第6巻 第3章 竜の長との対立(5)
頭上の天蓋を仰ぐ。星は降らない。なのに、結界の内側では白い粒がふわりと浮く。雪でも花粉でもない、息の形をした光。沈黙に触れると震え、葉の裏や切り株の割れ目にすっと吸い込まれていく。
死の森は黒い幹が磨かれた器のように艶を持ち、苔は翡翠の薄布みたいに薄明をまとって広がる。湿り気が音になる。遠く、朽ちた木の中で誰かが殻をかすめる気配。近く、雫が落ちる前に細く糸を伸ばして耐える音。結界が世界を撫でる。薄い膜がすべてを均し、呼吸のような波をつくる。
円い露台の中心に立ち、アレスはその波の速さに呼吸を合わせた。縁の白い石に細い亀裂が走る。一本増えるたびに、胸のどこかも裂ける。
「……ア、……レス」
舌に、名前がつまずく。二音目に砂がまじったみたいな感触。自分の名。それは杭だ。世界の配置がぐらつくとき、紙に刺す画鋲のような。
露台の下で森が軋む。円周に並ぶ黒鉄の杭が低く唸り、大地を叩く重い音が届く。外郭陣からの衝撃。結界の表面を青い縁取りが走り、歪む楕円がゆっくり戻る。呼吸に似る。彼は再び合わせた。ただ呼吸を整える。それだけを繰り返す。
指先がかすかに震える。細い筆の癖が骨に残る。空気に線を引くと、白い光が一瞬だけ浮き、結界に吸われた。補強の符。角度と間合いを読むのは、まだできる。線が結ばれ、光が落ちていく一瞬に、声にならない満足が生まれると同時に、頭の棚から何かがすっと抜けた。音はない。古い本がそっと抜き取られるように、気配だけが冷たく残る。
「アレス!」
呼ばれて振り向く。柔らかな足音。布が擦れるさざ波。彼女はわざと音を立てる。安心させるための演出だと、どこかが言う。
エララが影から光の下に出る。銀に近い髪に星の粉が引っかかり、瞳は夜の湖の表面そのまま。竜の血が内側で光をたたえ、表情を人の形に収める努力が頬と口元にうっすら出る。そのぎこちなさが愛おしかった、と言い切れない自分が薄い笑いをかみ殺した。
「アレス、こっちを見て。私の目」
従う。湖の底で小さな灯が周期的に瞬く。彼女の鼓動……違う。結界の波に似た周期。その似姿が、怖いほど安心を呼ぶ。
「私はエララ。あなたの——」
「……あなたは、だれ?」
口が勝手に動き、空気が刃になる。彼女は一瞬だけ顔を歪め、すぐに笑みで閉じた。微笑みは丁寧で、どこかぎこちないのに優しい。彼女の背後で、冷気が薄く漏れ、露台の縁に霜の葉脈が走る。
「私はエララ。あなたが名付けたの。『星の階』の夜、あなたが私に——」
「星の……階?」
視界の端に青い苔の石段がちらつく。夜ごと蛍が降りる場所。王都の塔の内部。塔。何階建て? 支柱は木だったか石だったか。問いが重なり、答えが砂になって崩れる。
「外の圧が、増えてる。大結界の縁が——」
雷鳴が言葉を押し流す。大地が低い息を吐き、結界の表面に黒い縫い目が走った。白い石が粉を吐く。アレスは反射で線を引く。白い光が縁を滑り、結び目が沈む。
喉が焼ける。舌を上顎に押し付けて唾を集める。飲み込んだ音が、内側の空洞に鈍く響く。
「……私、は」
「アレス。あなたはアレス。あなたはこの箱庭を編み、死の森に膜を掛けた結界師。寸分違わずこの庭を、命より——」
「この庭」
その語に熱が宿る。燃えない炎の温度。露台から見下ろすと、星屑の降り方が「自然らしさ」の形を保ちながら均された偏りで散っているのがわかる。葉の裏、古い切り株、蜘蛛の巣の結び目。そこへ触れ、刈り、伸ばし、切り捨て、植え直し、水脈を動かし、霧の高さを測り、鳥の止まり木の角度を何度も調整してきた指の感覚が残る。数字にできない配置の道を、夜ごと手で撫でて確かめてきた。
けれど胸の奥がざわつく。庭の他に、もう一本杭があった気がする。柔らかい。温かい。湿った息の匂いと、竜の内側の鉄、雪解けの甘さ。
「アレス、私のことも——」
「君の名は? 君は、誰だ?」
刃の文句がまた落ちる。硬い音。彼女の奥歯が鳴る。竜の歯は人より長く、音が違う。その違いを、体は覚えている。いつから覚えた?
