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第5巻 第1章 平和な日常と新たな住民(5)

——ピキリ。


乾いた微音が、庭の高みに張られた膜を叩いた。風は澄み、鼻腔に入る空気は冷たく甘く、白い石畳は朝の光を斜めに跳ね返して目に心地よい。水面からは湿り気を含んだ匂いが立ちのぼり、枝葉は規則正しく影を置く。触れれば絹のような芝。アレスの庭は、彼の手で磨き抜かれた箱庭だ。彼自身が「精緻」と呼ぶのは一度だけで充分だと知っている。


寝椅子から身を起こし、彼は視線だけで庭を撫でる。


「……うん、悪くない」


短く呟くと、足音を忍ばせる気配が背に寄る。


「ねえ、その言い方。つまり、まだ何か気に入らない部分がある、ということかしら?」


鈴を湿らせたような声。エララが肩越しに覗き込んだ。頬が触れそうで触れない距離、吐息はほんの少し熱い。金の瞳は、他を映さない。彼女は軽く指を伸ばし、アレスの髪を梳く。その指先から、氷の微光が零れたのは、誰にも気づかせない癖のようなもの。


「三番目のオーク。枝の角度、昼の光に対して二度寝かせた」


「二度。……あなたは本当に、そういうところが好きね。足元の青い花は?」


「リンドウ。位置を数ミリ詰めた。白い石とのコントラストが締まる」


エララは石畳を一歩、素足で踏む。足裏が石の冷たさにわずかに震え、彼女は笑った。唇が緩み、頬が寄る。石の縁に反射した光が彼女の髪に揺れて、銀糸のような輝きを作った。


「三日三晩、眠らなかったのでしょう? 死の森の毒を洗い流して、土を起こして、木々に新しい息を吹き込むために」


「数は合う。ゲルドの毒は骨まで染みる。浄化は済んだ」


「私は手伝いに行けたのに」


「君には、ここを守ってもらっていた」


「言葉が足りないの、あなたは」


拗ねたような声。しかし指先は彼に絡み、解いて、また髪をすく。耳たぶに触れる瞬間、ひやりとした金属の感触。彼女の魔力が薄く肌を撫でる。


アレスは視線を移し、三番目のオークの葉脈を辿った。朝の角度で落ちる影が想定通りかを確かめる。葉擦れはおさえ、川のせせらぎは二つ上の音で揃えてある。鼻先に土の匂い。湿気の割合も、指の腹で確認するように意識で触る。


……そこで、空白が生まれた。


「あれ?」


彼は目を眇めた。胸の奥で引っかかった、説明できない違和感。


「どうしたの?」


「このオーク……修復前は、どんな枝ぶりだった」


自身の口から出た言葉が、ほんの少し遅れて耳に届くような気がした。


エララの手が止まる。「珍しい質問ね。あなたが忘れるなんて」


「……いや。別に」


喉の奥が乾く。水の音が遠のき、代わりにこめかみの内側から鈍い針が押し出されるような痛み。指が額に上がる。骨を内側から撫でる感覚。皮膚の下に熱と冷えが交互に走る。


「顔色が……」


エララは彼の頬に頬を寄せた。竜族の熱は、冬日に当たるような温みをくれる。彼女の髪が頬に触れ、さらさらと音が立つ。笑っているのに、その笑みは眼差しの奥を深く沈めていた。


「霊薬を淹れる? それとも、私の——」


「不要だ」


遮った声は短い。アレスは息を細く吐き、爪で皮膚を割らない程度の力で額を押した。痛みは引かない。


「ゲルドの毒は対処した。空間は再編済みだ」


「あなたがそう言うなら、私は信じるわ」


彼女は目を伏せる。長い睫毛の影が頬に落ちる。その影がわずかに震え、次の瞬間、首筋に柔らかな気配が近づいた。唇が皮膚に触れる寸前——


——ピキリ。


空の薄皮が再び軋む。今度は、厚みのある重量が庭の外側に触れたのが分かった。静かだが重い。押してくる。見えない水面に石が落ちた時のように、結界の表皮に波紋が広がり、アレスの描いた空の線が一瞬、歪む。


