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第6巻 第2章 箱庭からの外出(5)

薄い膜を爪で裂くような音が、遠いところからこちらへ向かってくる。雲ひとつなかった瑠璃が、紫黒の線で汚された。線は脈を打ち、膜の奥から湿った息が漏れる。冷たくて重い気配。鉄臭い腐敗の匂いが鼻腔に入ると、舌の奥がしびれる。頬を撫でる風がいつもより湿っぽく、肌にうっすらと砂が貼りつく感触が残る。耳には、噴水の水音と人々のさざめき、子のしゃくりあげる声が重なってきた。


「見ろ、あの色を……昼なのに夜の筋が走ってる」

「空が、空がおかしいんだ。ねぇ、どうなってるの?」

「なぁ、あの黒い縫い目みたいなの、昨日より増えたよな」


広場のあちこちから声が飛び交う。白い噴水のまわりを縁取る石は磨き込まれてまぶしい。水の落ちる角度まで決められたこの場に、いつもなら甘い花の香りが広がるのに、今日は湿った土の匂いが勝っている。花壇の端で老婦人が花弁を撫で、指先に触れるわずかなざらつきに顔をしかめた。


「こんな手触り、初めてだよ……この庭でこんなふうになることなんてなかったのにねぇ」

「管理の人がサボってるのか?」

「サボるも何も、ここは全部、あの方が見てくださっているんだよ」


噴水脇で柄杓を持った清掃係の男が声を上げた。水面は薄く波打ち、日差しが反射してきらめく。いつもなら剃刀のようにまっすぐ落ちて来る水が、今日は微妙にぶれる。男は顎に力を込め、水平を確かめる器具を取り出したが、手が震え、器具の泡は真ん中に戻らない。


「おい、見たか……あの空のひび割れを。結界が、破られようとしてるんじゃないのか?」

「やめろよ、縁起でもない」

「縁起の話じゃねえ! 三日前に最初の一本が出て、消えたか? 消えちゃいない。昨夜だって森の方から、地面を踏み抜くみたいな、あの音だぞ」

「聞いた。家の床が一度だけ、ぐっと持ち上がるみたいに鳴ったんだ。皿が音を立てた」


広場の中央では、鍛冶屋風の男が手を広げて見せる。手のひらは煤で黒く、爪に鉄粉が入っている。その横で若者が首を横に振った。


「でも、アレス様の結界だぞ。あの方の仕事に隙なんてあるわけがない」

「そうだよな? あの方、石畳の目地に草が生える角度まで決めてたって、昔から言われてるんだ」


目地に膝を着いた少年が、指で溝をなぞる。砂はさらりと乾いて指にまとわりつかない。少年は指についた砂をふっと吹いた。角度にこだわりがあるという噂はこの街では誰でも知っている。だが、空の縫い目は、こだわりも意地も関係なく、みるみる太っていく。


「でもさ……」

「なんだよ」

「俺、森の方で見たんだ。影が、木の幹より高いのが、何本も……。動いてた。目、あった。こっちを見てた」

「やめろ、そういうこと言うなよ」

「だって見たんだ、俺だけじゃない。夜番の衛兵も叫んでた」


つばの広い帽子をかぶった行商風の男が、荷車の柄を握りしめている。二の腕の筋が浮き、汗が滴る。荷車には布で覆った籠がのり、布の下で瓶と瓶が当たる音がかすかに鳴る。こわばった空気の中、子どもが母のスカートに顔をうずめた。


「お母さん、空が痛そう。治る?」

「大丈夫よ、ほら、噴水さんがしゃべってる。ね、水はきれいでしょう?」


母親はそう言いながらも、胸の前で小さく数珠を握りしめる。指先が白くなり、爪が皮膚にめり込む。誰かが叫んだ。


「もし破れたら、俺たちはどうなる? 森のやつらが来るんだぞ。牙の音、覚えてるか? 昔のあれを」

「昔のあれ、って……」

「十年前の春のはじめ、覚えてないのか。音が降ってきた夜だ。壁に爪が引っかかる音。あの時、大勢が……」


「やめて」と、若い女が叫んだ。両手で耳をふさぎ、髪が耳の前に滑り落ちる。彼女の眼差しの先で、空のひびが淡い光を放って脈打った。ざわめきが、悲鳴の一歩手前の高さに上がる。


