表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
102/173

第5巻 第1章 平和な日常と新たな住民(2)

星の粒が薄絹の天蓋を横切り、湖面の揺らぎに吸い込まれていく。死の森だった外縁は黒い幹を吐息のように震わせるが、ここでは音が遮られ、苔の柔らかさと水の匂いだけが残った。冷えた夜気が結界の皮膜で丸くなり、部屋の温度は手の甲で測れる程度に揃っている。


白檀の椅子に腰をかけたアレスが、寝台脇で薄い紋を撫でた。指先に触れる線は乾いた紙の手触りに似て、触れるたびに微かな光を走らせる。燭台と窓の角度を合わせ、瓶の口は北へ向ける。水差しの位置は肘一つ分。彼の動きには余計なものがなく、布の角は必ず斜めに折られて寝台の端に収まる。


彼は自分を優しいとは思っていない。ただ、余分を抜き、乱れを寄せて畳む。それだけだった。


寝息の奥から、金の粉が舞い上がるように、エララの睫毛がわずかに揺れた。喉の奥に金属の後味。肺の片隅を冷たい花弁が撫でていく。ゲルドの毒は、神経の形を真似て入り込み、体の内側に糸を掛けた。結界の光がそれを一本ずつ解き、砂にする。溶けた砂は、星の露にまぎれる。


「……ア、レ……ス」


熱で擦れた声が、部屋の深いところを掠める。アレスは手を止めず、視線だけを彼女に落とした。


「動くな。まだ毒の輪郭が残る」


彼は枕の角を指で押して高さを変え、銀の匙で露をひと匙、口元へ。露は朝を一度見た水だ。かすかに甘い。エララは舌で受け取り、喉の渇きが薄れたのを確かめるように瞼を閉じた。


「あなたの匂いがする……安心する。ねえ、誰か、他にいない?」


「誰もいない」


短い返答と同時に、彼は前髪を耳にかけ直す。編み込んだ金糸の一本が所に戻るまで、彼は指を離さない。重なった線がぴたりと合った瞬間、エララは胸の奥を何かが這い回るのを感じた。彼が水差しへ伸ばす手が離れる間、シーツの縁を指先で掴み、布の目に爪を立てる。細い白い霜が爪先からじわりと広がり、すぐに溶けた。顔は笑う。笑う形に整える。声は出さない。


「……ゲルドは?」


「もういない。結界に還元した。残りは東で焼却中。空に残る光は夜のうちに落ちる」


報告は乾いている。血の温度も叫びも、ここにはない。歪んだものを正した——彼の語彙では、それで終わる。


エララは笑い、喉がきしみ、咳が続いた。布が差し出される。背に手が添えられ、上下の動きを合わせるように撫でる指先。彼の手は刃よりも糸に似て、結び目を探してほどく。


「……あなたの前で、醜くならないようにって、考えてた」


「醜さはない。汚いのは毒だ。君は汚くない」


飾りのない断定。エララは顎に力を込め、露の甘みを舌に拾う。汚くない、と彼は言った。なら、ここに残る。邪魔な色は弾く。彼の周囲の空気は私の翼の影で満たす。そう思っただけで、枕の端に触れていた指が布を確かめるように滑った。


額へ置かれた布の冷たさが気持ちよく、エララは目を上げる。机の上、星砂の小瓶の隣に、焦げ跡の残る自分の髪飾りの留め金が置かれていた。あの戦いの途中、毒の霧に触れて焦げたもの。洗われ、磨かれ、ここに「残されて」いる。


「……無茶はしないで」


「君が倒れると、庭が騒ぐ」


景色を主語にする癖。エララは目を細め、微笑む。彼の無自覚な配慮が肌に薄膜のように広がる。意図のない優しさほど、価値のあるものはない。奪う意識を持たない手が、私のものに変わる瞬間。


「ここにいて」


「いる」


宣言ではなく配置の確認。だが、その一語が、彼女の内側で杭を打つ音になった。ここ、という枠が定まり、その外には誰も入れない。


池の水面には薄い紫が沈殿し、星灯の光に分解されかけている。アレスが視線を落とすと、紫は淡く揺れ、彼の意図をなぞるように消えかけた。破れた図を憎む職人の指が、エララの額へ戻る。皮膚の一部が硬質になって光る。鱗の名残だ。そこに触れぬ角度で、布を動かす。


