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第6巻 第4章 魔王軍の奇襲(1)

結界の空は、まだ星を降らせる。


死の森の上に築かれた、アレスの「一糸乱れぬ結界」。その天蓋のような結界には、瑠璃色と銀色の星々が音もなく滑り落ち、淡い尾を引いては消えていく。落ちた星は地面に触れる寸前で花びらのような光片となり、黒く朽ちた土を覆う白百合の群れへと溶け込む。枯れ木の幹には金糸のように細い蔦が這い、沼は鏡のように澄み渡り、薄紫の絹のような毒霧が漂う。月のない夜を、優雅な庭園そのものへと変貌させる。


だが、その繊細な世界は、すでに悲鳴を上げ始めている。


空の端から端まで、細く走る亀裂があった。最初は髪の毛ほどの細さだったそれが、いまや雷光のように枝分かれしながら広がり、透明な天蓋の内側で青白くちらついている。亀裂の向こうから、死の森本来の臭気がじわりと染み出してきた。腐肉の匂い、湿った灰の匂い、魔王軍の瘴気、焦げた獣の毛皮の匂いが混ざり合う。アレスが織り成した無謬の光景の下に隠されていたものが、爪を立てて戻ろうとする。


遠くで、再び衝撃が走る。


「またか……」


低く唸る大地の震えが白百合の野を揺らした。花びらは一斉に震え、星屑の光を散らして砕ける。結界の外縁で、魔王軍の攻城魔術が炸裂した。黒緑色の炎が空に映え、透明な壁の向こうで巨大な影がうねる。角を生やした魔獣、腐った翼の飛竜、鎖で繋がれた骨の巨人。彼らは結界に触れるたび、アレスの組んだ守りの幾何学模様に焼かれ、肉を裂かれ、苦悶の声を上げて後退するのだ。


「数は減らない。むしろ増えている……。次から次へと、底なし沼から湧き出しているかのようだ。だが、この結界を破らせるわけにはいかない。絶対に」


それでも、魔獣たちは押し寄せてきた。黒い影が、広がる闇が結界の壁を叩いている。


その中心に、アレスが立つ。


白い外套は裂け、袖口は焦げ、金糸の刺繍は血と煤でくすんでいる。それでも彼の背筋は真っ直ぐだ。痩せた指先を空へ高く掲げ、繊細な印を結ぶ。指の動きに合わせ、宙にいくつもの円環が浮かび上がった。青、銀、淡い金色、翡翠色が絵筆で描かれたステンドグラスのように重なり合い、崩れかけた天蓋の裂け目へと飛んでいく。


喉の奥が乾く。


亀裂を縫うたび、星空は一瞬だけ無傷の曲面を取り戻す。斜めに流れる星の角度、白百合の開花の間隔、遠景に浮かぶ廃塔の影、その背後に揺れる薄霧の濃淡。すべてが彼の意志で整えられ、磨き上げられていく。彼の瞳には、もはや傷ついた世界ではなく、まだ完成された景色が映っているのだと、エララは理解する。


だからこそ、胸が裂けそうだ。


「アレス。聞こえているの? ねえ、アレス」


背後から声が響く。エララが降り立った。竜姫としての翼は半ば破れ、鱗の縁は黒く焦げている。右肩から流れ落ちた血が腕を伝い、指先から白百合の上へぽたりと落ちた。するとその血は花びらに触れる寸前、結界により淡い光に包まれ、透明な赤い宝石の粒に変換された。アレスがそういった術式を組んでいるのだ。汚れも、死も、傷も、すべてがこの静謐な景色の一部として処理されてしまう。


エララはかつて、それを誇りに思った。


「光幕は誰よりも繊細で、誰よりも洗練されている。彼に近づく者は、その静けさに相応しい者でなければならない。私だけが隣に立てる。そう信じて、そう思い込んで、彼に近づく者を憎み、排除してきたのだわ」


だが今は違う。白百合に変えられる自分の血を見て、ただ寒気が走った。


この光景は、アレス自身の命さえも景色に変えてしまうのだ。


「アレス、聞いて。わたしの声が届いているなら、どうか振り向いて。あなたのその背中を見ていると、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖いから」


彼は振り向かなかった。肩越しに銀灰色の髪が障壁の風に揺れている。頬には血の筋が一本走り、唇は紫がかり、呼吸は浅い。指先を動かすたび、彼の手首に刻まれた結界紋が赤黒く脈打ち、皮膚の下を火が走るように光る。