その時、階段の上に影が差した。日差しの輪郭が一瞬歪み、白い石に赤の縁が落ちる。光の角度が変わり、視線が吸い寄せられた。


「皆、落ち着きなさい」


それは、硬い木に触れるときの、清んだ音にも似た声だった。高くない。けれど、広場の表面を撫でていたざわめきを切る。階段の上からゆっくり降りてくる影は、風を従えていた。


「エララ様……!」


人々の口から名前がいくつも零れる。黒い髪の間で光が跳ねる。髪は夜を束ねて垂らしたようにまっすぐで、光が一本一本の面に沿って滑る。紅い瞳は遠くの空より、光を蓄えて静かに返す。ドレスの裾は羽衣のように動き、石段の端に触れるたび、細い音がした。


「ねぇ、本物? ねぇ、泣かなくていい?」

「大丈夫、エララ様が来てくださった」


エララは広場の真ん中で足を止め、人々に視線を配った。唇の端が柔らかく持ち上がる。その微笑は、傷口に貼る薄い絆創膏のように見えた。彼女はゆっくり息を吸い、言葉の形を整える。


「空の筋に、不安を覚えるのは当然のことね。けれど、怯える必要はないの。これは一時のもの。仕組みを少し変えるための過程でしょう」


「仕組みを……変える?」

「どういうことだ」


「壁というのは、磨き続けるうちに、いつか新しい形が必要になるわ。古い板を外して新しい板に替えるとき、棚の中が一瞬だけ見えるように、結界も部分的に“開く”ことがあるの。見えている筋はその“開き”。そこから出た霧は、すぐに薄まって消える。わたしたちの足元に溜まる前にね」


背後で、ほとんど気づかれないほど細い霧が白く生じ、即座に透明へと散った。空気が一瞬だけ涼しくなる。彼女の肩の周りにさざ波のような白霜が浮かんで、風に撫でられて消えた。


「でも、昨日の声は——」

「怖かったわね」


エララは小さく頷き、手を胸に当てる。爪が布をわずかに押さえ、布地がきゅっと音を立てる。


「遠いところに住む獣の声は、時に響いて届くもの。あれは、向こう側の地面の裂け目の音も重なっていたのでしょう。こちらに届くころには、いくつも反響して膨らむ。音は大きくなる、けれど、厚い硝子は揺るがない。ここにある壁を作った人を、あなたたちは信じて暮らしてきたはずだもの」


「アレス様のことか?」


「そう。彼の目は、ここに暮らすあなたたちの毎日を見て、ひとつひとつ形にしてきたはずだわ。噴水の跳ねる角度、風が抜ける路地、朝に差す光が草の上でどう踊るか。彼はそういうことに素手で触れて、並べ直した。だから、信じてあげて」


人々が顔を見合わせる。鍛冶屋の男が深く息を吐き、少年が頷く。


「なら、安心だ」

「エララ様がそう言うなら」


「いつも通りに過ごしましょう。庭でお茶を淹れ、店の棚を磨き、子に本を読ませて。恐怖の音は、こちらから耳を貸さなければ、すぐに遠のくわ」


エララは言いながら、視線を空に上げ、筋の明滅に小さく目を伏せる。さらに続けるかわりに、彼女は微笑んだ。それきり言葉は足されない。だが、広場にはほんの少し温かい息が戻った。


「ありがとう、エララ様」

「お身体にお気をつけて」


祈るような声がいくつも上がった。エララは一人一人にうなずき、振り返る。階段の石に影が滑り、裾が翻る。人々の視線がその背に吸い寄せられた。石壁の冷たい手触りが、指先を通して掌に集まる。


階段の曲がり角の向こう、人影が見えないところに入るなり、笑みは壊れた陶器の面のように音を失う。背筋が壁と触れ、冷たい。喉の奥で短い音がこぼれた。息ではない。声でもない。どちらともつかない震え。


掌を目にあてがい、爪がこめかみの髪を押す。血の匂いがわずかに立つ。唇は何かを言おうと開いて閉じ、舌先が上の歯の裏側をなぞった。


「嘘よ」


声は石に吸い込まれた。

結界は、開いているのではない。壊れている。修復の魔力は追いついていない。空の筋は、彼の魔力が枯れかけている証。


彼女の頭の中に、数日前の彼の顔が浮かぶ。

倒れた彼。白いシーツの上で、汗で額に張り付いた髪。彼が目を開けた時、その瞳は、彼女を映していなかった。


『……君は、誰だ? なぜ、私の傍にいる?』


その声の温度。氷よりも冷たく、風よりも形がない。記憶の糸が、彼の中で切れていた。彼女と過ごした時間、交わした言葉、彼が彼女に向けたあの不器用な視線。すべてが、彼の中で無に帰していた。