「温度が上がり気味だ」


独り言。器の蓋を開ける音。夜色の湯。星露、月草、竜胆。毒を逆手に取るため、ごく微量の毒を触媒に混ぜてある。匙が光を吸い、液面が震え、彼女の唇へ。


「……苦い」


「効く」


「先に味見、した?」


「味を知らないと、配置が狂う」


「意地悪」


目尻に細い笑い皺。彼は待つ。無理に飲ませない。親指が彼女の下唇の端に触れ、溢れを止める。液体の道筋を整えるだけの触れ方。それが、彼女の内側で火花になった。布の下で足の指がぎゅっと丸まる。


「私がくすむの、嫌?」


「嫌だ。色が落ちれば、構図が崩れる」


即答。慈しみの響きはない。けれど、嘘もない。エララは喉の奥で笑いを噛み殺し、代わりに彼の袖口を指先で探った。冷たい布。彼は一瞬動きを止め、何事もなかったように続ける。


棚から新しい布を取ろうとしたとき、彼の動きがふいに止まった。指が布地を挟み、肩がわずかに上下する。数呼吸の空白。何を取るはずだったか、その輪郭だけが薄く剥がれた。すぐに首を振り、麻と綿を選び直す。その遅れは、ごく短い。


「アレス?」


「問題はない。湿度を一段落とす」


窓の開きを数度だけ変える。星の粒の密度が変わり、肌に触れる風の重さが変わる。戻ってきた指は冷たく、布の角は折られている。耳の後ろ、首の付け根、脇へ。余計な圧はかけない。


「もう一口」


「うん」


匙の往復は、彼女の呼吸と歩調を合わせるように合っていく。喉を滑る苦みは腹で火花になり、吐き気が喉に上がる手前で、彼の掌が腹の上に触れた。印を切る指が、見えない流れを導く。彼は彼女の体を庭の一部として扱う。その考えに、エララの口角が僅かに上がる。布の影、足元の床に霜がまた小さく走り、すぐに消えた。


「君は、中心から半歩ずれている」


枕の位置を直す。肩を支える。同じ動きの中で、エララは彼の左手の側面に薄い赤い痕を見つけた。さっきの黒い霧を払ったときの痕だ。


「痛む?」


「痛みはない。誤差が出ただけだ。修正した」


彼はなんでも修正する。痛みも、熱も、記憶の欠け目も。頼もしさと、薄い怖さ。エララは彼の手首をそっと掴み、指先の力を引っ込めた。傷は付けない。自分の赤を混ぜない。


「側にいて」


「ここにいる」


杭がもう一本、胸に刺さる。エララは彼の膝に肘を当てる。避けない。それだけのことが、今は充分だった。


「……あなた」


名を呼ぶだけで胸が満ちる。名前は魔術だ。唇が開き、すぐ閉じる。彼の呼吸が僅かに変わると、布の上で彼女の指が反射的に動く。爪は隠す。牙も隠す。代わりに笑う。笑い方は、彼に学んだ。


「笑う余裕があるのは良い兆候だ」


「合格、ってこと?」


「及第」


「ふふ」


彼の手の甲に唇を触れた。湿りは残さない。熱だけが触れる。彼は視線を動かさず、「礼はいらない」とだけ言う。


「でも、言いたいの。私の……庭師」


「庭の維持は庭師の仕事だ」


冷たい言い回しに、彼女は自分の意味を重ねる。庭師は王。付属物は私。彼が先ほど使った「主景」という単語が、鼓膜の裏で明るく鳴る。


盆の器が光を受けて紫を薄める。彼は見ない。エララの指先に視線を落とし、爪の根元を押す。戻る血の速度を見る。冷たい指。薄く割れた爪の半月。疲れている。エララは彼の手を握り返す。力は弱い。


「休んで」


「構図が崩れる」


「じゃあ、ここで。配置は変えない」


彼は短く頷き、腰の位置を数センチだけずらした。筋肉がほどける。眠らないが、動かない。その間に、彼女は彼を観察する。頬の角度、耳の薄さ、髪の分け目、首筋の小さなほくろ。知っているはずのものに、飢える。瞼の縁を見つめる。わずかな震え。彼の頭の中で、線が一本ずれた気配。エララは喉の奥で小さく唸る。低い音が、枕に吸い込まれた。


