第5巻 第4章 エララのヤンデレ検閲(4)
竜の里の北端、霊峰ヴェルダーンの麓。冷えた風が、岩肌と苔の間をすり抜ける。そこに口を開ける裂け目は、岩壁そのものが息を呑み、古い悲鳴を抱えたまま固まったかのような歪さだった。縦に長い。横は二人が肩を寄せてようやく、という狭さ。濃淡の揺れる違和感が、視線の奥をざわつかせる。
壁面には、薄く青白い竜文字が明滅する。苔に喰われ、風化したはずの傷が、まだ生きている。封印であり、警告でもある文字列。
「……『進む者よ、己の心を持参せよ。さもなくば、己の心に喰われん』」
アレスが声に出して読み上げた。口角が、完璧な角度で一段だけ上がる。彫像の修正線のような僅差。銀の前髪を、骨ばった指で払う。その仕草まで無駄がない。
「結界師殿。ここは我ら竜族でさえ容易には踏み込めぬ場所。警告に心を留め、決して油断なさるな」
長老ガイラスの声は低い。深い皺に刻まれた年輪が、冬木の年輪を思わせる。
アレスは裂け目の縁にしゃがみ込み、入り口の苔を一瞥した。
「入り口の苔の生え方が、左に偏りすぎているな」
「……些末な」
「些末ではない」
振り返らずに言う。視線は闇の奥へ。唇だけがわずかに動いた。
「景観の歪みは術の精度に影響する。私が奥まで辿り着けるかどうかは、入り口の苔の対称性にすら左右される。試練というなら、私は私のやり方で進む」
そこで初めてガイラスが黙った。頷きも否もなく、ただ黙する。彼の後ろで、エララが胸の前で手をぎゅっと組む。爪先から薄く白い霧が立ち、足元の草が霜を纏った。
「……無事に戻ってきてね」
彼女の声は、削った氷片かのように細い。
「もし、もしもあなたに触ろうとする何かがいたら──」
エララはそこまで言って、ふっと笑った。声が止まる。目だけが笑わない。笑みに合わせて、背後の空気が温度を落とす。岩の表面に、微かな白い筋が走る。
ガイラスが咳払いを一つした。
「竜姫。掟は掟。この領域では、竜の血は封じられる。補助者の同行も叶わぬ」
「知ってる。だから、待つ。……ねえ、長老。あの文字、本当に『心を持参せよ』って読むの?」
「うむ。己の内を他者に預けるな、という意味でもある」
エララは視線をアレスに戻し、言葉を選ぶ。舌の上に出しかかる危うい語を、ひとつずつ飲み込んだ。
「アレス……気配、消さないで。帰ってくる約束、指切りでもいい」
アレスはそこで振り向いた。彼女をまっすぐに見る。
「君の力は、ここでは封じられている。だから、君が何かを排除する場面は来ない」
「……うん」
「今夜は静かに待ちなさい。月を見て、星を数えて、私が組み上げた結界の輪郭の精緻さを思い浮かべているといい」
エララは「わかった」と頷く代わりに、彼の袖口を指先で一度だけ摘んだ。離す。それ以上はしない。それだけ。
「結界師殿。道が戻らぬと判断したなら、ためらいなく退け。試練の目的は、竜の里を覆う瘴気の核を浄めること……その一点のみだ」
「目的は聞いている」
アレスは短く応じ、裂け目の前に立つ。白銀の長衣の裾を、冷気がすくい、闇に運ぶ。
足音が岩に吸われ、消えた。
闇は三歩で質を変える。外の光は四歩で途絶えた。鼻の奥に湿った石灰の匂い。指先に、空気の温度の層が触れる。アレスは右手を軽く振り、淡い銀色の光源を浮かべる。光は八面体。各面の輝度を揃えた、小さな結界球だ。彼の美意識が形になった道具。許容できる最低限の調和を保つための一手間。
空気中の塵が光に舞い、足元に落ちる影は細長く、輪郭が曖昧にならない。滴る水。ぴちょん、という音が洞に広がる。規則的ではないが、完全な乱れでもない。見えない心拍が真似されているようで、耳の裏が冷たくなる。