「アレス……」


彼女は壁に爪を立てる。石の粉が爪の間に挟まる。

彼が彼女を忘れた。その事実が、胸の奥で針のように刺さる。刺さって、抜けない。抜けないまま、針は熱を持つ。


「あなたが私を忘れても」


彼女は顔を上げる。紅い瞳が、暗い回廊の奥で光る。


「あなたが生きているなら、それでいい」


彼がいない世界に、意味はない。彼が創ったこの街も、彼がいないなら、ただの石の塊だ。彼が息をしていること。彼が目を開けること。それが、彼女のすべて。


「私が、壁になる」


彼女はドレスの裾を握り、立ち上がる。足元の石が冷たい。彼女は塔へと向かう。塔の奥、彼が眠る場所。そして、結界の核がある場所。


回廊を歩く。足音が石に響く。規則正しい音。彼女の心臓の音と重なる。窓の外、空の筋がまた一つ増えた。紫黒の光が、回廊の床に落ちる。


「……愚かな虫けらどもが」


彼女の唇から、氷のような声が漏れる。魔王軍の気配が、風に乗って届く。彼らは、彼の創ったものを壊そうとしていた。彼の安息を脅かそうとしていた。


「許さない」


彼女は塔の階段を上る。一段、また一段。階段の影を作る。手すりの木は滑らかで、いつか彼が手にしたときに残した油が、時間の中に固まって艶を出している。手のひらを滑らせると、温度が薄く移っていく。上に行くほど光は薄くなり、空気は冷たくなる。胸の中の音が耳に近づく。外からは遠く、森の低い唸りが続いている。止まない。地面の奥を何かが這う音に似ている。


核の扉は大理石で、模様が彫られている。葉の模様、羽の模様、波の模様。それらの間を、細い線が結ぶ。線はまっすぐではなく、蛇行し、時に交わり、離れる。扉に手を当てる。冷たい。吸い込まれそうな冷たさ。額を扉に近づけた。石は淡く湿り、鼻先に冷たさが集まる。口の中がきゅっと縮まり、唾が重くなっていく。


「ここで、私は消える?」


自分の中に問いが生まれ、答えが黙って立つ。消えるわけではない。形が変わる。声を持たない形へ。肌で感じる風を失い、視界の色を失い、音を意味としてではなく波として受け取るものへ。私はそこに居て、彼のために、壁のために、ひたすらに流す。流すことしかできない。けれど——。


「それで足りる」


硬い言葉だったけれど、体はそれを聞いて緩んだ。

扉に額を押し付け、小さく目をつぶる。目の裏で、白い光の線が走る。線は上へ伸び、外の空の筋と絡む。私の中のどこかが熱を帯びる。意識が薄く引き伸ばされる感覚。自分の呼吸の音が遠のき、代わりに街の呼吸が近づく。噴水の水、その落ちる時の空気の泡の弾ける音。市場の布が擦れる音。鍛冶場の火の音。人の唇が言葉になる前に動く音。風が壁を撫でる時の柔らかい音。


「エララ」


どこからともなく呼ぶ声があった。耳でなく、骨にかすかな震えが伝わる。声の主は、一人だけ。私は目を開け、息を吸う。


「起きてるの?」


振り返ると、扉の下の方に、小さな影。少年だ。昼間、目地に指を入れていたあの子。少年は両手で帽子を抱え、小さな肩で息をしている。


「ぼく、ついてきちゃった。ここが一番高いところだから、空がよく見えると思って」

「見なくていいものもあるわ」


私は膝を折り、少年の目線に合わせる。少年の瞳の中に、自分の顔と、扉の白が映る。少年は唇を舐め、言った。


「ねぇ、ほんとうに、大丈夫?」


少年の問いは真っ直ぐだ。私は頷く前に、彼の帽子の縁を持って少し整えてやる。帽子の縁の布の手触りはざらりとして、手に心地よい粗さが残る。少年は少しだけ笑ってから、真面目な顔に戻った。


