第5巻 第3章 毒と呪いの四天王(2)
結界の縁を越えた瞬間、空気の質が変わった。肌に触れる風の粒子が粗い。光の屈折率が揃っていない。アレスは足を止めず、ただ眉の角度を一度だけ変えた。
街の門は石造りだった。左右の柱の高さが三ミリずれている。苔が石の目地に入り込み、本来の色調を濁らせている。アレスの視線はそこに留まり、指先が無意識に空を切った。修正したい衝動を、外では抑える。
エララが半歩後ろを歩く。彼女の足音は石畳に溶けて聞こえない。ただ、彼女が通り過ぎた後の空気だけが、わずかに冷たい。
市場に入る。色彩が乱雑に重なる。赤い果実の隣に茶色い干し肉。香辛料の粉塵が光に舞い、鍛冶屋の煤が風に乗る。アレスは呼吸を浅くした。肺に入る情報量が多すぎる。
「……整理されていない」
独り言は短い。エララだけがそれを拾う。
人々が道を空けた。アレスの放つ気配のせいではない。エララの足元から、温度が一度だけ下がる。それだけで十分だった。衛兵が槍の柄を握り直し、商人が声を落とす。子供が母親の裾を掴む。誰も理由を言語化できない。ただ、身体が知っている。
アレスは気づかない。彼の意識は時計塔の尖塔に向いている。
「あの直線だけは惜しい」
黄金比に近い比率。古代の建築様式を模した痕跡。だが土台のレンガが雑で、全体が台無しになっている。アレスは三秒だけ立ち止まり、それから歩き出した。
中央広場の噴水。水竜の口から吐き出される水流が右に偏っている。波紋の同心円が崩れ、水面に歪んだ楕円が広がる。アレスは噴水の縁に指を置いた。石の温度を測るように。
「放物線の計算が甘い」
それだけ言って、手を離す。指先に残った水滴を払う。
広場は静かだった。人がいない。先ほどまでいたはずの老人も、子供も、恋人たちも。エララが何かをしたわけではない。彼女はただ、そこに立っていただけだ。ただ、彼女の周囲の空気が、生き物の本能に触れる何かを帯びていた。
アレスは無人の広場を見渡した。
「静かだ。余計なノイズがない分、この噴水の欠陥がよく見える」
エララは何も言わない。ただ、彼の視線の先を一緒に見ている。風が彼女の黒髪を揺らし、金色の瞳が噴水の水面を映す。水面に映る彼女の輪郭は、揺れない。
「帰りましょう」
アレスが言った。外の世界から得るべき情報は得た。醜悪さの標本。反面教師。彼の結界がいかに正しいかを証明する材料。
帰路、エララは半歩前に出た。彼の視界に入らない角度で、通りの影を一つずつ確認する。彼が不快なものを目にしないように。彼の世界が汚れないように。
結界の縁を越えた瞬間、空気が澄んだ。光の粒子が揃い、風の温度が均一に戻る。アレスの肩から、目に見えない緊張が抜けた。
「やはり、ここが最善だ」
エララは答えない。ただ、彼の半歩後ろに戻り、いつもの距離を保つ。彼女の足音は、結界の内側では少しだけ柔らかい。




