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第5巻 第3章 毒と呪いの四天王(3)

エララは二歩目で足を止めた。足裏が感じ取る温度の変化に神経を集中させる。腐葉土の黒が途切れ、苔の緑が持ち上がる。その境目には、不自然なほど真っ直ぐな縁取りがあった。朝の光が触れるたび、白い微粒がふわりと舞い上がり、空気に薄い輪郭を描く。彼が紡いだ結界の端だ。円弧の歪みは一切なく、自然を模していながらも、そこには計算された緻密さが宿っている。外側の乱れを内に封じ込め、隙なく守る。


「あの境目、見える?」


エララの声に、アレスは背を向けたまま答えた。


「ここは、ねじれている」


右手が空中の白い糸を掴む。左手の指先は結界の残滓を撫でるように薄く伸ばし、枯れ枝の角度をわずかに変えた。道端の低木が背丈を揃え、倒れた石も居心地よさそうに場所を変える。ほんの些細な動きだが、複雑な乱れが整然へと変わった。


エララは小さく笑った。


「ねじれが綺麗じゃないって決めつけるのは、つまらないもの」


彼の胸の奥に抱かれた独特の構図を、彼女は愛している。世界そのものよりも、その形を優先する偏執に、抱きしめたくなる気持ちが沸き起こる。


「ここは余白が死んでいる」


アレスが眉を寄せて言う。土の斑点、落ち葉の重なりを丹念に追い、足元の踏み跡も音を漏らさず選ぶ。彼の動きは風景を壊さない。まるで生き方そのもののようだった。


それを見て、エララは一瞬目を閉じた。鱗の内側に涼風を通す。すると、異物の感覚が浮かび上がる。鳥の鳴き声が三つ、同じ高さと間隔で続き、消える方向まで揃う。視界の端を同じ形の葉が三度横切り、苔の縁から滴る水滴が一粒落ちる。次の瞬間、全く同じ音が同じ間隔で繰り返される。


「織り目……繰り返すための、人工の目ね」


ゆっくり振り返ると、森は静かすぎるほど静かだった。均質な静寂が肌に見えない棘を刺し、風はわずかに動く。温度も上がる。その縁で、どこか乾いた匂いが燻っていた。


「……エララ?」


アレスが振り向く。湖面ばかりに冷たい瞳に、いつもの温度が宿っている。彼は頬にかかる髪の一筋に視線を落とし、整えようと指を伸ばした。だが、何かを取り落としたかごとき、その指は宙に留まっている。


「どうしたの?」


「いや……この角度の光なら、苔の色は……」


言葉が詰まる。彼が色の名前を言いかけて止めるなんて、かつてはありえなかった。彼にとって言葉は絵具の箱のようなものだった。必要な色は、考えるより先に指先で掴めたはずだ。心の底でが少し縮む。


「翡翠よりも、青磁ね」


エララが代わりに言うと、アレスは小さく頷いた。指先の糸をそっと収める。


「そう、青磁。口の中に金属の膜が薄く張りつく、あの青だ」


「ええ」


それ以上は触れない。彼の中の欠落に爪を立てる時ではない。別の対象に集中すべきだ。エララは視線を背後の林へ流す。枝の影が風と合わぬ揺れを見せ、水面の反射にだけ浮かぶ足跡。鼻腔に淡く刺さる硝子を指で擦ったときの乾き。粉の匂い。知っている。


「幻影のシオン……」


名前を心で呼ぶだけで、舌の付け根に苦みが広がる。廃村の井戸の縁、月光に焼かれた白い石の輪の中で、彼は影絵のような輪郭をまとい、意味のある言葉は一つも残さなかった。去った後には、虎の瞳の匂いだけが漂う。普通の幻影は匂いを持たない。だが彼の幻はわずかに擦れ、空気はガラス瓶の内側のように乾き、瞬きの裏に粉の薄膜が降る。


エララは肩をほぐすように半歩前へ出た。歩幅を変え、アレスの構図を壊さず、それでいていつでも割り込める位置取り。声は出さない。彼は端正を守るのに夢中で、醜さには目が向かないことがある。だから彼女が代わりに見る。


「道が二つに分かれている」


足元へ低く響く声。視線の先には苔に覆われた古い石碑が倒れ、そこから右は川沿いへ、左は丘へと道が分かれる。川の流れは速く、岩の間で白い泡が砕ける。左の道は苔が厚く、足跡を覆っている。