「……来たか」


彼が起き上がるより早く、エララの空気が凍る。さっきまでの蕩けた気配が消え、立ち方が変わる。背中に透明な翼が立ち、空気が乾く。鼻に焦げた匂いが届き、芝がチリチリと音を立てた。


「誰であれ、間が悪いの」


彼女の足元で炎の紋が揺れ、熱が床を舐める。ガラスが軋むような音が低く広がる。


「やめろ。芝が焦げる」


アレスの視線は庭の上空へ。瘴気の厚みを裂くように、白銀が降りる。巨大な翼、白い鱗。羽ばたくたび、空気が震え、死の森の濁りが吹き払われ、木々が傾く。光を受けて鱗が稲妻の破片のように煌き、肌に金属の冷たい匂いが貼りついた。


「竜か」


白銀の巨体は結界の直上で光に包まれ、瞬きの間に人型へとまとまる。長い白髪を束ね、額に二本の角。着衣は華やかで、周囲に小さな雷光が弾ける。瞳は鋭い刃の縁。微かな静電気が肌に触れるたび、細かな鳥肌が腕を走った。


「……知り合いか?」


アレスが問うと、エララは舌打ちをして視線を細くする。


「一番厄介。竜の里の長老、白竜のザイロス。古い掟をこよなく愛する人」


男は結界の外で、中を見下ろしたまま口を開いた。声は空間を介さず、脳の中枢に直接触れてくるようだった。冷たく、乾いて、よく研がれている。


『久しいな、エララ。人間の庭で日陰者を気取るなど、竜の姫の名折れよ。我らが血は高い。短命の者に頭を垂れる遊びは、今日限りにしろ』


エララは肩をわずかに揺らし、笑みを作る。だがその笑みは、口の端だけが上がり、目は笑わない。指先でアレスの袖の縫い目をなぞり、縫い目がほどけないことを確かめるみたいに。


「あなたの価値観に合わせる気はないの。私がどこで誰と過ごすか、それは私が決めること。ここは——」


彼女は一拍おいてから、視線をゆっくり庭に巡らせた。青の帯、白の縁、緑の濃淡。吐息が柔らかく揺れる。


「好きな場所よ」


『相変わらず酔っているな。その人間の何がそんなに良い』


ザイロスは眉を動かさない。雷光の粒が彼の肩先で走り、乾いた音をひとつだけ打った。


『だが、状況は変わった。四天王の一角が落ち、魔王軍は本腰を入れる。死の森だけの話ではない。里も渦に呑まれる』


アレスは反射的に数名の名を思い浮かべた。「『幻影のシオン』、『武闘のバルガス』……次はどちらが来る」


口が先に動き、脳が一瞬遅れる。脳裏に浮かぶべき地図の線が欠けていた。思考の歯車が、どこかで空回りする。


エララはザイロスから視線を外さない。「里がどうなろうと、私の優先は変わらない」


『ならば命じる』


男の声音が僅かに硬くなる。硬度が増した刃のようだ。


『竜王がお呼びだ』


エララの呼吸が、ひとつ乱れた。肩の上の翼が細かく震え、炎の紋が揺れる。彼女の瞳孔が収縮し、喉がひとつ鳴る。


「今、何て?」


『目覚められた。この世界の危機に際してな。はじめの勅命は——お前の帰還だ。竜王の血を引く者として、里を守る柱に立て』


降る言葉は乾いた礫。彼女は首を横に振る。髪の束が頬に触れた瞬間、彼女はその束を指で掴み、そっと解いた。動作は穏やかだが、爪の下の皮膚が白くなるほど力が入っている。


