焼けた金属の匂い。二つが絡み合い、剥がれ、突き刺さり、押し返す。胸の内側で、波と波がぶつかって泡が弾ける。皮膚の表面に汗が細く滲む。
「拒まないで。ねえ、アレス」エララは彼の胸に頬を寄せる。「私の力も、息も、心も、あなたの図面に並べていい。あなたの線に沿って、私は自分を薄くする。私の輪郭を、あなたの波に合わせる」
彼女は自分の魔力の音色を、彼の呼吸のテンポに合わせる。拍の数。間合い。波長。高音と低音が噛み合うように、赤を青へ寄せる。輪郭が溶けてゆく感覚。自分という言葉が薄まる。恐怖は、ここでも残る。だが、彼女は一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。
「あなたの世界を動かすなら、私は一枚の板でいい。あなたが望む形のために、私は軽くなる。だから——生きる方へ、手を伸ばして」
やがて、体内で暴れていた真紅が青と混じり、紫がかった光沢へ変わる。波が重なる。音が整う。核は砕けた回路の代わりに広がり、足先まで温度が戻る。アレスの呼吸が変わる。胸の動きが大きくなり、頬に血の気が戻る。唇の色がほんのわずかに温度を帯びた色に変わる。
神殿の外で、空気が一度沈黙する。次の瞬間、結界全体を新しい波が走る。青と赤が混ざり合った力が膜を厚くし、蜘蛛の巣みたいだった亀裂が速やかに閉じる。光の膜が外側から押し寄せる瘴気を弾き、翼の群れを遠くへ押し流す。巨獣の突進が鈍い音を残して弾かれ、外の音が一段落ちる。
「……はぁ」エララは、胸の奥の緊張がほどけるのを感じて小さく息を漏らす。「間に合ったね。ねえ、アレス、聞こえる? ほら、さっきの音が減った。天井から落ちる粉も——止まった」
祭壇の上。彼女は気づく。接続は終わった。彼の命は繋がった。結界は安定した。と同時に、別の変化も体に走る。彼の心臓が打つたび、自分の内側から何かが糸で引かれるように抜けていく。吸われる感覚は鋭いのに、痛みは甘くなっている。不思議な共鳴。恐ろしくて、あたたかい。
「今、私はあなたの一部」彼女は目を閉じて耳を澄ます。「あなたの鼓動が私の鼓動を決める。トクン、トクン——この音、ずっと聞いていたい」
身体に力が入らない。指一本動かすのも難しい。彼女は彼の胸に頬を乗せ、温度を拾う。耳元で音楽みたいな拍動。百合の香りが淡くなり、代わりに血の匂いが薄まる。空気は落ち着く。遠くから滴る音だけが続く。
「……よかった」声が掠れる。真紅の瞳から涙が落ちる。涙は彼の頬を濡らし、ほこりを洗い流す。彼の肌に残る冷たさが少しずつ和らぎ、彼女の頬に温かい気配が戻る。「ねえ、アレス。私、きれいな言葉を選ぶの、苦手なんだ」
彼女は微笑む。笑みは小さい。誰にも見えないくらい。「愛してる、アレス。あなたが私を忘れても、私の時間が尽きても、灰になって風に紛れても——大丈夫。あなたの線の上で、私は光を支える。ずっと」
「アレス様、起きたら怒る?」彼女は冗談みたいに囁きかける。「神殿の床、血で汚した。線も曲がってる。あなたなら、眉間に皺が寄るね。私、横からそれを眺めて、笑って、それで怒られるの。……それでいい」
彼女はゆっくり目を閉じる。彼の温度を頬に受け、胸の中の糸が引かれるたびに、微細な電流が指先を通る。そのとき、彼の唇がかすかに動いた。音にならない音。形だけが唇の端に残り、消える。何かを呼んだのか、何かを正そうとしたのか。外では、風が膜に沿って流れ、音が低い。光は祭壇の上に落ち、二人を包む。
「あなたの作る世界は、私にとっての唯一の風景。私が薄くなっても、消えても、ここは残る。それなら——笑えるね」彼女は息を吸って、吐く。「私は、あなたを守る。私がここにいる限り。いなくなっても、残った線が私の仕事」