「ぼく、ぼくの小さな妹、今日、泣かなかった。エララ様が言ったからだって、母さんが言ってた。でも、ぼく、嘘は、嫌い」


「嘘はね、時々、役に立つの。たとえば、雨の日に地面に絵を描いて、そこに太陽の絵を描くみたいに。濡れるのは止まらないけど、絵を見てる間は心が冷えにくいでしょう?」


少年は首をかしげる。理解しない顔でありながら、理解している顔でもある。私は少年の頭をひと撫でして、立ち上がる。


「ここは高いから、風が強い。下に戻りなさい。風邪をひいてしまう」


「うん」


少年は素直に頷いて、階段に走る。その足音が下へと消える。私は扉に再び掌を当てる。掌の中で、心臓の音が強くなる。内側から扉に答えが返ってくる。結界の核は、音がするわけではない。けれど、確かに呼吸している。私の呼吸と合わせようとする。合わせれば、私は私でなくなる。合わせなければ、壁が落ちる。


「アレス様、あなたなら、どうする?」


二度目のその呼び方だ。扉の向こうの闇がやわらいだ気がする。かつて彼が言った、乾いた指示のような声が、遠くで反響する。


『……下がっていろ』


あれは、みんなを守る時の声。今、守るのは、彼自身だ。私が彼を守る。彼が目を開ける場所を守る。声はどこにも立たない。立たせても、風がすぐにさらっていく。代わりに、霧が立つ。霧が私から立ち上り、扉に吸い込まれる。皮膚の下の熱が、引かれていく。指先の感覚が薄れる。冷たさがじわじわと上がってくる。膝の奥が冷え、腿が冷え、腹の中まで冷えが入ってくる。


「まだよ。全部入れるには早い。段階がある」


声に出して、自制の枠を作る。枠があれば、流れすぎない。流れすぎると、一気に形が崩れる。私は踵を引き、扉から一歩離れる。息を整える。指を曲げ伸ばしして、血を戻す。指の筋がきしり、小さな痛みが頭を醒ます。


「まずは床を整えるように、基礎から。彼の流れと、私の流れを少しずつ合わせる」


私は自分の胸に手を当て、そこに集まる熱を、薄く撫でて広げる。熱は白い光の気配になって、肋骨の間を通り、背骨を伝って、扉の方へ薄い糸を伸ばす。糸は一本ではなく、何本にも分かれ、絡まりながら伸びる。それは蜘蛛の糸のように細くもあるし、動脈のように生々しくもある。伸ばすたび、耳の奥で、都市の声が増える。市場の喧騒、笑い声、泣き声、火のはぜる音。全てが広がって、私の中に場所を作る。


「この街のためじゃない。あなたのため」


言い直す。言い直すことで、言葉の重心が変わる。言葉の重心が体の重心を移す。足の裏に重心が乗る。つま先に力が入る。背筋が伸びる。熱がまた上がり、糸が伸びる。扉がわずかに震えた。石の冷たさが熱と出会い、薄い霧がまた生まれて、そして消える。


「エララ様、下で、また——」


階段の下から駆け上がる足音。衛兵が顔を上げてこちらを見る。頬に汗、手に槍。肩で息をしながら報告する。


「空の筋が、さらに。住民が——」


「大丈夫。あなたは広場に戻って、子どもと老人を家へ。噴水の水を止めて。滑ると危ないから」


「は、はい!」


衛兵は命を受けて走る。足元の石は乾いている。滑らない。彼の足音がまた遠ざかる。私は扉に向き直り、目を閉じる。


「いい子ね」


誰に言ったのか、自分でもわからない。けれどその言葉だけで、胸の中の針が一つ、少し外れた。扉の向こうに、白い鼓動。彼の呼吸と重なる瞬間がある。息を吸う。吐く。合わせる。合わせない。わずかなズレ。そのズレが命取りになることもある。だから、慎重に。慎重に、でも急いで。矛盾が、体を縛る。縛られて、私は動きを細く少なくする。肩の力を抜き、腰を落とし、足の裏の感覚を確かめる。自分の骨の一本一本に意識を通す。


「アレス様、ねぇ、もう一度だけ、名前で呼んで」


三度目。喉が震える。扉の石が薄く温まる。遠くで、空がきしむ音。筋がまた一本、光って、暗くなる。間に合うか。間に合わないか。判断の天秤は、今、針一本の差で揺れている。


