第5巻 第2章 魔王軍の焦り(1)
アレスの指先が虚空を滑るたび、死の森の腐臭が星の粉へと変換されていく。昼の結界内に降り注ぐ光は、天からではなく地の底から滲み出している。
死の森の上に張られたアレスの結界が、腐臭と瘴気と乾いた呻きを洗い流し、微細な光粉の降雪に変換してしまっているからだ。もとは毒の胞子だったはずのものが、結界に触れて屈折し、星片ごとききらめいて沈む。一本一本の枯死した幹は、黒曜の柱に研ぎ澄まされ、朽ちた葉脈は水晶の模様へと書き換えられた。地面に敷かれた白砂は波紋ばかりに耙かれている。その曲線は数刻ごとに更新され、風の軌跡や訪れる影の長さに合わせて微調整される。アレスの指先が動くたび、空気の密度が変わり、砂の粒ひとつひとつが逆らわずに指定の位置に転がっていく。彼が耳を澄ませているのは風の声でも木の悲鳴でもなく、線と面と光が奏でる音楽だった。
「この曲率は、午前の光には馴染まない」
彼は肌理細やかな苛立ちを息一つで消し、白砂の曲線に手をかざした。目に見えない梳き櫛が働き、波紋はほんの少しだけ緩やかになった。そこへ、私——エララ——が淹れたため息さながら薄い茶の香りが、熱を持たない風に運ばれていく。私は湯気より先に彼の横顔を見てしまうタイプの女だ。彼の睫毛の影、頬骨の角度、指の爪の透明度。世界の優先順位を、彼の輪郭と光の縁取りに合わせて並べ替えてしまう。この空間は彼の感覚で満たされ、私はその一部に取り込まれている。取り込まれていることが、ひどく心地よい拘束だっている。
「お茶が入ったわ。……少し、休まない?」
私は彼の背中に声をかける。彼は振り返らずに、指先で空中の光の粒を弾いた。
「もう少し。この砂の陰影が、まだ光の角度と合っていない」
「そう。でも、あまり根を詰めると、その綺麗な指が疲れてしまうわ」
朝方、彼が私の名を呼ぶのに一瞬だけ言い淀んだ。風が蹲る場所を探すみたいに、声が空中で迷った。「エ……」と。すぐに笑って誤魔化したけれど、その短い裂け目に私は爪を立てたい衝動に駆られる。時間の縫い目がほぐれて、糸の一本が抜け落ちたような感覚。忘れないで、忘れないで、忘れないで。心の内側で低く囁き続ける声は、愛の形を持ちながら、同時に牙の形も備える。私は彼の名を百回千回と心で反芻し、そして自分の名を彼の舌に貼り付けるような言葉を準備する。彼が私を呼び損ねた、そのたった一瞬さえ、取りこぼしたくなかっている。
「……エララ」
「なあに?」
「風の匂いが変わった」
結界の辺縁が震えた。静寂の琴線を爪弾いたような、異質な波形が走る。アレスが顔を上げ、砂紋の上に落ちる陰影の角度を測るように目を凝らした。私の背骨が反射的に伸び、喉の奥で小さく鳴った。来る。足音はまだない。けれど、結界の振幅が告げる。外からの、強い気配。
死の森の外縁には、灰の空と折れた梢しかなかったはずだ。それが今、銀の軋みのような空気が割りこみ、結界の膜に鼓動を作る。風が火照り、土が金属の匂いを帯びた。鉄と雪の匂い。故郷の冷たい谷の匂い。白銀竜の匂い。
「……竜の里から、来た」
声に出すと、舌が痺れた。遠い過去の冷たい冬が舌の裏に貼り付いて、唾が重くなった。蓋の閉まった記憶が内部から叩かれはじめる。薄い蓋。あの山肌の白さ。長の眼差し。私はアレスの肩に視線を滑らせ、彼の背中の一本の筋に指をかけるような気持ちで、胸の奥のざわめきを押し込めた。彼に不快な音を聞かせるわけにはいかない。この箱庭のリズムを狂わせるわけにはいかない。