それでも彼は印を解かない。


「第七層の色相が歪んでいる。北西の霧が濃すぎる。あそこはもっと薄く、星明かりを透かす程度でなければならない」


「そんなこと、いま気にしている場合じゃない!」


エララの声が鋭く響く。白百合の野を渡る風が一瞬止まる。アレスの指がほんの一瞬空中で静止した。


しかし、彼はまた術式を編み始める。


「気にするべきことだ。均衡の乱れは障壁の乱れ。均整が崩れれば魔力の流れに濁りが生じる。濁りは亀裂となり、亀裂は破砕となる。この均衡は飾りではなく、秩序そのものだ」


「わかってる。あなたが何度も言ったから。あなたの景色がただ綺麗なだけじゃないことも、知ってる」


エララは一歩、彼に近づいた。足元の白百合が血に濡れ、また宝石へと変わる。冷たい光が足首にまとわりつき、傷口が熱く疼いた。胸では竜の心臓が荒く鳴り、喉には焦げた鉄の味が広がる。


「でも、もう限界よ」


その言葉は、小石が障壁の中央に落ちたように小さくても、波紋は広がる。


アレスの背中がわずかに強ばる。


「限界? 何が限界だと言うんだ。光幕はまだ保たれている。星は降り、花は咲いている。どこにも破綻はない」


「あなたの身体が。あなたの魔力が。封じそのものが」


エララは空を見上げる。星降る天蓋の亀裂は、さらに長く伸びている。アレスが縫った場所とは別の場所に亀裂が入り、そこから黒い瘴気が糸のように垂れ下がる。垂れた瘴気は白百合に触れ、花を灰に変えた。だが、灰はすぐに光片へと変換され、また白い花へ戻る。修復は成功している。しかし、それは一瞬の欺瞞に過ぎない。傷口に金箔を貼り付けているようなもの。内側から腐敗は止まらない。


「外では、骨の巨人が吼えている。あの咆哮を聞いて。大地が震え、空気が悲鳴を上げているわ。あなたの封じがどれほど強固でも、あの暴力の波を永遠に防ぎ切ることなんてできない」


その咆哮は防壁の壁を震わせ、遠くの廃塔の影を歪ませた。アレスは眉をひそめて右手を横に払う。たちまち廃塔の輪郭は正され、窓から淡い青光が灯る。絵画の一点の乱れを画家が塗り直す手際だ。


だが、アレスの膝が小さく揺れた。


「アレス!」


慌てて駆け寄ったエララが、彼の腕を掴む。だが掴んだ瞬間、掌を焼くような熱が走った。彼の皮膚の下で封じ紋が灼熱し、骨にまで魔力が染み渡っている。人の身体が耐えられる温度ではない。竜の鱗を持つエララでさえ、思わず息を呑む。


アレスがゆっくり彼女を見る。


その瞳は言葉を失うほどに澄んでいた。夜明け前の湖面のように静かで、疲労に曇りながらも奥底には冷たい光が宿る。エララが愛し、焦がれ、独り占めしたかった瞳。誰も映してほしくないと願い、何度も狂おしい想いに沈んだ瞳。


だが今、その瞳にエララは映らない。


映っているのは、彼の背後に広がる庭園だ。


「離してくれ、エララ。線が乱れる」


「いや」


「今は時間がない。一瞬でも気を抜けば、この無傷の曲面が崩れ去ってしまう。だから、頼むから邪魔をしないでくれ」


「だから言っているの!」


エララの声が震える。怒りでも恐怖でもない。もっと惨めで、もっと柔らかく、彼女自身が認めたくなかったもの――懇願だった。


「もう、やめて。これ以上、自分を削るのはやめて。あなたの命がすり減っていくのを見るのは、もう耐えられないの」


それは、彼女が初めて口にした言葉だ。


これまでエララは、アレスに命じたこともあれば、怒鳴ったことも泣き叫んだことも、愛を押しつけたこともあった。彼の傍にいるためなら、彼の視界から他者を消すためなら、牙を剥くことを躊躇わなかった。アレスが傷ついても、それが自分のものになる傷なら抱きしめられるとさえ思う。


