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第5巻 第2章 魔王軍の焦り(3)

「竜の里、か」


 アレスの唇から、低い呟きが落ちた。

 その一語が、主庭の空気をかすかに震わせる。琥珀色の瞳の奥に、小さな火がともった。冷えた芯に初めて火種が宿る瞬間に似ている。弱く、細く、けれど消えない光。


 死の森を覆う結界の内側。

 そこに切り取られた円形の広場を、アレスは「主庭」と呼ぶ。


 七種類の常緑樹が、円を描くように立ち並ぶ。葉は同じ角度で陽を受け、星苔は石畳の継ぎ目を柔らかく覆う。指で撫でれば、湿り気と弾力が均一に返ってくる。池の水面には七枚の睡蓮。八枚でも六枚でもない。風が渡れば、葉擦れは硬い音を立てず、絹布を重ねて擦ったような低い響きになる。


 そこに立つアレスは、銀の髪を肩に流し、白い結界師の外套をまとっていた。ふだんは表情の動きに乏しい顔が、今だけわずかにほどけている。眉がほんの少し上がり、唇の端が二ミリほど持ち上がる。

 彼を知らぬ者なら、気づかない変化。

 けれどエララにとっては、冬の空に突然花火が開いたのと同じだった。


「初耳だ。地図にも載っていない。文献でも、断片がいくつかあるだけだな」


 アレスは使者へ視線を移す。


「古い詩篇にあった。『鱗の岩肌、紅の谷』と。あれは比喩ではなかったのか?」


 竜人の青年は、喉を鳴らして背筋を伸ばした。

 鎖骨の下に深紅の鱗が一筋走っている。首の側面では、呼吸に合わせて薄い膜が開閉した。人間の領域へ足を踏み入れることも、この森の主と相対することも、彼にとっては初めての試練だ。膝は折れかけているが、使命感だけで姿勢を保つ。


「は、はい。我らが里は、北方の霧氷山脈のさらに奥にございます。火竜が穿った地熱の谷、その底に」


「火竜が穿った?」


「古い伝承です。始祖の火竜が、凍りついた山を爪と息で裂いた、と。谷には今も熱が残り、冬でも雪は積もりませぬ」


「外界との交流は?」


「長く絶ってまいりました。ゆえに地図には記されず、旅人の噂にもなりませぬ。里の名を知る者は、竜の血を引く者か、ごく一部の古き盟約者のみです」


「なるほど」


 アレスは左手を顎に添えた。指先が頬に触れると、結界の糸がかすかに鳴る。鈴ではなく、氷に細い針を落としたような音。空気中に淡い光の粒が浮き、彼の周囲をゆっくり巡った。


「地熱の谷。なら、植生が違うはずだ。火に強い苔類、硫黄を好む地衣類。岩に見えて呼吸する古い植物もあり得る」


 彼は一歩、使者へ近づく。


「岩肌は紅だと言ったな。鉄分の酸化か? 鉱脈の結晶か? 谷底から見上げる空はどう見える。蒸気で滲むのか。それとも、薄い膜を通して青が変わるのか」


「え、ええと……」


 竜人の青年は目を白黒させた。問いが速い。責められているのではないと分かっていても、胸の奥が忙しくなる。


「空は、時刻によって色が揺らぎます。夜明けには、七色の帯が谷を横切ります。蒸気が光を曲げるのだと、里の長老は申しておりました。夕暮れには深い茜が岩肌の紅と溶け合って、谷全体が燃えているように見えます」


