第5巻 第4章 エララのヤンデレ検閲(3)
竜の長、ガイ・ドラグニアが息を吸い込む音が、岩肌に染み込んだ冷気を震わせた。次の瞬間、咆哮。天井から砂がさらさらと降り、光の筋の中で舞う。円形の議場は、青白い水晶柱に輪を描かれ、柱の内側には古い鱗の欠片が点々と埋め込まれている。表面を走る細い文字が淡く脈打ち、ひそかな脈拍のように光を返す——誓いを見抜く古い仕掛けの気配。冷えた鉱石の匂いが鼻に抜け、皮膚に乾いた感触がまとわりつく。
その中央に、アレスが立った。
襟はぴたりと正され、髪の光は乱れない。靴先と床の魔法陣、円の真芯が重なるまで、彼は足裏の角度を微妙に調整した。指先が一度だけ空を払う。空間の手触りが変わり、音が一段落ちる。空気が彼の側へ寄せられていく感覚。
「配置、よし」
小さな声は吸い込まれ、柱の間で霧散した。
傍に立つエララが、ほんのわずかに目元を緩める。背で組んだ指が落ち着かず、形を変えるたびに銀の髪が肩越しに滑った。彼女の視線はアレスの横顔から離れない。そこに宿るのは期待と、胸の奥にひっそり沈むざわめき。
高座の縁から、竜たちの視線が人間を射る。人の形をとっても縦長の瞳孔は隠せず、頬の下に硬い鱗の名残が覗く者もいる。最上段に座すガイは白い髭を胸に垂らし、石の肘掛けに爪のままの手を置いた。動かぬ巨岩の重み。その静けさだけで、息が深くなる。
「アレスとやら」
低い銅鑼の音が、肺の内側を震わせた。
「貴様の結界、見てきた。死の森の瘴気を抑え、里の息を整える手札、確かに大したものだ。人の身にして、よくそこまで届かせたものよ」
「恐縮です」
アレスは十五度だけ腰を折り、三呼吸だけ視線を落とす。それ以上はしない。過不足のない角度、過不足のない時間。形そのものが一枚の画になっていた。
「だが——」
ガイの声がさらに沈む。冷えた金属の縁で空気が切れた。
「我が娘を娶ると申すなら、それだけでは足りぬ。竜姫は、ただの女ではない。星の重みを受け止める器ぞ。力の強弱だけで測れる話ではない」
「……」
エララの肩が小さく跳ね、瞳の奥に金がきらりと覗く。言葉が喉まで上っては、目の端に入った横顔で止まった。父への反発と、隣に立つ者への信頼。そのふたつが擦れて火花を散らす。
アレスは微動だにしない。音の角度を測るように、闇の口を見下ろした。
「試練を、課す」
宣告が石肌に反響し、議場全体にうっすらと波紋を広げる。
水晶柱が細かく共鳴し、床の紋が回転する。石が滑る音が低く続き、黒い穴が口を開けた。湿り気を含んだ重い空気が上がってくる。鉄を指で擦ったような匂い。舌の奥に渋みが広がる。
「……瘴気溜まり」
誰かが息を細くした。若い竜のひとりが口元を袖で覆い、別の竜が目を伏せる。
ガイが淡々と告げる。
「里の地下、深く落ちたところに毒の湖がある。世界の産声の折にこぼれ落ちたものの名残だ。我らは長い年月、血を払って封を重ねた。近づけば鱗が落ち、骨が軋む。禁忌だ」
別の高座から、古い声がかぶさる。
「千年に一度、封を繕ってきた。だが渦は尽きぬ。底は見えぬ。あれは……触れるなと教えられてきたものだ」
ガイの眼差しが鋭くなっていく。
「それを、浄化せよ」
静寂。砂が一粒、どこかで落ちる音だけがした。
エララの頬から色が引き、白い肌がさらに薄く見える。指が外套の裾に触れ、そのまま凍りつくように動かない。睫毛が震えた。
「お父様……!」
彼女は一歩踏み出す。声が高くなる。
「それは無理です。あそこは——竜でさえ近づけば身が侵される場所。私たちが千年かけて封じるので精一杯だった淵を、今ここで、ひとりの人に浄めろと? 試すというより……」
彼女は言葉を飲んだ。唇に歯を立て、赤い点が滲む。背で小さな音がする。ぱき、と。袖の陰で氷の粒が生まれ、すぐに消えた。
「お父様は……そんな顔をなさらないで。あの方を、二度と戻らない場所へ押しやるおつもりなの?」
「エララ」
ガイの声は冷えていた。どこにも寄りかからない音だ。
「黙れ。試練とは、そういうものだ。越えられぬ者に渡すものはない。我らが未来を託す先を見極める」
「でも——」
「黙れ」
ひと声で空気が止まる。若い竜が肩をすくめ、侍女が硬く目を閉じる。
エララは視線を落とし、細く息を吐いた。目の奥で、暗いものが一瞬揺れる。指先に冷たさが集まる。笑みの形がかすかに口元に浮かび、すぐ消えた。
「なるほど。瘴気の湖、ですか」
アレスの声は穏やかだった。階段の先を見下ろし、鼻をわずかに動かす。湿気の角度、苔の酸味、石肌についた黒い霜の手触り。闇から上がる風が、外套の裾を一枚めくる。
「地下の流れが歪んでいる。ここから上がるものが岩を腐らせ、湿りを運び、里の気配を鈍らせる。構図の底に泥の塊が沈む形だ」
彼は顎に指を当てる。