結界の膜が薄く開いた。白砂の端、慎重に描かれた曲線が流れ込むように持ち上げられ、ひとりの使者がその裂け目から滑るように現れた。人の形をしている。だがそれは彼の本体の陰影に過ぎない。肩に羽織られた外套は鱗を思わせる銀白で、縁取りは霜のように硬い。額に巻かれた細い帯には、白銀竜の紋章——細密に彫られた輪郭、雪片と刃の統合された意匠——が打たれる。陽の光を浴びる前に自ら光っているものが、彼にはある。影が落ちない。代わりに空間が彼を避けている。彼が一歩進むごとに、白砂はざらつく音も立てずに沈み、星のような粉が天井かのようにゆらぐ。アレスの目が、ほんのわずかに細くなる。使者の足跡が、曲線を乱す。
「ここを歩くなら、足元を確かめて」
アレスの声は柔らかかったが、棘を含んでいた。彼は砂紋に向けて掌をひと振りし、足跡の形を消す。白砂が溢れ、元の波紋を取り戻す。使者は足を止めた。彼は私を見る前に、結界の縁を測るように目を眇めた。目は金属を削ったように冷たく、ただ冷たいだけでなく、磨かれすぎて滑らかな冷たさだった。
「礼を欠いた。ここは、見事に調えられている」
低い声。空洞のない声。褒め言葉は形式上だとわかる。彼がまとう威圧は礼儀で薄められず、その重さで風が歪む。組み上げられた静寂の中に、規律の色が持ち込まれた。私は舌の裏の冬を飲み込み、使者の正面に出た。アレスと使者の間に、白砂の上に、私の足が描く半月。私の影と彼の影が触れない距離を保つ。
「竜の里からの使者なら、名乗りなさい。名と、用件を」
彼は私を見た。私の偽りの人の姿の皮膚の下に潜む、鱗の記憶を刺すような視線。目を合わせた瞬間、幼い日の峻厳な空が背中に戻ってきた。谷の上から見下ろした白の圧力。私は肩を落とさないよう意識し、顎を少し上げた。彼の唇が動く。
「白銀竜の長の口宣を携える者、グレイフと申す。竜姫エララ。命を伝える」
その名で呼ばれると、喉が軋む。竜姫——それは冠のようで鉛だ。飾りなのに、重い。外したくて、外せない。私の視界の隅に、アレスの指が砂に落ちる光の角度を揃えているのが見えた。私は胸の中の釘を握りしめるように手を握り、言葉を絞る。
「命、とは」
グレイフは外套の内側から巻物を取り出した。巻かれた紙は薄い銀の皮膜を帯び、封蝋は冷たい白銀色。紋は長の印だ。私は思わず一歩、後じさった。紙と蝋の匂いだけで、氷湖が割れる音が耳に満ちる。あの長の眼差しがこの紙に凝縮されていると、本能が言う。
アレスがほんの少しだけこちらに視線を寄越した。その瞳は色ガラスのように澄んでいる。彼は政治にも血にも興味はない。ただ景観にしか興味がない。けれど、私の表情の皺一つを読み取り、その皺が砂紋に与える影響まで計算する男だ。
「巻物を受け取り、立ち話はやめよう。星の粉が湿る」
彼に向かって頷き、私は使者から巻物を受け取った。封蝋が私の皮膚に触れて、冷たさが皮膜の下を走る。私の内側の鱗が逆立つ感覚。私は指先で封を切った。蝋が割れる音が、昔の祭殿の扉の音と重なる。紙が開く。書かれている文字は、人の書ではない。光の糸で織られたような筆致。白銀竜の長の直筆。銀の雨のような筆致から、命が落ちてきた。
「……『命ず。竜姫エララ、ただちに帰参し、銀炎の試練を受けよ。竜の里は東の裂谷に干渉する脅威を観測した。四天王・武闘のバルガス、北の峠を越え、亜空裂谷の門に拳を打ち込まんとする兆しあり。障壁の継ぎ目は歌を奪われ、骨の橋は震えている。汝が罪過を洗い、竜の名を名実ともし、竜の牙を竜のために用いる意思あるなら、満天の星の夜までに来たれ。拒むなら名籍を剥奪し、血の加護を取り上げ、追討の刃を送る』」