「ねえ」


「なに」


「私を此処に固定して。あなたの言葉で」


アレスは小さな輪を彼女の手首に描いた。星露で湿った指が、肌の上を冷たく走る。見えない輪が位置を止める。寝台、窓、星灯、池、そして彼——すべての距離が閉じる。


「ここが君の位置だ」


輪が、骨の奥で鳴る。エララは目を閉じ、その音に身を預けた。


外で、結界の膜が二度、別の音を立てた。風が喉を詰まらせたような、薄い擦過。アレスは眉をほんの少し上げる。


「音階が乱れた。庭には届かない」


「あなたの言う、庭だけは守る」


「守るのはお前でもいい」


エララは頷き、指先で彼の手の甲を撫でた。彼は手首を微かに捻る。癖だ。線を変える癖。


「私、あなたの『色』でいい。そのかわり……他の色、置かないで。ね?」


「不要なものは置かない」


「必要なものの中に、私は入ってる?」


「今は入っている」


「今は、ね」


彼女の声が幼くなる。竜姫はときどき幼い。そのときの彼は、口数を減らすだけで許した。


外の笑いが遠くで薄く響く。幻影のシオンの仕業だろう。ここでは音にしかならない。エララは目を閉じ、音を飲み込み、体を沈める。彼女の呼吸の遅さに合わせて、彼の呼吸も少し遅くなる。


「ねえ、さっき。あなたの指、震えた」


「震えたか?」


「一度。私が毒を飲んだとき」


アレスは自分の手を開いたり閉じたりする。節に小さな傷。彼は視線を窓に出し入れし、淡々と「制御のためだ」と言う。


「嘘はいらない。私は、その震えが、好き」


「好き嫌いの話ではない」


「震えは、私の居場所を確認してた」


沈黙。器の位置を右へ一寸、布を左に一寸。整う音が間を埋める。


「私、あなたの枠線になる。もしあなたが空白に触れても、そこ、縫う」


「太い糸で縫えば破れる」


「あなたの指に合う細さにする。約束」


星灯を少し絞る。影が厚みを増し、彼の輪郭が暗さに沈む。エララは眠りに落ちかけ、すぐ浮かび上がる。毒はまだ骨で鳴る。額に指が落ちる。その冷たさが心地よい。


「ゲルド、正面じゃなく、横から火を入れたの。怒ってる?」


「怒らない。お前は正しかった。私は折り目を押さえた」


「折り目?」


「境界の折り目だ。薄い。ほどけやすい。何度か、位置を忘れた」


言葉の末尾に曖昧が落ちる。エララはそれを拾い上げ、心の底でにしまう。いつか、その曖昧が牙を向くなら、その前に噛んで砕く。


「私があなたの縁取りになる。ね、そういうの、好きでしょう?」


「縁は厚い方が内が静まる」


「なら、私は内。静かにする」


器の底から星水の冷たさが立ち上がり、彼女の舌をしびれさせる。甘さが遅れてくる。蜂蜜のせいだけではない。隣に手があるからだ。


ふと、結界の表面に触れた気配。木陰から覗き込んだ視線の軽さ。アレスは風鈴を一度鳴らした。音は外へ行かず、内で響く。


「誰?」


「虫」


「……払って」


「今は要らない。触れれば、向こうの時間が少し滑る」


「あなた、たまに可愛いこと言う」


「眠れ」


「もう少し、声を聞いてたい」


椅子を寝台のそばに寄せる。脚が床を一度だけ鳴らし、重さが落ち着く。両手を膝上で組み、目だけが動く。祈りではない。数える。星の位置、灯の高さ、窓の幅。安静の檻が形になる。


