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第5巻 第2章 魔王軍の焦り(2)

アレスの結界の内側には、いつも春がある。

 花は色を競うように咲き、土はほどよく湿り、陽光は葉の縁を黄金に透かす角度で降りそそぐ。風が通るたび、若草の匂いと花蜜の甘さが混じり、耳の奥を撫でるような葉擦れが庭を満たした。魔力で保たれた青空は高く、雲ひとつない。けれど空気には、ほんのわずかに硝子を砕いたあとのような冷たい気配が混じる。アレスが境界を維持する際にこぼす、淡い魔力の残り香だ。

 その穏やかな庭の片隅で、エララは白い指を胸元に添え、そっと目を閉じた。


 暖かな風が頬に触れる。

 だが、瞼の裏に広がるのは春ではない。


 そこは白銀の世界だった。

 一年を通して吹雪が途切れぬ霊峰の頂。雲海よりも高く、空気は薄く、ただ息を吸うだけで肺の内側に霜が張る。切り立った氷壁は刃さながら連なり、太陽は分厚い雪雲の向こうで鈍く霞む。

 常人なら一刻と持たないその場所を、竜族は故郷と呼ぶ。厳しさを退けるのではなく、身の内に取り込み、骨と鱗に刻みつける。それこそが竜の誇りだった。


 なかでも白銀竜の一族は、冷たさを徳とした。

 心を揺らさず、掟に従い、血を濁さず、一族を続かせる。笑うことも、怒ることも、嘆くことも、長たちの前では未熟の証とされる。鱗は氷より冷たく、吐息は吹雪を呼び、瞳は凍った湖面の色を宿す。心まで凍らせてこそ、優れた白銀竜。そう教え込まれて育った。


 記憶の中で、エララは氷の床に膝をついている。

 膝から伝わる冷気は肉を刺し、骨まで染みる。床に触れた指先はすぐに白くなった。吐いた息は霧になり、細かな結晶となって頬に落ちる。


 見上げた先には、巨大な氷柱を組み上げた玉座。

 その上に、ひとりの男が座していた。


 人の姿を取ってはいる。だが、肌のところどころに白銀の鱗が浮かび、背には畳まれた翼の稜線がある。長い髪は霜をまとった銀糸のようで、瞳には温度がない。

 彼こそが白銀竜の長。

 そして、エララの父だった。


「エララよ。お前もそろそろ、己の義務を果たす時期が来た」


 声は低く、広間の氷壁を震わせた。

 娘にかける言葉ではない。長が配下へ命を下すときの響き。ただ冷たく、重い。


 エララはゆっくり顔を上げる。


「義務、ですか」


「分かっているはずだ」


「一族の誰かと、番になれということですね」


 番。

 竜族において、それはただの配偶者ではない。魔力を交わし、魂の奥を預け合い、生涯を結ぶ相手を指す。多くの竜にとっては神聖な誓いだ。

 だが、白銀竜の里では違う。血を保ち、強い子を残すための取り決め。感情も、相性も、本人の願いも、氷壁の外へ捨て置かれる。


 父は眉ひとつ動かさない。


「そうだ。我らの血は尊い。薄めてはならぬ。お前は次期長となる身。相手には、ザイードが相応しい」


「……ザイード」


「魔力量、血筋、戦歴。どれを取っても申し分ない。話はすでに通してある」


 エララの指が、氷の床をわずかに掻いた。

 ザイード。

 その名を聞くだけで、喉の奥に冷たい棘が刺さる。強い竜であることは認める。けれど彼の視線は、いつも相手を品定めする。エララの目を見るのではなく、翼を、鱗を、血筋を、腹の内に宿す未来だけを見ていた。