声に出すたび、口の中に雪が降った。銀炎の試練。竜の里の、年ごとに変わらぬ儀礼。己の炎の色を証し、命と名とを重ねる通過儀礼。私はそれを逃げた。あの冬の、あの夜。長の前に膝をつき、燃やせと言われ、燃やさなければならないものを燃やせず、燃やしてはいけないものを燃やした。誰かの髪。自分の影。私は里を出た。禁忌の紐を切った。金色の紐。そうだと心が言う。違うと理性が抗う。やめて、やめて、と声がする。私は指先を紙から離した。紙の表面に彼の筆圧が残っているだけなのに、指に刃が触れた気がした。
「四天王……武闘のバルガス」
私はその名を噛みしめるように呟いた。その音の硬さが、空間の硬さを増した。武闘のバルガス、拳の王、骨で鐘を鳴らす者。人の国で聞いた名だ。金貨の表に刻まれる英雄譚ではなく、灰色の噂話。村の酒場で、夜更けの焚き火で、披露される力比べの怪物の名。彼が竜の里の障壁に干渉する——そんな無礼が許されるはずがない、って、里の誰もが言うだろう。けれど、彼ならやる。拳で歌を打ち消す。結界は歌だ。アレスの結界もまた、歌だ。私の喉から低い唸りが上がる。守るべきもの、破られたいもの、破られては困るもの。線が絡まり合う。
「命は明白だろう。帰れ、ということだ」
グレイフの声が淡々と空気を切り分ける。私は彼を見た。一歩踏み出せば彼の喉に指を突き立てられる距離。柔らかな皮膚に爪を立てれば、冷たい血が出るだろう。そう想像するだけで気持ちが落ち着く。私は笑みをつくる。穏やかな、柔らかな笑み。
「命は理解したわ。でも——」
言葉を選ぶ。アレスの横顔が視界の端にあることを、心の真ん中に置く。砂紋を乱さない言葉で、しかし彼を縛る言葉で。
「私は、ここにいる理由を失ったわけじゃない。彼の防壁は里のものではないわ。彼のもの。彼の感覚。私の居場所」
グレイフの目が細くなった。侮蔑か、理解か、判断までは到達しない冷却された反応。彼は視線を僅かに動かし、アレスを見る。アレスは返す視線を与えない。彼は砂の上に落ちた星片の軌跡を読み直している。けれど、彼の耳は確かにこちらを聞いている。
「この庭は鮮やかな。だが、竜の里の命は重い」
使者はそう言い、巻物の最下段を指で叩いた。そこに記された一行に、私の喉は固まった。「拒むなら名籍を剥奪し、血の加護を取り上げ、追討の刃を送る」。里の刃は冷たい。刃そのものより、刃を握る手の冷たさが怖い。あの長の言葉の冷たさが、一族の刀身を通じて伝わってくるような寒さ。
「名籍を剥奪する、というのは……」
アレスが、珍しくこちらに声をかけた。彼の声が私の皮膚に触れるたび、私は溶ける。彼の視線が巻物を意匠として観察するように、筆致の均整を見ているのがわかった。封蝋の押し方の僅かな歪みを、彼は見逃さない。
「この封蝋、押しの力が不均等だ。急いで押した。慌ただしい。美しくない」
私は笑ってしまいそうになった。彼は世界をそういうふうに見る。政治が、命が、封蝋の押し力の失敗に変換される。だが、その観察が救いでもあった。彼がこうやって巻物を美以外の言語に翻訳しない限り、私は紙と血の匂いに押し潰される。
「名籍の剥奪とは、その者が竜として認められないことを意味する。我らの言葉で『名を焼く』と言う。名なき竜は翼をもたぬ。加護は消え、竜の里の封じも、古き歌も、その者を拒む」
グレイフは説明した。その口調は冷たいが刃ではなかった。情報を渡すだけの寒冷さ。彼がそういう温度の声しか持たないと、私は思った。彼の中にある火は、命令を伝達するためだけに燃えている。私の中にある火は、ひとりの人間のためだけに燃える。
「なら、拒む選択はない、と言いたいのね」
「そうだ」
「私が行けば、彼は?」