「私、あなたの前に出た。毒の鎖、触れそうだったから。怒る?」


「怒らない。お前が前に出ると、私は後ろで押す」


「押してた?」


「押した」


「強かった。嬉しい」


「不安定は、力をかけて固定する」


「あなたの全部になっていい?」


「全部は美しくない」


「じゃあ、七割」


「七は円を描くのに足りる」


「残りの三割は、あなたの余白。借りるね」


「返せ」


「たぶん、返さない」


柔らかな笑いが混ざる。笑いは水のように毒の熱を冷ます。星水の蓋が開き、冷たさが部屋を駆ける。エララの目尻に涙が滲み、すぐ乾く。


「眠くなってきた」


「目を閉じろ」


「手、貸して」


無音のため息。握る。指の節を撫でる彼女の指先は、骨を数えるみたいに正確だ。


「私ね、あなたに触れていないと、空気の味が変わるの。毒っぽくなる。だから、あなたが解毒剤」


「依存だ」


「愛って、そういうところがあると思う」


「愛は庭を乱す」


「乱す美も、ある」


「乱れる美は、早く腐る」


「腐る前に、食べる」


ほんの僅かに、彼の口角が動いたかもしれない。エララは満足げに目を閉じ、呼吸をする。握る力が弱くなり、指が布に戻る。


「寝ろ」


「……うん」


寝息が規則を取り戻す。額の熱が落ち、肌の色が自分へ戻る。アレスは肩の力を一つ抜いた。


森が遠くで軋み、地が低く唸る。拳の予感が地盤に伝わる。バルガスの気配。殴打は理を押し潰す。アレスはその予感を音に変換し、結界の地面へ流す。衝撃を受け止め、返す仕掛けを静かに重ねる。強度は美の一部だ。


静けさ。寝息、風、結界。三つの息が重なり、子守歌になる。アレスは耳を澄まし、目をすがめた。


ふいに、薄い裂け目が思考の表面に走る。忘れている。数を決めていた。灯の高さ、窓の幅、風の道——もう一つ。指が机の上で止まり、何かを探す。墨の置き場か、それとも。誰かの顔、名前。舌の上で音節が砂になる。金属の味が舌先に走った。アレスは舌を噛み、目を開く。この部屋。寝息。光。見えるものだけを数え直す。


許されない。忘却は。だが今は、歪みごと取り込む。歪みは意匠になる。そう決める。決めて、胸の中に薄い刃を差し込む。冷たさが残り、痛みではない。


窓辺で結界の縁を撫でる。かすかな波。幻影の爪が表面を探る。触れれば向こうの時間が半歩ずれる罠を仕込む。追わない。波を乱さないことの方が、今は重要だ。


戻る。エララの頬の髪を耳の後ろへ払う。その意味は一つ。整理。整理は安らぎを生む。


再び、名の影が胸を掠める。光幕の柱に刻んだ名。自分と、彼女と、もうひとつ。第三の名。音が舌の上に上がらない。砂になる。アレスは目を閉じ、開く。灯をひとつ落とす。暗さが輪郭を和らげ、痛みを丸くする。


「守る」


言葉が喉で割れて、空気に溶けた。星灯の油が小さく揺れ、その揺れが部屋の端で止まる。椅子に背を預け、彼は視線を前に置いたまま、小さく頷く。


四天王は、あと二人。幻影のシオン。武闘のバルガス。形を変え、力で殴り、視線を惑わせる。惑いは線を通せば等分される。打撃は厚い面で受ければいい。彼は知っている。彼一人ではない。エララがいる。彼女の炎は毒を食い、彼の線は炎を囲って形にする。二人で作る図は、まだ崩れていない。崩れそうな端には印。印の位置は、二人とも知っている。


星が降る。というより、障壁の表面を滑る。縁に溜まり、夜露と混ざって朝の予告になる。予告は美しい。予告を見届けるために、アレスは目を閉じかけ、すぐに開いた。瞼の裏にも、彼女の顔がある。消えない。


やがて、星の名残が薄れ、縁の白が膨らむ。室内の香りが冷えを帯び、苔の匂いが立つ。エララが先に気配で目を開けた。天井の一本の梁。呼吸の影。彼女はゆっくり上体を起こす。


「……戻った」


「熱はまだ少し。毒の濃度は閾下」


「夢の底に、あの血の匂いが残ってた。肺の鉄と腐葉の味。嫌な色」


「嫌な色は危険だ。目を閉じても侵食する」


彼は布を冷やし、余分を絞り、額へ置いた。前髪が乱れぬよう、指で留める。動きは、石をわずかに動かすときと同じ。


「あなたが引き戻した」


「お前が戻った。私は位置を保った」


彼は器の端で彼女の指を軽く叩き、温かい湯を口元へ。飲み込みが滑らかになる角度へと、肩を支える手を動かした。背骨の沿いを布が撫で、痛みが薄れる。


「外、星が少し減った?」


「減っていない。揺らぎが変わった。毒の通った場所は星が避け、縁を飾る。良い縁取りになる」


「縁が濃いの、似合うね」


「縁が濃いと、内が静まる。内はお前だ」


「内で良かった」


窓の外、苔の上を光の虫が滑る。池は月を拒み、星だけを映す。星は落ちるふりをして、上へ引かれていく。これは彼の流れだ。落ちるものを上へ、上のものを地へ。均し方の儀式。