「私は、あなたの……。あなたに救われた竜姫。あなたが人の名で呼んでくれた夜から、私はあなたの側にいる。あなたがその名を落としても、私は落とさない」
彼女は歩み寄り、彼の手を包んだ。冷たさと冷たさが触れ、ふたりの体温の輪郭が擦れて音もなく混ざる。
「外の圧が入るたびに、あなたの記憶が削られる。大結界の核を、あなたの脳と繋げたから」
「核?」
「あなたが選んだ。庭を保つために、自分の記憶を結界の糧に変える、と」
「僕が——決めた」
決めたのは自分だ。どこかで。いつか。彼はまた線を引く。白い線、白い線、白い線。光が縁をすべる。紙が擦れる音が頭の奥で微かに生まれ、書くたびに何かが消え、消えた空白が冷たくなる。
「やめて。少しでいい、手を止めて。私が——」
「君は誰。やめたら、何が起きる?」
問いが、自分の喉で軋む。
「魔王の鼓動が近い。結界の底で、森の根が震えるの、感じるでしょう? あれは復活の脈。あなたが手を止めれば、脈が膜を突き破る。森は死ではなく、鈍い生に塗り替えられる」
耳を澄ます。地の底で太い鼓が打たれている。一定の周期。時折わずかに狂う。その歪みが、恐ろしく美しい。規則が破れる一瞬に、規則の輪郭が際立つ。
「アレス」
エララが頬に手を添えた。滑らかな掌の下に、微細な硬さ。鱗の気配。彼女も力を流している。外から押し寄せる圧に対し、内なる竜で押し返す。ふたりの膜が触れ合い、境界が温度で溶ける。
「あなたの名前を、もう一度刻もう。忘れてもいい。忘れたくない。刻むの。あなたの核に。私の鱗に。森の石に」
「名は杭。杭は、この庭の——」
「違う。あなた自身の杭」
彼は言いかけてやめた。言葉が棚から落ちる音がしない。棚ごと消える。
「覚えてる? あなたは私の爪を折って、血を舐めて、『これを覚えておけ、エララ。血の味は障壁の内に混ぜるな』って笑った夜」
「血の味は、光幕の内に混ぜるな」
口が勝手に形を復元する。口角の上げ方、舌の位置。昔の癖だ。誰に教わった? 自分で作った。庭に標語を立てるように、記憶に杭を打つために。
「あなたは自分の名前が危うい。私に預けて。あなたの名も、最初に私を見たときの目の色も、あなたの筆の持ち方を真似して転んだ夜も」
「筆?」
「あなたは空に線を描く。私は尻尾で地に線を描こうとして怒られた。『線の重さは空気に合わせろ』って。空気の重さを知らなかった私は、あなたの胸に耳を当てて、呼吸の数を数えて、それが空気の重さだと思った。あなたは笑って、私の額にキスをして——」
「……」
彼は視界の中で絵が立ち上がるのを感じた。すぐに崩れ、砂になる。砂は風に乗り、障壁に吸われ、外縁で光に変わる。
「ねえ、見て」
エララが匕首を抜いた。古い銀が障壁光をはね、露台の白石に刃を当てる。硬い音。火花。手はぶれない。浅すぎず、深すぎず、ゆっくり線を刻む。
「ア、レ、ス。これはあなたの名前。あなたの杭」
彼は息を飲み、刻まれていく角度を見つめ、粉の光が舞うのを目で追った。角度が正しい。彼女が空気の重さを覚えた証。彼が教えたものが、彼に返ってくる。
「ありがとう」
言葉は出るが、向かう先の輪郭は薄い。
「アレス」
「……君の名は」
「エララ」
彼は繰り返す。「エララ」。舌に甘い滑り。好きな音だと脳が言い張る。感情の場所が見当たらなくても、音の美しさだけで肯定してしまう自分に戸惑う。
