表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
139/173

第6巻 第3章 竜の長との対立(4)

死の森の夜は、耳の皮膚から裂けてくる。黒い幹に走る乾いたひび、腐った茸の吐息が膝下にまとわりつき、風は葉ではなく骨を鳴らす。頭上の膜はところどころ色褪せ、星を模した粒は消えかけの灯。外から投げ込まれる漆黒の槍が膜に吸い込まれるたび、乾いた破裂音、皺。光は砂のように崩れ落ちる。


「間に合わない……このままじゃ、あなたの結界が落ちる」


エララの声は低い。威圧の名残を引きずりながら、薄い。肩から背へ黒銀の鱗がのぞく。剥き出しの指で床の溝をなぞると、金属と血の匂いが混じって舌に乗った。


「醜悪だ」


アレスが祭壇の中央で呟く。砂色の髪の先は煤のように黒い。肌は固い磁器の艶。彼の視線は足元の円へ落ちたまま動かない。細い線で組まれた円の幾何、星座の配列に近い。溝に埋めた粉は、夜空の無音が手触りになったもの――星骨の粉。


「それ……やっぱり星骨なのね」


「古い屑だ。役には立つ」


「触ると、なる。不思議」


エララは指先の冷えを見つめる。彼は短く息を吸う。紙を撫でるような軽さでありながら硬い音が胸で鳴る。


「この皺。この濁り。曖昧が鬱陶しい」


「あなたは、ひとつの目で全部を見張るつもり?」


「一つで充分だ。焦点を増やせば世界が乱れる」


彼は両手の甲の薄い紋様を重ねる。床石に埋め込まれた銀の線が青く冷えるように光り、次の瞬間、糸が空へ伸びた。砂地に打つ波のような音が巡る。起動の響き。


外から太鼓の衝撃。腐肉と焦げた樹液の匂い。膜が皮膚のように震え、震えが根に伝わって軋む。遠くで肺がひとつ余ったかのような吸気の音。地の底の鼓動が森に混ざる。


「出力を上げるだけじゃ足りない。星屑を呼ぶ」


アレスの声は硬い決断を含む。エララはその横顔に手を伸ばし、頬へ触れた。冷たさ。動脈の律動は規則的に指先へ当たるが、一拍ごと浅くなっていくのがわかる。


「あなたの記憶……削れる」


「この庭に不要なものが落ちるなら、それで均す」


「均すって、そんな言い方」


彼は笑わない。笑うと輪郭が崩れると信じている。膝をつき、わずかに血を垂らす。星骨の粉が濡れずに夜空の黒へ変わり、線は白銀へ転じた。祭壇の上に星図が立ち上がる。


「私の血も」


エララは胸元へ爪を立て、紅を落とす。竜の血は熱い。触れた瞬間、光が膨らみ、内側から風が逆巻いた。天井の空気が唸る。浮く髪、貼り付く衣。エララは一歩詰め寄る。


「約束して。終わったら戻ってきて」


「どこへ?」


「ここに。……あなたの視点が崩れない場所へ」


アレスは答えず掌を広げる。指先が冷える。目を閉じ、静かに開いた。虹彩の色が薄い。芯火が細る。


星図の線が音を持つ。低い底鳴りが石床を震わせ、骨まで響く。空気が回転し、天蓋の内面に星屑が生まれた。砂粒ほどの光点がルールを帯び、円環を描いて巡る。金属の匂いが強く、舌に鉄。喉に乾いた痺れ。


「アレス、息が苦しい……」


「耐えろ」


乾いた返答。エララの肺は彼の魔力の流れに押され、内側から圧された。彼の力は直線的。無駄な曲がりがない。その直線が今、太く重く色を持つ。星屑の軌道が震えるたび、膜に淡いさざめき。外の黒い槍は光の綱に絡め取られて無音で砕け、夜気に溶ける。粉は星屑へ同化し、密度が上がった。


「……見えるか。輪郭が戻る」


アレスの声は遠い。彼の瞳に並ぶ星は、見上げるものではない。並べ、扱うための模造天。彼はそれを愛する。刃物のように鋭い愛だ。


「見事。だけど……」


エララは彼の手を握る。冷えが吸い取っていく。星図の光柱が彼の背から射し、身体を通過して結界へ流れ込む。足元の円が一段増え、微細な線が増設された。一本ごとに光が立ち、彼の神経を駆け抜ける。


外の攻撃が変わる。蝗の群れが膜にぶつかって潰れ、酸の雨へ変質。泡立つ膜、煙。だが泡は星屑に吸収され、逆さの滴となって空へ返された。星屑は網だ。細かい目、千の支点で揺れながら自重を保つ。黒い羽は燃え、青い火花が散る。青白い明滅。耳の奥を刺す高い線音。


「アレス!」


彼の肩が落ちる。瞳の光が薄れ、黒が広がる。冷徹な輝きが湿った影へ変わった。口から白い霧。光に触れて弾ける。


「大丈夫だ」


別の喉を借りたような音色。手先が震える。焦点が外れ、足元の星図が支えになる。


「大丈夫、じゃない」


エララは爪先を彼の掌へ立て、現実へ引き戻す。薄いガラスのような肌。壊せば、何もかも失う。壊したくなる衝動は胸の底で蠢いた。半径三歩を焼き払いたい衝動。けれど、今は違う。触れ方を変える。