「左に行くべきね」


エララは即答した。川沿いの反射は幻影にとって居心地が良すぎる。鏡は彼の棲家だ。左の道は風に削られて、幻影の輪郭は脆くなっていく。


「理由は?」


「苔の陰影が美しいから」


アレスはそれで納得したように頷き、迷わず左を選ぶ。石碑に手をかけると、倒れた角度が均衡を崩していることに気づいた。石の端をわずかに持ち上げた瞬間、苔の下から黒いヤスデが這い出す。エララは目を眇めた。動きが遅すぎる。光を避けるどころか、むしろ寄っている。


その時、葉に映った影が笑った。


竜の牙が脊椎の奥で立つ。尾が内側でしなり、今にも叩き潰さんと震えている。指を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みは冷静を保つための楔。


「アレス、手を」


手首を掴み、陶器のように冷たい肌を自分の熱で包んだ。ほんの一呼吸。アレスは怪訝そうに首をかしげる。


「何か?」


「いいえ。ただ、滑りやすいから」


エララは微笑む。彼の視線が短く自分の顔を探り、すぐに石碑の角度に戻った。彼が求めるのは整えられた落ち方だ。彼女が守りたいのは無傷の彼。求める方向が違うからこそ、支え合える。


少し歩くと丘は低い息を吐くようにゆるやかに上がる。風が増え、乾いた匂いが薄らぐ。それでも背中を刺す視線の重なりは消えない。幻影は足跡を残さないが、尾行の癖は隠せない。距離を一定に保ち、覗き込む角度がいつも少し高い。やがて視界の端を薄紫がかすめた。夜明け前の空の色──シオンだ。


エララは足を止めず、舌の先にべったりとした甘さを感じる。怒りの予感の味。彼女の愛は熱く、わずかな邪魔にも牙を剥く。蜂だろうと、言葉で触れようとする者だろうと、排除する。壊して、捨てて、彼の世界を守る。でも今は試されている。衝動だけでは越えられない門だ。


息を吐く。幻影のシオンにここで血を流せば、風景が濁る。アレスの視界で誰かの血が風に溶けるのを、彼女は最も嫌う。


「石段の踏み段、少し直しましょうか」


声の震えを隠して平静に言う。古い石段が先に口を開けている。段の高さは不揃いで、苔が滑りやすい。アレスは嬉々として近づいた。掌から細い糸を出し、石の角をほんの少し削って段を整える。自然に見せるための嘘を、自然の中へ返すように。


その間、身を少し斜めにして立ち、彼の背後を覆った。視線の角度を遮り、足の位置、肩の開き、すべて計算ずくだ。幻影の揺らぎが彼の指先の動きに寄り集まるのを見逃さない。シオンは、見ている。彼の眼の快楽を、彼女の愛の熱を。何一つ触れず、最後の一線を越えず、眼だけで絡め取る。


風の中に、笑いが混ざった。音ではなく、糸の擦れる音。


「ねえ、エララ」


アレスが訝しげに言う。「ここを過ぎると、匂いが変わる。灰と鉄の匂いだ。聞いたことがある。拳で岩に穴を開ける男が、この辺りで試し打ちをしたんだって」


「噂?」


「風除け小屋の老人が言っていた。名は……」


言葉が途切れる。エララは狩人のように反応したが、遮らない。瞳の奥で名前の像がほどけ、糸玉さながら転がるのが見えた。彼は眉間に指を当てて言葉を探し、やがて。


「武闘の……何とか」


「バルガス」


エララが答えた。記憶はまだ折れていない。ところどころに薄い霜が降りているだけだ。声で霜を溶かせばいい。笑ってみせる。


「拳で岩も砕く、って。竜じゃないのにね」


「荒い痕跡が残るはずだ」


アレスは真顔で頷く。


「美しくない」


「ええ、まったく」


彼の美意識は彼を守る刃。荒さや醜さを嫌う彼は、危険の匂いを鋭く嗅ぎ分ける。拳が石を叩いた跡は、彼にとって厭な皺だ。ふっと安堵しつつ、彼の視線の延長線上にある林の影に短い裂け目を見る。薄紫の残光が樹皮の皺からこぼれ落ちた。シオンは興味深いものを見ると近づく。危険にも興味本位で近づく。バルガスの噂が出た瞬間、こちらへの寄り方を変えた。それが彼の癖だ。


「行こう」


エララが促し、足取りを少し速める。シオンの視線の追い方は先ほどより軽い。踊るような尾行のステップに合わせて、呼吸を低く抑える。


石段を登り切ると、うねるように広がる草地が現れた。半ば枯れた草が金と茶の境界線で互いを侵食する。遠くで鷹が輪を描き、翼が光を削る。足元は細かい割れ目だらけで、暗い土が埋まっている。アレスはしゃがみ込み、割れ目と土の色の対比をじっと見つめた。エララは彼の背に影を落としつつ、周囲を警戒する。


