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第6巻 第2章 箱庭からの外出(4)

乾いた甲高い音が天を突き抜け、私は顔を上げた。頭上の透明な半球に黒い筋が走る。硬い氷を刃で裂くより、もっと耳に刺さる軋み。見上げた空が、目の前で割れる。


「やめろ。そこは、触れる場所じゃない」


薄い息の音が喉で跳ねた。死の森の上にかぶせた半球は、春の温度を閉じ込めるための箱庭で、外界の汚れを拒む壁だ。あれは単なる盾じゃない。思想の形だ。世界へ差し出す唯一の秩序だと、私は信じてきた。


「許しがたいな。実に、悪い冗談だ」


黒いシミが一点から滲み、透明が濁る。白布に墨汁を押し込むみたいに広がる痕跡。薔薇から立つ青い香気が、わずかに錆びたような匂いに変わる。噴水の水面へ落ちる光が揺れ、角度が狂う。


「戻す。寸分違わず、元の青へ」


私は指先を弾き、空中に見えない弦を張る。爪の先が冷える感覚。白銀の細い光が立ち上がり、一本ずつ糸になる。織り機の前に座る手つきで、私は経糸をかけた。静かな呼吸。肩の筋が軋み、肺の中に金属の味が広がる。


「縫え」


囁くだけで、糸は亀裂へ射し込む。瘴気がジジジと嫌な摩擦音を上げた。黒と白、法則と法則が噛み合っては弾かれ、火花を散らす。私はさらに糸を重ねる。踵に体重をかけ、頸筋が硬くなるのを感じながら。


白い線が黒い息を裂き、寄せ集めた傷が閉ざされる。仮初めだが青が戻る。風が一歩、庭へ帰る。


「……ふぅ」


短く吐いた息が冷たかった。胸の骨が内側からきしむ。安堵が喉を撫でる、その刹那だ。


ぽつり。


頭の内側で、何かが剥がれ落ちる音がした。液体じゃない。文書から一行、赤い線で抹消される音。


「今のは、何だ?」


こめかみに指を当てる。痛みはないのに、骨の内側が薄い空洞になったような寒さがある。昨日を辿る。庭の薔薇を剪定した。術式の微調整をした。昼に食べたのは——。


「パン。スープ。その前は?」


言葉が霧に溶け、指先が空を掻く。


「待て。青の顔料、あれは……」


口の裏まで転がった名前が音にならない。岩を砕き、比率を調節し、鼻孔にむっとくる粉の匂いが満ちたあの日。群青か。ウルトラマリンか。ラピスか。境目が、ぼかされていく。