だが、この「もうやめて」は違う。


彼を自分のものにしたいからではない。自分を見てほしいからでもない。ただ、彼に壊れてほしくない。


「お願い、アレス。もうやめて。封じを維持するのをやめて。外縁を捨てて。結界の半分だけでも切り離して。景色なんて、また作ればいい。あなたが生きていれば、いくらでも――」


「景色なんて? 君は今、この庭園をただの景色と呼んだのか。私が命を懸けて紡ぎ上げているこの秩序を、ただの飾りだとでも思っているのか」


アレスの声は静かだ。


静かすぎて、エララは続きを言えなくなる。


彼はエララの手を振り払わない。ただ、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。吐息に混じるのは血の匂い。唇の端から赤い雫が落ち、空中で砕けて小さな薔薇色の光となった。


「今、君は、景色なんてと言ったのか」


「違う、そういう意味じゃない。あなたより大事な景色なんてないって言いたかったの」


「私より大事な景色はない?」


アレスがかすかに笑う。その笑みは、彼が理想の構図を見つけたときに見せる満足の笑みとは違う。薄く、痛々しく、どこか遠くを見ている。


「エララ。私はね、その景色のために私でいるんだ」


また衝撃が走る。今度は近い。封じの東側で黒炎が爆ぜ、亀裂から燃えた羽根が降り注ぐ。羽根は白百合の上で蒸発し、代わりに黒曜石の蝶となって舞い上がる。アレスの美的修正は、侵入した破片にまで及ぶ。どれほど傷ついても、彼は醜いものをそのままにはしておけない。


エララは彼の肩を掴む。


「そんなこと、言わないで」


「本当のことだ。私はこの庭園のために存在している。この秩序を守り抜くことこそが、私の存在意義なのだから」


「あなたはあなたよ。景色がなくても、障壁がなくても、無傷じゃなくても、あなたは――」


「一分の隙もなければ、私がここに立つ意味がない」


その言葉は、研ぎ澄まされたようにエララの胸を裂く。


風が吹く。死の森の風ではない。障壁が生み出す風だ。白百合の香り、湿った緑の匂い、遠い雨の気配。アレスが「夜の庭にはこれくらいの寂しさが必要だ」と言って配した香りだ。エララはあの夜を思い出す。彼の横顔に見惚れ、霧の濃度を調整する指先を見つめ、どうかその指が自分だけに触れればいいと願った夜。


あの願いは、なんて幼かったのだろう。


今、彼の指は自分に触れている。しかし、その指は冷たく震え、徐々に命を失っていく。


「魔王軍は止まらないわ」


エララは声を潜める。感情を抑えようとしたが、言葉の端は震えている。


「外にいるのは先遣隊じゃない。本隊だ。あの瘴気は復活儀式の残滓を含んでいる。光幕がどれほど強くても、相手はこの森ごと呪いを叩き込んでくる。あなた一人で受け止めきれる量じゃない」


「一人ではない。防壁がある。この星々が、この花々が、私と共に戦ってくれている。だから、私は決して屈しない」


「障壁はあなただけじゃない! わたしもいるわ。わたしがあなたの盾になる。だから、どうか一人で背負い込まないで」


叫んだ瞬間、エララの翼から血が散る。赤い滴が宙に浮き、また宝石となる。麗しい。憎らしいほどに麗しい。


「あなたの魔力で、あなたの神経で、あなたの記憶で、この庭は保たれている。花の一輪、星の一筋、霧の揺らぎまで、全部あなたが覚えて、組み合わせて、支えている。亀裂が増えるたび、あなたの中の何かが削れている。わたしにはわかるの。あなたの声が遠くなっていることも、目の焦点が合っていないことも。名前を呼んでも、ほんの少し遅れる」


アレスのまつげが震えた。


それは、エララの言葉が的中している証拠だ。


彼は疲れているだけではない。光幕の破壊を、自らの記憶と感覚で補っている。崩れた花畑を思い出し、裂けた星空を思い出し、壊れた水面を思い出しながら、現実を再構築している。麗しい秩序を維持するために、彼は自分の内側にある「理想の景色」を切り売りする。


人は、思い出を失えばどうなるのか。


愛したものの形を失い、声の響きを失い、色の名前を忘れたとき、それでも同じ人でいられるのか。


エララはその想像だけで喉が詰まる。


「お願い。わたしを憎んでもいい。怒ってもいい。あなたが築いたものを壊せと言っているのはわかっている。でも、わたしは――」


言葉が途切れる。


言えば、戻れなくなる気がする。


彼を自分だけのものにしたいと叫んできたエララが、彼の景色を壊してでも彼を生かしたいと言う。それは、これまでの自分を否定することだ。愛と呼んで抱えてきた執着を間違いだったと認めることだ。


