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第6巻 第4章 魔王軍の奇襲(4)

夜気を裂く硬い音が続き、天の膜に白い裂線が増える。頭上の透明な覆いに散った光の粉が、砂金みたいに降り、白砂の模様へ静かに触れた。触れたところだけ波打って、黒い森の吐息に呑まれる。湿った風に甘腐れの匂いと鉄の味が混じる。冷えた空気の角度が変わり、箱庭の中の澄みが薄い膜で曇る。


「……いやな音、やめて」


自分でも聞こえないほどの小声が漏れた。足裏から上がる砂の冷えが膝へ登り、そこで止まる。円く組まれた白石の中央に、銀の髪が伏している。アレスの肩に結界紋の灰が粉雪みたいに積もり、汗の筋へ貼りつく。呼気は細く、喉がときおり鳴った。彼の指が宙の線を追う癖だけは、まだ途切れずに痙攣として残る。


エララは膝をつき、翼膜を大きく広げて彼の体を覆った。鱗の縁が空気を削ぎ、その音が瘴気を押し返す。彼の頬に自分の息が触れ、指の間を濡れた髪が滑る。塩の味が舌へ戻ったとき、頬から水が落ちているのに気づく。


「アレス」


名を置くたびに胸骨の裏へ刃が擦れた。呼べば、幻の笑みが瞼の裏に浮かぶ。すぐに消え、見知らぬ目が「誰だ」と形を取る未来が喉を締める。恐れが喉から胸へ、そこから指先へと移った。指で髪を梳き直すたび、今の温みが少しだけ固くなる。


「アレス、目を開ける? 聞こえる?」


返事の代わりに、結界の縁から地鳴り。遠方の角笛が重なる。黒い樹冠が波のように揺れ、地平の彼方で星の穴がうごめく。凍った血みたいな色の空。裂け目の向こうで巨大なものが息を覚える気配。覆い全体が呼吸に合わせて潮のように微動し、肌を撫でる風が生臭さを増す。


睫毛が震え、エララの息が止まる。


「……だ……れ……」


やわい音は、胸の中に落ちると刃へ変わる。焦点を結ばない瞳に星だけが跳ねた。言葉が喉で絡まり、古い執着と新しい祈りがそこでぶつかる。彼の目は、今は何も映さない。


「私はエララ。護り手。今はそれでいいの。思い出そうとしなくていい。生きて、息をして。ここにいて」


声は震えたが、翼は揺れない。彼の熱を逃がさないよう、内側に空気を溜める。頬の温みを親指で確かめるたび、現実が厚みを増す。この箱庭が彼の形をしている。二つの真が触れ合う場所に、全身で蓋をする。


庭の端で石灯籠がぱきりと鳴り、中空の糸が切れて灯が消えた。砂紋の同心円にひとところだけ崩れ。そこから黒が沁むように森の影が入ってくる。裏返った根、腐った花弁。彼が忌む歪みが、真ん中に土足で踏み込んだ。


エララは息を短く吸い、喉の奥で低い音を生んだ。昔なら、その音は近づく者を焼く合図。今は自分の内へ燃やす合図にする。


「手を出しちゃ、だめって言ったはず」


囁くと、軋みが一段高くなる。見えない糸が十本ほど、同時に切れる音。周縁の柱に刻まれた紋がひとつずつ暗くなる。遠くで火柱と砲声。攻城の器が錨点を砕く。


「時間がないね」


内側の核が熱を帯びる。骨の隙間に埋められた守りの核。これを外に晒せば寿が削れる。結界へ繋げば壁になる。甘美な墓になるだろう。かつてなら喜んで選んだ。二人だけで閉じるために。けれど今は――


「アレス、聞こえる? もし、二度と私を思い出さなくても平気。私を嫌う日が来ても、誰か別の手を取っても。あなたの手で、この世界を塗り替えて」


彼のまぶたが微かに震え、また閉じた。透明な滴が頬に残り、消えずに留まる。エララはそれを唇で掬い、額を寄せる。熱が触れ、呼気がわずかに温を取り戻す。


「だから、私が壁になる。あなたの庭が、あなたに戻るまで」


言葉にした瞬間、迷いが薄れる。エララは立ち上がり、翼を広げた。最後に彼が触れた石盤に足を置く。草葉の裏みたいな冷たさと滑らかさ。刻まれた線には、何度もなぞられた指の跡が薄く残る。そこへ指を当て、熱を流す。核が熱い。胸が焼け、視界が白く霞む。


