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第5巻 第2章 魔王軍の焦り(4)

三日目の夜。


 エララは荷を広げ、また畳み、また広げた。


 外套は三着。一着は風除け、一着は熱除け、一着は儀礼用。アレスが「三着も要るのか」と言ったのは昨日で、「要ります」と答えた声は平坦だった。平坦に聞こえるよう、喉の奥で音を殺した。


 竜の里。


 その名を胸の中で転がすたび、古い傷が軋む。幼い頃に見た赤い岩壁。熱い風。鱗を持つ者たちの視線。あの場所は彼女を育て、彼女を追い出し、彼女が二度と戻らないと決めた場所だ。


 戻る。


 アレスのために。


 荷の中身を確認する。封蝋、十二本。筆記板、固定具付き。耐熱紙、五十枚。高空用の呼吸補助具。通行紋の複製防止袋。すべて彼が快適に旅をするためのもの。彼が見たいものを見られるように。彼の手が届かない場所に、彼の目を運ぶために。


 指が止まる。


 荷の底に、小さな瓶が一つ。透明な液体。匂いはない。


 里の空気は、竜の血を持たぬ者には重い。使者はそう言った。エララも知っている。地熱が肺を灼き、硫黄が粘膜を侵す。結界師の身体は人間のそれだ。どれほど魔力が強くとも、肉体の耐性は変わらない。


 瓶の中身は、竜の涙腺から精製した保護液。鼻腔に数滴垂らせば、六時間は有毒な蒸気を中和する。里では子どもに使うもの。人間の客人に使った記録は、彼女の知る限り、ない。


 これを渡す時、何と言えばいいのか。


 「里の空気は少し重いので」——軽すぎる。

 「お身体に障るかもしれませんので」——彼は気にしないと言うだろう。

 「私が心配なので」——それは、言えない。


 エララは瓶を布で包み、荷の一番上に置いた。朝になれば、言葉は見つかる。見つからなくても、黙って差し出せばいい。彼は受け取る。いつもそうだ。彼女が差し出すものを、彼は疑わない。


 その信頼が、時々、刃になる。


 窓の外で、庭の噴水が月光を砕いている。水の音は一定。アレスが設計した周期で、寸分の狂いもなく繰り返される。この音を聞きながら眠る夜が、あと何度あるのか。里に着けば、音は変わる。岩を叩く熱水の音。風穴を抜ける唸り。鱗が擦れ合う乾いた響き。


 あの音を、彼に聞かせたくない。


 聞かせたくないのに、彼が聞きたがっている。


 エララは荷紐を結んだ。きつく。指が白くなるほどきつく。それから少しだけ緩めた。荷が潰れては困る。中身は彼のためのものだから。


 明日の暁。


 彼女は立ち上がり、窓辺に寄った。月が結界の膜を透かして、庭を青白く染めている。薔薇の影が石畳に落ち、幾何学模様と重なって、もう一つの模様を作る。美しい。彼が作った美しさ。


 里にも美しさはある。荒々しく、熱く、制御されていない美しさ。アレスがそれを見たら、何を言うだろう。「醜い」と言うかもしれない。「面白い」と言うかもしれない。どちらにしても、彼の目が輝くことは分かっている。


 その輝きを守るために行く。


 その輝きが自分以外のものに向くことを、耐えるために行く。


 エララは目を閉じた。瞼の裏に、赤い岩壁が浮かぶ。幼い自分が走っている。追われている。翼はまだ小さく、飛べない。足が縺れ、膝を擦り、血が出る。血は熱い。岩よりも熱い。


 目を開ける。


 ここは庭だ。アレスの庭。噴水の音。月の光。薔薇の影。


 大丈夫。


 荷は整った。外套は三着。瓶は一つ。心は——まだ、整わない。


 けれど朝は来る。彼が「行こう」と言えば、彼女の足は動く。いつだってそうだった。これからも、そうだ。


 エララは寝台に腰を下ろし、膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みが、思考を現在に繋ぎ止める。


 明日。


 四日目の暁。

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