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第5巻 第4章 エララのヤンデレ検閲(5)

滴る水が千年の間に穿った溝を伝い、薄青い光を帯びた晶洞の壁を細く照らす。小さな音が、岩の毛細血管に染みこむように静かに続く。地下の空洞は、古代の竜が眠りについた膨大な骨の記憶で満たされ、息をするだけで喉の奥が熱く、粉のような白い気配が肺に張りつく。


 アレスは膝をつき、三つの結界杭を石床に立てる。杭は白銀、表面に微細な線刻が幾何の花弁のように刻まれ、揮発する魔素の匂いも清らかな香水のように整う。指先に巻きつく結縄は、彼自身の髪よりも細くしなやかで、石床に描いた円と円の接吻点にゆるやかな張力をつくった。


「……あと四分の一圏、南東の曲率をひと息……」


 声は水面に落ちた石ばかりに低く、緩やかに反響して、竜骨の間を滑っていく。額には汗の珠がひとつ。落ちれば不均整なシミを作ることを恐れて、彼は手首の内側でその汗を吸い、白い袖口が汚れぬよう両肘を浮かせる。


 そのとき、地上が吠えた。


 最初の震動は、遠雷かのように静かだが確固とした波でやって来る。次に、地の芯を叩くような衝撃が間髪入れず襲い、天井の晶洞が微かに鳴き、粉砂のような輝きが雪ごとく彼の肩に降りかかる。岩の腹に住む蝙蝠が一斉に飛び立ち、黒い影が広がっては、すぐに彼の張った見えない糸に触れて弾かれた。


 アレスはゆっくり目を上げる。硬い唇の端が、ほんのわずかだけ嫌悪を描く。乱れだ。自分の結界の内側に、外から投げつけられた破片がある。


「……醜悪だ」


 彼の囁きは薄く、しかし刃物のようだった。結縄が音もなく回転し、杭の刻印がひとつ、二つと脈打つ。彼は浮遊する砂粒の軌跡さえ目で追い、それをも線の上へ導くように掌の圧を変える。そのとき、第二の衝撃。今度は音が先にきた。咆哮。獣の声ではない。空気そのものを拳で鞭打ち、音を凝縮して爆ぜさせる、武の極みに達した者だけが放てる、地を揺るがす咆哮。


 地上で何かが始まった。魔王軍——その文字が彼の脳裏に浮かび、同時にひとつの顔と名が、走馬灯さながら彼の内側で光る。金色の瞳、竜の血を宿したしなやかな首筋、笑うときだけ頬にできる極小の影。そして——。


 彼は一瞬、息を止める。喉の奥で、名前が躓く。


 エ——。


 空白。背筋に冷たいものが走る。ありえない。彼は己の完璧さを疑わない男であり、必要な線は一本も欠けず、要らない色は一滴も混じらない。なのに、彼にとって世界の構図の中心にある名が、わずかの間、霞んだ。


「……ラ」


 遅れて、最後の音が戻ってくる。エララ。唇で確かめるようにその名をそっと言ってみる。胸の強張りが少しだけ解ける。たぶん、ただの疲労だ。結界の負荷、地下の薄い空気、古い骨の歌——それらが一瞬、彼の連想の線を引きちぎった。ここで乱れてはならない。上で、彼女はきっと——。


 エララ。


 地上では、天蓋の下、空間を無慈悲にゆがめようとする影が、堂々と歩みを進める。


 黒曜さながら黒い空間を、陽炎めいた澄んだ薄膜が覆い、枝を整えられた古木の間に小径が延びる。白砂は波紋ごとき耙かれ、苔は規則の極地として並び、風が吹けば銀の葉が同じ角度で震える。その静けさに、赤が落ちる。赤い霧。血よりもどぎつい、燃えるような赤黒い霧が地平線の彼方から押し寄せ、薄膜に触れた瞬間、波の反転のような屈折が走る。


 踏み込んだのは、巨躯の男だった。鎧は纏わず、上半身は古い獣の皮すら脱ぎ捨て、露わな肌は青銅めいて、幾重もの戦いを刻んだ傷が網ごとく走る。腕には重い環。鉄ではない、魔石を練り込み黒く鋳造した腕輪で、そこに刻まれたルーンが暗い紅光を帯びる。男は拳を軽く打ち合わせただけで、空が唸り、足元の白砂が花弁ごとき舞った。