私は尋ねた。指は巻物の端を撫でる。紙は冷たい皮膚だ。ほんの少し汗を吸う。私は紙に爪を立てたくなる衝動を、砂紋の曲線の向こうに置く。アレス。彼をこの庭から引き離せば、空間は崩れる。世界の呼吸が狂う。彼が私を呼ぶとき、また言い淀むのではないか。今度は一瞬ではなく、永遠に。
「竜の里は人の客を容れるが、それは準備と許可が必要だ。白銀の長は、おぬし——アレス、と言ったか——を知らぬ。許可は、すぐには出ぬだろう」
彼の声の冷たさが少しだけ増した。私は笑みの形を保ちつつ、内側の牙を伸ばした。長よ、長よ。あなたは私をまだあの子だと呼ぶのか。私はあの谷から飛び去った。あなたの許可などなくても、私は世界を飛ぶ。けれど、彼の許可はいる。アレスが私を見るときの、あの真っ直ぐで冷たい、だからこそ温かい見る目。それは私の翼の筋肉よりも強い。彼の「よい」と「美しくない」が、私の行動の軌道を決める。
「人を拒む光幕は、美しくない」
アレスがぽつりと言った。使者の眉がわずかに動く。アレスの宣言は政治ではない。美学の宣言だ。世界は彼の美学に従わざるを得ない、障壁の中では。私は彼の言葉に胸を満たし、血が熱くなる。
「里の障壁は里のものだ。人の美学で裁かれるものではない」
「裁くつもりはない。だが、案内するなら、もっと整えた方がいい」
アレスは白砂の波紋に指を滑らせ、風を呼ぶ。光の粉が揺れる。使者はそれを見て、何か言いかけてやめた。彼は仕事に徹している。余計な言葉を省き、指定された時間と量だけ息を吐くような男だ。
「期限は、満天の星の夜だ。それを過ぎれば、刃は動く」
「三日か」
私は自分で数える。今夜は朧の星。次は半ば。その次が満天。三日。アレスの庭の光が、その間に何度角度を変えるだろう。砂紋は何度更新されるだろう。私が彼の名を何度呼ぶだろう。彼が私の名を、何度呼び損ねるだろう。嫌だ。嫌だ。私の内側で愛と憎しみが一つの塊になって転がる。愛は彼に向かい、憎しみはあらゆる妨げに向かう。
「彼を連れて行く」
私の声の色が変わったのを、自分でもわかった。柔らかさが硬度を帯びる。使者は目を細めた。彼は私の変化に気づく。けれど、彼には私の中の暗い色までは見えない。いい。見せない。
「条件?」
「彼の美は、壊さない。里の祭殿も、道も、湖も。彼が歩く場所を、彼が心地よいと感じるように。彼の足元を濡らす水は澄んでいるように。彼の目に触れる封蝋は、均等な力で押してあるように。それができないなら、私の翼は動かない」
使者が唇の端をわずかに歪めた。嘲か、感心か。その温度を忘れる。私は彼の左手首の脈の位置を思い描く。そこを押せば、どれくらいで彼の目の光が揺れるか。どれくらいで彼は地に膝をつくか。砂紋の曲線は知っている。私は曲線の上で踊ることができる。私は彼に近づく者を排除する。里の者であろうと、四天王であろうと。アレスに触れようとする手は、全部折る。
「……伝えておこう」
使者はそれしか言わなかった。彼の瞳に小さな波紋が走り、それはすぐに凍った。彼は巻物を指から離れた空に戻すように、衣の内に収めた。白砂の上に星の粉が落ち続ける。封じが星を降らせるのは、死の森の呻きを美化するためだ。世界は彼の結界の中で、誰かの苦しみを光に変える。私はそれを知っている。知っていて、そこに住まう。私は偽物の星の下で彼と生き、偽物の星の下で彼を独占する。贅沢で醜い。でも私は知っている。アレスの結界の中にいる限り、私の牙は静かに潜む。
「武闘のバルガスが裂谷に拳を打つ、か」
アレスが呟いた。手はまた砂の上にある。彼の視線は遠くの光の角度を測るように、ここではない何処かを見ている。政治や戦の単語が彼の口から出るのは珍しい。彼の声は興味ではなく、警戒ではなく、純粋な違和の声だった。拳という単語が美の対極に置かれているのだろう。