「眠っておられたはず。都合の良い夢を運ぶの、あなたは得意だもの」


『これは夢ではない。拒否権もない』


ザイロスの視線がエララから逸れ、アレスの胸元を正確に射抜いた。


『逆らえば——その人間ごと庭を消す。竜王の勅命を汚した責は、軽くはない』


空気の温度が、一段上がった。エララの足元で花弁が灰に変わり、石畳に落ちる小さな音が無数に続く。彼女の横顔は静かだ。微笑んでいる。目元だけが凍える。


「指を伸ばしてみる?」


声音は低い。やわらかい。だが、言葉の印は焼印のように皮膚に残る。


「ねえ、あなた。本当に、試すの?」


彼女が一歩、前へ出る。熱が庭の内側から膨らみ、結界の内壁が悲鳴を上げる。アレスは即座に手を伸ばし、彼女の手首に触れた。皮膚が熱い。滴る汗に指先が濡れる。


「抑えろ。内側から割れる」


「彼が、あなたに触れようとしたの」


「ここだ。ここを守るために、壊すな」


エララは静かに息を吐き、視線を落とす。そのまま、自分の影の輪郭を靴先でなぞる。笑って、笑みを外す。肩の炎が一度小さくなり、また大きく。完全には戻らない。


『茶番は終いだ』


ザイロスは右手を上げた。手に握られた光は、星の破片を砕いて束ねたように鋭かった。見るだけで目の奥が痛む。空気が震え、耳膜の内側で高い音が立つ。


アレスは一歩、前に出る。身じろぎ一つ分だけ。結界の音がまた鳴り、彼は指を弾いた。


「……静まれ」


ほんの一言。庭を包む薄い膜が僅かに粘りを増し、波紋の角が丸くなる。光の角度がわずかに変わり、槍の光がその表面で躊躇う。十分ではない。時間を買っただけ。


頭の奥で別の音がする。紙を破る音。記憶の棚のなかから、一枚、名札のない紙が剥がれ落ちた感覚。アレスは息を短く切る。


(シオンの幻影の癖。バルガスの足の運び。どこかに書いておいた。誰と検討した。どう組んだ)


指先が冷える。心臓の鼓動は一定だが、世界の輪郭が震え、色の境界線が滲む。白が灰へ、灰が青へ、青が濃緑へ。目を細めても戻らない。鼻に漂う土の匂いが薄まり、代わりに鉄の匂いが強くなる。


「アレス」


エララの声が、いつもの呼び方に戻る。稀にしか口にしない、その距離の近さで。


「私、行かない」


「勅命だ」


「知ってる。でも、ここを誰が守るの」


彼女は彼の手首に爪を立てない程度の力で触れ、その脈を確かめる。鼓動を数え、数に合わせて呼吸を合わせていく。呼吸が合うと、彼女の肩の炎が少しだけ落ち着いた。


『選択は許されない』


ザイロスは短く言い、槍をわずかに下げる。その刃先が、結界の表皮に映り込んだ空の模様を一筋、裂きかけた。表面張力が切れそうな水面。アレスは奥歯を軋ませる。


「話がある」


「珍しい」


エララが横目でアレスを見る。彼は言葉を足さない。ザイロスに視線を戻し、顎をわずかに上げた。彼の美と呼ぶための規格は、語数が少ないほど強い。


「里の防衛。君が欲しい。理解はする」


『ならば早く返せ』


「ここは通す」


『何を言う』


ザイロスの雷光が一瞬強まる。空気が弾け、髪がわずかに浮いた。


「世界が燃えるなら、ここは最後まで残す。君の里も、最後の退避場所が要る。役割は同じだ」


エララが目を瞬いた。ザイロスは低く唸る。彼の視線が庭の全体をなぞり、その輪郭、光の回り方、風の通りを測るように漂った。


『人間に、竜の避難所を任せると?』


「任せるではない。借りる。それだけだ」


アレスの指はまだエララの手首に触れている。脈拍が、さっきより少しだけ落ち着いていた。彼女は彼の横顔を見つめ、微笑む。笑みで何も言わないまま、背後に薄い氷の匂いを漂わせる。


