第6巻 第4章 魔王軍の奇襲(2)
アレスの指先から放たれた光の糸が、死の森の闇を切り裂く。さきほどまで魔王軍の呪詛が塗り潰そうとしていた地形の輪郭。それが、一筆ずつ繕われていく。暗色の枯葉の上を薄い星砂がまぶされる。ひとひら、ひとひら。まだ裂け目は点在する。奥の深淵は冷たい息を吐き続ける。それでも、結界は一時的に安定を取り戻しつつある。
「……整った。まだ、足りない。ここが、わずかに傾いている」
アレスの声は紙片のように薄く震え、宙に消えそうな儚さを帯びる。手を伸ばし、見えない切片を正すように空を撫でる。その動作は繊細。何十回も練習した舞の如く滑らかだ。指先が止まり、少し捻る。捻った先に微細な光が閃き、地面の裂け目が針の目ほどに縮む。
「アレス……もう、充分……もう、じゅうぶんだよ」
背にいたエララが、祈りのような声で呼びかける。彼女は両手を胸の前で絡め、爪を食い込ませる。アレスの肩甲骨のあたりに目を落とす。皮膚の下で筋が細かく震える。長時間の結界維持の負荷。汗が背中を伝い、布の下に黒いシミを作る。
「……美は、均衡の中にしかない。歪んだままでは、夜空がこの森に降りない」
アレスの目は遠くを見つめる。視界は結界の層の中を滑り、何層にも重なった透明な膜の摩擦を捉える。細胞が軋む音。彼はその音を、心地よいものだと思っている。軋みが、曲線の正しさを教える。
エララは彼の横顔に目を留める。いつもと同じ線。頬骨の鋭さ。瞼の折り目。唇の薄い線。しかし、違う。目の奥に、見慣れない空虚。わずかに焦点が合っていない。目は美に向けられているが、美の中に彼自身がいない。
「アレス、やめて。あなたの手を、もう動かさないで。私がやるから、代わりに……」
「君は、誰だ」
短い、聞き慣れない疑問。音は柔らかいのに、その中に含まれているものは硬質で彼女を刺す。エララは瞬きも忘れ、喉の奥が痛む。彼の目が一瞬だけ彼女に向けられた。向けられたのに、通り過ぎた。彼女の紫の瞳は彼にとって色としては認識されたが、意味としては空白。
「私……エララ。あなたの竜姫。ずっと、ずっとあなたのそばにいたエララだよ」
「……竜姫。竜姫、竜姫……この森の色に合う器の形だ」
彼はぼそりと呟く。竜姫は器の形。彼女はその言葉を理解する。アレスにとって、彼女もまた風景の一部。彼は美を作る者で、その美に含まれる全てのものの配置と関係性を見ている。彼は今、彼女に名前を与えられない。彼女は器。彼は器の形を評価している。エララの心臓はゆっくり停止に近づくように重くなる。
結界はさらに安定する。頭上の空を覆う膜が、薄い青から銀白へ変わり、星の粒が膜の表面に付着して、そこから落ちることなく静止する。落ちない星。落ちる前に結界が受け止めている。落ちることを拒む。それはアレスの美学には理想的な状態。星と森の関係は固定され、風が吹いても変わらない。風は感情であり、星は理性。理性は動かない。風はその周りで踊る。
「ねえ、アレス。聞いて。私はあなたを助けたい。前みたいに、私が勝手に、あなたを誰にも渡さないって思い込んで、邪魔ばかりして……それであなたの仕事を難しくしてた。それ、やめる。お願い。私に触れて。私の顔を見て。エララって、呼んで」
「……呼称は調和を乱す。名前は直線を歪める。直線は、真理だ。僕は直線を引いている」
エララは震える息を吐き、それを飲み込む。彼の言葉は断片的で、彼自身の精神の破片が光を反射している。その破片は鋭く、誰もが触れれば血を流す。彼女は自分の指をその破片に添わせるように、そっと彼の腕に手を伸ばす。肌は冷たい。冷たいのに、熱が凝縮しているように感じる。彼の体温は不自然な位置に集まっていて、指先は氷のようだが胸の中心は灼けている。
