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第5巻 第2章 魔王軍の焦り(5)

境界に足先を掛け、アレスは一歩を刻んだ。薄い膜が靴底で裂け、粉じんが白く跳ねる。舌に乾きが触れ、喉がすっと冷えた。もう一歩。背後の空気が遠のく。内側の澄みが背からほどけ、肩に薄い重さが乗る。


膝下から伝わる手触りが急に変わる。さっきまで均一に湿りを残していた土が、軽く、空洞めいた音を返した。踏むたび微塵が立ち、頼りない重みで沈み込む。草はない。地面に貼りついた繊維の影だけが、かつての名を失った。


「……醜い」


息を滑らせるほどの声。灰色の空へ溶ける。


衣擦れ。半歩遅れてエララが境界を踏み越えた。翼膜がきゅっと開く。空気の筋を舐めるように探り、潮の向きと温度、金属の匂いを舌で測る。鱗に細かな粒が触れ、重みが微かに移る。それでも視線は別へ向かう。アレスの横顔。喉の動き、眼差しの角度、唇の硬さ。


「外の空気は毒っぽいですね。直接吸い込まないで」


彼の視界を遮らぬ高さに身を滑り込ませる。外界と彼のあいだに、薄い壁。風が翼の縁で鈍い光を孕む。肌へくる刃をそのまま受け止める形だ。


「自分の肺は使わない」


アレスは短く答え、右手をかすかに動かした。声は要らない。透明の膜が二人を包む。外気を柔らかく弾く薄布。縁は歪まず、光に虹が滲む。


「……ん」


エララは一瞬だけ息を細くする。汚れた地の上で、彼が紡ぐ膜だけが静かな秩序を持って立つ。その対照が胸を締める。腐った色面の真ん中に打ち込まれた一本の線。そこに彼がいる。それだけで、内側が熱を帯びる。