「拳は、曲線を壊す」
彼は私を見ずに言った。私は頷く。壊させない。壊されるものがあるなら、それは私が選んだものだけでいい。私は彼の横に立ち、使者に背を向けた。背を向けることは無防備ではない。背中から放つ威圧もある。私は背で里を拒む。
「三日のうちに返答を」
使者の足が、砂紋に触れないように動く。彼は結界の裂け目に向き直り、振り返らずに薄い礼をした。私は礼を見ない。見る義理はない。彼の匂いが遠ざかる。鉄と雪の匂いが、樹の皮の匂いに移り変わる。障壁が裂け目を閉じる音はしない。音はアレスが許さないからだ。音は応えない。淀みのない閉じ方しか、ここでは許されない。光の薄い縁が合わさり、空気がひとつになる。
使者が去っても、冷たさは皮膚に残った。私は巻物の文言を記憶から追い出そうとして、逆に刻み込む。銀炎の試練。名籍の剥奪。追討の刃。武闘のバルガス。あの谷の風。あの湖の表面。氷の下で眠る魚。長の瞳。子どもの頃、あの目に一度も褒められた記憶がない。私はいつも少し違った。炎の温度が高すぎた。色が濃すぎた。歌が不規則だった。均整の取れた群れの中で、私は反り返った一本の草だった。彼らは私を切り揃えようとした。私は刃を噛んだ。金属の味がした。
「行く、の?」
アレスが尋ねた。彼は風の音を聴くように、私の声の返答を待っている。私は息を吸う。光の粉が肺に入る幻想。肺が星屑で満たされる。私は答えの言葉を磨く。彼の耳に心地よく響くように。彼の注視を呼び寄せるように。
「あなたが、どう思うかで決める」
それが本当かどうか、私は問い直す。自分で自分に。里の命は重い。私の憎悪は重い。愛は軽いふりをして重い。私は彼の横顔を見つめる。彼は砂紋に光の斜線を一本加えた。その線が、星の軌道を描く。彼の指が砂に触れない。彼は空気を動かすだけだ。砂は従う。世界は従う。
「君の、名は——」
彼は言いかけて、一瞬だけ黙った。朝方の裂け目が再び口を開きかける。私の背筋が凍る。世界の音が消える。私の名前は何? 私の名前はなに? 私の名前は——。
「エララ」
彼はすぐに繕うみたいに、私の名を正しく呼んだ。光が戻る。音が戻る。星の粉が肺に落ちる。私は笑って、肩を落とす。背を丸めない。丸めたら折れる。私はまっすぐに立つ。
「私はあなたのもの。あなたの美の一部。だから、行くならあなたの目で見せて。あなたが価値を見出すものの中に里があるなら、私は耐える。あなたが醜いと思うなら、私は壊す」
残酷な宣誓。優しいふりをした暴力。彼はそれを受け取り、何も言わない。彼は優しいふりをしない。彼はただの事実を言う。
「里を見るのは、悪くない」
彼はそう言い、日差しの角度を測るように目を伏せた。そこで星の粉が舞う。砂の上の曲線が細く震える。里を見る。世界を彼の目で見る。私はそのことに胸を焦がす。私ですら見たことのない里の角度で、彼は見る。彼が触れるすべての場所は、彼のものになる。里も、彼のものになる。そうなれば、良い。私の大嫌いな谷が、私の大好きな男の所有物になる。それは可笑しい。胸が熱くなる。私は笑って、泣きたくなる。
私は巻物を丁寧に丸め、封蝋の破片を拾い集めた。白砂に落ちた小さな銀片も逃さず回収する。アレスが視界の隅で頷いた。彼にとっては封蝋の欠片も調和の一部だ。私は言葉の断片を拾い集めることができない。言葉は耳の中で燃えてしまった。銀炎。燃えているのは私の舌だ。私は口を閉ざし、呼吸を整える。
「準備をしよう」