「馬鹿な。私の中身を、こいつが……?」


血の気が引く気がした。魔力は量だけ削って済むと思っていた。大結界の維持と修復が、別の代価を求め始めたのか。


追い討ちのように、次の衝撃。


ズドォォォォン——。


東から押し寄せた圧が天蓋を斜めに刻む。さっきより太い溝。瘴気の濁流が唸りを上げる。


「やめろと言ってる」


私の声が低くなる。両手を東へ向け、光を噴き上げた。白銀の奔流が矢じりになって飛ぶ。触れた瞬間、またひとつ、頭の中で何かが抜け落ちる。


ぽつり。


「……背表紙が、消えた」


幼い頃むさぼるように読んだ魔導書。羊皮紙の乾いた匂い。親指で頁を弾いた時の軽い静電気。書架の位置。タイトルの冒頭三文字。白い空白。


私は歯を噛み合わせる。亀裂を一つ塞ぐ。


ぽつり。


「師の手……重み……」


初めて結界術に成功した夜、喉の奥が笑いで震えた。肩に落ちた手の感触。頬の熱。涙の縁。地下室の薄暗さ。術式の輪がはまった一瞬の音。砂になっていく。


ぽつり。


「酒場の声。誰の声だ……?」


同門と交わした議論、夜更けに鳴った杯の音。癖のある発音。名を呼ぶ調子。輪郭が溶け、顔がのっぺりとした仮面に置き換わる。


「ああ……やめろ!」


喉の奥が裂けるほど叫んだ。痛みへの反射じゃない。自分を支えた日々が剥落していく恐怖の音だ。綱から糸が一本ずつ抜けていく。張りが消える音がする。


「やめたら終わりだ。やめたら——」


修復を止めれば、この庭は崩れる。芽吹いた緑も、石を打つ風も、整えた小径も、泥に呑まれる。私が描いた眺めは瓦解だ。


「続ければ、私は——」


続けるほど、私の内側から核が剥がれる。守る理由、美を求める理由、自分の名を刻んだものに固執する理由。薄くなる。


「ふざけるな。こんな終わり方は——」


胸で葛藤が擦れ合った。胃の壁に砂が貼り付く。息が浅くなる。笛のような乾いた音が喉から洩れる。毛穴から冷汗。ローブが肌に張り付く。普段なら袖口の泥色を即座に拭うのに、今は判別する余裕がない。


「私は……なぜ、こんなに必死で……空を直している?」


声にした瞬間、背骨を冷たい爪が走った。言葉が重みを失っていく現実を、自分で告げたからだ。


「手は覚えている。動機が……」


霧に退く。剥ぎ取られる。


「この青は、なぜ必要だ?」


記憶の欠落は、事実の喪失だけじゃない。美という概念に体温を与えていた経験が削られ、人格の骨組みが軋む。


ズガァァァァン——。


今度は西側が裂けた。ガラスが悲鳴を上げるみたいな高音。瘴気の雨粒が散り、ひとつが頬をかすめる。ジュッ、と肉が焼ける匂い。


「ッ……!」


痛覚が、手綱を現実へ引き戻す。


「直す。醜い。あれは、どうしようもなく、汚い」


自分に聞かせるように呟く。震える指を西へ。貯蔵した魔力は底が見える。生命力を削り、記憶を薪にして火を保つ。光の糸が走り、亀裂が閉じる。


代わりに落ちたのは、「どこで生まれたか」。鼻腔を抜ける風。川の音。朝靄の白。両親の顔に落ちる影。言葉に混ざった訛り。全部が裏返されていく。


「はは……」


乾いた笑いが跳ねた。音だけが軽い。笑うという行為の中身が、手から滑る。


膝は震える。脚は他人のものみたいに重い。視界が波打ち、水平線が曲がる。耳鳴りが世界を塗る。外の咆哮と自分の呼吸がずれたまま合奏する。


ゴホッ。掌に黒ずんだ赤。内臓が締め付けられ、回路が焦げる。体は内側から崩れる工程に入った。それでも私は、天を見上げるのをやめない。


ひびが走り、塞ぎ、また走る。いたちごっこ。あまりにも、見苦しい遊戯だ。美の種など落ちていない。心に残った言葉は一つ。


——混乱。


「私は……誰だ?」


宙に投げる。答えは風にも瘴気にもない。


「私は結界師。そうだ、結界師だ。美しいものを……いや、欠けのない構築を、作る者」


声にしなければ、名札まで剥がれ落ちる気がした。だが音は空洞に響くだけで体温を持たない。不意に、影が掠める。


竜の角を持つ少女。艶やかな黒角が光を拾い、切れ長の瞳に熱が宿る。あの視線。息が触れる距離まで踏み込み、真っ直ぐに向けられた熱。笑えば角の根元がわずかに動き、頬に小さな窪み。指先は冷えているのに、掌は温かった。吐息に混ざる薄い香草の香り。


「彼女は……誰だ」


名前が出ない。舌の上で音節が崩れる。彼女が私にとって何だったのか。どこで会い、どんな言葉を交わし、何に怒り、何に笑ったか。背骨だけが残り、肉が消える。それでも、その存在だけが唯一の温度として掌に残る。次の修復で、それすら灰になる予感。


バリバリバリ——!