「匂いがひどい。焦げと酸が混ざっている」


「地面が焼け縮んだ跡ですね。内部から縫い縮めたみたい。ほら、縁が尖っています」


彼女が指で示す。裂け目の断面が焦げ色に固まり、紙灰の白へ抜けている。靴底の触感は脆く、薄い渦を作るたび、すぐ座り込んでいく。


露出した岩は黒と紫、腐れ緑が層に沈着していた。石の内側まで汚れが染みた気配。ところどころ白い結晶が噴き、古い痛みの瘤のように膨れている。


「ここに何かが在った気配はするのに、もう終わってる匂いが勝っている」


「終わったのも雑だ」


アレスは目を細める。遠方、枯れ木の骨格。角度が狂い、並びに意図がない。灰の空は平らだ。雲形が消え、光が色差を奪う。


「アレス様、その…」


エララは一瞬だけ言葉を選び、口を閉じた。視線の奥で氷の細片がきらりと光る。笑みは穏やか。背に乗せた魔力だけが温度を落とす。


「足元気をつけて。崩れやすい」


「見ている」


彼の声は乾いた石の響き。怒りではない。評価に近い冷ややかさ。


「醜は醜を呼ぶ連鎖だ。ここには端正の欠片がない」


「呼ばれて集まった、ということですね」


「そうだ。瘴気が殺したというより、似た波長が選んだ」


エララは彼の横顔を盗み見て、肩をそっと下ろす。石畳の欠片が歯列のように地表へ突き出している。なぞるように歩いた。


「これ、道の名残でしょうか」


「規則を学ぼうとした跡がある」


アレスの視線が台座へ落ちる。かつての広場の中心。曇った結晶に覆われ、上に載っていた像は、蝋が崩れた塊のようになっていた。


「人の形だったはず。輪郭が溶けきっています」


「意図は読める。中心の水、左右をそろえた配置、入口からのまっすぐな導線。学んだ。しかし——」


彼は台座の縁に触れない距離で肩を傾け、石目を見る。


「学ぶことと体現は別だ。肌理が荒い。比が鈍い。装飾の密度を均等にしたせいで視線が迷う。目指したが届いていない」


「届かなかったものの残骸が、いちばん惨く見えるのですね」


「そういうこともある」


声に抑揚はない。断面図の説明のようだ。それが逆に重い。


「もし私が組むなら」


その一言に、エララの耳が澄む。


「正方は散る。長い矩形にして比を一定にする。導線は一方向へ集める。水は中央からずらす。奥の三分の一。視線はそこで止まらず、正面へ抜ける」


「床材は?」


「暗い石。柱と水盤は白。暗と明の反射で奥行きを作る。装飾は点に絞る。余白を恐れない。余白が価値を決める」


淡々と流れる構図の語り。誰に見せるためでもない内側の図法が、刺激で表へ出る音だ。エララは音節一つも落とさぬよう、胸の奥に刻む。


「じゃあ、ここに残っているものは邪魔になりますね」


アレスがふと沈黙する。その隙間へエララが滑り込む。


「この一帯、いったん平らにしましょう。壊れた形も、結晶も、あの像の名残も。掃除をして、アレス様の構想を置くスペースを作る」


「更地には意味が薄い」


視線がエララへ戻る。


「価値がある荒れは、その荒れ自体が表現になる。だが、ここは違う。廃れてなお何も語らない。ただの重りだ。……なら、平らにした方がまだ使える」


「了解」


エララの声に硬い芯が通る。竜の姫としての力が姿勢にひっそり宿る。言葉の先に実行が立つ言い方。


「どの範囲まで掃う?」


「広場の縁まで。台座は消す。あと、あの黒い筋は根ごと掬う」


「根はかなり深い。地が鳴りますよ」


「鳴らせ」


短い許可が落ちる。その一語だけでエララの口元に淡い笑みが浮かんだ。指先で空気を撫でた刹那、背の翼膜の下で冷えがさらに強くなる。彼女の背後で、氷の音が極小に裂けた。


二人は歩を進める。廃れは続く。瘴気の染みが地表を這い、色の差が潰れる。アレスは欠落を観察し、エララはアレスそのものを観る。足音の間に短い言が挟まる。


「光の角度が変わった」


「西が濁ってきました。薄かった光が、もう持ちません」


「紫が落ちる前に場所を決める」


「風が止まる気配。音も少ない。結界を張るには、あそこが平ら」


彼女が顎で示した先に、転がる幹が一本。皮が剥け、芯が炭のように硬い。指を置けば砂ごとき崩れそうなくらい薄い。


「……触らない方がいい。粉になる」


「触れない」


アレスは短く答え、視線の先を撫でる。彼の眼差しに熱はない。冷ややかな拒絶がわずかに潜む。生理に近い不承認。夜へ沈みかけの外観は、何ひとつ語らない。


「来ます」


岩陰からぬめる気配。戸口に集まる虫のざわめきに似た波。エララは首を少し傾げ、翼膜の内側へ細い光を走らせた。それだけで警告には足りる。次の瞬間、暗がりの底から泥の塊が這い出す。骨の構造を忘れ、人と獣の境界も無視した異形。奥歯に土を挟んだような音を漏らす。


「触れさせません」


エララは静かに立った。息を一つだけ捨て、腕を伸ばし、指を弓に。音のない炎が指先へ集まる。流れる線が異形の眉間に落ちた。声は出ない。塊は灰の粉と粘る黒に割れ、沈む。


アレスの視線は動かない。結界の布が彼に届く前に、エララは炎を消す。背中の空気が少し温かい。その温度差だけで、彼女の胸に小さな満足が灯る。


「もう一体」


「見えている」


アレスが指を鳴らす。乾いた音がひとつ。空間にうっすら幾何が浮き、ぬめる気配の核だけが砂に還る。詠唱はいらない。言葉は、不要。


「……手を煩わせました」


「歩く」


やがて光が萎む。日の終わり、という言い回しが似合わない。最初から薄かったものが、最後の意地を失うだけだ。空は紫紺から腐った黒へ滲み、星は出ない。頭上に膜が敷かれているみたいに、輝きが拒まれる。地面から浅い腐臭が立つ。風はないのに、空気がわずかに揺れる。


アレスは足を止め、周囲を一度なでるように見渡した。疲労は見せない。恐れも要らない。ただ、静かな拒絶が瞼の動きに混じる。


「ここで良い」


短い合図。手が上がる。淡い光が滲む。白でも金でもない。定義そのものを形にしたような輝き。線が空間に現れ、織り重なる。


「隔て」


低く一言。半球が降りた。十数歩の直径、透明な壁が夜の黒を拒み、内側だけをやわらかく照らす。床に石が敷かれる。一つ一つの角がそろい、隙間の幅も揃う。空気が変わった。腐臭が消え、名のない清潔が満ちる。


「……ふふ」


エララは結界に足を入れ、肌の表が反応するのを楽しんだ。粘ついた汚れが剥がれ、血の巡りが整う。ここにはアレスの意が染みる。選び抜かれた透明、許された沈黙、音の捨て方。空気の粒にまで彼の判断が宿る気がする。彼の内側へ招かれるのと同じ意味。


「中心に座って」


「うん」


アレスは中央に腰を下ろし、一度だけ瞬きをした。まぶたの裏に外の醜が消える。顔に浅い安堵が差した。彼は目を閉じ、呼吸を深く整える。今日の汚れを、ようやく手放す所作。