それでも、言わなければならない。


「わたしは、あなたに生きていてほしい」


アレスは黙った。


外では魔王軍が吠え続けている。黒炎が封じを舐め、鋼の爪が透明な壁を削り、瘴気が蛇のように亀裂へ忍び込もうとする。そのたびに結界紋は光り、星が降り、花が咲く。攻撃と修復、美と破壊が、呼吸のように繰り返される。


アレスの沈黙は長い。


やがて彼は、エララの手をそっと外す。


拒絶の動作なのに、驚くほど優しい。壊れやすい硝子細工を扱うような繊細な手つきで。


「ありがとう、エララ。君のその気持ちだけで、私は救われる。だが、私は止まるわけにはいかないんだ」


「……嫌。そんな別れの言葉みたいな『ありがとう』なんて聞きたくない。わたしはあなたに生きてほしいだけなのに」


その一言で、答えがわかる。


エララの喉が引きつり、胸の奥で竜の火が暴れる。だが吐き出す先を失い、ただ痛みになる。


「ありがとうなんて、言わないで」


「君が私を案じてくれていることはわかっている」


「わかってない」


「わかっているよ」


「わかっているなら、やめて!」


エララは手を伸ばし、今度は彼の胸倉を掴む。アレスの身体は軽い。こんなに軽いものかと、恐ろしくなる。白い外套の下、彼の肋骨が呼吸のたびに震えている。肋骨の数が指で数えられそうだった。


「この景色がそんなに大事なの? わたしが泣いて頼んでも、あなたは止まらないの?」


「今だけは、捨てろと? この美しさを、この秩序を、醜い魔物たちの足元に投げ出せと言うのか。そんなこと、私にできるはずがないだろう」


アレスはエララを見つめる。


その目に、初めて彼女が映る。だがそれは、愛しいものを見る目ではない。怒りでも失望でもない。ただ、深く悲しい目だった。


「エララ。私はこの景色を守りたい」


彼の声は、崩れかけた天蓋よりも静かで、降り続ける星よりも遠かった。


「この森は死の森だ。誰も近づかず、誰も振り返らず、ただ毒と腐敗と呪いだけが積もる場所だ。私はそこに線を引く。光を置く。花を咲かせる。見るに耐えないものを、見るに値するものへ変える。ここに立てば、人は世界がまだ美しくなれると信じられる。醜さに飲まれず、絶望に膝を折らず、たった一つの構図で呼吸を取り戻せるのだ」


彼の指が空へ向かう。


亀裂の一つが、ばちん、と音を立てて広がる。そこから黒い腕が突き出す。魔獣のものではない。瘴気そのものが腕の形を取ったような、指のない巨大な手。白百合の野へ伸びるそれに、アレスは銀の円環を投げつける。円環は空中で幾何学の檻となり、黒い腕を切断した。切られた瘴気は雨のように降り注ぐが、地に触れる直前で黒い硝子の粒へ変わる。星明かりを受けてきらきらと輝いた。


見事な防御だ。


そして、その一撃の代償に、アレスの口から血が溢れる。


「アレス!」


エララが支えようとする前に、彼は杖も持たずに踏みとどまった。膝を折らない。折ろうとしない。


「私が守りたいのは、ただ綺麗な庭じゃない。醜いものに醜いまま屈しないという意志だ。魔王軍がこの障壁を破れば、彼らは証明するだろう。均衡など無力だと。秩序など踏みにじれると。希望は腐肉の匂いに負けると」


「そんな証明、どうでもいい!」


「私にはどうでもよくない。この世界が醜さに染まるのを、ただ黙って見過ごすことなどできない。私は私の意志を貫く」


「あなたが死んだら意味がない! どんなに麗しい景色を残しても、あなたがそこにいなければ、わたしにとってはただの地獄よ」


「私が逃げたら、私が私でいる意味がない。私は結界師だ。この線を引くことこそが、私の魂の形なんだ」


二人の声が、星空の下でぶつかって砕ける。


エララは何も言えなくなる。アレスの言葉は狂っている。命より景色を選ぶなど、正気ではない。けれど、その狂気こそが彼なのだ。誰よりも秩序を信じ、その力で世界を変えられると信じ、そのために自分のすべてを差し出してきた男。エララが愛したのは、まさにその眩しさだ。


