第5巻 第5章 四天王討伐(3)
地下深く――竜の里の真下にある「黒淀みの泉」は、鼻腔を刺す鉄臭さと、舌にまとわりつく苦みが混じる場所だった。滴る音が耳の奥で連打になり、岩肌のぬめりが皮膚の温度を奪う。鍾乳石は黒く爛れ、滴る毒の雫が細い糸を引く。空気そのものが粘り、喉が呼吸を拒む。
「……ひどい。色も、匂いも」
アレスは膝を折り、中央の祭壇に手を置いた。額に貼りついた銀の髪を払う仕草はいつも通りだが、指先に薄い震えがある。彼の手から細い銀糸の魔力が幾筋も放たれ、岩に刻まれた古い文字を辿りながら六芒の紋を埋めていく。
「艶がない黒は嫌いだ。深い漆黒なら許せる。薄墨の階調にも価値がある。しかしこれは……腐った血の沈殿。私の空間に混ぜたくない色だ」
独り言が、湿った岩壁に吸われる。喉の奥に滞留する苦味を舌で押し返し、アレスは最後の鍵を指先で撫でる。
「白晶結縛・第七階梯。『星霜濾過陣』」
短い音の並びだけで、祭壇に組み込んだ紋が白銀の光を噴いた。光は天井に触れ、岩盤の隙間へと細い糸のように走り、瘴気の脈へ入り込む。黒いぬめりは触れた端から透き通り、銀の結晶に変わって祭壇の周囲へ、さらさらと降り積もる。湿っていた空気は軽くなり、舌に残っていた苦みが引く。指先に触れる岩肌も、先ほどまでの冷たい粘り気を失い、乾いた砂の手触りへと移ろう。
「……これで、ようやく上へ持っていける」
立ち上がりかけた身体が小さく揺れ、その揺れを膝で受け止める。三日。飲まず食わずで魔力を絞って、この醜悪な塊を「見られる」状態にまで引き上げる作業は、骨の内側を削る作業に等しかった。
銀の結晶をつまみ上げ、灯りへ翳す。光が内部で反射し、微細な星が瞬くようなきらめきが走る。
「いい。こういう光を、地上で鳴らす」
つぶやき、足元へ転移陣を展開した。淡い輪が螺旋を描き、視界の黒が薄まり、冷たい湿度が遠のく。光の角度が変わるのを、肌で感じる。
*
地上――竜の里、中央広場。
「アレス様ァッ!」
蒼銀の髪が視界いっぱいに弾け、熱のある呼気が胸に当たる。エララが飛び込んできた。角の根元が淡く輝き、背の翼膜はふくらんで、抱きしめる腕は骨が鳴るほどに強い。
「ぐ、う」
「三日。ねえ、三日もいなくなるなんて、言ってください。心臓がここにあるのに、どこか別の場所を打っているみたいになって、息が合わなくなるところでした。次は……次は、広場ごと空まで抱えて追いかけます」
「物騒な宣言はやめろ」
アレスは頭を撫でた。湿った熱がエララの髪から立ちのぼり、その温度差が指でわかる。撫でながらも、視線は広場上空の空白へ向く。結界の骨格を置くべき座標、風の流れ、光が落ちる角度。
「……また、上を見ている」
エララの声は喉の奥でかすれた。次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、腕を解く。
「戻ってきた。よかった、まずはそれです」
「下がれ。地上の結界を張る」
「はい」
周囲には、武闘のバルガスの破片がまだ散っている。砕けた甲冑、切断された鎖、硬い地面の抉れ。鉄と血の匂いが残り、風に混じって乾いた砂の味が舌先に触れる。
「……目障りだ」
アレスは吐き捨て、両手を開く。指先が虚空を弾くように動くと、足元から薄い銀の光が同心円で広がった。輪は一枚、二枚、三枚。水面に投げた小石の波紋のように、里の外壁を越え、山脈の稜に届く。
「展開。天蓋結界・第十二階梯――やめた。星霜結晶で十三へ。『星降る箱庭』起動」
それだけだった。
重ねた言葉は少ないのに、背後に直径百メートルを超える魔法陣が立ち上がる。十三の層がそれぞれ異なる速度で回り、最外層は星座図、その内側には元素の記号、さらに古代竜語。最も内側の中心に、ただ一文字「美」。光の回転が周囲の音を吸い取り、耳の奥が静まり、心臓の鼓動だけがはっきりと聞こえた。