「ここが噂の『箱庭』か。綺麗なもんだぜ」


 片目に走る古傷のせいで瞼が僅かに下がり、笑ったのかどうか判別しづらい口角が上がる。男——魔王軍四天王の一人、武闘のバルガスは、欠片の感嘆を露骨のまま吐き捨て、天蓋へ拳を伸ばす。彼の背後には、角の生えた魔族の兵らが列を作り、槍と爪と牙が日の光を奪う。彼らもまた、薄膜の優雅さに目を細める。だが次の瞬間、バルガスの拳が空を切ったかと思うと、音が遅れて轟き、透明の膜が波紋を広げた。


 膜は破れない。が、波紋の縁が白砂に落ち、一分の隙もない曲線がひと筋、乱れる。白い線の均衡が、踏まれた花びらのように一箇所、傷つく。バルガスの片眉が愉快そうに跳ねる。


「ガラスは叩けば歌う。良い響きだ」


 そのとき、竜の里の高台から白い影が飛び降り、薄く跳ねた波紋の上に影を落とす。光を反射する鱗片が首筋から耳の下にかけて散り、背に折り畳んだ翼の根元が薄く浮かび上がる。エララだ。竜姫の二つ名を持つ彼女は、今は人の形の多くを保ちながら、瞳だけは竜のものに変じる。黄金の色が濃く、縦に裂けた瞳孔がバルガスに焦点を合わせる。その目は炎と氷の両方を孕み、嗜虐の甘さと冷徹な判断がきわどいバランスで揺らぐ。


「手を退けなさい。その拳を、彼の庭から離して」


 声は低く、しかし震える。怒りの震えではない。焦燥。地下にいる男の顔を、彼の白い指を、結縄を操る細い手首を思い浮かべ、そこに泥が跳ねることを考えるだけで、胸が焼けるようだった。エララは自分のなかに揺れる衝動を、ばね鋼のように押し縮める。彼のために誰もを裂くのはたやすいことだ。彼に近づく女の腕、彼の言葉に笑う男の喉、すべてを焼いて灰にすればいい。だが、それは過去の自分のやり方だ。竜の里に戻り、古い血に向き合うと約してからの自分は、別の強さを得なければ意味がない。


 高台の背後には、白い石を積んだ円形の祭壇があり、そこに老いた長の竜が座す。皮膚は薄く、光に透ける膜がところどころ破れ、角は古い象牙さながら黄ばむ。目は半ば閉じられ、白内障のように濁るが、視線は鋭い。その竜は口を開くことなく、エララの心の奥へ直接声を送る。


 待て。これはお前の試練だ。守り、信じよ。地下はあの男の領分だ。


 分かっている、とエララは心で答える。だけど、私の彼なの。世界の中心。私の結界の中心。彼が作る空間がほんの一筋でも崩れることは、許せない。


「ならば守れ。それが愛だ」


 エララは瞼を閉じ、吸い込んだ息の先を彼へと結ぶように、胸の中心に一本の糸を通す。糸の先は地下へ、竜骨の間へ、彼の白い指先へ繋がっていると想像する。わずかな温もりが返ってくる。名前を呼ぶ衝動が喉に上がるが、それを飲み込む。名を呼ぶのは甘さだ。今は、楔となるべき時。


「……あなたが四天王、武闘のバルガス、ね」


 エララは軽く顎を上げる。バルガスは「お」と面白がるように声を漏らし、隠さない感嘆をひとつ噛み、吐き捨てる。


「竜姫。執着の強い美女と聞いていたが、噂は半分しか本当じゃねえようだ。半分は……新しい」


 彼の視線がエララの背に潜む竜の翼、うなじに散る鱗を舐める。次に白砂に落ちた波紋の傷へ移る。エララの指先が痙攣する。彼の庭を舐めるな。広げられた欲望が、彼の世界を汚す。心の中で彼女は数える。落ち着け。柄にもなく、彼女はアレスのやり方を真似る。線と角度で数えるように。息を三つ数え、吐き、声を低く整える。