回想が彼女の脳裏を走る。いつだったか、まだ結界が小さな庭でしかなかった頃、彼は葬花を一本一本植え替え、枯れ木の間に小川を通し、石を磨いた。彼は苔の位置を、太陽の角度と季節ごとの星の巡りに合わせて変えた。そのとき彼女は感情に任せ、冗談のように小川に石を投げ込んだ。彼は笑って、それを拾い上げ、丸みを増した石を小川の曲線の中に置き直した。
『曲線は呼吸だよ。君の息が、庭に入った』
彼の声は優しかった。彼は彼女が投げた石を許し、美の中にそれを取り込んだ。そのときの彼の目には、彼女の存在が明確にあった。今は空白。彼の瞳孔は星の膜の反射を映しているだけ。彼女はその目を覗き込み、そこに自分を探す。ない。それでも、彼女は手を離さない。
「アレス、私はあなたを奪わない。もう誰にも近づけないなんて、言わない。あなたが必要とする人を、呼ぶ。あなたの美を守るためなら、私の誇りも、感情も、焼いて棄てる」
「……焼却は、煙を乱す。煙は色彩を曇らせる。曇りは——」
彼の言葉は途切れ、喉から空気が漏れる音だけが続く。彼は目を閉じる。瞼の下で眼球はわずかに揺れて、ひとつの夢の残骸を追いかけている。しかし、夢はもう内容を持たない。彼の記憶は、結界に投入された。魔王軍の呪詛が結界の膜を裂いた瞬間、彼は自分の名前、彼女の名前、彼が歩んできた日々の連なりを、補強材として膜に編み込んだ。彼は自分の過去を材料にした。彼の決断は迅速だった。彼は躊躇しない。美のために自分を捧げることは彼の職分であり、誇り。その誇りが今、彼自身を空にしている。
森は静まり返る。静まりは、恐怖に似ている。なぜなら、音が消えると、色が強くなる。色は強すぎると目を傷つける。エララは目を細め、空間の緻密さを見て吐き気に近い感覚を覚える。鮮烈。鮮烈すぎる。この世のものではない。アレスが目指した「欠落のない箱庭」が、魔王軍の侵蝕を辛うじて押し留めている。光膜は新雪のような質感で、踏み入ることを拒否する。しかしその膜の奥にいる彼は、廃人同然。
「アレス、立って。座ってもいい。どっちでもいい。私の手を握って」
「……手。手は、線。線は、運動の痕跡。痕跡は、薄く、消えるべきもの」
「消えないで、お願い。あなたは消えないで。消える代わりに、私が消える。ねえ、聞いてる? 私が、あなたの代わりに、消えるから」
彼女の声はついに震え、涙の粒が言葉に混ざる。頬の上を熱い線が直線ではなく曲線で滑って、顎の端から落ちる。落ちる瞬間、彼女はそれを指で受け止める。彼女はまだ崩れない。崩れてしまえば、彼を抱けないから。
彼女はゆっくり彼に近づく。竜の翼を畳み、体温を絞り、すべての威圧を後ろに隠して、人間の少女としての気配を纏う。彼女は膝をつき、彼の膝の高さまで目線を落とす。彼は座っている。座っているといっても、背筋は伸びすぎていて、人形の如く硬い。
「アレス、怒らないでね。私、あなたを抱きしめる。いやだったら、離していいから」
彼女は腕を回す。緩やかに。彼の背中の筋の上に手を置く。手に感じる冷たさは、硬い。彼女の腕は暖かい。二つの温度が触れ合うと、表面で細かい音がする。音は誰にも聞こえないが、彼女はそれを聞く。彼の骨が文句を言っている。骨は、直線が乱されることを嫌う。彼女は意図的に乱した。乱すことで、彼の視線が分断されるように。
「……」
沈黙。彼は反応しない。彼の呼吸は一定で、心臓は規則的に動いている。だが、意識が遠い。遠い場所にいる。遠い場所は、美の中央にある。彼は中心で直線を引いている。彼女は中心から彼を引き剥がそうとする。中心は拒否する。拒否は、冷たい。冷たさは指先から肩へ、肩から胸へ、彼女の体の中に侵入する。