「エララ!」


裂け目の向こうから、叫び。敵味方はわからない。響きは警告の色を帯びていた。直後、天蓋が一部破れ、黒い矢が雨になる。多くは見えない壁に砕け散り、二、三本が翼に刺さった。鋭い痛み。血が砂へ飛び、赤が瞬時に黒へ変わる。瘴気が反応して蠢く。


「離れて!」


矢を抜き、片翼で地を叩く。衝撃で血が散り、裂け目の端が閉じる。結界が低く鳴り、竜の血に唱和するように振動した。古い相性が響く。灰と鉄の匂いが混ざり、吐く息まで熱くなる。


「大丈夫、平気だよ」


背の内側に寝かせた彼の体が、さっきより軽く思えた。腕に力を込める。彼を抱える準備。核を繋ぐ錨点へ――崩れた頂の白い塔へ向かわなければ。塔の中腹から火が噴き、影の兵が蠢く。


「昔の私なら笑ってたのかもね。こんな夜に、全部灰にして二人きりって」


独り言は風に消える。目は塔へ。彼はそんな景色を望まない。彼の美は、境の線に落ちるひと筋の光、息づきと静けさが触れ合う瞬間。世界は彼の手が正す。


「望みは、捩れたものじゃない」


口の端を上げ、涙を親指で拭う。温い笑み。


「私の願いは、あなたがあなたであること。ただそれだけ」


決意が胸に馴染む。エララは翼を畳み、アレスを抱き上げた。頭を胸の窪みに収め、鼓動を彼の耳へ当てる。意識して速さを落とし、一定の波を刻む。彼の呼吸が引かれて整う。頬に髪が触れ、柔の感触がくすぐる。


「行こう。庭も未来も、あなたの手に戻す」


崩れた砂紋の上へ、新しい足跡が並ぶ。崩れる光の粉の下、塔へ向かう。塔と塔を結ぶ光橋は半分以上消えていた。見えない糸が肌を撫で、ひびの縁から冷たい光が漏れる。背後で黒い森が軋み、嗤う。決意の匂いに舌を伸ばしたものがいる。


「待ってて。すぐ戻る」


耳元へ囁く。自分への誓いでもある。塔へ行き、核を繋ぐ。代償は怖くない。目覚めた彼が私を知らなくても、世界を見させたい。手を伸ばして、また線を引いてほしい。


空の裂け目が光り、遠雷みたいな声が森の向こうで笑う。魔王の影が身じろぎ。帰還の気配。崩壊は始まりに過ぎない。エララの足は震えながら、止まらない。涙が砂に落ち、黒い染みが円を描く。足跡と重なり、模様が広がる。彼が愛した形を、涙が描いた。


塔は近い。内側から微かな鼓動がする。結界の心臓だ。自分の鼓動と重なる瞬間が来る。息を吸い、細く吐く。白い吐息は空気に溶け、まっすぐ前へ流れた。決断も同じ。


「私は、あなたの壁になる」


囁きは裂け目に消えず、砂の中へ沈み、塔へ向かって染みる。歩みを速める。背でアレスがわずかに身じろぎした。耳元で、小さな声。


「……庭が……崩れる」


彼の声。忘れた声色でも、彼の音。


「大丈夫。庭はあなたに返す。少しだけ休んで」


まだ彼の瞳が私を認める日は遠いかもしれない。それでも、彼であるために全てを燃やす準備はできている。塔の影が覆い、冷えた石の匂いが近づく。世界は崩れ、それでも前へ。涙が彼の頬に落ち、微かな光を抱く。


灰を運ぶ風。破れた縁を舐める乾いた音。背に預けられた体温が頼りなく揺れる。呼吸は浅く、忘れてしまった何かを探るみたいにたまに詰まる。歩みを止めず、髪に額を寄せる。指にからむ塵は、彼が敷いた白砂の名残。光の面の裏に走っていた亀裂を、今さら理解する。