アレスは簡素に言った。準備。彼の準備という言葉は、砂の曲線を里の曲線に合わせることを意味するのだろう。道具を調整し、光の角度を記憶し、風の匂いを分解し、敵と友の足音を区別するソートを作る。彼は政治のために準備しない。戦のために準備しない。美のためだけに準備する。だが、それが結果として、政治や戦を呑み込む。
「私は……」
私は言いかける。何を言う? 怖い、と? 嫌い、と? 憎い、と? 好き、と? 彼に、置いていかないで、と? いや、違う。私は彼に、頼みごとをするときの声の角度を知っている。彼の耳に優しく触れる角度。
「三日、あなたの側で過ごす。ずっと。あなたの名を、たくさん呼ぶ」
彼は微笑んだ。小さく、見過ごしそうな微笑み。彼の微笑みは砂紋の曲率を変える。波紋が柔らかくなる。星の粉が降る速度が遅くなる。私はその微笑みを羽で包みたい。羽で包んで、内側から燃やしたい。彼が笑うときの筋肉の動きを指先で辿りたい。辿りながら、彼が他の誰かを見る可能性を、ぜんぶ潰したい。里が彼を見る? 長が彼を見る? 使者が彼を見る? ……ふふ、いいの。もう覚えなくていいわ。
私は天幕を上げ、彼の器具に触れる。封じの細い線を束ねる紐。星の粉を濾す皿。風の角度を測る棒。彼の触れたものは、私の触れてよいもの。他の誰の触れてよいものでもない。私は一つ一つに布をかけ、布の折り目を彼の美癖に合わせる。三日間、私は彼の名を呼び続ける。アレス。アレス。アレス。彼の舌に私の名を貼り付け続ける。エララ。エララ。エララ。名を燃やされる恐怖が私の中にあるなら、先に世界を名で満たす。私の名を、彼の世界に散りばめる。
日が傾き、星の粉の光は色温度を下げる。死の森の本性が、光幕の下でひっそりと蠢き直そうとする。それをアレスが押しとどめる。瑕疵のない結界の縁が、夜を迎える準備をする。夜の庭は昼よりも深く、砂紋は陰影を増す。そこへ、冷たい風が戻ってくる。使者の置いていった匂い。鉄と雪。私はその匂いを吐き出すように息をする。
「銀炎の試練……」
唇の上でその言葉が燃えている。銀の炎は熱ではなく、冷たさで焼く。あの祭殿の冷えた床。幾何のように配置された石の柱。長の声は風と刃の中間だった。私は震える指を足で踏んだ。震えを砂に押し付ける。砂は受け入れる。砂は誰の震えも、滑らかな波紋に変える。アレスの砂だ。私は砂に助けられる。
「バルガスが来るなら、里だけの問題ではない」
彼が静かに言った。私は頷く。四天王が動く。世界が動く。私の世界は彼の横顔の内側に閉じているのに、外側の世界が騒がしい。私は彼に寄る。少しだけ肩が触れる。彼が嫌がらない。彼は私の熱を許す。彼が許す熱だけが世界に存在すれば良い。他の熱——バルガスの拳の熱も、花の香りの熱も、祭殿の冷たい炎も——全部、消えれば良い。
「グレイフは戻ったようだ」
アレスが風の振動で、それを言う。障壁の縁で、小さな波が止んだのだろう。私は頷いた。彼の聴覚は調和の一部だ。私は彼の感覚を信じる。彼の感覚を愛撫する。彼の感覚の敵を噛み千切る。
夜が降りる。星の粉が本当の星と混ざる。偽物と本物は見分けがつかない。アレスの障壁の中で、本物だけが偽物になることはない。全部が本物で、全部が偽物だ。世界は彼の美意識で上書きされる。私はその上書きの筆先だ。私は彼の筆先で、里を塗りつぶす。銀ではなく、彼の色で。
「三日」
私は自分に言い聞かせる。私は物を数えることが好きではない。待つことが嫌いだった。里にいた頃、待つしかない日々が長かった。祭の順番。長の機嫌。冷たい炎の色。私は待つあいだ、爪を噛んだ。血が金属の味をして、吐き出した。今、私は待てる。彼の隣なら。彼の名を呼ぶなら。彼が私の名を呼ぶなら。彼が一瞬でも言い淀んだ現実が、私の喉に刺さっている。私はそれを砂に埋める。砂に埋めて、次の波紋で覆う。