エララは少し離れた位置を選ぶ。膝を抱え、彼を斜めに見る。距離を測る。近すぎれば思考の流れを乱す。遠すぎれば守りに支障が出る。最適点。そこで座り、呼吸を合わせ、耳を広げ、外側の揺れを聴く。


「匂い、消えましたね。ここは…落ち着く」


「必要なものだけがある」


「石の角、全部同じ触感。隙間の幅も同じ。触っているだけで、胸が静かになる」


「余白が効いている」


「余白が、ですか」


「詰めるだけが能ではない」


彼の声が薄く落ちる。エララは石の角を指先でなぞる。角は同じ角度、同じ温度。石と石の間に置かれた余白が心地よい緊張を作る。彼の手だ。彼の趣味。こういう場所なら、息が楽になる。彼の在り方に寄り添うのが容易だ。


「アレス様」


囁き。返事はない。彼の胸が上下する。そのリズムが一定になり、肩の力が抜ける。


「あの広場、さっき言ってた比の話。黄金比、とか?」


「名前はどうでもいい。目が楽になる比がある」


「目が楽に…それを私も覚えたい」


「見る回数を増やせ」


「見せてくれますか」


「機会があれば」


短い言。エララは微笑む。背後で、氷の粒がきくりと鳴る。彼の言う「機会」は、約束だと彼女は知っている。


ドームの外で、瘴気が風もないのに波立った。腐った大地が浅い息を続ける。遠く、崩落がひとつ、鈍い音を落とす。気配がこちらへ寄る前に薄れ、別の方向で膨らむ。ドームはそれを拒む。硬い壁ではない。密に編まれた理屈。侵入を許せば内側の秩序が壊れるものは、波形の段階で弾かれる。


「さっきの異形、眉間でしたね」


「そこしかない」


「外骨格も筋もないのに、核だけはある。不思議」


「核があるから形を持つ」


「核が厄介」


「厄介だが単純だ」


「単純なものの方が、壊すのは、楽しいですね」


笑み。声は柔らかい。穏やかな笑みの奥で、床から微細な霜が一筋だけ立った。


「霜が出ている」


「温度、下げすぎました?」


「少し」


「戻します」


指先がゆっくり開く。霜の線が消えた。


「ここで夜を過ごすの、嫌じゃありません?」


「嫌なら張らない」


「そうでした。私は好きです、こういう夜」


「外がひどいほど、内は必要になる」


「外が、ひどい」


「ひどい」


同じ言葉。二人とも声を落とす。


「どうして、ここまで荒れてしまったのでしょう」


「弱い意志が多数集まると、こうなる」


「弱い意志」


「形を持つ前に、数で場所を占める。手間の少ない飾り、似た声、似た顔。視線の流れが壊れる」


「視線の流れ」


「見る者の呼吸を決める流れがある。呼吸を壊すものは、すべて余分だ」


「呼吸を…壊すもの、全部どけたくなる」


エララの声が小さく落ちる。笑っているのに、眼差しは深い。背で翼が小さく羽ばたいた。ドームの空気が微かに揺れる。


「眠れ」


「眠りませんよ」


「その役割はお前だ」


「はい」


素直な返事。彼女の胸に灯る熱は、上品な喜びではない。水面下で噴き上がる渦。表へ出すには危うい形。二人きり。この作られた空間に彼と自分だけ。外では瘴気がのし歩き、廃墟が朽ち続ける。もし何かがここへ寄るなら——エララの瞳に一瞬だけ金が走る。それだけで十分な告知。来るな。


「喉、乾いていません?」


「いらない」


「温度、大丈夫?」


「平気だ」


「音、気になります?」


「外の音はもう消えた。ここでは」


「よかった」


アレスの呼吸は安定した。目を閉じ、外の像を切る。開ける必要はない。開ければ、外がある。今夜、外は彼に必要がない。


「明日は、どこへ?」


「広場を掃う。根を断ち、結晶を砕く。台座を消す。その後で、線を引く」


「線、引くのを見るの、好きです」


「見るものではない」


「ええ、でも見たい」


「邪魔をするな」


「しません」


エララは膝に頬を載せ、目を伏せる。石の温度が頬へ伝わる。冷たすぎず、熱くもない。胸の内の特別な炎が静かに揺れる。名づけを拒む熱。誰かの言葉に収まり切らない。彼のためだけの形。