「見苦しい。地の底に汚濁を放置した絵は、全体を曇らせる。私は結界師だが、それ以前に景色を扱う者でもある。掃除をしない手はない。ただ、それだけ」
ガイは眉をわずかに上げた。高座の別の竜がたまらず声を漏らす。
「……正気か、貴様」
「長殿」
アレスは振り向く。黒い瞳の奥に白い灯がともる。その明るさは冷たいが、消えない。
「お受けします」
ざわめき。ざわめきはすぐ消えた。高座の隅で誰かが爪を石に触れ、乾いた小さな音が弾ける。
「命を投げる気か。それとも己を見誤っているか」
ガイの問いには棘がある。
「違います」
アレスは言った。
「命は数に入れません。あの淀みは、見過ごせない。ここにひとつ歪みがあるなら、私はただ整える。美談でも蛮勇でもない」
議場の空気がまた落ちる。ひと呼吸、誰も言葉を足さない。
ガイが立ち上がった。巨大な影が床の紋にかかる。
「良い。三日やろう。三日の後、生きて戻れば言い分を聞く。あの淵から戻った者はない。覚悟はしておけ」
「三日は長い」
アレスは首を横に振る。喉の奥で音すら削ぎ落として。
「一日で十分です。手数は少なく、精緻に終える」
侍女が小さく言葉を失う。高座の端で若い竜が舌を噛んだ。アレスの空気は、それだけで周囲の温度を半歩下げる。
ガイが顎を引く。
「行け。我らの『地獄』を見て来い。己が届くところと届かぬところを知るがいい」
階段が口を開けたまま、闇が吐き続けた。土の匂いに混じって古い血のような香りがする。若い竜たちが顔を背け、年長の竜でさえ鼻筋に皺を寄せる。闇は生き物ごとく揺れ、足首に絡みつこうとする。
アレスが一歩踏み出す。
「お待ちになって」
エララの手が腕を掴む。細い手なのに、驚くほどの力。指先が白くなり、皮膚の温度がじわりと伝わる。
「私も行きます。ひとりでなど、行かせません。底だろうと、隣にいます」
「エララ」
彼は振り返り、彼女を見た。冷たい光の中で、彼女の睫毛の先に小さな水滴が光る。微かな花の香りと、夜明け前の空気の匂いが混じる。彼女の手は冷えているのに、掌中央だけが温かい。
——名は。
ふと、音が消えた。脳のどこかで糸が切れる。蒼い髪、白い頬、袖の布の質感。見覚えは鮮明だ。だが、言葉の札が見つからない。エ……。エラ……。
「エララ」
声帯が自動で正解を引いた。彼は微かに息を吐く。胸の裏で冷たいものが走る。このところ、こういう小さな空洞が増えた。村の名、討った魔物の数、結界を張った順序——細部の砂が、指の間から落ちるように抜ける。
表情は変えない。ただ、頷いた。
「一緒に。助かる」
その一言で、エララの目の色が柔らいだ。彼女は気づかない。今その名が一瞬、闇に落ちかけたことを。彼女はただ、腕を握る指を強めた。
「ありがとうございます。……大丈夫。すぐ戻りますよね?」
彼女は笑う。にこり。背でまた、薄い霜が生まれて消えた。氷の魔力が、笑みに乗って漏れる。彼女自身は気づかない。周りの空気だけがわずかにきしむ。
「行きましょう」
「はい」
二人が闇の口へ向き直ったとき、上から声が落ちる。
「長よ」
古参の長老が喉を鳴らす。乾いた声。彼の目は階段ではなく、ガイの顔を見ていた。
「戻ると思われますか。あの淵の底で骨の形を留めたものはおらぬ」
ガイは答えない。髭を撫で、鼻から長く息を吐いた。金の瞳が遠くを見ている。議場の冷気の中に、別の匂いが混ざった。古い竜だけが嗅ぎ分けるもので、未来に薄く混じる匂い。人間という異物に向けた、ごく小さな畏れと興味。髭の下で口角がほんのわずかに動いたが、意味は誰にも読めない。
「……行け」
一言で道が開いた。
二人の背が闇に溶け、石が戻る。石と石が擦れる音が長く残り、やがて消える。柱の中を流れる光だけが、心臓の鼓動ごとく明滅を続けた。空気にわずかな残り香。鉄と湿りと、遠いところで燃える焦げの匂い。これから始まるものの予告のような味。
誰もいない場所で、どこかの縄がひとつ、ふっと撓んだ。
里の東、岩山を越えた荒れ地。風が砂を巻き上げ、空に灰色の渦を描く。鎧に刻まれた傷は古く、革紐は血で硬くなっている。男が立っていた。巨大な戦槌を片手でぶら下げ、肩から腰にかけて筋肉が隆起する。四天王のひとり、「武闘のバルガス」。牙が覗く笑い。
「結界師アレス、ね」
低く呟いた声に砂が反応したかさながら、足元で小さな渦が跳ねた。
「底で泥にまみれていろ。地上に顔を出す頃には——この里は、俺の踏み場所だ。竜の鼻っ柱ごと、粉にしてやる」
風が泣く。荒野の草が寝て、すぐに起きる。砂が鎧に当たり、ちりちりと音を立てる。男は振り向かず、竜の里の方向を顎で示すだけ。
試練は、まだ始まったばかりだ。アレスとエララ、竜の里、荒野の影。大きな歯車が音もなく回り出す。今はまだ、誰にも見えない速度で。