「……生きているな」
誰にともなく、アレスは囁いた。濡れた岩壁に指を這わせる。ざらつき。指先に白い結晶。触れたそばから黒ずみ、ぽろりと崩れ落ちた。
「瘴気の結晶化。古い」
喉の奥に薄い違和感。咳ではない。もっと微細な何かが、内側から外側に共鳴する。左手の小指が、ほんのわずか痺れる。
「早いな」
足を進めながら、己の肉体が示す信号を拾う。瘴気は末梢を伝い、内に入ろうとする。普通なら引き返す局面。しかし、止まらない。止まれないのではない。止まらないのだ。最奥には、竜の里を覆う歪んだ瘴気溜まりの核がある。長老がそう告げた。あれを浄めることが試練。そして、エララの過去の清算。
通路の傾斜は緩い。体感で十五度ほど。天井が高くなる。やがて、視界が開けた。
光球を高く上げる。銀が滲み、闇の厚みの中で輪郭を拾う。鍾乳石が、空から伸びる巨大な指の群れとなって静止している。床からは石筍が伸び、互いに触れ合う寸前で止まる。無数の石柱。その全てに、薄紫の靄がまつわりつく。ふわりと揺れ、光の角度を奪う。
「見事だ」
乾いた声。見事、と判じる自分と、これは殺意の空間だと告げる自分が同居する。両立。そこに、危うい均衡がある。
一歩ごとに、靴底が水膜を叩く。ぴしゃ、と音。その音だけが静寂を切る。
白い閃きが脳裏を走った。
「……誰だ」
足が止まる。舌に乗りかけた音が、ほどける。
「エ──」
喉がわずかに渇く。彼は額に指を当てる。指は冷たい。皮膚は湿っている。
「エ、ラ……」
音がほどける。彼女の名。毎日呼ぶはずの三音が、紙の文字が水に溶けるみたいに白くなる。
アレスは目を閉じ、奥歯を噛む。自分の心拍と滴りの音を重ねる。数える。四つ、六つ、八つ。
「……エララ」
戻ってきた。数秒の空白の後に。戻した、という感覚の背に、「落とすところだった」という寒気がつきまとう。
「忘れられた死、か」
口にして確かめる。死の森の瘴気は腐った死。それに対して、ここは違う。誰にも悼まれず、語られぬ屍の年輪が、地脈で熟れ、結晶に変わった。生者の生命そのものでなく、「生きてきた時間」を擦り減らす性質。
「面倒だな」
自嘲のような小さな息。死の森を覆う巨大結界を維持してから、どこかが削れている感触がある。設計を保つ代償は、思っている以上に重いのかもしれない。記憶は、形を作る土台だ。土台が崩れれば、いつか歪む。
「今は、考えるな」
ひとつ息を長く吐き、光球の輝度を一段上げる。光が空洞の中央を照らし──黒い塊が浮かび上がる。巨大な結晶。鍾乳でも石筍でもない。古の竜が封を施した、瘴気の核。表面には竜文字が走り、内部には影が蠢く。形を持たない意志。忘却の影。
アレスは躊躇なく歩を進める。光球を地に下ろす。両手を胸の前で組み、指を印へと変える。淡い金の幾何が空に咲き、十二の正多角形が入れ子になり、最後に瑕疵のない円へ収束していく。
核が反応する。ぐらり、と空気がねじれた。足元の水膜が、瞬時に泡を吹く。薄紫の蒸気が頬を撫で、見えない刃がかすめる。銀髪が一筋、光を切って落ちた。
「来い」
彼の目に宿るのは、恐怖ではない。作り手の集中。乱れた空間を整え、不快な響きを少しずつ合わせ、忘れられた死者に終幕の形を与える──その仕事。
外では、月が雲を薄く縁取る。竜の里は静かだ。結界の縁の、石の庇の下。エララは膝を抱え、夜空を見上げる。
「一、二、三……」
彼女は星を数えた。指で、胸元のペンダントを弄ぶ。小さな結界石。アレスが渡したもの。指が石に触れるたび、息が少し落ち着く。
「竜姫」