「……アレス」


名は刃。喉の内側を切る。自分を罰するように、もう一度置く。


「アレス、ごめん」


届くとは限らない。けれど、言葉は自分の耳に刺さる。どうして、あの庭に人の声が消えたのか。


かつての光景が口を挟む。石段に甘い匂いが割れ、赤い果実が潰れる音。


「その果実、ここでは要らないの」


村の少年の手から奪い、足元へ叩きつけた自分がいる。少年の目が揺れる。恐れと戸惑い。安堵したのは、私。遠ざかる足音に耳を澄ませ、雑音が減ると胸が軽くなる。


「色粉だって? 悪いけど、粗いのは使わないの」


色商人の笑み。肩を軽く押しただけで尻もち。箱が割れ、粉が散る。爪の先だけが本性を覗かせた。柔らかな口調で扉を閉ざす。


「祈れば強くなる? その音、輪郭をぼかすの」


聖女を名乗る娘の掌は柔らかかった。指の間を一本ずつ撫で、低く囁く。娘は首を振り、涙が滲む。笑っているのは私。今思い出しても、その笑みは冷える。


「無理をさせるな」


老いた師が膏薬を渡す夜。背に立つ私は、影を切る。


「彼の手には痛みが必要」


師は黙り、アレスは視線を落とした。膏薬は机に置かれ、後で炉に消えた。しゅう、という音と油の匂い。生活から余計を消す悦び。余計な手、余計な言葉、余計な視線。


「邪魔は、いらない」


騎士の護衛も、見張り台も断った。夜風に恐れを混ぜ、道に見えない迷路を編む。踏み石の並びは私だけが知る模様。違う足が踏めば、足元が柔くなる。罠だと気づかず、「選別」だと信じる。


「私だけが、不純でいい」


囁いたのは庭に向けて。胸に向けて。至高の領域へ触れられる資格を自分に与える。唯一の汚れとして役立つことに酔う。他の影は許さない。彼の景観に必要なのは、私の影ひとつだと。


背の中で、アレスが浅く息を吸う。瓦礫の崩れる音と重なった。


「アレス、知ってた?」


問いは宙に漂う。答えは来ない。あの頃、彼は私を咎めなかった。門前で誰かが泣く夜、彼は手を止めて窓辺で森を見下ろす。唇の端に小さな傷み。それが私を苛立たせた。彼の横顔に生まれる影が、私以外のものだと認めたくなかった。


「ねえ、私だけでいいでしょう」


窓に額を寄せ、言った。彼は答えず、筆を取る。墨の匂い。紙の上を滑る音。その音だけを真と決め、他を嘘にする。


今、嘘みたいに世界が崩れる。覆いは軋み、森の死が庭へ入る。金属の鈍い響き。遠い叫び。選別した足はない。追い払った手は、彼に水を渡さない。肩に布を掛ける者はいない。最初のひびに気づくべきは私だったのに。あの頃、耳を塞いだ。ひびの音が、自分の歯ぎしりに似ていたから。


「壊したのは、私」


吐き捨てるように言い、すぐに縋る。誰かのせいではない。復活でもない。初めにひとつの種。濡れた土に根が伸び、庭を覆った。空があった場所へ自分の影を広げる。彼はその影の下で炎の輪郭だけを見る。人の輪郭は消える。


「エララ、来ないで。君がいると、皆が」


一度だけ、彼は言った。言葉は柔らかい。目だけが遠い。私は笑って答えた。


「皆は、彼にふさわしくないの」


それ以上、彼は言わない。言葉は口で死に、胸で毒になる。毒を愛おしむ。自分だけが苦しいと錯覚できるから。孤独を自分のものにする。磨かれた宝石みたいに飾る。


「醜い」


宝石は砂にまみれ、転がった。踏み潰したいのに足が動かない。胸を握り潰したいのに骨が邪魔をする。竜の心臓は強靭で、自己嫌悪すら噛み切れない。


「ひとりで、よかった?」


崩れた壁の隙間から空が覗く。裂け目から吹き込む風が彼の髪を揺らす。耳を寄せる。彼は眠る。温度だけが確か。顎に力を込め、鉄の味で意識を持ち上げる。


「違う。違った」


言えるなら。果実を返し、箱を拾い、祈る手を包み、「いっしょに」と言えたなら。師に頭を下げ、膏薬を受け取り、手を優しく撫でられたなら。椅子をひとつ増やせたなら。増えることを恐れた。場所が曖昧になるのが怖かった。竜の宮で宝に囲まれても埋まらない窪み。彼の側にしか形が合わない穴。


「それでも」


言葉を飲む。それでも、誓ったはず。守ると。守るのは囲うことじゃない。今ようやく学ぶ。遅い。遅すぎる。覆いは崩れ、影は現れている。記憶は空白。手の震えが止まらない。