「風が変だ」


エララが呟く。空気が微かに繰り返すように揺れる。草の穂先、風の音、同じ角度とリズムで揺れ、繰り返しが重なっている。彼が使うループは嫌いだ。幻影のシオンは世界を折りたたみ、都合のよい折り目だけを見せる。アレスは皺を嫌うが、その端正さを見誤ることもある。許せない。彼に絡む線は自分だけのもの。どんな眼も指も、彼を弄ることは許さない。壊せば簡単だ。声一つでこの草地すら薙ぎ払える。内側の竜が甘く囁く。


喉に指を軽く当て、竜の吐息を一本だけ漏らす。風が路地裏の猫のように足元にまとわりつき、回り方が変わる。織り目にずれが生じ、小さな綻びが浮いた。そこに薄紫の瞳を持つ青年の横顔が一瞬映る。薄い笑みは皮肉も嘲りもなく、ただ「気づいたね」と告げている。


返さなかった。視線も動かさず、瞬き一つの時間だけ口角をわずかに上げる。笑みは刃の裏側だ──お前が見える。お前には触れられない。触れれば切れる。


「エララ」


アレスが立ち上がる。手袋に土がついているのを嫌い、指先で払う。塵が朝の光の中で舞い、その粒は結界の白い粒子のように見えた。彼の顔が一瞬遠くなり、瞳はここではないどこかの庭の形を追っている。胸が痛む。彼の世界が、彼の中で少しずつ薄くなっていく未来を知っているわけではないが、予感はある。結界の糸がところどころ解けやすくなっている。糸は彼自身と繋がっているから、彼が時折言葉を失うのも理解できる。


「どうかした?」


エララは問いを飲み込み、言う。


「あの先に大きな石のアーチが見えるわ。そこでひと息入れましょう」


「ああ。日差しが強くなってきた」


歩き出す。歩幅を合わせて進む。耳は背後の空気をずっと聞き続けている。幻影は静か。静かであること自体が音だ。シオンは動かない。動かないように見せるために繰り返しを重ねている。吐息が彼の織り目に小さな波紋を立てたため、今は少し距離を取っている。自分が見られていると悟ると、面白がって距離を変える男。これ以上詰めれば、爪を剥き出さざるを得ない。だから絶妙な距離感を外さないのがシオンの「上手さ」だ。


アーチは古い石を積み上げただけの簡素なもの。苔が光を含み、細い蔦が絡まり、隙間から青空が覗く。アレスはその下に立ち、天を仰いだ。瞳がわずかに灼けるような眩しさを受け止め、満足げに吐息を漏らす。不揃いの石の積み方が、どこかでバランスの取れた偶然を生んでいる。口が開き、今日もきっと比喩が零れるはずだったが、言葉を選ぶ前に止まった。


沈黙の中で、彼の手の甲にそっと触れる。はっと現実に戻ったように彼が瞬きをする。いつもの彼に戻り、微笑んだ。


「休もう」


「ええ」


アーチの影が石の冷たさを育む。ふたりは腰を下ろし、わずかな水を分け合った。風が草を撫で、髪の端を持ち上げる。アレスはバッグから薄い紙を取り出し、何かを書き留めるように見えた。描かれる線は、まるで風景の骨格のようだ。骨が見える男。紙の上でも世界を整える。


その横顔を見ていると、胸に静かな怒りが満ちていくのを感じた。怒りはシオンに向けられている。彼の眼差しは対象を傷つけないけれど、観察そのものが刃になることがある。彼は物も人も見世物にする。そんな軽さが、歯ぎしりを誘う。


「エララ、何か気になる?」


アレスが繊細に視線だけを向ける。体のわずかな緊張の変化を察し、その敏感さは結界の精密さを支えると同時に、脆さでもある。


「ただ、風が変なの。……でも、心配しないで」


「風?」


「同じ風が三度通ったみたい」


エララは立ち上がり、影の外へ一歩踏み出した。胸で風を受け、目を細める。


「重ね刷りのようね」


ぽつりと言葉が零れる。「印刷の失敗みたいに、二枚目が少しずれて重なっている。風がそう見えるの」


「あなたがそう言うなら、きっとそうだろう」


アレスは微笑む。彼の比喩は彼の中だけで通じるが、彼女の中でも通じている。彼の世界を愛し、その世界は内側で膨らんでいく。


しばらく休憩した後、アレスは紙をしまい、手を差し伸べた。短い迷いの後に確かな力が宿り、歩き出す。アーチを離れると、幻影の気配が濃くなり、背中に小さな針のような感覚が増えた。敢えて振り返らず、緩やかに首を傾げて汗で額に張りついた髪を耳にかける。その動作の端で視界の隅に影が縦に伸びた。木立の間に立つ細身の人影──シオンだ。