「ねえ、アレス。私、今、決めたの。あなたを救うためなら、誰でも呼ぶ。あなたの庭に、他の結界師だって、治癒師だって、私の憎い人たちだって、呼ぶ。あなたが嫌っても、私が嫌っても、呼ぶ。私が守るものは、あなたの孤独じゃない。あなたの命。あなたの、魂の残り。私の感情なんて、焚き火の燃えかすみたいなもの。風が吹けば飛んでいく。飛ばす。だから、お願い。ここに帰ってきて」
「……帰る。帰る。帰る場所。帰る場所は、線の終端にある。終端……」
彼のまぶたが震える。彼の言葉は半分眠りの中から掬い上げられた石のようだ。石は冷たく重く、意味を持ちにくい。それでも、彼が「帰る」と言った。それだけで、彼女の心臓は小さい跳躍を見せる。彼女は腕に力を込める。抱擁は強くなる。彼女の爪は彼を傷つけないように丸められているが、手のひらの圧は増す。彼女は彼の背中に顔を押し当てる。鼻先に彼の汗の匂いと土の匂いと、乾いた薬草の匂いが混ざった香りが触れる。それは彼女が何千回も嗅いだ香りだ。安心の記憶。だが今は、記憶に彼はいない。
森を覆う光幕は徐々に波を止める。波はもうない。瑠璃色の膜は温度を均一に保ち、風は膜の上で滑り、鳥の影は膜の外で留められる。魔王軍の呪詛の舌は膜に触れると、ゆっくり溶けて消える。消えた毒は膜の端に蓄えられ、凍結される。凍った毒は彫刻のように美しい。アレスはその彫刻を、恐ろしく魅惑的だと感じる。恐ろしく魅惑的なものは中毒性がある。彼はそれに飲み込まれそうになる。彼の意識がそこへ滑って行って、彼の名をもう一度膜に投げ込もうとする。彼は自分の名を持たない。彼は投げられるべき名を探す。彼は空白を探す。空白は見つからない。空白はすでに投入された。
「アレス、エララって言って。たったそれだけでいい。エララ、って」
「……エ……ラ……ラ」
唇が動いた。彼の声は弱い。彼は名前の音を取り出し、舌の上に乗せたように発音する。発音は正しいのに、意味がない。彼は音の響きを評価する。音の連なりの滑らかさを褒める。だが、彼はその音が誰を指しているかを理解しない。彼女はそれでいいと思う。彼が音を言ってくれただけで、彼女は泣く。彼女の涙は彼の肩に染み込み、布を暗くする。彼女の肩が震える。彼女は声を抑え込む。泣き声は彼の目を傷つける可能性がある。彼女は泣きながら微笑むという奇妙な表情を作る。笑いは彼の直線を緩めるかもしれない。笑いの曲線が、彼の視線を柔らかくするかもしれない。
「そう、そうだよ。エララだよ。あなたのエララ。もう、あなたのものになることを自分から選ぶのはやめる。あなたのものにされるために、私のすべてを差し出す。あなたが望む形に、私を削っていい。私の翼も、牙も、誇りも、全部あなたの設計された空間に合わせて曲げるから。だから、生きて。頼む、お願いだから、生きて」
「……生きる。生きることは、直線を引くこと。直線を引く僕が、僕である必要はない。名前は不要。不要なものは、削ぐ。削いだ跡は、美しい」
彼の言葉は冷たい美学の声明。エララはそれを飲み込む。飲み込んだ後に、喉の奥が痛い。喉の痛みは現実を教える。彼は今、彼自身の名を持っていない。彼はこの庭の作者であり続けるために、自分の歴史を捨てた。彼はこの瞬間、彼女に背を向けているわけではない。ただ彼の方向が、彼女から離れている。彼女はその方向を無理に変えない。変えると、防壁が崩れる。