「今後、毒には正面から行くな」


「あなたがいても?」


「いてもだ。私の手は光景を直すためにある。抱えたままでは、遅れる」


「遅れても、待ってる」


「遅れは連鎖する。毒も幻も、そこを好む」


「シオンと、バルガス」


「来る。来たがっている。庭の外で気配を測っている」


「門になる。開閉の音、」


「固く。美しく」


彼女は頷き、瞼を閉じる。内側で星が走る。走る線は彼の指の動きだ。線に合わせて、心臓が打つ。


「……あなた、私を看るの、似合わない」


「似合う。光景は病も含む。外せば死が出る」


「あなたの言い方は、いつも正しい。嫌になる」


「お前の言葉は、いつも過激だ」


「ねえ。他の誰かを、こうやって看るつもり?」


アレスは答えず、盆の上のものを整える。薬匙、布、椀。整う音が返事になる。完全な拒絶でも承諾でもない。その曖昧が、エララには甘い。


「眠れ」


「命令?」


「指示」


「了解」


目を閉じる直前、彼の顔を見る。窓の縁を見る目で、彼女を見ている。優しいふりをしないやさしさ。その温度が骨に染みる。


夢の端で、毒の色がほどける。防壁の外で闇がそれを飲み込む。手がこちらへ伸び、線で止まる。輪郭線。地平線。さっき彼が言いよどんだ言葉。舌でなぞる。どちらも、彼のもの。彼の線が世界を区切り、彼女を置く。


朝の気配が広がる。星灯の光が弱まり、窓の星露が濃くなる。アレスは椅子にもたれ、目を閉じずに休む。背の線が少し緩い。エララは起こさない。立ち上がる彼は、急がない。音を小さく、扉へ。香草の匂いが先に入る。昨夜とは配分が違う。苦みと甘みの重さが違う。彼は舌で測り、彼女に合わせる。


「もう一度、言う」


彼女は杯を口元で止めた。


「生きろ。お前が欠けると、私は庭を一から組み直すことになる。それは嫌だ」


「詩人みたい」


「私は詩を嫌う」


「でも、あなたの庭は詩みたい」


彼は答えず、彼女の髪を一束整える。風の線だ。風すら、彼の線に従う。


「私の命は、あなたの枠線。あなたの手がまた震えたら、その揺れの方向に立つ」


「震えはすぐ止まる」


「止まるまで、そばにいる」


「当たり前だ。お前は配置済みだ」


配置済み——堅い印鑑の音。だが、その印は血より強い。彼女は牙を磨く。彼のために吠えず、彼のために吠える。


杯の熱が喉を下り、胸に灯る。灯が外の灯と共鳴し、星露が一滴、窓辺から彼女の方へ転がる。転がるふりをして、止まる。止める者がいる世界は、安心だ。


「ありがとう」


「何が」


「あなたの全部」


「全部はいらない。一部で十分だ」


「じゃあ、言葉だけ」


「言葉は忘れる」


「忘れさせない」


牙を見せて笑う。彼は眉をわずかに上げ、すぐ戻す。戻る位置がある。それがすべてだ。


「行こう。縁の張り替え」


「行く。足元を見るな。地を見ろ」


「はい」


並んで立つ。窓を開ける。朝の冷気。星の名残。彼の一歩に半歩遅れて、彼女が続く。線の上を歩く。門の外で、幻が舌を鳴らし、拳が地を鳴らす。構図は乱れるだろう。乱れの後に、より強い図が生まれることを、二人は知っている。


扉が閉じる音が、朝の空気に混ざる。庭の縁へ向かって歩く。彼の無自覚な優しさが背を押し、彼女の過剰な愛が石を温める。二つの過剰が折り合いをつける。折り合いは美学だ。まだ崩れていない。崩れそうな場所には印。印は二人が知っている。


今日も、世界は彼の枠の中で従うふりをする。ふりで十分。ふりを徹底すれば、それは真実になる。彼女はそれを愛と呼び、彼はそれを構図と呼ぶ。呼び名が違っても、指先は同じ場所を撫でていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