ガイラスが横に立つ。老いた竜は、視線だけで洞の闇を見守る。
「寒くないか」
「平気。……ねえ、長老。あなたが若かった頃の試練、どうだった?」
「今と同じだ。いや、我らが若かった頃の闇は、もう少し荒かったかもしれん。待つことが、いちばん骨だった」
「待つのは、苦手」
エララは笑った。笑みと同時に、庇の端に薄氷が出来る。すぐに彼女はそれに気づき、指先でそっと溶かした。
「でも、今日くらいは、ちゃんと待つ」
「誰に言っている」
「自分に。……それと、月に」
ガイラスは短く鼻で笑う。老いの笑いは乾いて、優しい。
「彼は、必ず戻る」
「知ってる」
エララは言い、言葉を切る。切ったところで、ふっと息を吐いた。薄い白。彼女はそれを見て、手を組み直した。
「アレス、見てるかな。……星、今日は少し少ない」
「雲が出ている」
「うん」
彼女はそれ以上何も言わず、また数え始める。四、五、六。途中で一度、何かを思い出したように手を止め、視線を裂け目に向けた。にっこり微笑む。背後で、空気がわずかに凍てる。
「……だめ。今日は、静かに」
自分に言い聞かせるように、囁いた。
洞内。アレスの指は、印から印へと移る。金の線は呼吸に合わせて明滅し、光球の面がわずかにきしむ音を立てる。瘴気は、彼の輪郭を擦り減らそうと寄せてくる。忘却の指が、名前をなぞる。指先の痺れは、さっきよりわずかに強い。
「静まれ」
一言。声は低く、短い。
「形を取れ」
それだけ。指が、空気を叩く。金の円が一段深く沈み、核の周囲に薄い膜がかかる。瘴気が戸惑う。方向を失い、壁面にぶつかっては戻る。
「……足りない」
アレスは頬の汗を拭わない。光の角度を半度だけ変える。八面体の一面が、鍾乳石の稜線を正確に捉え、そこから反射した光が核の縁を洗う。微細な砂粒が、水面で跳ねるような音。わずかながら、匂いが変わる。鉱物の冷ややかな香りに、湿った土の甘さが戻る。
「よし」
彼は手を開き、閉じた。印が一度ほどけ、また結ばれる。周囲に展開した多角形は、互いの隙間を埋め合い、震えが消えていく。静謐が、線の上に宿る。
核の内部の影が、形を持とうと身じろぎした。忘却は、形を嫌う。しかし、形を与えられた忘却は、終わる方向を持つ。
「終わりの道は、一本でいい」
誰にともなく告げる。言葉は短く、重ねない。
外の空気が、少しだけ温んだ。風向きが変わる。エララはその変化に顔を上げた。
「……今、何か、変わった?」
「気のせいかもしれぬ」
ガイラスは慎重に言う。だが、老いた瞳は、ほんの少し緊張を解いた。
「アレス」
エララは名を呼ぶ。声に、祈りの色は薄い。約束を確かめる呼び方。彼女はペンダントをぎゅっと握り、すぐに力を抜いた。石が、掌の熱でわずかに温かい。
洞の奥。アレスは、指先に残る痺れを掴むように意識し、そこに細い糸を通した。糸は銀。繊維は硬いが、よく撚れている。一本ずつ、核の周囲に回す。結び目を作らない。絡ませない。必要なところにだけ通し、余計なものは切り捨てる。
「……うるさい」
囁き。指が、小さく鳴る。ぱちん。見えない何かが砂になり、光の塵になってほどけた。鍾乳石の影が一段濃くなる。空洞の呼吸が、ゆっくりになる。
彼は目を閉じた。まぶたの裏に、外の空の銀色がかすかに差す。月の形。細い。冷たい。美しい。ひとつ吸って、ひとつ吐く。そのリズムで、線を一本ずつ沈める。
「では、始めようか」
最初に言った言葉が、また口に落ちる。金の線が応じ、八面体の光が、今度は躊躇なく強さを増していく。空洞の影は後退し、忘却の靄が、形を与えられた終わりへと、静かに押し出されていく。