「ここは彼の庭。あなたの闘技場じゃないわ。汚れを持ち込むつもりなら、あなたの血で払拭してもらう」


 バルガスの口が完全に笑いに裂ける。両拳を胸の前に持ち上げる。彼の拳は、ただの硬塊ではない。空間に触れた瞬間、目に見えぬ濁流が拳から溢れ、周囲の空気が揮発する。音が圧縮され、肌に痛みを叩き込む衝撃へと変わる。「魔闘気」。武に生きる魔族だけが、自らの内圧を暴力へ昇華させるときの、黒い光澄。


 彼は一歩、踏む。地が沈む。白砂が爆ぜ、定規で引いたような曲線がズレる。彼の足元、結界の薄膜にひびのような模様が、うっすらと滲む。


「——破っ、ッ!」


 言葉と拳が重なる瞬間、彼は天蓋へ向けて打ち上げる。透明の膜が鳴り、蜘蛛の糸ごとき広がる波が空に走る。見事だ。この戦いの始まりは、見事だった。エララはその動きを嫌悪する。彼の拳は、無秩序な暴力を最小の線で最大の効果に導く。構図がある。だから質が悪い。彼女は彼の世界だけを中心に据える。他のものは敵だ。


 エララは翼を広げ、一瞬だけ人の姿を離れ、竜の骨格に身を沿わせる。尾骨に熱が集まり、脊椎に沿って、古い音が立ち上がる。竜は吠えるのではない。鳴動する。喉で、骨で、大地に返す音で震える。彼女は口を開き、炎ではなく、熱の渦を吐く。空気の層を丁寧にえぐり、線を描くように。アレスが砂に刻んだ波紋のように見事な円弧で、魔闘気の流れを滑らせ、逸らす。


 バルガスの拳と彼女の吐息がぶつかり合った瞬間、音が弾ける。圧の壁が、天蓋の内側で渦巻き、枝先がわずかに震える。苔の小丘がわずかに崩れかけ、だが次の瞬間、見えない手がそれを撫で、元の高さへ戻す。地下からの手だ。アレスは、下で自らの術式の一部を切り離し、上に上がる圧へ対応するため布を織り直す。エララの胸に少しだけ安堵が差す。繋がっている。彼は、彼で、彼の世界を守る。


 地下では、アレスは頭上の震動に合わせて術式の角度をひとつ、そして二つ、連続して刈り直す。杭の影が石床に描く線の重心がわずかにずれ、それを正すための新しい点が必要になる。彼は掌の中で、最後の小さな水晶を指先で転がす。これを置けば、上の空間の曲線は元へ戻るだろう。だが、この水晶は本来、南の結界に回すべき予備だった。選択。彼は息を短く切り、視線を細くする。ただひとつ、彼は自分に嘘をつかない。目的のためなら、犠牲はいつだって、正当化される。


「……仕方がない」


 彼は水晶を置く。柔らかな音が洞窟に跳ね、円が閉じる。上の空に、ほつれかけていた波が静まり、苔の丘が寸分の狂いもない等高線に戻される。その瞬間、第三の咆哮が地をかみ、石の天井の上で何かが砕けた音がした。


 上で、バルガスが三度目の拳を繰り出し、同時に口を開いて笑う。


「どうしたどうした、竜姫! 火を噴け、牙を剥け! お前の噂通りの狂いっぷりを見せてみな!」


 彼は踏み込み、斜めに打ち下ろす。圧の斧が空間を割き、エララの肩口を掠める。肌が破れ、温かい血が滲み、赤い線が白い肌を彩る。痛み。彼女の中の古い自我が、愉悦のような震えを持ち上がらせる。血は祭りだ、という古い竜の声。だが、彼女は唇を噛む。血が口の中に入る。鉄の味。彼は鉄さえも空間に組み入れるだろう、と余計な連想が頭を掠めて笑いそうになる。ならば、私も。


「あなたの血は醜悪ね。もっと落ち着いて流れなさい」


 彼女は掌を翳し、風を招く。樹々の吐息が集まり、白砂の粒が舞って、空中に暫定の図形が描かれる。アレスが裏庭で見せてくれたちいさな遊び。風を結び、砂を浮かべ、模様を変える。その模様に、彼女は吐息の熱を流す。風が導き、熱が流れ、圧を避ける。バルガスの拳の勢いがわずかに空へ上ずり、彼の肩がわずかに空振りで沈む。その隙に、エララは尾で彼の膝裏を払う。彼の巨体が一瞬傾ぐ。