「アレス、私は壁になる」


昔は庭の壁を高くした。今は違う。自分を外へ向ける。殻の向きを変え、内側に風を入れる。爪は人を裂くためでなく、自分を裂くために使う。過去の扉をひとつずつ閉め、鍵を捨てる。


「ごめん、ごめん」


繰り返しても廊下は長い。謝罪は靴音に混じり石に吸い込まれる。消えないのは、あの夜の目。果実の少年、色粉の商人、祈る娘、沈黙した師。その目が背を刺す。


「見ていて。間違いをほどくところを」


灰を肺に入れる。咳が出そう。背に預けられた重さが肋骨へ確かに伝わる。踏みしめれば音がする。ありふれた音。耳を慣らす。もう、ひびの音を歯ぎしりに紛らせない。


「アレス、ひとりにしない。それは、私だけが側にいるって意味じゃない」


言葉は震えた。けれど、石へ落ちる。涙は拭かない。頬の温かさを、今だけ許す。竜の涙は硬いはずが、今は柔い。首筋に落ち、光る。塩を指で伸ばし、歩く。背後で影が歪み、前方に崩れた扉。扉の向こうに誰かがいる世界。そこへ彼を連れ出す。檻から、不完全な庭へ。音が多く、色が騒ぎ、匂いが雑な場所。雑さが彼を支える。そのことを、ようやく受け入れる準備ができた。準備だけでは足りないが、今はそれしかない。


「もう、独りにしない」


風が冷えた。天蓋に細い傷が走り、光が薄く剥け、灰に似た粉が降る。息を吸うたび、胸で硬い音。腕の中でアレスが小さく息をする。ひと呼吸ごとに肋に触れて、温度が足りない。軽い。記憶を失うと、人は軽くなるのだろうか。


「ここは……庭?」彼の声は幼い響きを含む。視線は私ではなく、裂け目へ釘付け。計算の行き届いた木立、磨かれた石、季節を無視して咲く白花。守ってきた、彼の箱庭。その美が、今は背を薄く冷やす。


「きれいだね」


名は呼ばれない。エララは返事を飲み込み、襟を整え、汗を拭う。肌は砂みたいに乾いている。記憶は水。水を奪われた土地はひび割れる。水を返す必要がある。たとえ濁っていても。


遠くで地が鳴る。海底の泡が弾けるみたいな音。黒い幟、重い太鼓。覆いは遮り切れず、花が震え、石が沈む。完璧な角度で置かれたベンチに、わずかな歪み。その歪みが息をしているのに見入って、我に返る。


ずっと、歪みを排した。彼のためだと信じて。求める完璧のために。近づく笑い声を、寂しさをごまかす冗談を唸りで追い払う。爪についた鉄の匂いが夜に甘くなる。正しさに酔った。


「アレス」


名を呼ぶと、鎖が軋む。


「私……」


言葉は見つからない。彼は振り返らず、天蓋へ伸ばしかけた手を戻し、空の掌を胸に当てた。躊躇う仕草が妙に人間らしい。


「ぼくは……だれだった?」


知らない光で射抜かれる。かつて線を引くときの狂熱でもない、何も背負わない裸の光。足が止まる。欲しかったのはこの光じゃない。私の名を呼ぶ熱だった。囲い込む熱。


「違う」


声が勝手に出た。自分に向けて。


「私は、あなたを囲いたかったんじゃない。あなたに……幸せでいてほしかった」


言葉が喉を通るとき、古い皮が剥ける痛み。湧く涙は重いはずなのに、指で拭えば体温で消える。黒い火が音を立てて冷める。焼き清めるつもりで燃やしてきた火。それが水になり、私自身を洗う。


「幸せって、なんだろう」彼がぽつり。「ぼくの庭は、きれい?」


「きれい」嘘ではない。けれど今は軽い。磨き抜かれたは静止、幸せは流れ。違いがようやくわかる。傷一つない景色は、世界へ線を引くための定規であって彼そのものじゃない。笑いは、風に煽られて皺が増える紙みたいなもの。折れても、息が通う。それを恐れていた。手のひらから滑るのが怖くて、指を鉤爪にした。


地が二度、大きく息を吐く。音が遅れて届く。根が切れかけている。星降る井戸の脈管が露出し、黒い気配が触れた。結界は彼の名前で縫われてきた。その名を逆撫でる黒い手が擦り寄り、文字が崩れる。彼は削られてしまった。このままなら反動が彼の魂を裂く。腕の中で光の粉になる。


