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第5巻 第5章 四天王討伐(2)

空が割れる音が、耳の奥で鈍く跳ねた。赤黒い瘴気が風にのって押し寄せ、鼻腔に焦げと鉄の匂いを押し込む。澄んだ川面は泥に濁り、里の象徴だった高木が、乾いた悲鳴もなく横倒しになる。


「結界の膜が……薄くなってる!」

「馬鹿な、外の穢れは通さないはずだろ!」


慌てて駆ける竜の戦士の足音が、岩肌の亀裂と共鳴した。岩を伝って落ちる水滴の音が途切れ途切れに響き、いつも静かな里に、ざわめきが染み込む。


その真ん中で、巨躯の影が笑った。皮膚の上で筋が生き物かのようにうねり、拳を握るたびに空気が悲鳴を上げる。


「はっはァ! どうしたどうした、誇り高き竜の末裔とやら! その鈍らな牙で、この俺の練り上げた闘気を砕けると思ったか! 笑わせるな!」


軽く振られた拳だけで、圧縮された風が砲弾に変わる。撃ち出されるたび、防衛線が穴を開け、鱗に傷が走った。空に散る血が日差しにきらめく。


「下がれ! まともに受けるな!」

「くっ、押し返せ――」


エララは一歩前に出る。その靴裏が汚れた水を踏み、薄い円の波紋が広がった。金の瞳が、荒らされた石畳と、倒れた神木の切り口をまっすぐに射抜く。光の角度が変わっている。美しく整えられた庭は、乱暴な爪跡でぎざぎざに裂かれていた。


指先がドレスの裾を握りこみ、白い手の甲に血が上る。喉の奥が熱くなる。


「……よくも」


彼女はそこまで言って、息をひとつ吐いた。笑みが浮かび、目尻が柔らかく細くなる。


「アレス様が丹念に手入れなさった場所に、触るなんて」


にっこり、と口角だけが上がる。その背で、氷の欠片のような冷たい魔力が、きらきら音を立てて漏れた。


彼女の背後にいる男は、目を閉じ、指先から光を伸ばす。糸のような輝きが空間の裂け目へ入り、ほどけた織り目を、黙々とつなぎ戻していく。汗が顎を伝うたび、頬の温度がわずかに下がる。周囲の音の重心を常に測り直しながら、アレスは結界の要を、落ち着いた呼吸で調整した。


「持つか」

「持たせる」


アレスの低い問いと、アレス自身の短い答えが重なる。片手で印を結び、もう片手で空気の流れを撫でる。近くの岩に走る亀裂が、ひと筋だけ閉じた。


エララは振り返る。彼女の影が、アレスの肩に柔らかく重なる。


「見ていて。あの騒がしい人、私が片づけてくるから。これ以上、視界を汚されたくないもの」


「ああ……頼む。私の――瑕疵のない空間に、あの無骨な筋肉だるまは似合わない。早く排除してくれ、ええと……」


ふっと、言葉が途切れた。アレスのまなざしが焦点を失い、ほんのわずか揺れる。指先の光がぶれると同時に、彼は首を振った。


「……君は、誰だったか。いや、すまない、名前が……」


空気が一瞬だけ冷えた。エララの心臓が、針でつつかれたように跳ね、それから沈む。眉がわずかに動いたが、彼女は笑ったままだ。笑みの角が、ほんの少しだけ、なる。


「……いいえ。謝る必要はないの」


彼女は近づいて、アレスの袖口をそっとつまむ。指の白さと、布の黒の対比が鮮やかだ。


「思考の海に潜っている時の貴方は、時々、陸の音が遠くなるでしょう?」


「ああ、エララか。すまない、結界の演算に手を取られていたようだ。君のことを忘れるはずがない」


取り繕う微笑みが、目の縁でぎこちなく跳ねた。エララは小さく首を振る。


「なら、見ていて。忘れないように」


彼女は腕を広げる。息を吸う音が、喉から胸へ抜け、空気が肌の上を滑る感触が花開く。白い皮膚に真珠の鱗が浮かび、背から光の翼が展開した。大気が震え、砂粒が跳ねる。角が二本、ゆっくり伸び、髪が光を払う。彼女の周りの温度が急に変わり、周囲の竜の戦士たちが思わず後ずさる。