砕けた甲冑は銀の砂煙になって風に混じり、抉れた地は瑞々しい苔へ変わる。血の斑は清流の紋様になって走り、瓦屋根の縁は紙の端を切りそろえたようにシャープになる。空に薄くかかる銀の天蓋が広がり、そこに先ほどの星霜結晶が縫い込まれていく。昼なのに、星がある。冷たい銀の光が頬に触れ、その冷たさの向こうで微かな音が鳴る。宝石を爪ではじいた時の、小さく澄んだ音色。
「……星、だ」
若い竜が口を開け、子竜たちは手を伸ばす仕草を見せて跳ねた。
「里が、磨かれた」
「空までが、近い」
長老竜は翼を畳み、低く唸るとも吐息ともつかぬ息を漏らす。声が広場の石畳にゆっくり染みこみ、銀の天蓋に反射して戻る。
エララだけは違うものを見ていた。彼女の視線はアレスの横顔へ吸い寄せられる。汗の筋が頬を伝い、白い肌に線を描く。光は斜めから差し込み、まつ毛の影が頬に落ちる。その陰影が一瞬ふらついた。
「アレス様」
傾ぐ前に彼を抱きとめると、アレスはわずかに肩を預けた。
「……君か。少し使いすぎた」
「座りましょう。手を」
エララが指を差し出す。指先は冷えていて、しかし掌には微かな火照りが集まっている。アレスはその温度の差を掴み、息を整えた。彼女の紅の瞳が近い。心配と安堵と、言葉にならない濃さが揺れている。
「……エ、」
一拍、音が出ない。喉の奥で薄氷が張るような感覚。知っているはずの音列が、湖の底に沈んだ硬貨みたいにきらりとするのに、指先が届かない。蒼銀の髪。角。自分に向けられる視線の熱。特別だ、と脳が先に理解しているのに、口が追いつかない。
角の根元に、針のように細い紋がある。そこに視線が触れた瞬間、薄氷が音を立てて割れる。
「……いや。なんでもない。ありがとう、エララ」
間に、ほんの刃の厚みほどの沈黙。名を呼ばれた彼女はぱっと表情を明るくし、息を弾ませた。
「はい」
その笑みに気づきながら、アレスは内側で眉間を押さえる。
(また抜けた。先週は、最初に組んだ小さな結界の詠唱句が半分出てこなかった。先月は、生まれた村の名。今は――目の前の、この娘の名に触れ損ねた)
代償、という言葉が、舌の上で重さを持つ。巨大な仕掛けを支えるために、どこかから支柱を引き抜く。自分の中へ手を伸ばして、過去を一房ずつ千切る。
(それでも構わない。残るもののほうが価値がある)
「顔色が」
「大丈夫だ。見ろ」
アレスは顎で空を示す。銀の天蓋に縫い込まれた星霜結晶が、風に合わせてわずかに瞬き、光の点が移動するたびに広場の石に淡い形を描き直す。苔は指で触れたくなるほど柔らかく、白い小花が風に揺れる。鼻をかすめるのは水の匂いと、削りたての石のすっとした匂い。
「美しいでしょう」
「ええ。だって、アレス様がつくったのですもの」
エララの返答に、アレスは喉の奥で笑った。彼女が見ているものと、自分が見せているものの距離はわかっている。それでも、その距離が今は心地良い。
広場の端で、若い竜がささやく。
「四天王の一人を退けたあとで、まだこれを……」
「武闘のバルガスは、もういない。けれど……」
「けれど、ここに残ったものがある」
彼らの声が風に混じり、銀の天蓋の内側で反響して薄くなる。アレスは気づかぬふりで、空に目を眇めた。天蓋の裏で星霜が奏でる微音が、耳の奥で弦楽のように揺れる。
「……次は、北の渓谷だな」
小さく、確かな声音。エララの視線が彼の横顔に吸い寄せられ、口元だけがゆっくり動く。
「どこまでも、行きます。たとえ、いつか名前が舌から零れ落ちても」
囁きは銀の天蓋に吸い込まれ、光の粒に変わる。アレスの睫毛が一瞬震えたが、彼はそれが風かどうか考えないほうを選んだ。