「燃える谷、か」


 アレスの瞳がはっきりと輝いた。


「夜は?」


「黒い岩の割れ目に、赤い熱が走ります。地面の奥から、細い息を吐く場所も。近づくと、硫黄の匂いと、濡れた石の匂いが混じります」


「音は」


「音、ですか?」


「風の音だ。谷なら反響する。蒸気孔があるなら、低い笛かのように鳴る場所もあるだろう」


「……ございます。夜更けには、山そのものが眠って息をしているように聞こえます」


「ほう」


 短い声。だがその一音に、隠しきれない熱がある。


「それは、見たい」


 揺るがない言葉だった。


 その横で、沈黙していたエララの肩が、びくりと跳ねる。

 深紅のドレスの裾を握る指に力がこもる。絹が、ぎち、と細く鳴った。


 彼女の瞳は、竜人の使者の喉元へ向いていた。縦に裂けた瞳孔が、瞬きも忘れてそこを捉える。使者の首筋、鱗、息を飲む喉。

 その前に、見えない線が引かれている。

 誰が引いたものでもない。彼女の内側で勝手に走った線だ。これ以上、主の心へ近づくな、と。


 けれどアレスが「見たい」と言った瞬間、エララの視線は反射的に彼の横顔へ移った。


 胸で、ふたつの熱がぶつかる。

 ひとつは、喜び。アレスが世界へ手を伸ばそうとしている。結界の中だけではなく、まだ見ぬ景色へ目を向けている。彼が何かを望むこと、それ自体がエララには眩しかった。

 もうひとつは、喉に絡みつく甘い棘。

 彼の目を輝かせたのは自分ではない。見知らぬ谷の色であり、それを語った青年の言葉だ。「虹色の空」「七色の帯」――その一つひとつが、胸の柔らかい場所へ刺さる。


「……お考え、なのですね」


 エララは声を整えた。柔らかく。けれど裾を握る指だけは、ほどけない。


「竜の里へ赴くことを」


 アレスが振り向く。

 彼の視線が自分に注がれた瞬間、エララの心臓は跳ねた。痛いほどの幸福。何度繰り返しても慣れない。


「ああ。考えている」


「すぐにでも?」


「準備は必要だ。だが、行く価値はある」


「……あの里は、外の者に優しい場所ではありません。竜の血を持たぬ方には、空気も熱も、少し重いかもしれません」


「君は知っているのか」


「少しだけ」


 エララは伏せた睫毛の下で、使者を一瞬だけ見た。

 にこり、と微笑む。唇だけで。背後の空気が、わずかに冷える。池の睡蓮の端に、薄い霜が一筋走った。


「詳しいことは、道中でお話しします。ね、使者殿?」


「は、はいっ」


 竜人の青年は背筋を跳ねさせた。なぜ寒気がしたのか分からない、という顔をしている。


 アレスは気づいたのか、気づかなかったのか。池へ視線を落とし、霜の線を見つめる。


「この庭を、もっと広げたい」


 彼は静かに言った。


「私は、まだ見ていない情景を知りたい。文献で読み、想像するだけでは足りない。岩肌の赤、虹色に揺れる空気、地熱で育つ苔。自分の目で見なければ、手が届かない」


「この主庭では、足りませんか」


 エララの声は、少しだけ細くなった。


「足りないのではない」


 アレスは首を振る。


「ここは私の基準だ。だが基準だけでは、先へ進めない。北側に、熱を帯びる岩を一基置くとどうなる。池の水面に蒸気を薄く流したら、睡蓮の影はどの角度で揺れる。赤い岩と緑の苔を並べた時、朝の光はどちらを先に拾う」


「……本物を見る必要がある、ということですね」


「ああ。本物を見ずに作るものは、誰かの言葉の影でしかない」


 アレスの声には、子どもじみた純粋さが混じっていた。

 大陸に名を轟かせる結界師の声というより、遠い祭りの灯を初めて見に行く少年の声。エララはその響きを愛している。愛しているから、止める言葉が喉で砕けた。


「ですが――」


 危険です。

 そう言いたかった。


 竜の里には、彼女自身がよく知る事情がある。古い血筋。閉じた掟。火の匂いに隠された争い。触れれば皮膚の下まで痛む過去。

 そこへアレスを連れて行くことは、自分の傷の上を素足で歩くのに等しい。


 行ってほしくない。

 せめて、自分が先に道を整えるまで待ってほしい。


 けれど彼女は、長い時間をかけて、自分の望みをアレスの望む形に折り畳む術を覚えてしまった。彼が見たいと言うものを、見せずにいられない。彼が行きたいと言う場所へ、導かずにいられない。

 それが彼女の愛し方だった。歪んでいても、彼女にはそれしかない。


「……私が、お供します」


 絞り出した声。

 アレスは当然のように頷く。


「もちろんだ。エララ、君がいなければ困る」


 何気ない一言だった。

 ただの同行確認。旅の準備に必要な、当たり前の言葉。


 それでもエララの頬に熱が差す。縦長だった瞳孔が、ふわりと丸みを帯びた。首筋に浮かぶ深紅の紋様が、嬉しさで淡く光る。胸でに溜まっていた黒い熱は、半分ほど溶けて流れた。