『竜王の意志は——』


「変わらない」


遮ったのはエララだ。視線は真っ直ぐ。唇だけが、意地悪く上がった。


「でも、条件交渉ぐらい、あっていいでしょう? ザイロス。里のために働けと言うのなら、里もこちらのために何かを差し出しなさい。例えば、魔王軍の動きの詳細。四天王の残り二人の所在。あなたたちが握っているはずの情報」


『……口が回る。だが』


ザイロスは言葉を切った。雷光が彼の肩で消える。代わりに重い沈黙が落ちる。風の音が一段高くなり、川のせせらぎが細い糸のように耳をくすぐった。


『ひとつ、伝える。北東の空。黒雲の縁に、影が集まっている。バルガスの気配が濃い。今夜、動く』


「そう」


「来るのか」


アレスが乾いた喉で問うと、ザイロスは頷きに等しい僅かな動きを見せた。


『だからこそ、お前は里へ戻れ、エララ。竜王は目覚めた。勅命は命だ』


「勅命は命。知ってる」


エララは口の中で同じ言葉を転がす。舌先で繰り返し、平仮名の形を味わうみたいに。次の瞬間、彼女は無言で微笑み、片手を持ち上げる。白い指に、小さな火が灯る。火は彼女の爪を舐め、すぐに消える。何も燃やさない。示しただけ。


「私は彼の隣にいる。お父様にも、そう伝えて」


『——承知したとは言わない。だが、言葉は運ぼう』


ザイロスの槍が消え、周囲の雷光も解けた。彼は最後にアレスに目を向ける。その目は冷ややかだが、わずかに興味を含む光があった。


『人間。お前の結界は、よく出来ている。竜の目から見ても、破りにくい』


褒め言葉か、品定めか。アレスは答えない。代わりに指を一度鳴らし、歪んだ空の線を一本、真っ直ぐに戻す。


「帰れ」


『次はない』


白銀がほどけ、巨大な竜が空へ舞い上がる。羽ばたきの風が結界の表面を押し、音のない波紋が幾重にも走った。やがて白は瘴気の向こうに溶ける。空には、ほんの少しだけ揺らぎが残る。


沈黙。芝の焦げた匂いが、わずかに残っている。エララはしばらく空を見上げていた。次いで、そっとアレスの袖を引く。彼は横を向く。


「怒ってる?」


「庭を焦がした」


「ごめんなさい」


彼女は素直に謝った。だが、瞳の底は熱い。爪の先で彼の手の甲を、猫が棚の上の花瓶を試すみたいに、軽く突く。


「今夜、来るのね」


「ああ。バルガスは真正面から来る。動きは速い。正対すれば、ここも持たない」


「じゃあ、外で迎える?」


「いや」


アレスは首を振る。視界の端で、花の彩度が一段落ちた。細部の線がかすれ、記号に見える。頭の内側で、また紙が剥がれる。誰かの顔。名前が、白紙に吸い込まれた。指が震える。


「アレス」


エララの声が柔らかく落ちてくる。彼女は彼の頬に手を当て、親指でこめかみの近くを円を描くように撫でた。皮膚の下の筋肉が緩む。熱が指の形に流れる。


「私を見て」


彼は目を上げる。金の瞳がある。光を拾い、光を返す瞳。庭の色が、その瞳の反射で戻ってくる。少しだけ。


「ねえ、あなた。私はどうすればいい?」


「庭を保つ。内壁は私がやる。外は君が焼くな」


「焼かない」


彼女は小さく笑った。笑うだけで、背後の空気に氷の匂いを混ぜてみせる。炎だけが彼女の全てではないと、さりげなく告げるために。


「それと」


アレスは言葉を探した。舌の上で言葉が溶け、形が定まらない。彼はゆっくり息を吸い、鼻に土の匂いを満たす。冷たい空気を肺に入れる。冷たさが内臓の表面を撫で、痛みの輪郭がわずかに鈍った。