「アレス」
「うん」
「嫌いなものを数えて」
「数え切れない」
「例えば?」
「無作法。歪んだ封蝋。湿った足音。拳で歌を殴ること」
私は笑う。彼の嫌いなもののリストの中に、私の嫌いなものがどれほど重なっているかを数える。無作法、嫌い。歪んだ封蝋、嫌い。湿った足音、嫌い。拳で歌を殴ること、嫌い。私は彼と一緒に世界を嫌い、彼と一緒に世界を整える。里が調和を欠いているなら、私が整える。私の美は彼の美に従う。従うふりをして、世界を噛む。
「銀炎の試練は、歌だ」
私は囁く。祭殿で聞いた歌。冷たい。鮮やかな。私はあの歌に合わせて踊ろうとして転んだ。長が笑った。誰も笑わない空間で、音だけが笑った。私は炎を撒いた。床に。壁に。間違った。私は里を出た。禁忌を破った。私の証はそれだ。私は罪で軽くなったのではない。重くなった。重さは愛で満たされた。アレス。アレス。私は重い。あなたが持ち上げて。
「君が歌うなら、僕は聞く」
アレスが言う。彼は祭の歌を知らない。知らないことが鮮やかな。彼は世界の歌と自分の歌の差異を恐れない。私は彼の耳に歌を流す。銀炎ではなく、私の炎。冷たくない。熱い。彼は熱を嫌がるかもしれない。嫌がるなら、冷ます。彼の好みに合わせて、私は温度さえ変えられる。里は私の温度を許さなかった。彼は許す。だから、私は里に戻って、里の温度を彼に合わせる。彼が納得するまで、私は壊す。作る。壊す。
「三日で整える」
彼は立ち上がる。砂紋が新しい曲線を求めてざわめく。星の粉が降り注ぐ。彼の背を追い、私は足を踏み出す。一歩ごとに、私の恐怖が砂に吸い込まれる。砂は偉大だ。砂は聞いて、受け入れて、均す。アレスの砂だから。
白銀の命令書は布に巻いて隠した。布の縁は彼の折り目に合わせた。彼が布の折り目を撫でると、布は満足する。紙の上の文字は眠ったふりをしている。だが、眠っていない。私の背の内側で、長の声が紙の中で息をしている。私は振り返らない。紙に背を向けて、アレスの背を追う。世界の秩序は私の背の向きで決まる。里は背中で拒む。彼は胸で受け入れる。
夜の庭は、星が降る。星は偽物だ。偽物は誰にも傷を負わせない。偽物の星を浴びながら、私は本物の決意をつくる。三日後、行く。彼の目で見せて。彼の美で焼いて。銀炎の試練を、彼の炎で塗り替える。武闘のバルガスが拳を上げるなら、その拳を彼の防壁に触れさせない。触れさせるなら、曲線に従わせる。彼が殴る音を歌に変える。私は竜だ。彼は結界師だ。星降るこの空間は、世界を覆っている。私の愛も、この空間さながら、誰も傷つけないふりをして光る。けれど、その光の中で、私は牙を研ぎ続ける。誰かが彼を呼ぶなら、その声帯を切る。里が彼を呼ぶなら、里の鐘を止める。長が彼を呼ぶなら、長の声を凍らせる。世界が彼を奪うなら、私は世界を食べる。
夜は深くなる。星は降り続ける。砂紋は眠らない。アレスも眠らない。私も眠らない。眠らない三日を数える。数えることは嫌い。でも、数える。アレス。アレス。アレス。エララ。エララ。エララ。名前は燃えない。燃やさせない。私は私の名を、彼の口の内側に刻む。彼が私の名を呼び損ねた、あの一瞬に牙を立てる。牙は彼に向けられない。世界に向けられる。
その夜、障壁の縁を白銀の風が一度だけ叩いた。遠い里からの合図。私は首を上げ、笑った。笑いながら、息の奥で唸った。来い。来なさい。あなたたちの銀炎も、拳の王も。三日後、私は、彼を連れて行く。彼の目で、あなたがたを見下ろさせる。私の試練は、もう始まっている。