広場では、噴水の水が止まり、子どもが石に描いた太陽の絵に指で輪郭を足しているかもしれない。市場では、パン屋が粉の袋を結ぶ手を速め、布屋が店の幕を下ろす紐を引いているかもしれない。鍛冶屋は火を弱め、鉄を水に入れて音を短く終わらせるかもしれない。皆が、別の音を作っている。その音を、私は壁になって受け止める。彼が起き上がる時、その音が彼の耳に届くように。


扉の石が、低く鳴った。合図だ。核が、私を受け入れる準備をする音。私は手のひらを押し当て、指をゆっくり開く。指の間から白い霧が扉に吸い込まれていく。霧は糸になり、糸は束になり、束は根になる。根は扉の向こう側で広がり、この街の下に伸びる。伸びながら、彼の糸と絡む。絡んで、絡まりすぎないように、角度を調整する。角度。角度は大事だ。水が落ちる時の角度を決めた彼が、見ている角度。私も今、角度を見る。


「ここ、少し右」


独り言を零しながら、糸を少し右に寄せる。扉の模様の葉の線がその位置で呼吸するのを感じる。葉は風を通す。風の道を開ける。開けると、息が通う。息が通うと、音が通う。音が通うと、街が落ち着く。落ち着くと、彼の呼吸が滑らかになる。滑らかになると、空の筋が伸び切らずに止まる。止まると、時間が稼げる。時間が稼げれば、彼の目がまた開く。その時、彼の目が私を見るかどうかは——。


「見なくてもいい」


口が勝手に言った。見なくていい。見られなくても、私はここにいる。彼の呼吸と街の呼吸を合わせる役目がある。役目は姿よりも前に立つ。姿が無くなっても、役目は残る。残って、形に意味を与える。


塔の上空で、ひときわ大きな音。空のどこかが砕ける音に似ている。私は扉に身を押し当て、両手を広げ、肩も、額も、胸も、扉に付ける。体温が扉に吸い込まれる。扉は冷たいままだ。冷たいものに熱を押し付け続ける。押し付けて、押し付けて、押し付ける。


「さあ、始めよう」


私の声は、部屋の中で細く伸びて、扉に吸い込まれる。吸い込まれた声は、核の中で白い線になり、街の下へ走る。光は見えない。見えるはずがない。けれど、確かに、足の裏が少しずつ重く、冷たく、硬くなる。骨が根になっていく。根は伸びる。伸びる先に、噴水の石。市場の石。家々の敷石。道。畑。花壇。ベンチ。全ての下に、私の根が触れる。


下の扉が、そっと開く音。誰かが入ってきた気配。気配は軽く、空気の端を撫でるだけ。視線は動かさない。そういえば、まだ彼に最後の一言を言っていなかった。扉の向こうの彼に。核に繋がる直前に、どうしても。


「行くね、アレス。あなたの作った音を、もう一度、美しく響かせたいの」


言い終えると、背後の気配が一歩下がり、静かに扉が閉じた。その音が、区切りになった。私の中の最後の人間の形が、線になり、音になり、霧になって扉へ入っていく。手のひらの感覚が薄れ、指の関節の一本一本が遠くなる。皮膚に風が当たらなくなる。代わりに、石が呼吸する音がはっきり聞こえる。森が唸る声も、街が鳴る声も、全部、波だ。波の高低、波の速さ。私の仕事は、波を合わせること。


階下の寝台で、彼がわずかに息を深くした。目はまだ閉じている。唇は動かない。けれど、胸の上下がもう少しだけゆっくりになる。私の中に、細い喜びが走った。喜びはすぐに薄まり、仕事の波に紛れた。波に紛れながらも、消えない。


広場では、誰かが笑った。誰かが泣いた。誰かが祈った。誰かがただ息をした。空の筋は、まだある。まだ伸びる。まだ裂ける。けれど、その伸びは今、ほんの少しだけ遅い。遅い。遅いなら、間に合う可能性が生まれる。間に合う可能性があるなら、私は根になった意味がある。


この箱庭に、真の夜が降りはじめる。けれど、その夜は、音と息と波で繋がっている。私はそこにいる。声を持たず、手を持たず、笑いも持たない形で。けれど、確かに、いる。彼のために。街のために。自分のために。終わりの始まりが、静かに、しかし確かに、開いた。

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