彼女の指が、彼の胸の上で止まる。ときおり、彼の指がわずかに動く。反応は小さいのに、十分な合図に感じる。エララは呼吸のテンポを整え、彼の拍に合わせて自分の拍を重ねる。音のレイヤー。
「……眠っていてもいい。起きてもいい。どっちでも、私は隣にいる。あなたが不機嫌な顔で目を開けて、私に文句を言う日を待つ。『私の庭に勝手な符を描くな』って。うん、それを聞きたい」
外の世界は少しだけ声を潜める。結界は新しい質感を得て、表面が光を滑らずに受け止める。膜の上を風が撫でる音が柔らかい。神殿の中の空気は少し冷たいまま、透明さが戻ってきた。百合の花弁が、光の角度に合わせて白さを変える。
「ねえ、アレス。私の怖さは消えないよ」彼女は笑わないまま言う。「ここから先、少しずつ減っていく自分を数える日が来る。でも——あなたが呼吸するなら、私の怖さは脇に置いておける。あなたの呼吸の数を数えるのが、私の仕事になるから」
彼女は彼の耳元に唇を寄せ、息で音を作る。「聞いてるかは分からない。答えなくていい。あなたが生きてる、それだけで私は今を越えられる」
彼の右手の指が、微かに曲がった。石の上で線を引くような動き。無意識の筆。彼の身体は、意識が沈んでいても、線を引くことをやめない。エララはその指先を見つめ、涙がこぼれそうになるのを唇を噛んで堪えた。
神殿は静けさを取り戻す。床の血の陣は光を弱め、金と赤が深い色へ沈む。空気に残っていた焦げた匂いは薄まり、百合の香りが戻る。ステンドグラスの破片に光がさし、細い虹の筋が祭壇の上へ伸びる。
「あなたが目を開ける日まで、私はここで座ってる。視界の端を整えるみたいに、呼吸の間を整えてね」エララは彼の胸に耳を乗せた。「トクン、トクン。世界で一番まっすぐな音」
彼女は微笑みを保つ。頬の涙の線が乾きかけて、皮膚が少しつっぱる。指先は冷たいまま。核を渡した体は軽いのに、重い。矛盾した感覚。けれどそれが今の彼女の形。
「これが、私の選んだ道。あなたの結界の中で、私は薄い板になる。あなたが考える線を、もう一度引けるように支える。怒られたら、謝る。笑って、また怒られる。それで、いい」エララは目を閉じたまま言う。
祭壇の上に、淡い光が残る。二人を繋ぐ筋のような光。触れれば消えそうなほど柔らかいのに、なぜか強く感じる。光はいつまでも清らか。悲しみを抱いたまま。神殿の空気に溶けるように伸びている。
時間の流れは一定。外の音が遠くなる。内側の音が近くなる。エララは彼の頬へ指の背をすべらせ、皮膚の温度を拾う。微細な変化を聞く。彼の体温が、さっきより確かに上がっている。頬の下、顎の線に沿って、薄い血の色が戻り始めていた。目を閉じたまま、笑みを少しだけ深くする。
「また、あなたの線で世界を並べよう。起きたら——手伝わせて」彼女は囁き、息を吐く。「私の命の数が減っていくのは、もういい。あなたが増やす線の数のほうが大事だから」
彼女は黙る。音は呼吸だけ。百合の香り。血の温度。光の角度。指先の冷え。彼の鼓動。すべてがここにある。すべてが彼の世界の最小単位。
「見ていて、アレス。私がここにいる限り、あなたの庭は守られる。あなたがここにいない時間も、私は絵の具みたいに光を塗っておく。戻ってきたとき、あなたはきっと眉を上げる。そのとき、私は笑う。怒ってもらうために」
彼女は顔を上げない。瞼の裏に白が広がる。光の筋が薄く踊る。耳には規則的な拍動。口元には言葉にならない音が残る。息は浅く、けれど整っている。
最後の一言を、と彼女は思い、思わない。声は出さない。言葉は必要ない。繋がった核が、すでにすべてを伝えているから。
ただ、二人の間に漂う淡い光がある。清らかで、悲しい。暫時の静けさを保ちながら、祭壇の上を照らす。外の世界へは届かないのに、内側を満たす。長く、長く。