「エララ殿……竜化を?」

「禁忌だぞ、寿命を――」

「下がって。邪魔よ、じゃない、退いて。自分の命は自分で計算しているから」


彼女はちらりと横目を向けただけで、声は出さない。視線だけで、彼らを退かせる。


破壊の主が動いた。バルガスの口角が上がり、歯の白が血の色をはね返す。


「ほう……? 少しは骨のある奴が出てきたじゃねえか」


彼の皮膚の下で筋肉が膨らみ、足元の土がゆっくり沈む。体温の波が地面を焼き、湿った匂いが乾いた匂いに置き換わる。


「俺は武闘のバルガス! 四天王最強の拳を持つ男だ! さあ、俺を楽しませてみろ、トカゲの姫君! その綺麗な鱗を、一枚残らず剥がしてやる!」


「黙れ、下等生物」


エララの声は、人の声帯の限界を超えていた。複数の音が重なり、地面の小石が浮く。彼女の髪がゆるやかに揺れ、その影がバルガスの鼻先まで伸びる。


「その耳障りが、あの人の鼓膜に触れるのさえ不快。退いて」


次の瞬間、彼女の姿が消える。地面が遅れてくぼみ、砂埃が高く舞う。


「なっ――!」


バルガスの腹に、白銀の拳が沈んだ。骨と肉が軋み、音が山崩れに変わる。巨躯が折れ、後方へ飛ぶ。彼は空中で体勢を整え、地面に足を刺し込んで滑りながら止まった。


「ぐ、おおお……ッ! やるじゃねえか! だが、その程度で俺の筋肉は――」


「遅い」


エララは背後にいた。光の翼が一度だけ羽ばたき、白い刃が土砂降りさながら降る。バルガスが腕を交差し、闘気を鎧にして受ける。しかし、刃は肌へ達し、赤い線が増えていく。


「ガアアアアッ!?」


血が空中で丸い玉になり、光を受けて眩しく瞬く。それが落ちる前に、エララはもう一歩踏み込んだ。


「右が甘い」


回し蹴りが側頭部に入る。視界が歪む瞬間に、掌底が顎を打ち上げる。歯が砕ける音が、乾いた金属を叩く音に似た。


「ふざけるなァァァ!」


バルガスの拳が風を裂き、真空の刃が木々を斜めに断つ。葉が一斉に舞い、陽光が斑に降りる。エララは紙一重で身を捻り、爪先だけで地面を掴んで姿勢を作る。


「ほら、また空いた」


爪が肉に潜り、引き抜いたときに赤い雫が指の先で震える。彼女はそれを振り払わない。その冷たい指先の温度が、空気の温度と不気味に釣り合う。


「どうした、四天王最強の拳とやらはその程度か? 貴方の拳風より、アレス様の結界の糸の方が、よほど強い」


彼女の声に、バルガスが鼻を鳴らす。歯茎から血が滴る。


「おのれェェェ! 舐めるなァァァ!」


彼の筋肉が異常に膨張し、皮膚が裂けそうなほど張る。血管が黒に近い赤を走り、熱が波ばかりに押し寄せる。土が柔らかく溶け、足元が沼ごとくなる。


「これが俺の最大奥義だ! 『崩星・覇王拳』!!」


右拳が振りかぶられる。闘気が竜巻になり、空へ昇る。空気の層が剥がれ、音が薄くなる。拳が振り下ろされる前から、里の半分が危険域に入っていた。


エララは目を伏せた。瞳孔がすっと収縮する。彼女の耳が風の筋を拾い、体内の心臓が腹で強く打つ。アレスの気配が、背後で一度だけ揺れた。糸が強く張られる気配。


「……騒がしい」


アレスが指を鳴らす。余波が里の居住区へ向かう線を、短い音で断ち切る。光の糸が一本、鋭い角度で走り、被害の軌道を曲げる。


エララは息を吸った。口元に魔力が集まる。白い光が丸くなり、ぎゅっと詰まる。彼女は視線をバルガスの拳に合わせ、体の軸をまっすぐに通した。翼の影が地面に細い線を描く。


「広げず、刺す」


彼女の口から生まれたのは、竜族の最大魔法「竜の息吹」。ただし、その形は狭い。アレスの結界理論を組み合わせ、エネルギーを一点へ収束させる。炎ではなく槍。周辺の空間の流動が整い、里の居住区へ向かう風の癖が、きれいに外へ逃がされる。


「消え去りなさい――『白銀の絶槍アージェント・パニッシャー』!!」


純白の閃光が、赤黒い竜巻に真っ向から突き刺さる。世界が白くなり、音が消える。視界の端にあった倒木も、傷んだ壁も、一瞬、輪郭を失う。


拮抗は短い。白が赤を裂き、バルガスの右腕を、胸を、背を飲み込む。


「ば、かな……この俺が、力で、押し負ける……だと……!?」


驚愕の声が光の中に小さく溶ける。やがて、その声も消えた。


光が引いた後に残ったのは、一直線のクレーター。バルガスの気配は、どこにもない。砂がゆっくり落ち、熱の波が弱くなる。居住区の屋根に、歪みは見えない。結界の膜が新しく張り直され、薄い光が表面を走る。


エララは静かに降りた。足の裏に伝わる地面の温度が高い。呼吸が荒く、鱗がめくれ、白い肌が覗く。筋肉が悲鳴を上げる。視界の端が暗む。膝が少し折れ、身体が前へ倒れかける。