目を閉じる。内側に、次の光景の骨組みが浮かぶ。北の渓谷。硬い岩の縁、削られた断面に残る筋、風が吹き上げて渦を巻く道筋。岩の配列を整え、風の軌道を読み、日の差し込む角度を管理する。指で触れれば伝わる温度にまで、考えを落とす。
「エララ、出発の準備を。長居は不要だ」
「承知しました」
今度は彼の名を冒頭につけない。エララは一礼し、踵を返す。足音は軽く、翼膜の縁が衣擦れの音を立てる。彼女の指先が通りすがりに石の欠片に触れると、粉さながら崩れた。笑みは柔らかいまま。その柔らかさに、近くにいた若竜が理由のわからない寒気を覚えて肩をすくめる。
「掃除、進めます」
「応」
短い受け答えを残し、彼女は手配へ走った。アレスは天蓋を見上げる。縫い込まれた星霜が、彼の魔力と共鳴している。耳に届くのは、世界の骨が軋む音ではない。もっと細い、ガラス片が触れ合って生むような音だ。
(私の中身が薄くなっていくのなら、世界の方へ厚みを渡せばいい)
足を運ぶ。石の角が靴底にきちんと伝わる。膝の裏に残るだるさは隠せないが、背筋のラインは崩さない。視界の端で、子竜が星を掴もうと両手を伸ばして跳ねた。
「アレス殿は、一体どこへ向かっているのだろうか……」
長老竜が低く呟き、誰も答えない。問いは風に混じり、薄い銀の膜の内側で散った。アレスの姿は広場の端へ。背中の向こうに、彼の組んだ星降る空間が広がり続ける。
竜たちはその背を見送る。救い主として。理解の届かない者として。祈りと畏れが混じる視線が幾筋も伸び、そのどれにも彼は振り向かない。振り向くべき場所は別にある。次の場所。まだ荒い岩、荒れた風、粗い音が残る場所。
「準備できました」
しばらくして戻ったエララが、小走りで報告する。彼女の頬にはまだ紅が残り、呼吸が浅く早い。
「行く」
それだけ告げると、アレスは光の薄皮のような転移陣を足元へ敷いた。エララは並んで陣の縁に立ち、視線だけを彼へ寄せる。
「転移先、渓谷の手前。風の向き、東から。陽は、二刻で傾きます」
「把握した」
短いことばの往復が、音を立てずに噛み合う。互いの呼気だけが混ざり、前へ動く。
転移の光がふたりを包む直前、エララはほんの少しだけ後ろを振り返った。銀の天蓋に縫い込まれた星の粒が、見送る者の瞳に入り、そこに小さな白を置いてゆく。風が柔らかく、頬を撫でる。舌にかすかな甘さが残る。あの苔の上に腰を下ろして昼寝をしたら、どんな夢を見るだろう――そんなことを、エララは一瞬だけ考え、そして考えを消した。
光が弾けた。
広場に残った竜たちは、息をつく。いや、静かにしようとして、できずにいる。胸の内側で高鳴る何かは、恐れでもあり、喜びでもある。
「里が、変わっていく」
「良い方へ、だ」
「だが、速い」
若者と老人の声が交錯し、空の銀へ溶ける。それぞれが自分の爪先を見、隣の竜の顔を見、また空を見た。これがどこまで続くのか。どの高さまで積み上がるのか。誰も答えを持たない。
アレスは歩みを止めない。彼の求めるものが完成する日があるのかどうか、彼自身にすらわからない。わからないものを求める渇きだけが、確かな熱として骨の内側にある。
北の渓谷には、別の音が待っている。風の吠え、岩が鳴る。そこへ彼は別の音を重ねるはずだ。光の角度、影の厚み、足裏に伝わる粒の大きさ。それらを整え、置き換え、新しい景色へ導く。
もしある日、自分の名さえも薄まってしまうとしても。世界のどこかに残った光景が、それを掬い上げる。誰かが見上げ、誰かが手を伸ばし、誰かが息を呑む。その瞬間こそが、生きた証になる。
銀の天蓋は、昼の空で星の瞬きを続ける。磨かれた石の上を、子竜の小さな爪音が跳ねる。苔の上をわたる風が、花の白を揺らす。竜の里の真ん中に、静かに息づく箱庭。そこから、ふたり分の光が遠ざかっていった。