「あなたの視点が、空っぽになる」


「空は、いい」


彼の目がエララを素通りする。視覚は今、流す道具。頭の中の「完璧」の設計図を外へ投影するための通路へ降格。欠ける前提。


星屑が増える。落ちるように見えて、実際は上へ。膜を通って森の上空へ舞い上がり、内側で固定。針の冷たい音が耳元で何百も鳴る。視界の端で光の塊が収斂し、中心が沈む。重さが偏在する。物理ではなく、意志の計量。星屑が柱となって支点を打つ。


魔力の奔流が呼吸を抜き去る。空気は喉に粘り、肺が内側から満ちる。内臓の順番が入れ替わるほどの圧が皮膚の下を走った。鼓動が耳を塞ぎ、鼻の奥が痛む。歯が痺れる。目の奥で光が弾ける。舌先に血。膝が床へ沈み、床石の冷えが骨に当たる。背の鱗が一枚剥がれ、線に触れた瞬間、光が一段増す。竜の鎹。


「足りない」


アレスが吐く。感情の影がない。答えの読み上げ。


「何が足りない?」


「朝夕の境界を揃える閾。星屑は集まるが縁が曖昧。輪郭を固める代価」


彼は額へ指を当て、わずかに躊躇。爪が掠め、白い皮膚に細い赤。血が星骨へ落ち、光の波形が変わる。鋭い音。角の立った雷の残響が室内に居座る。


「やめて」


エララは手首を掴む。軽い。骨の配置が人の常と少し違う。彼は儀式のために身体を削いだ。余計な肉はなく、骨は道具の感触。嫌いで、愛しい。


「足りないなら、私を使って」


言うそばから喉が張り裂けそうになる。群れを率い、伴を食い尽くしてきた血が否定する。彼女はその声を黙らせた。


「私の心核を円に置く。半分でいい。支点になる」


「お前は死ぬ」


淡々。


「あなたが生きるなら、私は変わる」


頬を光が伝う。久しぶりの涙。竜の涙は熱く、床石が白く曇る。視界が揺れた。胸へ手を差し入れようとする。光る鱗に覆われた小さな心臓へ触れる覚悟。


「待て」


刃のような声。冷たい手が熱い手を止める。二つの温度の境界で震え。


「お前の形が変わる。世界が乱れる」


「いい。あなたが、たのしく見てくれるなら」


「私は乱れを嫌う」


「なら、乱れをあなたの中だけに閉じ込める。あなたの眼にしか見えない乱れに」


柔らかいが強い声。もう片方の手も握る。彼の指が力なく折れる。その時、外で轟音。天蓋の一角で黒い渦。復活しつつある心臓の脈動と結び、束ねた力だ。渦の中心から伸びる刃が膜を斜めに裂く。星屑が裂け目へ吸われるようにうねり、隙が生まれる。


「時間がない」


乾いた囁き。アレスは手を放ち、掌を水平に。薄い皿の光が形を取る。星屑がそこに落ちる。傾け、光を自らの目へ注いだ。星が燃え、星が死ぬ。虹彩が割れ、黒が光を飲む。


「アレス!」


彼の体が揺れ、膝が落ちる。衝撃は起きない。糸が切れた人形のように床へ吸い寄せられる。片手で支え、指先が石に白い跡。呼吸は浅く、唇が乾く。口の端の赤はすぐに乾いた。


「見える」


事実だけ。エララはその「見える」の対象へ思いを伸ばす。星の位置、膜の張力、魔力の流れ、縁の強度。彼の視界は数値に置換され、人の表情の角度は値を持たないのかもしれない。胸の奥が鈍く痛む。


星屑はなお増え、天蓋は深い輝きを取り戻す。内側の空は反転し、光の川が流れ、星の結晶が貼りつく。落ちそうに見えて、落ちない。全ては軌道に沿って回り続ける。天が仕立て直された。彼の天。


黒い刃は一角を切り裂きかけていたが、星屑の柱が裂け目の両脇に立ち、布を繕うように光の糸で縫った。音が消え、完全な無音。すぐに轟音が戻る。叫び、軋み、破砕音。だが結界の外。星屑の輝きが壁となり、圧力を受けて弓なりにたわむが破れない。