「エララ!」


アレスが腕を伸ばし、抱きとめる。彼の胸板は冷え、汗の塩が指に触れる。手のひらの温度が、彼女の背に落ち着いた重みを与える。


「……アレス様」


エララは唇に血の線を残したまま、笑う。目の縁がしっとり濡れ、笑みが揺れる。


「見てくれていた? 私のやり方、貴方の空間を壊さない範囲で、全部押し返したの」


「見ていた。見事だ。……ありがとう」


アレスの声は低く、短い。眼差しにあった虚ろが消え、驚嘆と、わずかな畏れが宿る。彼は彼女の肩に手を置き、指を強く握る。


「うん」


彼女は頷き、胸へすがるように身を寄せる。耳元で、彼の呼吸が落ち着いていく音がする。彼女の頬が彼の肩に触れ、わずかな塩の味が舌の付け根でにじむ。


「忘れないでね、アレス様。貴方の世界を守るのは、私だけ。貴方の隣に立つことを許されるのは、私だけなの」


彼女は言い切ってから、言葉を足さない。微笑みだけを残し、その背で冷たい魔力が氷片ばかりにきしむ。アレスは返す言葉を見つけられず、彼女の身体を、ただ強く抱く。


「エララ殿、息は?」

「大丈夫。少し休むだけ。……それより、負傷者の搬送を優先して」


周囲へ向けた声は静かだ。竜の戦士たちが動き始める。担架の布がかすれ、水桶が倒れて水が地面に薄い線を描く。


「さっきの『一点収束』、どこまで計算していた?」

「居住区の輪郭から逆算して、扇状に逃がした。貴方の糸が一本足りなかったら、正直、危なかった」


「悪かった。次からは三本先を張る」


「次はない方がいいけれど」


彼女は微笑したまま、視線だけで里の傷を数える。倒木の切り口が午後の光を浴び、木目が細く輝く。燃えた匂いに、川の流れの冷気が重なる。


「……エララ」


アレスは彼女の名を呼び、少しだけ眉を下げる。先ほどの欠落の一瞬が喉に刺さったようで、声が乾く。


「先ほどは、本当にすまなかった」


「本当に謝らないで。私の方から、忘れようとする瞬間を、嫌でも思い出させる働きをすればいいだけだから」


彼女は目を閉じ、頬の筋肉をゆるめた。笑みのまま沈黙が落ちる。その間、背から漏れる氷の気配が、アレスの指へ薄く触れる。


「それが怖いと思うべきなのか、ありがたいと受け取るべきなのか」

「どちらでも。貴方が選べばいいの。私は、選ばれやすい形に整える」


「整える、か」


アレスの視線が、壊れた庭をなぞる。並べられていた石の目地が、一本だけ歪んだ線を描いている。光がその上を滑り、影が細く縫う。彼は呼吸をひとつ整え、指で空気をつまんで、揺れを直す。


「……アレス様」


エララがそっと呼びかける。今度は呼びかけの冒頭に彼の名を置いた。彼女の声は甘く、しかし表面の艶の下に鋭さを隠す。


「この里、また綺麗にして。あの木も、根がまだ生きているなら、私が水を運ぶ」


「そうしよう。君が水を、私が土を正す」


「うん」


二人の会話の間に、遠くで子供の泣き声が一度だけ響き、それを誰かがすぐに抱き上げて黙らせる。布の擦れる音、石を積み直す音、血を洗い流す水音が重なり、里の気配が少しずつ戻る。


「エララ様、あの、命を削る儀式は――」

「心配してくれるのね。ありがとう。計画して使ったの。痛みは、耐えられる範囲」


彼女は肩越しに短く答え、手で空を指す。光の翼が少し揺れて、消えかけた羽が薄い光を撒く。


「バルガスは……完全に?」

「ひとかけらも残っていない。気配もない。跡は、後で埋めれば済む」


アレスの返答は簡潔。彼の目に映ったのは、一直線のクレーターの縁の、滑らかな削れ。音が戻り、鳥の影が遠くを横切る。


「四天王が一人、消えたか」

「次が来るかもね。来るなら、迎える。……ただ」


エララは視線をアレスへ戻す。彼女の瞳に、柔らかい影と硬い光が同居する。


「今は、貴方の手を離さない」


言葉はそれだけ。握る手の力が少し強くなり、その熱が伝わる。アレスは頷き、彼女の肩に額を一瞬だけ触れさせる。


戦火の煙が薄れ、空の青が戻り始める。破壊の跡が景色に点在しながら、二人の影はひとつに重なった。竜姫は、もはや盲目的に愛を乞う少女ではない。自ら計算し、選び、切り裂く手を持ち、守るべき場を守った者の目になっているのだ。


ただ、その根にあるものは変わらない。彼女が微笑むと、背の氷の気配が、もう一度だけ薄く鳴った。彼女の指先が、彼の衣の端を離さない。


「さあ、片づけるよ」

「まずは水路。次に、岩の目地だ」


短い言葉を交わし、彼らは動き出した。陽が傾き、影が長く伸びる。熱の残滓が風に運ばれ、土の匂いが勝ち始める。里は、痛みを抱えたまま、確かに息をしている。二人の気配が重なり、その上に薄い光が、静かに縫い付けられていった。

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