外から角笛が上がる。獣の吠えと鉄の軋みが混ざった嫌な響き。封じが音を丸くして遠ざける。
「アレス、決めて。あなたが守りたいのは何?」
静かだが鋭い問い。彼は長い沈黙の底で石を落とした。
「……景観だ。完璧な、景観」
その返答に、自分で頷ける。配置し直すために切り捨てること。痛みを伴わなくても構わないと信じてきた冷たさに、薄い影が差す。
「あなたの決断が、あなたを削ってる」
彼は頷いた。それを止める道はひとつ、障壁を捨てること。捨てれば森は——魔王は——。
「なら、私が代わりに削られる。私の鱗と心臓を、封じの楔にすれば、あなたは——」
「だめだ」
思わず挟んだ。理由は口に上がらない。美しくないから。血を混ぜるな、と昔の声が反射で走る。
「私は、あなたが描いた空間の中で終わりたい。あなたの線の一本になるなら、そうする。でも——」
彼女は末尾を柔らかく曲げた。噛む前の猫みたいな柔らかさ。
「あなたがそれを望まないなら、しない。私はあなたが望む人間になりたい。あなたの盾でいたい。あなたの杭じゃなくて、あなたのために杭を立てる手でいたい」
その比喩に、胸の重さがわずかに解ける。
「アレス。私が話す。あなたは、聞くだけでいい」
「……ああ」
「最初に出会った夜。あなたは死の森の端で瓶に星の粉を集めてた。瓶に入ると星の粉は音を立てる。あなたはそれを『雨のふりをしたい』って呼んだ。意味がわからない、と私が言ったら、あなたは『雨が降ると音がする。星は降らない。だから音がない。音がない降りものは、存在を許されない』って。あなたは星に音を、私に名を、森に秩序を与えた。火の前で眠りかけた夜、私が牙を剥いてあなたに叱られて、耳を塞いで嫌だと泣いたとき、あなたは抱いて黙ってた。魔王軍の斥候を焼いた夜、あなたは何も言わずに水を汲んで、灰で汚れた私の指を洗ってくれた。星の階段で、何度も何度も足の置き場を確かめて、滑らずに上まで登れた朝、あなたは私の背に手を置いて、ありがとうって言った。そのときの空の青さ」
「……」
灯りが点いては消える。彼は息を吸い、吐く。吸うたび空気は重く、吐くたび頭が軽くなる。軽さが危うい。飛ぶ。杭を失う。
「アレス、あなたが忘れても、私は覚えてる」
「ありがとう」
「あなたが、私を、好きだって言った夜も」
「そんなことを、言った……か?」
「言った。言ってなくてもいい。あなたの手の温度が言ってた」
「温度」
その語を口にした瞬間、彼女の手の温もりがほんのわずかに上がった気がした。彼は握り返す。その行為に欲と必要が重なる。欲は美から、必要は生存から。
露台の下で何かが割れ、ひびが黒い線を伸ばす。白い光が縫い合わせる前に、アレスは自動で線を描く。白、白、白。うつむいたエララの顔から色が剥げる。彼女も力を流し始めている。共鳴の波が二人の間を往復する。速さが上がる。
「アレス、今、何を削った?」
「わからない」
「わからない?」
「本の匂い。紙の、匂い。誰かの髪の匂い」
匂いの層が剥がれると、色と音は骨だけ残して意味を失う。彼は自分を言葉で追いかけるしかない。
「私に押し当てて。あなたの記憶の欠片を」
「どうやって」
「触れて。あなたの核と、私の核を繋げる。私の鱗にあなたの名を刻んだみたいに、あなたの記憶を、私の中に刻む。あなたは軽くなる。私が重りになる」
「重り……」