「……今日のオーク」


「うん」


「修復前の姿を、覚えていない」


エララは一拍置き、微笑む。


「なら、新しい姿が初めての記憶になる。それでいいんじゃない?」


「よくはない」


「あなたにとってはね。でも、私には、それも美しいの」


その「美しい」という言葉に、アレスは目を伏せた。彼が大切にする「美意識」という言葉が頭の奥で一度だけ灯り、すぐに消える。


「忘れたくないものがある」


「忘れないでいて」


エララはそう言って、彼の額に唇を置いた。触れるだけ。そこに温度だけを残し、離れる。


夕陽が角度を変え、石畳に長い影を落とし始める。小川は午後の音を低くして、静かに走った。遠く、死の森の向こうから、獣の喉を掻きむしるような咆哮が、間を置いて三度響く。湿った風が、木々の葉を片側だけに揺らした。


「準備を」


アレスが言う。言葉は短く、重さだけがある。


「わかった」


エララは踵を返し、庭の縁に立つ。背中の翼は消えたが、背骨のあたりに、いつでもそこから何かが伸び出せることを感じさせる硬さがあった。彼女は草一本残らず目で数えるみたいに、庭を見回す。見えないところで、爪の先がゆっくり皮膚に入り込むほど、掌を握りしめる。痛みで、熱を押さえるために。


「ねえ」


振り返った彼女は、いつものように冗談めかさない。


「私、戻らないから」


「知っている」


「怒られたら、あなたが代わりに謝ってね」


「断る」


彼女はふっと笑い、表情から一切の色を消す。次の瞬間、彼女は庭の境目で立ち止まり、目だけで空を射た。ザイロスの白銀の尾が消えた方向。そこに見えない糸が伸びているかのように。


「伝言は伝わる。あとは、彼がどう出るか」


アレスは庭の中心に立つ。彼の足元に、薄い線がいくつも走る。線は見えない結び目で結ばれ、結び目は彼の指先の感覚と連動する。片手を持ち上げ、空の光を一度、切る。


「……」


言葉はいらない。声に出すべき呪はない。彼の庭は、音のない旋律に整列する。風はひとつの方向を選び、葉の裏が同じ瞬間に輝く。水は小石に当たる角度を変え、音階を半音下げる。香りは薄く重なり、鋭いものを包む。彼に許された「設計」の一度きりの言及は、頭の中でだけ完結する。


頬におちる光は温かい。胸の内側の痛みは消えないが、輪郭がぼやける。彼は空を見上げ、薄く微笑んだ。


「今夜は、短い夜になる」


エララが隣に立つ。肩が触れて、離れる距離。彼女は静かに呼吸を整え、爪を手のひらに押しつける癖を、意識してやめた。


「ねえ」


「なんだ」


「終わったら、石畳の端に、白い小花を並べたいの。青の隣に。リンドウの列の外側に、さりげなく」


「……ひとつだけ条件がある」


「何?」


「狂うな」


彼女は視線を落とし、隠しもしない笑みを浮かべた。背後で空気が一瞬凍り、すぐに戻る。笑みだけが残る。


「努力する」


遠くで、再び咆哮。今度は近い。地面が、足裏でわずかに震える。空の端が暗くなり、黒い雲が低く垂れた。風が湿る。鉄の匂いが濃くなる。夕陽は雲の縁に引っかかり、赤い筋を石畳に落とす。


アレスは指を鳴らした。短い音。庭の全てが、合図に応じて息を合わせる。わずかな「瑕疵」は、人の目にはもう見えない。彼の視界には、まだ、線が乱れる点がひとつだけあった。三番目のオーク。枝の先端が、予定より一寸、右に行きすぎている。


「戻しておく」


彼は低く呟き、時間を少しだけ巻き戻した。葉脈が音もなく方向を変え、影は正しい位置に落ちる。息を吐く。肺の内側が冷たい。鼻に土の匂い。耳に水の音。肌に熱と冷え。目に光。


「来る」


エララの声は、剣を抜く前の静けさに似ていた。彼女の口元に、見えない刃が一度だけ反射する。


死の森の奥深くから、また咆哮。今度こそ——幕が上がる。彼らはそれを受けて立つ準備を終え、動かず、息だけをした。庭は、嵐の前の呼吸をひそめる。彼らの夜が、始まる。

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