「あなたは、どうしてそんなに怒れるのですか」


「怒っていない」


「じゃあ、何です?」


「不要なものを除くだけだ」


「除いた後、何を置くのです?」


「必要なもの」


それで十分らしい。エララは満足げに目を伏せる。彼の言葉は短く、無駄がない。短いのに、内側に広がりがある。


「音、ひとつ来ます」


遠くで小さな衝撃。結界の外周を掠めるような圧。エララは視線だけを外へ向ける。黒い塊がひとつ、光に反応して近づき、触れて、弾けた。波紋が広がる。内部へは届かない。


「今のは?」


「形になり損ねたもの。ぶつかって散りました」


「散って良かった」


「ええ」


外の闇は濃くなる一方だ。音はさらに少ない。ドームは夜を閉じる。切り離された小宇宙。ここでなら、アレスは一日の汚れを削ぎ落とし、次へ進むための静けさを取り戻せる。欠けのない曲線に囲まれ、釣り合いの取れた空気に満たされる。


「目、閉じたままでいいですよ」


「閉じている」


「そうですね」


会話は短く、しかし交わされるたびに空間の密度が整う。


「さっき、私が『鳴らせ』って言われて、嬉しかったです」


「命令が好きか」


「命令というより…方向が示されるのが好き。やることが明確だと、体が動きます」


「なら、明日も指示する」


「はい」


嬉しそうに笑う。背後で音がわずかに揺れ、すぐ収まる。


「あなたの庭、広げたいですね」


「庭?」


「アレス様の論理が満ちる場所。外の汚れを寄せつけない場。もっと増やしたい」


「手は足りない」


「手なら、ここに」


エララは自分の手を見せる。指先に薄く氷の光。笑みは優しい。眼差しの奥だけが深い。


「頼む」


「ええ」


たった二文字の依頼。それだけで彼女の胸に火がつく。静かな、しかし深い火。


「眠っていないのに、眠っているみたい」


「それはお前の仕事だ」


「見張ります」


彼女は姿勢をほどき、全身の力を均等に落とす。目を閉じ、耳を開く。外の闇は続く。けれどここでは、二人のための夜が続く。


時間の進みは鈍い。呼吸の音が、空間の隙間を満たす。ドームの壁は透明。外の黒が押すたび、波紋が光る。


「あなたは、明日も『醜い』と言いますか」


「言うだろう」


「そのたびに、私が掃います」


「全部は要らない」


「要る部分だけ、ですね」


「そうだ」


「じゃあ、教えてください」


「教える」


「ありがとう」


囁き。ふっと微笑む。背中の氷の気配が、今は温い。


「眠っていないのに、眠っているみたい」と彼が言ったのは、エララの目が半分だけ閉じているからだ。半分だけ閉じた目で世界を見張れるのは、竜の血の特性。人よりも長く、深く、音もなく見張れる。


「呼吸、もうひとつ深く」


「……」


アレスは一段息を吸い、ゆっくり吐く。空気が肺へ入り、出ていく音がわずかに増える。肩の力がさらに抜ける。口角が少し緩む。


「いい顔」


「……」


返事はない。いらない。エララはそれだけで、胸の炎が優しく揺れた。


外側で、また一つ、遠い崩落。音が遅れて届く。ドームの縁で光が走って止まる。侵入を試みる波は、波形の段階で消える。ここは彼の論理の場。彼の庭。


「明日、広場の縁まで掃ってから、線を引くんですよね」


「そうだ」


「線を引くとき、私は…」


「邪魔をするな」


「見てます」


「見ろ」


「はい」


短い交換。言葉に無駄がなく、意味だけが残る。夜はまだ長い。椅子も寝台もない。床の石と空気だけ。なのに足りる。足りてしまう。


「あなたの声、今日は少し低い」


「外がひどいほど、低くなる」


「じゃあ、明日には戻る?」


「戻す」


「楽しみ」


エララは自分の声に熱が混じっているのに気付く。音もなく笑って口を閉じる。笑いの奥で、氷がまた極小に鳴る。


「……」


やがて、耳に入るのは二人の呼吸だけ。外の闇は厚みを増す。結界は夜を閉じる。切り離された小さな宇宙。ここでなら、彼は静けさを取り戻せる。


エララは目を閉じ、次の瞬間に備えて全身を解いた。張りが消える。張りを必要とする瞬間が来れば、即座に戻せる。今は下ろしておく。


「おやすみ、とは言いません」


「言う必要はない」


「ええ」


交わりはそこまで。夜は続く。外の腐臭は壁の外に留まり、内側は無臭の静けさを保つ。光は穏やか。音は少ない。熱は均一。


そして、ほんのわずかに、アレスの呼吸がさらにゆっくりになった。彼が完全に眠ったわけではない。だが、外の像は消え、内側の線だけが残る。エララはその線を守る灯となる。守りながら、じっと考える。明日、最初に崩すべき黒い筋の位置。地が鳴る範囲。外周に潜む気配の数。彼に触れさせないための動線。


夜が深くなる。星は出ない。頭上の黒は重いまま。ドームはそれを受け流す。二人のための夜が、確かに続く。

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