だから、彼を止めたいという願いは、彼を壊したくないという願いでありながら、彼の核を否定する刃にもなってしまう。


すれ違いは、そこにある。


エララはアレスを生かしたい。

アレスは、アレスであるために景色を守りたい。


どちらも相手を失いたくないのに、伸ばした手は同じ場所へ届かない。


「……わたしは、怖いの。あなたがこのまま、景色の一部になって消えてしまうんじゃないかって。わたしの手の届かないところへ行ってしまうんじゃないかって」


エララの声はかすれる。竜姫の威厳も、彼を独占しようと牙を剥いた狂気も、いまはどこにもない。ただ一人の女が、好きな男の前で震えている。


「あなたがわたしを見なくなるのが怖い。嫌われるより、憎まれるより、忘れられるのが怖い。あなたが景色のことだけを覚えて、わたしの声も、名前も、触れた温度も、全部なくしてしまうのが怖い」


アレスの表情がわずかに揺れる。


エララはそれを見逃さなかった。彼もまた、恐れているのだ。自分の内側から何かが削れていることを。防壁を維持するたび、思い出の輪郭が薄れていくことを。だが彼はその恐怖に蓋をし、美という名の秩序で押さえつけている。


「ねえ、アレス。わたしはいい子じゃない。優しくもない。あなたに近づく人を憎む。何度も傷つける。あなたが困るのを知っていて、あなたの隣に居座る。あなたがわたしだけを見ればいいと思う」


白百合が風に揺れる。花びらの群れは雪のようで、葬列のようだ。


「でも今は、わたしを見なくてもいい。愛さなくてもいい。だから、生きて。お願い。あなたの景色より、あなたの命を選んで」


言い終えた瞬間、エララは胸の内で何かが砕ける音を聞く。


それは執着の鎖かもしれない。彼を縛り、自分のものにしたいと願った暗く甘い欲望の破片だ。その破片が胸の内側に刺さり、痛みは鋭い。だが同時に、不思議なほど澄んだ悲しみが広がった。


愛するとは、相手を手に入れることではないのだと、ようやくわかりかける。


遅すぎるかもしれない。愚かすぎるかもしれない。しかし今この瞬間だけは、エララはアレスを自分の所有物としてではなく、失ってはならない一人の人間として見る。


アレスはしばらく黙り、彼女を見つめる。


彼の瞳には星が映る。亀裂だらけの星空。崩れかけた庭園。血に染まった竜姫。醜く均衡しきれないものが、確かにそこにあるのだ。


彼は何かを言おうとする。


そのとき、封じ全体が軋む。


音ではない。世界そのものが悲鳴を上げるのだ。空の亀裂が一斉に青白く燃え、白百合の野が根元から黒ずむ。遠景の廃塔は二重にぶれ、鏡の沼に映る星々がばらばらの線となって散った。外から巨大な魔術陣が押しつけられ、黒い太陽のような紋章が光幕の天蓋に浮かび、腐蝕の光を放つ。


魔王軍の術者たちが一斉に詠唱を合わせる。


低く響く声が、封じ越しに伝わる。意味のわからない古代語。骨を擦り合わせるような音。聞いただけで内臓が冷え、血の流れが鈍くなる呪文。白百合の香りは腐敗臭に押され、星屑の光は黒い紋章に吸い込まれていく。


アレスはエララから目を離す。


その瞬間、エララの中でわずかな希望が消える。


「アレス」


「中央軸を補正する。東の防壁に魔力を回し、西の亀裂を塞ぐ。まだだ、まだ崩れさせはしない」


「だめ。これ以上魔力を練ったら、あなたの体が持たないわ」


「今崩れれば、瘴気が内側まで入り込む。そうなれば、この庭園は一瞬で腐海の底に沈んでしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない」


「だめよ。今のあなたが受けたら、本当に命を落としてしまう。お願いだから、わたしの声を聞いて」


「エララ、下がって。ここから先は、君の領域ではない。私の光幕の中枢だ。君を巻き込むわけにはいかない」


彼の声には結界師としての硬さが戻る。優しさも迷いも消え、ただ線を引く者の冷徹な集中だけがあった。エララは彼の腕を掴もうとしたが、今度はアレスの周囲に淡い銀の障壁が立ち上がり、彼女の指を弾いた。