「本人への確認は、最後なのですね」


「確認ではない。告知だ」


「私の答えが不要なら、ここへ呼んだ意味は?」


「従う姿勢を見せよ。それが姫としての務めだ」


 広間の空気が、さらに冷えた。

 けれどエララの声は揺れない。


「お断りします」


 一拍、音が消えた。

 吹雪の唸りも、氷壁の軋みも、遠ざかる。


 父の瞳が細くなる。


「……今、何と言った?」


「お断りすると申し上げました」


「聞き間違いではないのだな」


「ええ。私は、一族の血を残すための器ではありません」


 氷の玉座の周囲で、空気がひび割れる。見えない重みがエララの肩を押し潰そうとした。普通の竜なら、その場で膝を折るだろう。肋骨が軋み、喉が塞がるほどの威圧。

 それでも彼女は目を逸らさない。


「私の魂は、私のものです。誰と生きるか、誰に触れるか、誰へ身を預けるか。それは私が決めます」


「愚かな」


 父の声に、初めて硬い怒りが混じる。


「愛などという下等な揺らぎに身を任せるか。白銀竜は、そのような濁りをとうの昔に捨てた」


「捨てたのではありません。凍らせて、見ないふりをしているだけです」


「口を慎め」


「慎んできました。幼い頃からずっと。笑えば軽いと言われ、泣けば弱いと言われ、望めば浅ましいと言われた。では、何も望まずに息をするだけの生を、あなたは誇りと呼ぶのですか」