知っている。竜姫が行うべきでない儀式。禁じられた置換。結界の核に、自分の真名と心臓を供す。縫い糸の起点を差し替える。崩壊の衝撃は私へ流れ、彼は外へ押し出される。生かすための退場。世界へ返す私の消滅。


「エララ?」彼がようやく、私の名に似た音を出す。舌で転がし、確かめる。「君は……だれ?」


「あなたを外へ連れていく者」


頬が引き攣る笑み。こわばった筋肉が逆に正気へ引く。


「そして、あなたからいなくなる者」


「いなく……なる?」


眉が寄る。痛みを知るときの皺が生まれる。指でなぞりたくなる衝動を抑える。もう十分触れた。触れるたび、手放せなくなる。


「平気」曖昧な境界に置く。「すぐわかる。風の匂いで季節がわかるみたいに、土の色で雨の深さがわかるみたいに。世界に触れて、世界に触れられる」


沈黙が糸のように伸び、震えた。彼の指が袖を掴む。迷子が布の端を握るみたいに。ほどけばほどける、握れば切れる。そっと外し、代わりに白い鱗片を掌に置く。星屑みたいな細かな光が走る。自分の鱗。心臓へ繋がる道標。


「これを持って」


エララは言う。


「迷ったら光る。私が光る。光っても、戻らなくていい」


「どうして?」


無垢な問いは残酷だ。


「あなたが幸せでいるために」


言葉は静かに落ちる。黒い火は残り少ない。代わりの透明な流れが脈を打つ。魂が洗われるときのさらさら。棘が一本ずつ抜ける。名の付いた棘が水に溶け、色が薄れて透明へ戻る。娘の笑顔、庭での囁き、全部流す。それでいい。


星降る井戸へ近づくと、底から冷たい風。根が露出し、白い符がちぎれかけ。膝をつく。石の冷えが骨まで沁みる。胸骨に手を当て、深く息。心臓へ意識を落とす。熱が指先へ逃げ、腕が痺れる。内側から鐘の音。合図。


「アレス」


振り返る。光の粉の中で彼だけが影を落とさない。涙が軽く笑う。


「世界の不揃いに触れて。手を汚して、足を濡らして、誰かと笑って。非の打ちどころのないを愛するあなたの目で、不完全の美しさを見て」


「君は?」


震える音。幼い端に、知らない深み。


「ここで終わる。終わって、始まる。あなたの外で、あなたを支える形に」


彼に背を向け、井戸の縁へ手を置く。符が皮膚を舐め、名を求める。すべてに応じる。名は鍵。鍵を渡せば扉は二度と閉じない。それでいい。


胸に指を差し入れる感覚は、比喩じゃない。竜の心臓は言葉で開く。古い言い回しを舌で転がし、息に載せる。骨は割れず、ただほどける。暖かいものが溢れ、井戸へ落ちる。赤でも黒でもない、光の色。符の線に吸い込まれ、結び目が私の名へ変わる。アレスの名が外れ、肩が軽くなる。私の肩は重くなる。重さは痛みではなく、選び取った重み。


空が鳴る。裂け目が広がり、星が降る。破片ではない。鱗からほどけた光の雨。小さな傘になって彼の上へ、森へ、石へ。槍の先が雨に触れて鈍る。わずかな猶予。それで十分。


「さようなら」


彼にではない。これまでの自分に。籠の中で爪を研ぎ、光を抱え込んだ竜姫に。


「ありがとう」


執着も、渇きも、ここまで運んだ武器。置くことが誇らしい。


アレスが叫ぶ。耳は水音で満ちる。井戸の底へ流れ、根に絡みつき、黒い衝撃を受け止める姿勢。痛みが来る。ふさわしい痛み。中心は驚くほど澄む。風が通い、彼の笑いがかすかに鳴る。


「幸せでいて」


最後の言葉は祈りでも命令でもなく、ただの願い。雑音に混ざり、彼の背を押す。振り返らない。それが始まりだ。


星の雨は続く。覆いは崩れ、理想の庭は終わる。終わりは誰かの始まり。土になる。冷たく、柔らかく、匂いのある土に。そう思うと、胸の穴が風鈴のように鳴った。透明な音。澄んだ音。音に包まれ、目を閉じる。

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