拒まれる。


その事実に、エララは一瞬呼吸を忘れる。


「下がらない。絶対に下がらないわ。あなたがここで倒れるなら、わたしも一緒に倒れる。あなただけを死なせはしない」


「君まで巻き込まれる。君のその翼が、これ以上傷つくのを見たくないんだ。だから、どうか安全な場所へ退避してくれ」


「巻き込まれたいのよ! あなたの痛みも、あなたの苦しみも、全部わたしが半分背負うわ。だから、わたしを拒まないで」


「それは困る。構図が乱れる。君のその激しい感情は、この静謐な庭園にはそぐわない。私の描く無謬の均衡を崩さないでくれ」


「構図なんて――! そんなもののために、あなたは命を捨てるというの? わたしよりも、そんな冷たい景色の方が大切なの?」


言いかけて、エララは口を閉ざす。


その言葉が彼を傷つけることを、もう知っているから。


アレスは両手を空へ掲げる。背後に巨大な円環が七つ開く。ひとつは星の軌道、ひとつは花の配置、ひとつは水面の反射、ひとつは霧の濃度、ひとつは風の流路、ひとつは光の屈折、そして最後は彼の世界全体の中心線。七つの円環が絡み合い、亀裂へ向かってゆっくり回転を始める。


その光景は、神話に登場する巨大な機械そのものだ。


白百合の花びらが巻き上がり、星屑が渦を巻き、黒い瘴気が銀の線に刻まれて消えていく。外の魔王軍が怒号を上げる。骨の巨人が拳を叩きつけ、翼を焼かれた飛竜が突進し、術者たちの黒い紋章はさらに濃く輝く。光幕は耐え、軋み、震えながらもなお形を保とうとする。


アレスの身体から血が霧のように噴き出す。


エララは悲鳴を上げる。だがその悲鳴さえ、防壁の中で澄んだ鈴の音のように整えられていく。彼女の絶望までも、景色の一部にされていく。


「やめて……」


声は叫びではなく、祈りのようだ。


「アレス、お願い。もうやめて。わたしを置いていかないで。あなたが守りたい景色の中に、わたしもいるでしょう? だったら、わたしの言葉も聞いてよ。わたしはあなたに、そこまでしてほしくない。こんなに綺麗な場所で、あなたが壊れていくのを見たくない」


アレスは答えない。


答えられないのかもしれない。唇は固く結ばれ、額には汗が浮かび、瞳の焦点は天蓋の中心に固定されている。彼のすべてが封じに注がれる。エララの声は届いているはずだが、彼はそれを選ばない。いや、選べないのだ。


アレスにとって、理想の景色を守ることは呼吸と同じで、心臓の鼓動と同じだった。やめることは死ぬことと変わらない。エララがどれほど生きてほしいと願っても、「景色を捨てて生きる」ことは彼にとって生ではないのだ。


その理解が、エララをさらに絶望させる。


愛しているからこそ彼を止めたい。

愛しているからこそ彼が止まれない理由もわかってしまう。


銀の円環が黒い紋章と衝突する。


世界が白く閃く。


轟音が遅れて押し寄せ、エララの身体を吹き飛ばす。翼を広げて踏みとどまろうとするが、破れた膜が風を受けきれず、彼女は白百合の野に膝をつく。花が潰れ、血が散り、宝石の粒が転がる。耳鳴りの向こうで、防壁の軋みは続く。


視界が戻ると、天蓋の黒い紋章は薄れる。


アレスは守り抜く。


また一つ、この景色を。


だが彼はその場に片膝をつく。片手を地面に付き、肩で荒い息をする。白い外套の背中は赤く染まり、防壁紋は皮膚を破って光を漏らしている。彼の周囲だけが白百合の花を咲かせず、魔力の熱に焼かれて土が硝子のように溶け固まる。


エララは這うようにして近づく。


「アレス……」


彼は顔を上げる。


その瞳は、まだ澄んでいる。恐ろしいほどに。


「見て、エララ」


かすれた声。


エララは泣きそうになりながら、彼の視線を追う。障壁の空では、黒い紋章が消えた跡に新たな星流れが生まれる。先ほどの衝突で砕けた魔力が、アレスの術式により細かな光の粒へ変換され、天蓋の曲面をゆっくり流れている。青、銀、淡金。無数の流星が静かに庭を祝福する。