 父の周囲に、氷の刃が生まれる。

 一本、二本ではない。空気そのものが尖り、無数の切っ先となってエララへ向く。刃の表面に広間の青白い光が走った。


「掟こそが絶対だ」


「掟、掟、掟……」


 エララは立ち上がった。膝についた霜が砕け、白い粉となって落ちる。

 背筋を伸ばす。白銀の魔力が薄い霧となって彼女の周りに立った。


「あなたたちは本当に生きていますか。血を繋ぐために並べられた氷の像と、何が違うのです」


「黙れ」


「私は嫌です。あの男の隣で、息を数えられ、血筋を量られ、未来の子の器として扱われるのは」


「エララ」


 名を呼ぶ声が、氷より冷たく落ちる。


「お前はザイードと番になる。それが白銀竜の姫として生まれた宿命だ。逆らうなら、里から追放する。二度と白銀竜を名乗ることは許さん」


「それだけですか」


「なおも反くなら、裏切り者として一族が追う。空の果て、海の底、森の奥。どこへ逃げてもだ」


 追放。

 そして、追討。

 竜族にとって故郷を失うことは、翼をもがれるに等しい。同胞に狙われ続ける日々は、死より長く苦しい。

 それでも、エララの胸の奥に生まれたのは恐怖ではなかった。


 むしろ、何かがほどける音がした。

 長いあいだ首に巻きついていた氷の鎖が、ぱきりと割れる音。


「……上等です」


 エララは微笑んだ。

 父に似た冷たい笑みではない。もっと、底の見えないものを秘めた笑みだった。


「私が欲しいのは、この玉座ではありません。退屈な純血でもない。魂が震えるほどの相手です。私が、私のすべてを差し出しても惜しくないと思える相手」


「夢物語を」


「この里にいないのなら、外へ行きます」


「外は醜いぞ。弱く、騒がしく、汚れている」


「それでも、ここより息ができそうです」


 エララは背中の翼を広げた。白銀の鱗が氷の反射を受け、鋭くきらめく。

 父の顔に、初めてわずかな歪みが走った。


「待て、エララ。本気で一族を捨てる気か」


「ええ」


「戻れ。今なら、発言をなかったことにしてやる」


「優しい言葉のつもりですか」


「最後の慈悲だ」


「では、受け取りません」


 彼女は背を向ける。

 その瞬間、背後で氷刃が放たれた。風が裂ける音。首筋に冷たい線が走る。

 エララは振り返らない。片手をわずかに上げるだけで、白銀の障壁が背後に開いた。刃がぶつかり、砕け、床に散る。氷片が靴の踵に当たって澄んだ音を立てた。


「エララ!」


「あなたたちには、きっと分かりません」


「何をだ」


「熱を持って生きることです」


 それが、父と交わした最後の言葉だった。


 彼女は竜の里を飛び出した。

 吹雪が翼を叩きつける。雪は視界を奪い、風は進路をねじ曲げる。追手が来ることは分かっていた。里を捨てた白銀竜の姫など、長たちにとって許される存在ではない。

 それでも、奥底では不思議なほど軽かった。

 氷の鳥籠を抜けた。

 ただその事実だけで、凍える風すら熱を帯びて感じられた。


 ――そして、彼女は出会う。


 死の森の奥深く。

 獣も魔物も避ける暗い土地で、ひとりの結界師が、ただ一つの結界を作り上げようとしていた。

 名はアレス。

 彼は森のざらついた空気も、腐葉土の匂いも、枝の影が落ちる角度さえも気にした。石を一つ動かすたびに首を傾げ、光の筋がずれると眉を寄せる。境界の線にわずかな乱れを見つければ、食事も睡眠も忘れて修正を続けた。

 その執念は、竜の本能をざわつかせた。

 彼が目指す「瑕疵のない結界」は、冷たい掟よりも苛烈で、どんな玉座よりも孤独だった。だが、そこには熱があった。己の内から噴き上がるものを、ただ形にしようとする熱。


 エララは、初めて息を詰めた。

 この人だ、と思った。

 自分が里を捨ててまで探していたものは、この男の背中にあるのだと。


 記憶がほどけ、春の庭が戻ってくる。


 エララは目を開けた。

 視線の先では、アレスが花壇の前にしゃがみ込んでいる。黒い土を指先でつまみ、白い小花の位置をほんの少しだけずらす。陽光が彼の髪に触れ、細い光の線を作った。袖口には土がついているが、彼は気にも留めない。


「……違う」


 アレスが小さく呟く。

 指を鳴らす。

 それだけで花壇の縁石が音もなく浮き、半寸ほど右へ滑った。花びらについた露が震え、光を弾く。


「まだ高い」


 また指が鳴る。

 土の盛り上がりがなだらかに沈み、風の通り道が変わった。甘い香りがエララのほうへ流れてくる。


 その横顔を見ているだけで、彼女の内側が熱くなる。

 白銀竜の掟も、父の怒りも、追手の影も、今は遠い。

 この庭が、彼女の世界だった。アレスが見つめるものが空なら空を守り、花なら花を守る。彼の指先が触れた石一つ、彼の足音が残った土一粒さえ、踏み荒らされることを許したくない。


 エララはそっと立ち上がる。

 足元の草に、薄い霜が降りた。春の陽気の中で、そこだけ白く光る。彼女はそれに気づくと、何事もなかったように爪先で霜を散らした。


(大丈夫。誰も近づけない。あなたが眉をひそめるものは、私が先に片づける。あなたが望む形を壊す手があれば、その手が震える前に止める)