相変わらず、触れずに見つめている。ことさらに何もしない。尾行を踊りに変える男。瞬きを一つ。爪を出さずに選ぶ。目に見える罠も見せない。背を向ける。守るべきものの位置は変わらない。アレスのすぐ傍だ。


「ねえ、アレス。里に着いたら、最初に何を見る?」


エララが水面を撫でるように問いかける。彼を日常へ誘い入れる。


「門だ。境界だ」


即答が返る。「門の歪み方。門は最初の嘘だから」


「嘘?」


「世界を内と外に分ける線は自然にはない。誰かの意志だ。その意志の曲がり方を見る」


「ふふ、あなたの好みの曲がり方ならいいわね」


アレスは短く笑い、その笑いは風に溶けていった。歩みは続く。幻影はついてくる。尾行のテンポが少し遅い。彼女がそれを意識していることを彼は楽しんでいるかもしれない。内側で竜の尾が地面を軽く叩いた。音は聞こえないが、振動は骨に届く。この振動の扱いこそ、自分の成長だ。怒りを塩に変え、舌で味わい飲み込む。後に残る甘みを知る。


やがて道は再び川に寄る。今度は狭く、透明な水の底に丸い小石が光る。反射は深い鏡だ。エララは川岸を避け、岩の上を渡る。アレスに手を差し伸べる。彼の足取りは軽いが、滑りやすい石が不意をつく。指と指を絡め、自分の熱を伝える。彼は眉を寄せ、すぐに笑ってその熱を受け入れた。その笑みの薄さも見逃さない。


「もうすぐ里の前哨地ね」


独り言のように告げ、試練が近いことを自覚する。血ではなく、言葉と視線と沈黙で切り結ぶ場だ。呼吸を整える。幻影はまだ絡みつく。もう一度だけ掻き乱す。竜の吐息を先ほどより強めに漏らす。風が草を逆撫でし、川面に波を立てて鏡を割る。破片の反射に薄紫の瞳がいくつもこちらを覗く。どれも彼で、どれも彼ではない。幻影は笑い、軽く会釈する。エララは無表情のまま応じ、視線はアレスの横顔に留まった。


道は木々に吸い込まれ、低い枝が額に触れる。枝先には白い布が結わえられていた。風の祠が近い証だ。里に入る者はここで風に息を返す。エララは立ち止まり、布に一瞥を投げ、心の中で祈った。


「彼の記憶が、まだ保たれますように。彼の眼の庭が、崩れませんように。いつか彼の口から私の名がこぼれても、拾えるように」


掌を見る。爪の跡を閉じ、息を吐いた。


「エララ?」


アレスの声がいつもより柔らかい。顔を覗き込む彼の瞳に薄い懸念が差す。何かが違うとすぐ気づくその敏捷さ。結界を支える感受性であり、同時に脆さでもある。


「大丈夫。少し風に酔っただけ」


「酔うほどの風じゃない」


「あなたが整えているから」


彼は照れくさそうに笑い、その笑顔に緊張が少し溶ける。背中の棘は消えない。幻影はまだいる。祠を過ぎれば遠のくだろうか。里の結界は他者の幻を嫌う。シオンがそれをどれほど嫌うかは分からない。臆病ではない。近づけるところまで近づく男だ。


白い布の下を潜り、ふたりは揃って頭を下げ、風へ息を返す。アレスは小さく囁いた。祈る男ではない。彼の祈りは構図に向く。けれど今日は、息を返した。横顔を見て、彼女も倣う。風が彼の額の髪を持ち上げ、透明な影が頬に落ちる。


祠を越え、気配がわずかに薄まる。幻影の織り目は滑らかさを失い、里の結界の遠い余波が漂う。シオンは引いた。肩から重みが少し落ちたが、消えたわけではない。遠くから、薄紫の視線が流星の尾のように背後に残る。不吉の印であり、告知でもある。四天王の一角がこの地で拳を打ち鳴らしたという噂。見ている眼は一つではない。シオンだけが尾行者ではない。世界の線がいま、彼らへ集まる。


歩きながら、エララは心の底での竜に触れた。静かに。おとなしく。今は牙を見せる時ではない。壊すのは簡単だ。守り通すのは難しい。成長とは、その難しさの中で安らげる姿勢を身につけること。アレスの手を軽く握り、爪を仕舞い、空を仰ぐ。薄い白雲が長く伸びていた。誰かの指で引いた線ごとく長い。アレスなら「乱れ」と呼ぶかもしれないが、エララは小さく笑い、心の中で訂正した。


これは約束。まだ遠い、里の門の向こうで待つ試練と。そして彼と歩幅を揃え続ける自分自身への誓い。

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