均しい美は傾きを嫌う。だが、傾きが旋律をつくる夜もある。危険。その語の場所が見つからない。
「あなたの決断があなたを削るなら、今は私の決断で」
彼は頷いたのだろう。頷きの記憶が曖昧なまま、エララの額が近づく。肌が触れ、まつげが頬に当たり、小さな音が生まれる。彼の内側から細い糸が引かれて彼女に流れ込む。音がない。音のない流れは存在を許されない、と昔の自分が言う。彼は無意識に音を探す。鼓動がふたつ、混ざり、ひとつの強い拍になる。
「あなたは、アレス」
「……アレス」
「あなたは、私の、アレス」
「……」
「私は、エララ」
「……エララ」
「あなたは、星の降る箱庭を箱庭にした人。死の森に死の顔を与えて、死を休ませた人」
「……」
「あなたは、私の、私の」
「……」
繰り返すたび、薄い布がひとつ、空白にかかった。ガーゼの感触。痛みが和らぐだけで消えはしない。
どれほどの時間が流れたか定かでない。角笛は途切れ、大地の底で太い太鼓が鳴る。魔王の鼓動。近い。天蓋の光が大きく揺れ、星が雪崩のように滑った。滑って、戻る。戻る、と念じる。戻るはずだ、と自分に言い聞かせる。戻るだろうか。
「アレス、あなたは、もう——」
エララの声が遠い。水の底から見るみたいに姿が歪む。まばたきをしたはずだ。瞬間の暗闇が伸びる。垂直の感覚がない。
「私は、だれ?」
静寂が露台に降りた。白い石の粉がさらさらと流れ、星の粉と混ざる。エララの呼吸が乱れ、彼女はすぐにそれを制御しようとする。その乱れに、ほんのひとしずくの満足を感じた。なぜ今。彼は苦笑する。苦笑が表情筋にどう作用するか、体が覚えている。
「あなたは、あなたの名前は——」
「名は、杭」
「杭は、ここに」
エララは彼の手を取り、石に刻まれた「アレス」に彼の指を添えた。溝の冷たさ、深さ、指につく粉。粉が湿って少し固まる。それに触れることで、名が現実の重さに結び直される。
「アレス」
「……ああ」
「アレス」
「ああ」
「アレス」
儀式。彼は声の高さを少し変え、間合いを少し伸ばし、息の速さを少し抑えた。癖が勝手に出る。それを見ている自分が、まだいる。
外の夜が一段階暗くなり、星の粒がくっきりと浮き、ひとつひとつ短い尾を引いて落ちる。落ちて、消える。哀しいほど鮮烈だ。哀しみは美を孕むが、過ぎると感傷が勝つ。彼はそれを嫌っていたはずだ。いま、その境界がぼけた。
「アレス、どうするの。手を、止める?」
章の名にふさわしい問い。決断。彼は答えを探した。見つからない。人は見つからないとき、いつものことをする。手が動く。白い線、白い線、白い線。結び目が固まる。
「止めない」
自分の声を、遠くで聞く。エララが目を閉じる。睫毛の先で星の粉が跳ねる。頷き、うつむく。
「なら、私も、止めない」
「君は」
「あなたを支える。あなたがあなたであるかぎり。あなたがあなたでなくなっても」
変わらない高さ、変わらない速さ。彼はその一定を基準にした。基準がないと、どこにも戻れない。戻る場所に名をつける。エララ。
身体が軋む。頭の奥が空へ抜ける。穴の縁に、四つの線で構成された名前がぶら下がる。エララの手がその文字に触れ、押し戻そうとする絵が浮かぶ。思い浮かべることなら、まだできる。
露台の縁にひびが走る。今回は縫いが遅れる。遅れが広がる。彼は血管が裂けるような痛みと引き換えに、強引に線を引いた。空気が焦げる匂い。皮膚が内側から剥がれる感覚。失う。何を?