障壁が安定した。それは事実。膜の色は安定色。安定色は人の心を少し眠くする。森は眠りに入り、獣も眠る。彼女は彼を抱きながら、眠りが訪れてくるのを感じる。眠ってはいけない。彼女は眠らない。彼が眠るなら、それを見守る。彼女は彼の髪を撫でる。髪は乾いて、少し硬い。硬さは、昨日の雨の記憶。彼は昨日、雨の中で結界を織った。彼は濡れて、そして乾いた。乾燥は髪に薄い波を作る。その波を指でなぞる。指先で波が崩れて、また作られる。その繰り返しが小さな音楽になる。音楽を彼女は聞く。彼は聞かない。
「ねえ、アレス。私、ずっとあなたのことが好きだった。好きすぎて、あなたが他の人を見るのが嫌だった。あなたが他の人に微笑むのが嫌だった。あなたが他の人のために障壁を張るのが嫌だった。だから、私はあなたを閉じ込めたかった。私の結界の内側に。でも、違った。あなたが私の世界だった。あなたが、私を閉じ込めてた。あなたの美しさに、私は閉じ込められてた。……閉じ込められて、幸せだった」
彼女の言葉は独白。彼には届かない。届かなくても、彼女は言う。言うことで、彼女自身の形を保つ。彼女の形は、竜姫としての誇りではなく、彼を愛する女としての形。その形は脆い。脆いから、言葉で補強する。
「あなたが私を忘れても、私があなたを覚えてる。あなたが直線を引くなら、私がその横で曲線を引く。あなたが美を作るなら、私がその美を守る。あなたが廃人になっても、私があなたの手足になる。だから、あなたはそこにいて。ただ、そこにいて」
彼女は彼をさらに強く抱きしめる。彼の体は冷たいまま、彼女の熱を受け入れない。受け入れないが、拒絶もしない。彼はただ、そこにある。あるだけの存在。それは、彼が最も望んだ「寸分の狂いもない景観」の一部になったということ。彼は自分自身を景観に溶かし込んだ。エララはそれを理解する。理解して、絶望する。絶望は深い。深い絶望は、静か。
「……アレス。私の、アレス」
彼女の涙が、彼の頬に落ちる。涙は彼の頬を滑り、顎から落ちて、地面に吸い込まれる。地面は結界の一部。彼女の涙は封じに混ざる。結界は彼女の涙を受け入れ、少しだけ温度を上げる。温度が上がると、膜の色がわずかに変わる。変わった色は、彼女の瞳の色に似ている。紫。紫の膜が、森を覆う。
「……紫。紫は、高貴な色。高貴な色は、直線を際立たせる」
彼が呟く。彼の言葉は、彼女の涙に反応したわけではない。ただ、色の変化を評価しただけ。それでも、彼女は嬉しい。彼が彼女の色を評価してくれた。彼女は泣きながら笑う。笑いながら泣く。彼女の感情は限界を超え、壊れかけている。壊れかけの感情は、美しい。アレスならそう言うだろう。彼女はそう思う。
夜が更けていく。光幕は完全に安定し、魔王軍の侵蝕が止まっている。紫の膜が森を覆い、星屑の粒子がゆっくりと降り注ぐ。穏やかな光景。だが、彼女の腕の中にいる男は、もう彼女の名を呼ばない。
彼の瞳は開いている。開いているのに、何も映していない。映しているのは光の角度と色彩の配列だけ。彼女の顔も、涙も、震える唇も、彼にとっては景観の一要素でしかない。
それでも、彼女はここにいる。ここにいることを選ぶ。彼が呼吸する限り、彼の傍らで呼吸する。彼が景観を整える限り、その景観の中で生きる。たとえ彼女の存在が、彼にとって石や苔と同じ重さしか持たなくても。
「……おやすみ、アレス。私が、ずっとそばにいるから」
彼女の声は夜の闇に溶け、透明な幕に吸収される。森は静寂に包まれ、星明かりだけが二人を照らす。二人の姿は、寸分の狂いもない光景の一部として、永遠にそこに固定されたかのようだった。悲しく、美しく、そして残酷なまでに静かな夜だった。