「ほう?」


 感嘆と痛みの間の声。バルガスは手を地に置き、体重を逸らし、回転で立て直す。彼の動きは大地の虎のそれだった。重量がありながら軽い。砂がまた舞い、曲線が短く乱れる。エララの眉が寄る。空間が乱れるたび、胸がちくりと痛む。アレスなら——もっと無駄なく、曲線の上を滑るのに。私はまだ彼には及ばない。だから、私は私のやり方で、彼を裏切らない。


 竜の長の声が再び、心に響く。


 忘れるな。試練とは、力の誇示ではない。どれだけ己を抑え、守るために選ぶかだ。


「分かってるわ」


 短く答え、エララは踏み出す。自分の背後に、卵を抱えた若い竜たちがいる。里の周囲には、わずかながら人間の村人たちも避難する。アレスの結界が彼らの息を楽にし、彼が作った空間が初めて彼らに見事な朝を見せた。それらすべてを、彼女は背負う。


 バルガスは舌を鳴らし、右拳を引いて下段に構える。左の掌を前に出し、笑う。


「四天王様の形だ……!」


 エララは深く息を吸い、吐く。吐息の先に、彼の胸骨の少し下——太陽神経叢に当たる位置を思い描く。彼の圧に逆らわず、流し、横へ滑らせ、彼の力を彼自身の足元に落とす。アレスが一度見せた、庭の池に投げた石が、波を重ね、絡まり、互いに打ち消し合う様子。それだ。彼女はバルガスの拳が来る瞬間、前へ出る。拳が空気を裂き、彼女の頬を掠める。温かい血が髪に飛ぶ。それでも彼女は前へ。胸が押し潰されそうな圧の前に、己の圧を差し出し、角度で逸らす。刹那の舞。


 拳が彼女の斜め上を通り過ぎ、バルガスの肋骨へ向けて彼女の爪が淡く光る。彼女は触れるだけ。刺さない。力を抜き、薄く触れて引く。その刹那、彼の筋肉が微かに痙攣し、体の動きが滞る。流れが滞れば、堰き止められた河は内側で暴れる。自らの圧が自らを打つ。バルガスが鼻を鳴らす。痛みというより、驚きの音。


「やるな」


 短く、乾いた声。褒めている。だが彼の目には火が増す。試されている。エララは腹を固める。この男は、彼女を煽り、狂わせ、彼の闘気で彼女の境界を壊そうとする。彼の得意は、相手の流れを乱し、自らの土俵に引きずり込むこと。つまり、均衡の破壊。彼女はもっとも破壊されやすい箇所——強い執着の渦を、冷たく抱きしめる。


 地下では、アレスが短く咳をする。粉塵が肺に刺さったのだ。だがその痛みが、彼を現実に引き止める楔ばかりに感じられる。名を忘れかけたことの薄い恐怖が、まだ奥に残る。あの名前は彼の空間の中心だ。それが曖昧になるなど、許されるはずがない。彼は舌の上で、その名の音節をまた転がす。エ、ラ、ラ。確かめるように。ついでに、自らの指の動きもまた、彼女の呼吸のリズムに合わせる。上で彼女が吐き、吸い、踏み、軽く浮かぶ。彼はそれに呼応して、石の線を、ほんのわずかに微調整する。


 結界の薄膜が厚みを増し、バルガスの拳圧の波が浅く滑る。魔族らの矢が薄膜に刺さり、光って消える。薄膜は花弁のように開閉し、何枚もの層が互いに補い合う。その薬指に掛けるべき最後の指輪——南の予備を使ったせいで、東の薄さが出ているのが、自分には見える。アレスは奥歯を軋ませる。ここに歪みが生まれる。後で必ず直す。彼の中ではすでに修繕の図面が組まれ始める。再配置、緩衝の追加、砂紋の再耙き。壊した者への罰は、それ自体の修復という行為であるべきだ。