「アレス!」
音が先に届き、意味が追う。エララが膝をつく。鱗の一枚が剥がれ、石に落ちる。硬い音。彼女は自分の胸に手を入れかけた。心臓に手が届く動作。
やめろ。声が出ない。喉が砂漠。舌が貼り付く。体が重い。
「やめ、……やめろ」
風に紛れた小さな声。彼女は手を止め、見上げる。目に水がたまる。涙は彼女に似合わない……そう思った瞬間、ああ、似合う涙もこの世にはある、と別の自分がつぶやいて消えた。
「わかった。今は、しない。でも、覚悟はする。あなたが『止めろ』と言えないとき、私が止める。あなたが『続けろ』と言えるとき、私が続ける」
頷く。頷いた自分が遠い。遠い自分が薄れる。止められない。
「アレス、もう一度、あなたの名を」
「ア……」
深い溝に声が落ち、反響が軽く戻ってくる。軽さが怖い。怖い。恐怖。その語の居場所がない。問いを飲み込む。飲み込む動作だけは達者だ。吐く場所がこの庭にはない。
「アレス」
同じ高さ。同じ周期。同じ振幅。彼は呼吸を合わせた。合わせることは快楽に近い。
外の太鼓がひときわ大きく、森が震える。天蓋が崩れるように見える。見えるだけ。まだ崩れていない。まだ。まだ。
砂時計の音がする。砂の一粒一粒が光を含む。砂が空白を埋め、空白が砂を吸う。新しい比喩ばかりが浮く。古い背表紙は白紙。題名のない本。戻す棚がない。本は床に積まれる。積んで、いずれ捨てる。捨てると、景色はすっきりする。すっきり——。
「アレス!」
目を開ける。いつ閉じた。エララの肩が黒い血で濡れ、障壁光の下で紫に見える。背の鱗に亀裂。外からの衝撃が一瞬の隙を抜けて突き刺さったのだろう。彼女は笑う。今は笑うな、と喉の奥で誰かが叫ぶ。
「大丈夫。かすり傷」
彼女は嘘をつくと左の口角がわずかに下がる。その癖を、目と筋肉が拾う。頭の棚が空でも、体は動く。体もいずれ削られるのか。軽くなれば飛ぶ。飛べば星に触れる。星は降らないのに。
「アレス、あなたは、あなたの名を忘れるかもしれない。忘れても、呼ぶ。何度でも。あなたの耳が聞こえなくなるまで。耳が聞こえなくなっても、呼ぶ。あなたの心が覚えているかぎり。心が覚えていなくても、呼ぶ」
祈りの形が見える。祈りは感傷だと長く切り捨ててきたのに、今、線の美しさに触れたように感じる。
「最後に、もう一度だけ、覚えて。私の名前は?」
「……エ」
「エ?」
「……ラ」
「ラ?」
「……」
「ア」
彼女は涙を落としながら笑う。笑いの形が安心をくれる。安心は柔らかな布。布は空白を覆い、星の粉を拾い、血を吸い、水を吸って乾く。乾いた布から紙の匂いがする。紙。本。棚。棚——。
視界が純白に満たされる。音が消える。名も、匂いも、色も、牛乳に溶けた砂糖みたいに見えなくなる。白の中心に黒い点。四つの線でできた名。アレス。その四文字が浮き、ゆっくり沈む。
沈むな。沈むな。唇が形だけつくる。声は出ない。
遠くで太鼓が止み、次に地の底から低い轟き。魔王の鼓動ではない。もっと大きく、冷たい。大結界の底が軋む音。崩れの予兆。予兆に立ち会うことは幸福か。問いばかりが増え、答えが薄い。
「アレス」
エララの声が白の中に黒い線を引いた。線は杭。彼はその線にしがみついた。
「アレス」
唇が動く。音は出ない。出なくても、意味はある。意味は彼女がつくる。彼女が呼ぶ。呼ばれることが最後の証明。
外で、星が降るふりをする。降らない星が、降るふりをする。アレスが作った儀式は、終わりまで続く。儀式の美しさに、彼は満ち足り、絶望し、白に溶けた。名前だけが沈むのを嫌がり、水面に漂い続ける。それを掬い上げる手の気配だけが、硬く、確かな感触で残った。