「終わったの?」


エララは彼の眼を見る。光を反射しない。深い湖。風はない。


「形は整った」


わずかな複雑が混ざる響き。彼は自分の言葉の指す「形」を掴み損ねているのだろう。結界か、自分か。境界が薄い。


「アレス」


「……」


彼の瞳がエララの口元を探る。呼ばれる音の座標。眉間に細い皺。砂が脳の溝へ流れ込み、静かに埋め戻す。地図の線が消える。瞬きがぎこちなく二度。


「……星屑」


世界の状態を読み上げるセンサー。彼の視界は星屑に占領された。


エララは彼の額に手を置く。冷えが骨まで沁みる。自分の熱で覆う。唇を寄せる。触れた場所が赤む。瞼がわずかに震え、反射だけが揺れる。


「戻ってきて。あなたがいないと、私の形が、崩れる」


求愛ではなく、祈り。竜に似合わない姿勢。けれど、人に恋した竜は祈りを覚えた。


「エララ」


彼の口が名を作る。音が空気に生まれる。意味が伴っているかは関係がない。その音だけで胸の痛みが少し薄くなった。


外の魔力が一度引く。黒い霧が薄い。心臓は地の底で脈を刻み直す。輝きを取り戻した大結界は緊急の縫い合わせにすぎない。星屑の光は長くは持続しない。エララは知っている。同時に、胸に新しい決意が置かれる。奪う熱ではなく、満たす熱へ。


「ねえ、任せて。あなたの世界、守らせて」


「歪みは、嫌いだ」


反射の返答。けれど、先ほどより弱い。信条を支える具体が薄れる。


「だったら、私を見て。あなたの嫌いの形、私が変える」


その言葉が鈍い膜へ当たり、少しだけ滲む。焦点が彼女へ動く。輪郭はまだ揺らぐ。数値を求める眼に、笑みの値はない。戸惑いの表情――珍しい歪み。


「痛い?」


「わからない」


感覚の辞書が剥落した。言葉と体の反応が切り離される。吐息が震えた。


「大丈夫。私がいる」


背を支える。背骨は細い。抱き起こし、低い体温に歯を噛む。胸へ寄せ、心拍を伝える。彼の鼓動が追随する。心臓は学ぶ。生き残るための模倣。愛の真似事でもある。


祭壇の周囲で星屑はまだ舞う。儀式の余韻。光は風のように流れ、指の間を抜ける。星屑は冷たくない。記憶の温度だ。幼いガラス玉の感触、夏夜の羽音、冬朝の吐息。光となって結界を満たす。けれど、その棚は彼の内から外へ移された。


「星が降るね」


エララが呟く。内側の空に星が降り続ける。降って、定着し、天になる。彼が求めた天。瑕疵のない天。彼の眼はそのために自らの光を差し出した。結界へ戻してしまった。


「代償……払ったね」


彼は答えない。喉が上下し、音は生まれない。意味の引き出しが空に近い。エララの腕の中で呼吸は続く。それ自体がささやかな奇跡。奔流は彼の中身を壊しかけた。骨の間に新しい空気の道ができ、血管の走りが僅かに変わったのではと彼女は思う。それでも、ここにいる。


音が一度、世界から消える。星屑の膜が音を飲んだのだ。静けさが耳鳴りへ転じた。その中で、エララは決断を噛みしめる。自己犠牲――昔は愚かの別名。今は違う。誇示のために壊す強さではなく、守るために差し出す強さ。痕跡を主張しない影。


「眠って」


エララは囁く。瞼が降り、まつげの影が頬に落ちる。呼吸が少し深い。体が重さを返し、彼女の腕が受け止める。重さは証。空虚は重さを知らない。


降り注ぐ光の下、エララは彼を抱いたまま祭壇の中央に座り込む。外の黒い波はまた寄せてくる。心臓の鼓動は次の波を準備する。結界は運命の崩れに近い。だが今は、星が戻った。彼の天が、もう少し延命される。そのために彼は自分の光を差し出した。


「あなたの光、私が覚えておくから」


胸に手を置く。熱い鼓動。竜の心臓は強い。彼が忘れた分を、彼女が持つ。彼が望んだ天を、彼女が見続ける。欠けた輪郭に触れ、知らせる。彼が息をする限り、彼女の熱は彼を傷つけない形で燃える。誓いを胸に、彼の呼吸に合わせる。二つの呼吸が星屑の微かな音に重なる。


星図の線は薄れ、粉は粉へ戻る。光は天井に固定され、動かない並びになる。結界の天は完成。だが、その下で眠る彼の眼は星を映さない。代わりに星屑が光る。星屑の代償。彼の眼から抜けた光が、森の上に降り続けている。


その光は冷たくも温かくもある。どちらとも言い切らせない頑固さ。その奥で、彼の美意識が安易な価値の押し付けを拒んでいるのだろう。見る者が見たいように見える天。それを彼は作った。だから、空へ身を差し出した。


エララは空を仰ぎ、自分の熱を新しい形へ整える。黒い欲望が首をもたげる瞬間はまた来るだろう。誰の視界にも彼を乗せたくない衝動。けれど、星の光が内側の黒をほどく。彼の代償で灯った光が、彼女の代償にも火を入れる。そっと息を吐き、彼の髪へ指を通す。柔らかい。まだ温かい。ここにいる。星屑は降り続ける。夜は深い。遠くで心臓が鳴る。崩れかけの世界の縁に、二人。今夜は彼の決断が世界を支えている。明日が来るかはまだわからない。けれど、星の下で、彼女は抱き、彼は腕の中で息を継いだ。


「思い出せなくても、私はここにいる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