 上で、バルガスが片手を挙げ、背後の兵に短く命じる。


「中へ入るな。俺が開ける」


 彼らはざわめきつつも従う。四天王の名は重い。彼の顎がきしり、首が鳴る。拳が再び持ち上がる。エララは少しだけ横へ滑る。瞳に映ったのは、遠くの庭の端。アレスが整えた砂紋の一部に、卵を抱えた若竜がうずくまるのが見える。彼女の心臓がひと瞬間掴まれるように痛む。彼女はそれまでバルガスを庭の中心から外へ引き出そうとしていたが、今、自分の背後にあるものを守るため、位置取りを変える。そうすれば、自分が傷つく危険は増す。彼の圧は正面から受けることになる。


 だが、彼女は下がれない。下がれば、彼の拳は、卵に届く。半歩前へ。足首に、彼女の祖母のように古い長の声が、見えない手ごとく触れる。


 勇いでいる。良い。


 バルガスの拳が落ちる。今度は天地を裂くような烈しさで。彼は吠える。咆哮が空を切り裂く。封じの天蓋がひときわ大きく歌い、白砂の波紋が逆巻く。エララはその音を背に受けながら、彼の拳を受け止める。正面から。両の掌で。指が折れそうな痛みに、叫びが喉の奥で熱くなる。だが彼女は叫ばない。噛み殺す。彼の拳の圧が骨を越えて内臓にまで届き、胃が逆流しそうになる。頭のてっぺんが白くなり、視界の端が細かく砕ける。それでも彼女は足をずらし、膝を柔らかく曲げ、圧を地へ逃がす。庭が彼女の足裏で受け止め、砂が孔雀の羽のように広がって彼女の重心を支える。アレスの細工だ。彼女を受け止める庭。彼女は庭を受け止める彼女の背。円が閉じる。


「……いい顔だ」


 バルガスが囁く。称賛か侮辱か、境界の薄い声。エララは唇から血をぬぐい、少しだけ笑う。


「あなたの顔は、醜悪ね」


 バルガスの笑いが深くなる。次の瞬間、彼は距離を詰める。拳の連打。衝撃が連続し、空気そのものが泡立ったようになる。エララはその中で、流れを読み、線を選び、最小限の逸れを繰り返す。彼の拳は彼女の頬、肩、胸を掠め、各所に赤を置く。赤は最も空間を乱しやすい色だ。それでも彼女は動じない。彼女の中で炎が赤く燃えるたび、彼女はその赤を彼の赤に塗り替える。彼の赤は粗い。彼女の赤は細い。細い赤で粗い赤を縫い合わせる。奇妙な冷静が、彼女の指先に影を落とす。成長は、たぶん、そうやって訪れる。


 地下では、アレスが小さく嘆息する。少しだけ、視界が白む。彼の鼻が、鉄と土の匂いを嗅いだような気がした。錯覚かもしれない。もしかすると、上で彼女が血を舐めたのかもしれない。その想像に、彼の胸が奇妙な鼓動を打つ。指先がわずかに痺れ、杭に巻いた結縄が、ひと筋だけ緩む。彼はすぐにそれを締め直す。緩みは破綻の始まり。崩れは、いつもわずかな緩みから。彼の心臓も、わずかな緩みを見せたではないか。名前を忘れかけるという、最悪の緩みを。


「——エララ」


 彼はもう一度、はっきりと名を口にする。洞窟がその名を反響し、竜骨の間を柔らかく渡っていく。上で戦う彼女の耳には届かないかもしれない。だが、この地下の骨は、彼女の血を知る。届け、と彼は願う。願いは見事な線だ。線は結び目を求める。彼の術式に、わずかながら、それは新しい結び目を加える。地上の薄膜に、小さな装飾が施される。花弁。バルガスの拳が次に当たる場所に、柔らかな偏光色の花弁が浮かび、圧をわずかに受け、滑らせ、散らす。


 バルガスの眉が不服そうに動く。


「見えない手がちょこまかと……下にいるんだな。結界師」


 彼は地面に向かって吐き捨てるように言う。唾が白砂に落ち、見事な曲線の上に小さな汚点を作る。その汚点を見て、エララの中で何かが切れかける。彼の唾すらも、彼の庭を汚すのだ。手が震え、爪が長く伸びる。彼の喉を裂き、その舌を抜き取り、唾を二度と吐けないように——。彼女は瞬きの間に、己の背中を殴る。痛みが彼女を我に返す。