 半分だけ。

 残りは底に沈み、静かに息を潜める。いつでも噴き上がれる形で。


「……はい。おそばに」


 エララは小さく答える。

 その声だけは、甘く澄んでいた。


 アレスは使者へ向き直る。


「使者殿。里まで、どれほどかかる」


「徒歩であれば、二十日ほど。山道は険しく、霧氷山脈を越えるには案内が要ります」


「竜で翔べば?」


「三日にて」


「翔ぶのか」


 アレスの瞳が、また明るくなる。


「上空からも見られるな」


「はい。尾根の連なり、谷の口、蒸気の柱。天候がよければ、里へ続く紅の裂け目もご覧いただけます」


「地表からでは得られない眺めだ。山脈の襞、谷の輪郭、雲の影が大地に落ちる形。高度が変われば、同じ景色でも別物になる」


 彼は空中へ指を走らせた。見えない地図に線を引く仕草。

 足元の光粒がふわりと舞い、彼の指先を追う。池の睡蓮が一斉に角度を変えた。水面が薄く波立ち、夕陽を細かく砕く。


「竜の背は、揺れます」


 エララが言った。


「構図を確かめるなら、固定用の結界具が必要です。風除けも。高空の冷気は、谷の熱とは別物ですから」


「用意できるか」


「できます。飛翔中でも記録できるよう、筆記板も固定しましょう。紙は燃えにくいものを。蒸気で湿るので、封蝋も多めに」


「いいな」


 アレスは満足げに頷く。


「使者殿、竜での移動には何が必要だ」


「騎乗帯、鱗傷を防ぐ外套、あとは里への通行紋です。通行紋は私が預かっております」


 青年は懐から、赤黒い金属片を取り出した。掌ほどの大きさ。竜の爪で刻んだような紋様が走り、中心に熱がこもっている。


「それが門の鍵か」


「はい。谷の入口には、古い炎の門がございます。紋を持たぬ者が近づけば、道は霧に閉ざされます」


「興味深い」


 アレスが金属片を覗き込む。近づいた瞬間、熱が白い外套の裾をわずかに揺らした。焦げる匂いはない。ただ、暖炉の奥に残った炭のような香りが漂う。


 エララはその距離を見た。

 使者の手。アレスの視線。金属片。

 微笑みは崩さない。けれど背後で、薄い氷の魔力がまた漏れた。今度は池の縁に白い線が走る。


「あら、ずいぶん大切なものをお持ちなのですね」


「ひっ」


「落とさないでくださいませ。拾う時に、指を痛めてしまうかもしれませんから」


「き、気をつけます!」


「ええ。とても、気をつけて」


 エララはにっこり笑った。

 使者はなぜか両手で通行紋を抱え直し、深々と頭を下げる。


 アレスは空を仰いだ。主庭の上、結界越しの夕暮れ。外の森は死の気配を濃くしているはずだが、この円形の広場だけは、木々の影も水面の光も乱れない。


「決めた」


 彼は顔を上げる。


「竜の里へ行こう。準備は三日でいい。出立は四日後の暁」


 短い宣言。

 それだけで、庭の空気が旅支度へ傾いた。


「エララ、頼めるか」


「はい、アレス様」


 エララは深く頭を垂れた。

 垂れた角度の下で、唇が固く結ばれる。眉根が少し寄る。彼女にしか分からない痛みの形をした表情。


 アレスはそれを見ていない。

 見ていてくれない、と、心のどこかで彼女は思う。けれど、その見落としこそが彼を彼たらしめるものだとも知っていた。欠けのない景色へ夢中になる横顔。最初に彼女が目を奪われた横顔そのもの。


 主庭の睡蓮が、また同じ角度へ首を傾ける。

 風が、ふっと止まった。


 そして――ほんの一瞬。


 アレスは、隣に立つ少女の横顔を見た。

 何かを言いかける。


「エ……」


 唇が動く。

 次の音が、わずかに遅れた。瞬きにも満たない間。コンマ数秒の空白。


「――エララ」


 彼は、彼女の名を最後まで呼んだ。


 エララは気づかない。

 気づくべきではない。もし気づいてしまえば、彼女の内側で何かが崩れる。だから世界はまだ、優しく、四日後の旅立ちへ向けて動き始める。


 竜人の使者は拝礼し、退出のために身を翻した。

 その鱗が夕陽を受け、紅く光る。遠い谷の岩肌の色を、ほんの少しだけこの結界の内側へ持ち込んだような色。


 アレスはそれを見つめる。

 新たな景観への渇望に、心の底から無邪気に満たされながら。

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