「綺麗だろう。見てくれ、エララ。あの星の軌道を。あの光の瞬きを。これこそが、私が守り抜きたかった理想の景色なんだ」


アレスは微笑む。


その微笑みを見た瞬間、エララの涙が零れ落ちる。


彼は本気でそう思っているのだ。自分がどれほど傷ついたかより、障壁がどれほど持つかより、この一瞬の景色が美しく整ったことを喜ぶ。その美しさを誰かに見てほしいと願い、エララに見てほしいと願う。


それが嬉しくて、苦しくて、耐えられない。


「綺麗よ。本当に、言葉を失うほどに綺麗。でも、その綺麗さが、あなたを殺そうとしているのよ」


エララは震える声で答える。


「悔しいくらいに、綺麗。わたしがどんなに足掻いても、この景色には勝てない。あなたがこれほどまでに愛しているのだから」


「なら、守る価値がある。君がそう言ってくれるなら、私はこの命を燃やし尽くしてでも、この景色を永遠に留めてみせる」


「違う。そうじゃないの。わたしは、あなたに生きてほしいの。この景色と一緒に滅びるあなたなんて、見たくない」


彼女は首を振る。涙が頬を伝い、顎から落ちる。封じはそれを小さな真珠に変えようとしたが、エララは竜の魔力で拒んだ。涙は涙のまま、土に染み込んでいく。


「綺麗だから、あなたに見ていてほしいの。あなたがいなくなった景色なんて、わたしにはただの棺桶よ」


アレスの微笑みが、ほんの少しだけ崩れる。


それでも彼は何も言わない。


外では再び魔王軍の咆哮が高まる。黒い影が障壁の縁に集まり、次の衝撃を準備している。空の亀裂は塞がりきらず、細い傷跡として残ったままだ。星は降り続けている。繊細な庭はまだその姿を保っているが、その美しさは薄氷の上に置かれた花冠のように危うい。


エララはアレスの隣に膝をつく。


彼を抱きしめたい。術式を壊してでも連れ去りたい。竜の力で眠らせ、翼に包み、どこか遠くへ逃げたい。そんな衝動が何度も胸を叩く。以前の彼女なら、迷わずそうしただろう。彼の意志など知ったことではないと、愛の名のもとに奪い去っただろう。


だが今は、彼の意志を踏みにじれない。


だからこそ苦しい。


「あなたがわたしを忘れても――」


言葉が途切れる。忘れられる未来を想像するだけで、喉の奥が焼ける。


「それでも、あなたを生かす方法を探す」


アレスは答えない。


ただ再び空を見上げる。彼の横顔には疲労の影が深く刻まれる。血の気は薄い。それでも視線は星流れの角度を追い、亀裂の位置を測り、霧の濃度を確かめる。彼の心はまだ箱庭にあった。エララの言葉は届いたかもしれない。しかし、彼を動かすには足りない。


足りないのだ。


愛だけでは、理想に殉じようとする彼を止められない。


その事実が、二人の間に静かに横たわる。


白百合の野に、ひときわ冷たい風が吹く。障壁の外から染み込んだ瘴気が、薄い灰色の帯となって足元を這う。アレスは反射のように指を動かし、それを銀の蝶へと変えた。蝶は二人の間をふわりと舞い、やがて星屑となって消えていく。


エララはその光を見つめる。


鮮烈だ。どこまでも鮮烈だ。だからこそ残酷だ。


アレスは立ち上がろうとする。足元がふらつく。エララは咄嗟に手を伸ばす。今度は彼も拒まない。彼の腕は熱く、軽く、震えている。


「次が来る」


アレスの声は乾いている。


「ここに残るのか」


「あなたが止まらないなら、わたしも止まらない」


二人は並んで、ひび割れた星空を見上げる。


防壁の外で闇が膨れ上がる。魔王軍の次の波が、黒い潮のように迫っている。この庭の星々はなお降り続け、白百合はなお咲き誇り、霧はなお優雅にたなびく。無傷ではない空間の内側で、ただ二つの心だけが、修復できない亀裂を抱える。


エララはアレスの横顔を見る。


彼は理想の景色を見るのだ。


彼女は、彼だけを見つめる。


同じ星空の下に立ちながら、二人の視線は最後まで交わらなかった。

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