「やめろ」


 老竜の声が強く響く。命令ではない。祈りに近い。それは彼女を優しく足元へ下ろし、地へ繋ぎ、足裏に確かな重みを与える。彼女は息を吐く。視界が戻る。彼女はバルガスの唾の汚点を見る。白砂の上の一滴。アレスはどうするか。彼は黙って砂を耙く。汚点は模様に溶ける。汚点があったことすら、知らない者は気づかないように。彼女は右の足裏を滑らせ、小さな円を砂に描く。唾は埋もれ、曲線に溶け、消える。バルガスの唇に、わずかな苛立ちが走る。


「粋な真似を」


「彼の真似よ」


 エララは答える。胸に不思議な誇りが立つ。真似ることは、悔しくない。彼に近づけるのなら、何度だって。


 バルガスは肩を回し、ひとつ深呼吸をする。彼もまた、彼女の変化を感じる。ただの狂獣ではない。自らを統御する竜。厄介だ。いっそ、彼女を狂わせれば話は早い。彼はわざと、エララの背後——卵を抱えた若竜たちの方へ、視線をちらりと流す。


「そこ、いい標的だな」


 エララの眼が瞬時に縦に細くなり、喉の奥で不吉な鳴動が走る。彼女の背は火に包まれたみたいに熱く、指先が白くなる。バルガスは口角を上げる。狙い通りだ。彼女の足が半歩先へ出る。その瞬間を狙い、彼は地を蹴る。猛禽のような軌道。彼女の頭上を通り過ぎ、背後の砂の上へ拳を落とすつもり。一瞬でも彼女が躊躇えば、曲線は乱れ、卵へ向けて波が走る。


 だが、エララは躊躇わない。彼女は背を向けない。代わりに、胸に溜めていた息のすべてを、地面へ流す。吐くというより、置く。熱ではなく、重さ。竜の母が卵を温めるときに使う、体温の落とし方。地の下へ、優しい重みを送り、砂の粒を固く結ばせる。バルガスの拳が落ちた場所は、一瞬だが石のように硬かった。拳が弾かれる。彼の手の皮が、薄く裂ける。彼は驚いたようにその手を見る。


「へえ……!」


 彼の驚きの声は真っ直ぐで、そこに初めて、純粋な闘いへの喜びが混じる。彼は笑い、血を振り払うと、さらに重い拳を構える。今度こそ、障壁を破る気だ。綻びを見つけ、そこへ集中させる。その綻びは、アレスの南の予備を使ったことで生じた東の薄さ。エララの感覚はそれを知らない。だが、彼女の足元で砂がわずかに泣く。ぐず、と。彼女の義務は分かっている。守ること。信じること。だから、上の戦場の最中にあっても、彼女は呼ばない。彼の名を。胸の中でだけ、彼女はそっと繰り返す。あの白い指。銀の結縄。汗を肘で止める癖。彼女の中の赤は、その白に従順だ。


 地下の空洞では、鳴動がやや落ち着く。だが、耳の奥で細かな囁きが続く。名前の欠落の余韻。彼は立ち上がり、杖を軽く地に突く。杖の先には小さな鈴が下がる。それは竜の長から渡されたものだった。竜鈴。竜の里に住む者にしか奏でられない音を持ち、地の筋を震わせる。アレスはそれを鳴らす。音は高いが、空洞の大気を柔らかく撫でる。上でエララの足裏が地を重くしたのに呼応して、この音が地を軽くする。硬くなりすぎれば、割れる。柔らかすぎれば、沈む。音が均衡を寄せる。


 彼は素早く術式の最後の調整を施し、短い言葉を口の中で結ぶ。言葉は結び目になる。暴力はほどけやすい。結び目は、ほどけにくい。地上に向けて最後の補強を送ったとき、彼の視界の端がわずかに暗くなる。肩に重たい疲れが乗る。思考の一部が遅くなる。大事なものの名前が、またもや、遠ざかりかける。


「エ……」


 彼は歯を食いしばり、額に指を押し当てる。やめろ、と自分に命じるように。繰り返しで支えられる。毎日同じ角度で砂を耙くように。毎朝同じ時間に露を拭うように。名も、同じ。彼は心の砂紋に、その名の文字を刻むように、ゆっくり一画ずつ思い描く。エ。ラ。ラ。彼が作った線は、揺れながらも、形を保つ。