天頂に走る、最大の亀裂。空全体がずれ、二枚に割れかけた錯覚。そこから、魔王軍の幹部と知れる重い気配が雪崩れ込む。粘りつく重力。圧が地表の草を撫で、森の鳥が一斉に沈黙する。


「来たな」


視線を上げる。美だの秩序だのという理屈は遠くへ退いた。眼の前の「壊れたもの」を「直す」。それだけが、紙片の中で唯一色を持つ。


両掌を高く掲げ、残る全てを差し出す覚悟を固める。魔力、生命、そして——記憶。身体の奥底で弁が開く感覚。止めていた水門があく。


「黙れ」


指を鳴らす。白銀の奔流が全身から噴き上がり、術式の幾何が一気に天へ描かれる。最後の修復。自分という燃料を焼く最大出力。


光が亀裂へ殺到する。瘴気が凶暴に反発し、空間が軋む。だが押し切る。縫う。無理やり繊維を噛み合わせ、歪みを矯正する。


同時に、頭の中で連鎖。記憶が滝になって流れ落ちる。


「火花。煤。母のスープ。初雪。誉められた掌の重み。叱責の痛み。跳ねた喜び。耳の熱。師の背中。友の声。『名前は?』——」


白い波に洗われる。道端の石の形。焚き火の匂い。旋律。花弁の感触。手に入れた書の内容。譲ったもの。奪われたもの。流れ出る。


「彼女の、名も」


音が消える。呼びかける口が閉ざされる。柔らかな唇の形、歯列の隙間から洩れた笑い、涙の味。それらも塗り潰されていく。


意識が泥の底へ引きずり込まれる。重く、冷たく、暗い。自分が何をしているか。なぜここに立っているか。誰なのか。輪郭に手を伸ばしても、空が掴めるだけ。言葉が透け、指の間から落ちる。


それでも、両手から放つ光の熱と、全身を蝕む激痛だけは鮮明だ。生の証明としての痛覚だけが、しぶとい。


やがて、天頂の傷が閉ざされる。縫い目が溶け、境が消える。傷一つない青が一枚の布に戻り、森に風が通る。鳥の気配がわずかに帰り、草の先に露が残る。構成は落ち着いた。


私は糸の切れた人形みたいに落ちた。背に冷たい石の硬さ。肺から空気が抜ける。戻る気配が薄い。胸郭は自分の意志をすり抜けて上下する。瞳は宙を泳ぐ。焦点はどこにも結ばれない。


「……」


口の中で言葉が死んだ。さっきまで口にしていた語の意味が、心から剥がれ落ちたからだ。


意図して組んだ空間の中央。薔薇が揺れる。噴水は静かな音で水を持ち上げ続ける。風は春の肌触りを保ち、空は青のまま。私だけが、完全に壊れている。


耳の奥で、遠い鐘のような音。何の合図だったか、思い出せない。肌に触れる空気は柔らかい。だがそれが何を意味するのか、指し示すべき概念が欠けている。私という言葉の器に、風が通り抜ける。気配が遠ざかる、そんな「気がする」。いや、その感覚に正しい名称を与える言葉がもうない。


時間がどれだけ流れたのか、数える術がない。私は重いまぶたを開けたまま、動かない。空の青が揺らいだ。揺れているのは視界か。世界か。判断に必要な直感が壊れていて、結論は出ない。


「……」


目の端に、見たことのある形がかすめた。黒い角。白い指先。誰かの影。呼び止めるための名が喉に上らない。口を開いても音にならない。声帯は震えるが、意味は生まれない。影はしばらく立ち尽くし、私の頬に触れた。温度を測るように、一瞬だけ。


「……あたたかい、のか」


自分の声が他人のものみたいに響く。正しいかどうか、分からない。


風が春の匂いを運ぶ。水音が一定の拍を刻む。光が葉の縁で跳ね、角の根元に小さな輝きを置いた。白い指の爪に、光が細く流れる。影は、微かに肩を震わせる。何も言わない。息が近い。脈の音が、こちらの耳へ押し付けられるみたいに届いた。


私は、空を見上げる。青は青という名前を持つ。それは確かだ。私の庭は生きている。季節は意図した温度に保たれ、風は調律され、静けさは管理されている。外の穢れは弾かれ、瘴気は押し戻した。


「では、私は」


唇だけが動く。言葉は砂利の音にしかならない。


「私は——」


声が落ちる。音に意味が宿らない。喉の奥で、何かが小さく割れた気がした。空の青が、まぶたの裏で広がる。角の影が、その青の一角を切り取っている。指先が頬から離れ、空気が触れる。


私には、名があるはずだ。形もあるはずだ。庭の中心に差し込む光の角度は覚えているのに、そこで立っていた軸が、抜け落ちたまま。


青が、ただ青だった。空が、空だった。私は——。

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