 胸に添えた指に、力がこもる。

 爪が布越しに肌へ食い込んだ。痛みは甘い。彼女は微笑む。とても穏やかに。


 そのときだった。


「……エララ」


 アレスの声がした。

 淀みのない、いつもの声。だが、どこか空洞を叩いたような響きが混じる。


「はい、アレス様」


 エララはすぐに駆け寄った。

 先ほどまで胸の内に沈んでいた熱は、花びらの下へ隠れる毒かのように消える。顔に浮かぶのは、ただ恋する乙女の笑み。白い頬に春の光が乗った。


 アレスは彼女を見ていた。

 正確には、彼女の方を向いていた。けれど瞳の焦点は少し遠い。目の前の人間ではなく、記憶の棚から見つからない札を探しているような目。


「……お前は、誰だ?」


 エララの息が止まった。

 風の音が遠くなる。花の香りが急に薄れ、指先の温度だけが落ちていく。


「私です」


 声が掠れた。

 彼女は一歩近づく。


「エララです。あなたのそばにいる、エララです」


 アレスは瞬きをした。

 その一瞬が、氷の広間で父に刃を向けられたときより長く感じられる。


「エララ……」


「はい」


「そうか。すまない。少し考え事をしていた」


 アレスはそれだけ言うと、何事もなかったように花壇へ向き直った。

 指先で土を均し、白い小花の茎を起こす。彼の動作は滑らかで、呼吸も乱れていない。


 けれどエララには分かってしまう。

 今の言葉は、ただ穴を布で覆っただけだ。底はそのまま空いている。


「アレス様」


「何だ」


「私の名を、もう一度呼んでいただけますか」


 アレスの手が止まる。


「……エララ」


「はい」


「それでいいか」


「ええ。十分です」


 エララは笑った。

 唇だけで。

 目は笑わない。瞳の奥で、青白い光が細く揺れる。


 アレスは気づかない。あるいは、気づいても別のことへ意識を移したのかもしれない。再び花壇へ視線を戻し、小さく呟く。


「この角度だと、午後に影が伸びすぎる」


「では、私が木を少し削りましょうか」


「不要だ。枝を落とすと風が変わる」


「そうですね。あなたの庭ですもの」


「庭ではない。結界内環境の一部だ」


「ふふ。では、その一部を見守っています」


 エララは彼の背後に立った。

 近すぎず、遠すぎず。アレスの影に自分の影が重なる位置。そこに立つと、不安で波立つ胸が少しだけ落ち着く。


 記憶喪失が進んでいることは知っていた。

 アレスは時折、昨日の作業を忘れる。食事を取ったかどうかも曖昧になる。森の外で起きたことなど、最初から存在しなかったように扱うこともあった。

 それでも、自分の名まで揺らぐ日が来るとは思いたくなかった。


(忘れてもいい。いいえ、本当はよくない。でも、あなたがこぼしていくものを、私が拾えばいい)


 エララはアレスの背中を見つめる。

 肩の線。指の長さ。土を払うときの癖。考え込むと左の眉がわずかに下がること。花の配置が気に入らないと、三度だけ瞬きをすること。

 全部、覚えている。

 彼が失うなら、彼女が持つ。彼が世界を取り落とすなら、彼女が両手で受け止める。


「エララ」


 不意に、アレスがまた呼んだ。


「はい」


「そこに立つと、花壇に影が落ちる」


「まあ」


 エララは一歩横へずれた。

 笑みは崩さない。だが背後で、春の空気がわずかに冷えた。花びらの縁に、針のような霜が生まれ、すぐに溶ける。


「ここなら?」


「問題ない」


「よかった」


 彼女は両手を前で組む。爪が手袋の内側を引っかいた。

 アレスに咎められたことが痛いのではない。彼の世界の邪魔になった自分が許せなかった。ほんのわずかな影でさえ、彼の望む光を遮ったことが。


 竜の里からの使者が、この庭へ近づきつつある。

 その気配を、今のエララはまだ知らない。

 だが、もし知ったとしても、答えは変わらないだろう。かつての同胞であれ、父であれ、ザイードであれ、アレスの春に土足で踏み込む者を、彼女が笑顔で迎えることはない。

 その名を尋ねるかもしれない。

 丁寧に。優しく。にっこりと。


 そして、覚える必要がなくなった名を、雪の下へ埋めるだけ。


 エララの周囲だけ、空気がひやりと沈む。

 だが彼女の胸の内には、凍土の底を流れる溶岩のような熱がある。白銀竜の力は、今や里のためではなく、ただひとりの男のために研がれていた。


 アレスは花壇の前で、また指を鳴らす。


「……これでいい」


 短い言葉。

 その瞬間、庭を渡る風の音が変わった。花々が一斉に同じ向きへ揺れ、陽光が白い花弁の上で細くほどける。土の匂いが深まり、春が一段、濃くなる。


 エララはその光景を見つめ、うっとりと目を眇めた。

 この人が作るものを守りたい。

 この人が忘れていくものを、すべて自分の中に閉じ込めたい。

 アレスが振り向かなくてもいい。名を呼び間違えてもいい。いつか自分を見知らぬ者として見る日が来ても、彼女だけは覚えている。


「私は、ここにいます」


 彼に聞こえるか聞こえないかの声で、エララは言った。


 アレスは振り返らない。


「何か言ったか」


「いいえ。花が綺麗だと思っただけです」


「当然だ」


「ええ。当然ですね」


 エララは微笑む。

 春の庭で、白銀の竜が微笑む。

 その足元に咲く小さな花だけが、理由もなく震えていた。

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