 上で、バルガスが大きく息を吸い、その全てを拳に込める。四天王の型の中でも、彼だけが使う「聖折」。名は皮肉だ。聖なるものを折る拳。折る対象は、祈りでも封じでも、竜の骨でも構わない。彼はその拳で、一度、聖堂の柱をまとめて折ったことがある。今、彼の拳が狙うのは、エララではなく、薄膜の一枚、東の薄い場所。そこへ放たれようとする瞬間——。


 地の奥から、鈴の音が一層強く鳴る。上の庭の端で、苔の小丘がふわりと膨らみ、そこに白い花がふたつ、季節外れに咲く。小さな装飾。無意味。だが、その無意味さが、拳の眼を惑わせる。バルガスの視線が一瞬だけ花弁に吸い寄せられ、拳の軌道がすぐには戻らない。そのわずかな偏差を、エララは逃さない。彼女は彼の懐に入り、彼の肘を小さく弾く。彼の肩の力が抜け、拳が空へ流れる。彼の足元に、己の圧が落ちる。砂が涙のような音を立てる。彼の膝が一瞬沈む。


「クソッ」


 初めての罵りが、心からのものとして彼の口から漏れる。彼は怒る。良い。怒りは乱れを生む。乱れは敗北する。エララの口元が、ふっ、と小さく上がる。またすぐ平静に戻す。喜んでいい場面ではない。卵の影、村人たちの怯えた瞳、老竜の静かな誇り——それらが彼女の背筋をまっすぐにする。


 バルガスは拳を下ろし、深く息を吐く。一歩、二歩。彼が地を踏むたび、薄膜が歌う。天が、光幕の花のように、抑揚を持って開閉する。魔王軍の兵たちは尚も薄膜の外で待ち、舌を噛み、唸り、しかし命令に逆らえない。バルガスは舌打ちし、濁った空を一度見上げる。彼にとっても、これは奇襲だ。魔王の命は突如だった。竜の里が試練に入ったこの時を狙え、と。誰かが情報を流した。彼が拳を握り直し、またエララへ視線を戻したとき——天が、再び大きく鳴く。


 大地を震わせる咆哮。今までのどれとも違う。竜でもない。魔族でもない。彼とエララの交わす圧の合奏でもない。地の芯が口を開けたみたいに、古い。エララが一瞬だけバルガスではなく、空へ視線を上げる。薄膜の向こう、一筋の黒い影が、天を斜めに横切る。遠雷のような感じ。魔王軍の奇襲は、一方向ではないのかもしれない。エララの心に緊張が走る。バルガスも同じように、顎を上げ、耳を傾ける。


「来やがったか、別の客が」


 彼は笑う。不敵に。戦いは長くなる。彼はそれを恐れない。楽しむ。エララは眉をひそめ、心の糸をまた地下の彼へ延ばす。疲れているはずだ。彼の鈴の音は、先ほどよりも少しだけ細い。


 地下の空洞で、アレスは額を濡らした汗を、また肘でそっと拭う。髪は乱れない。結縄は緩まない。空間は、彼が作る。上の庭がいくら乱されようとも、彼はその乱れを引き直す。ひとつだけ、彼は認める。彼の中で、名が滑る。滑らなかった名が、滑る。


「エララ……」


 彼は名を、今度は祈りのように言う。心の砂紋に、濃い線をもう一本引く。重なった線は、深く刻まれ、たやすくは消えない。消えないはずだ。消さない。彼は自分にそう命じ、杖を握る手に力を込める。上でまた咆哮。地が揺れる。洞窟の天井から、最後の雫が落ちて彼の頬を打つ。冷たい水の線が、涙に似る。彼は目を閉じる。線は、繋がるためにある。


 全身の筋肉を緩め、彼は最後の調律を施す。上の戦場で、彼女の足の下に、もう一枚だけ薄い花弁を滑り込ませる。それは彼女にだけ分かる合図。彼がここにいる。それだけの合図だった。エララはそれを踏み、わずかに唇を上げる。バルガスはその微笑みを、挑発と受け取る。拳がまた、上がる。


 重なる咆哮。空と地、拳と翼、封じと荒野。そのすべてが今、この瞬間に音を奏で、空間は、かろうじて均衡を保つ。ほんの少しの緩みを抱えながら。


 ——奇襲の最初の波は、まだ終わらない。

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